第15話
入園式から、早くも一月が過ぎようとしている。 その間、一組の教室の窓側前方ではちょっとした変化が起こっていた。当初窓側最前列はアレスとカリン、マリーの三人の指定席となっていた。しかし半月ほどして例の「オリガ様浮気追求事件」が勃発して以降、最前列にはオリガも席を取るようになる。もろもろの噂の影響なのであろう。気まずさを感じてか彼らの後ろの席にはいつしか誰も座らない無人の席となっていた。
そんな状況も、しかし長くは続かなかった。何かとアレスとつるむ事の多くなったエディが、彼らの後ろの席につくようになったのである。かくして窓際前方には新たな秩序が生まれたのであった。もっとも、それにより「エディはアレスのおこぼれを狙ってあの席に引っ越したらしい」などという噂が新たに追加される事になったようであるが。
噂に照らして見れば修羅場以外の何ものでもないこの一団は、しかし実際にはなかなかに仲のいい、言ってしまえばごく普通の仲良しグループであった。もちろん、噂を好む者にしてみればむしろその方が妄想をたくましくするには望ましいのであろう。「表面上は仲が良さそうに見えるが、その裏では実は……」などという類の話が、この数日だけでいったいどれほど語られたであろうか。とてもではないが、数える気にもならない。
そんな噂話の中心人物に祭り上げられてしまったアレスであったが、当の本人はと言えば噂などどこ吹く風とばかりに、周囲の好奇の視線を意に介することもなく学園生活を送っている。それはオリガやエディも同様であるらしく、マリーに至ってはその噂をカリンをからかうネタにしてしまう始末である。目下のところ、噂によって最も迷惑をこうむっている人物は間違いなくカリンであろうというのが現状であった。
そんな五人であったが、昼食の場に全員がそろうのはこの日が初めてであった。いつもは男女で分かれたりオリガがひとり先に食堂へ行ってしまったりという事が多かったのだが、今日はあらかじめマリーが声をかけていたのが功を奏したようである。五人分の席を確保する必要があるので、講義が終わるとアレスたちはただちに食堂へと移動した。幸いまだ食堂には人影はまばらだったので、彼らは窓際の席をとる事にした。食堂の入り口側にアレスとエディ、反対側にはオリガ、カリン、マリーの順で着席する。
まずはあんたたちが言ってきなさいよ、とマリーにうながされ、アレスとカリンが食事を取りに行く。アレスはいつも通り豚のステーキを、カリンは玉子と野菜のサンドイッチを注文してテーブルへと戻った。入れ替わりで他の三人がカウンターへと向かう。彼らが戻ってくるまでの間、二人の間に何とも言えない沈黙の時間が流れる。どうも間にマリーがいないと、お互いなかなか話題を振りにくい。特にこの前のデート以来、アレスは以前ほど自然にカリンに声をかける事ができなくなってしまっていた。はたから見ればわからないのかもしれないが、彼にしてみれば彼女に話しかけるだけでかなりの内的エネルギーを消耗しているのである。一方のカリンはと言えば、彼女は元から内気な性格なものだから、自分からはなかなか話しかけられないのだろう。ここはやはり、アレスが率先して話を振るしかあるまい。思い切って口を開く。
「そう言えばカリン、あのペン、使い心地すごくいいよ」
「え? そ、そう。よかった」
話しかけられたカリンは一瞬ビクリとすると、言葉少なに返答する。そのまま何かもごもごと口を動かしていたが、アレスの耳にまでは届かない。そのまま黙りこんでしまった。再び会話が途切れ、アレスは三人に早く戻ってきてほしいと心の中で念じる。
「おっまたせ~。って、ダメじゃんカリ~ン。せっかく二人きりになったのにさぁ」
アレスの祈りが天に通じたのか、三人が料理の載った盆を手に戻ってきた。二人の間で会話がまったく盛り上がっていないのを見て、さっそくマリーがカリンに説教を始める。その様子に苦笑したアレスはしかし、目の前に置かれたオリガの盆の上を見てしばし絶句した。
オリガの盆の上に載っていたのは、焼きたての小麦パン三つに、豚のステーキが二枚。そして、器に山盛りの野菜サラダに具材たっぷりのスープ。まるで難攻不落の要塞を思わせるその盆は、たとえ育ち盛りの男子学生の胃袋をもってしても、攻略には相当の苦戦を強いられるように思われた。
「おいおい、オリガっていつもこんなに食ってるのか……?」
初めて見るのであろう。エディがやや引きつった顔でアレスに耳打ちする。アレスは、何も言わずにひとつうなづいた。
「ところでオリガ、今日はアレスと食事がおそろだね」
「ステーキは私の好物だからね。不思議な事ではないさ」
「そうか。じゃあ今度、ステーキのうまい店にでも行くか? この前カリンに教えてもらったんだ」
「ほう、それは嬉しいね。楽しみにしているよ」
アレスのセリフに、マリーがあちゃーと自分の額を手のひらではたく。こちらをジロリとひとにらみしてくる所を見ると、大方この鈍感男とでも思っているのだろうか。カリンの方はといえば、こちらはこちらでややうつむいて顔を赤らめていた。ひとりエディだけが、何やら感心したようにアレスとオリガを見つめている。
「何ていうかさぁ……この数日で俺の人生、ガラッと変わった気がするよ」
どこか遠い目をしながら、感慨深げにつぶやくエディ。
「ちょっとエディ、急にどうしたのさ?」
「だってよ、あのオリガが目の前にいるんだぜ? ついこないだまでは雲の上の存在だったのにさ」
「何を今さら。私が彼らとやりあっている所くらい、エディも教室でさんざん見ているだろう?」
「そりゃそうなんだけどさぁ……。ほら、いつも後ろからお前らの事見てるからさ、真正面からオリガと向き合うとまた何て言うかよ……」
そう言うエディは、確かにあまりオリガの方に目線を向けていなかった。と言うよりも、なるべく目が合うのを避けているようにも見える。
「そんなに怖がられると、さすがの私も傷つくね」
「いっ、いや! そういう事じゃなくてさ!」
「あ! もしかしてエディ、オリガの事が気になるの? いや~、若いっていいねぇ」
「ばっ、馬鹿野郎! そんなんじゃねーよ!」
「あ~、ムキになっちゃって、あっやし~」
オリガとマリーの集中攻撃に、顔を真っ赤にして大声を上げるエディ。マリーのみならず、オリガもこう見えて人をからかうのが大変お気に入りのようだから、エディにはお気の毒様というよりほかはない。新しいおもちゃがひとつ増えたという意味では、おもちゃの先輩とも言うべきカリンの負担が減るわけだから、彼女にとってはありがたい話なのかもしれない。もっとも当のカリンはと言えば、二人にからかわれるエディを気の毒そうに見つめながらも、彼を救い出す術が見あたらないといった様子であった。
ひとしきり遊ばれた後にエディは解放され、五人は食前の挨拶を済ませるとそれぞれの皿に手を伸ばす。キノコとニンニクをからめたスパゲティを混ぜ合わせながら、マリーが口を開く。
「そう言えば、また出たんだよね。今回は結構遠くだっけ?」
「ああ。昨日出発したから、もう戦い終わってる頃かもな。夜には帰ってくるんじゃないか?」
話によれば、ミルエール西部の旧鉱山に『変異』が出現したとの報が昨日の未明に『学園』に伝わったらしい。ミルエール西部は『変異』の頻出地帯という事もあり、ただちに討伐隊が編成され旧鉱山へと派遣される事になったのだそうだ。
「みんな無事だといいね」
「レオナルドさんも参加してるそうだし、ま、楽勝なんじゃないかな?」
「でもよ、戻ってくる前に他の『変異』が出てきたらやだよな」
「ちょっと、不吉な事言わないでよ」
マリーがジト目でエディをにらむ。
「でも、その時はオリガが守ってくれるよ。ね?」
「まあ、そうなるだろうね。心配には及ばないさ」
そんなのは些細な事とばかりに言い放つと、ずい分と大ぶりに切ったステーキを口の中へと運ぶ。そんなオリガに、焼き魚にナイフを入れながらエディが話しかけた。
「そういやオリガってよ、こないだの『変異』退治に参加したんだろ? どうだった?」
そのセリフに、アレスの眉がピクリと動く。前を見れば、オリガが無表情にこちらを見ている。例の「オリガ様浮気追及事件」の発端となった事件という事もあるので、できればそのあたりの話にはあまり触れてほしくないのだが。
「どうだった、と言われてもね。任務は無事終了したよ」
「いや、そうじゃなくてさ。戦いに参加したんだろ? 『変異』ってどんななんだ?」
「ああ、それはもうたくさん湧いてきてな。もっとも、あの姿は食事中に説明するのもどうかと思うんだがね。例えば、今君が食べようとしている魚のようなヤツがな……」
エディのフォークに突き刺さる焼き魚を指さしながら、オリガがニヤリと笑う。
「――聞きたいか?」
「……遠慮しときます」
今まさに魚を口に運ぼうとしていたエディの顔が、大口を開いたまま硬直する。その情けない顔のまま、救いを求めるかのような目でマリーの方を見た。やれやれといった調子で、マリーがオリガに話しかける。
「でもさ、『学園』のトップクラスが集まってたんでしょ? やっぱり派手にドンパチしたの?」
「そうだな、大きな水柱が立ったり、竜巻が起こったり、岩が降り注いだりしてね。あれは見ものだったよ。まあ、来年には君たちもイヤでも見るだろうさ」
「へえ~。やっぱすごいんだね、Aクラスが集まると」
オリガの話に、手元のスパゲティをフォークで巻き取りながらマリーが感心したような声を上げる。その様子がどこか他人事のように見えるのは、彼女が後方支援希望だからだろうか。
「もっとも、私が一番驚いたのは――」
そう言いながら、オリガがアレスの方へと視線を移す。やはり来たか、とアレスも覚悟を決める。
「あの場にいるはずのない人間がいた事、なんだがね」
薄く笑いながら、アレスを見つめるオリガ。アレス以外の三人には話が見えないのであろう。それぞれしばらく考えていたようだったが、やがて、まさかといった顔でマリーが口を開いた。
「え、まさかアレスがそこにいたって事?」
その言葉に、オリガが目を閉じて軽くうなづく。冗談だろうと思って聞いていたカリンとエディ、そして当のマリーまでもが、みな一様に驚きの声を上げた。
「ええ~っ!?」
「うそだろ、おい!?」
「何でアレスがいるのさ、そこに!?」
「私だって驚いたよ。だがね、こんな特徴的な容姿の人間をそうそう見間違える事があると思うかね?」
そう言うと、オリガは再び食事に手をつけ始めた。そんな彼女をよそに、マリーとエディがあれこれと議論を始める。
「確かに他人の空似なんてなさそうだよなあ……特に頭が」
「でも、その日はアレスもちゃんと帰りのミーティングに出てたよ?」
「ああ、オリガたちはいなかったもんな、帰りは」
「あ、わかった! アレスの親戚とか?」
「あいにく俺の親類が『学園』にいるって話は聞いた事がないね」
豚のステーキを切り分けながら、二人の会話を聞いていたアレスが否定する。
「う~ん、やっぱりオリガの見間違いなのかな?」
そう言いながら、マリーの顔が少しずつにやけていく。カリンをからかう時のあの顔だ。
「ていうかさ、オリガが四六時中アレスの事を考えてるから、ついそう見えちゃった~、とか?」
それを聞いて、オリガが思わず吹き出しそうになった。
「ふっ、マリーの方こそアレスとお似合いなんじゃないか? あの朝アレスを問い詰めた時にも、まったく同じ事を言われたよ」
「あの朝? ……って、ああ、あれかぁ!」
「あれ? あれって何だよ?」
「ほら、あれだよ! 『オリガ様二股追求事件』! 二人が早朝にやりあってたって言う!」
「ああ、あれか! ……って、あれってそういう話だったのか!?」
新入生を賑わせる噂の真相が唐突に明らかとなり、何やら盛り上がるマリーとエディ。二人がその話で盛り上がる最中、オリガは隣のカリンに話しかけた。
「カリンは、私の話を信じるか?」
「え……?」
「いや、アレスがその場にいた事に納得しているように思えたのでね」
その言葉に、カリンがアレスの方を見やる。その目は、まるで彼にお伺いを立てるかのようであった。
「……ううん、私も見間違いじゃないかなって思うよ」
「なるほど、アレスが作戦に参加する事自体は不思議ではない、という事だな」
思わずカリンの頭がびくりと動く。先ほどのアレスへの視線といい、それはほぼオリガの言葉を肯定しているに等しかった。そのままうつむいて黙りこんでしまう。
「あまりカリンをいじめてくれるなよ」
「これは心外だね。私は信用に足る人間に意見を求めただけさ」
「そのわりにはずい分と話しぶりが誘導的に見えたがな」
「おーっと、ちょっと目を離してる隙に正妻争いかい?」
二人の間に張り詰めた空気が流れる。そこに、愉快そうにマリーが割りこんできた。とたんに緊張がゆるんでいく。ある意味、マリーの才能なのかもしれない。オリガが笑いながら言う。
「いや何、アレスがあまりに思い人に過保護なものでね。少々嫉妬してしまったのさ」
「お、オリガちゃん!?」
「事実無根の噂を吹聴するのは、二十七期生首席の振る舞いとしていかがなものかと思うが」
「う~ん、オリガも私たちにすっかり馴染んだようで、お姉さんも感慨深いよ……」
カリンとアレスの抗議もよそに、マリーがひとり首を縦にうんうんとうなづく。エディが呆れたようにマリーを見やる。
「馴染んだって言うより、お前の悪影響が広まりつつあるんじゃねえの?」
「はいはい、ぶつぶつ言ってないで新参者は早く馴染みましょうね~」
「エディまで染まったら、いよいよ深刻なつっこみ不足に陥るな……」
アレスがため息混じりにつぶやく。その顔が思いのほか深刻なのが滑稽だったのか、一同に笑いの発作が容赦なく襲いかかった。
「ぷっ、くくく、アンタ何まじめな顔で……!」
「何心配してんだ、コイツ……ぶふっ!」
「アレス君、おもしろい……!」
「くっ、私とした事が……くはっ!」
「お、お前ら! なんでそこで笑うんだよ!」
予想外の爆笑の渦に、アレスが赤面しながら隣のエディの肩を叩く。その慌てっぷりがおかしかったのか、彼の一挙手一投足がさらなる笑いを誘う。笑いの波は、しばらく引かなかった。
「あ~、お腹痛い……」
笑いが落ち着いたのか、マリーが目尻の涙をぬぐう。カリンは顔が真っ赤だし、オリガなどは肩で息をしている。憮然とした表情でアレスが黙りこむ中、エディが頬をさすりながら言った。
「俺、どっちかって言うと腹より頬が痛くなるタイプなんだよな……」
「ほう、奇遇だな。実は私もだ」
「マジで!? オリガと同じだなんて、何か光栄だな」
お互いわかり合うのは結構な事だが、それが自分が笑いものになった事による結果だというのがどうにも納得いかない。そんなアレフの心中など知る由もなく、エディがさらに続ける。
「でも、こんな事オリガ様親衛隊に知られたらタダじゃ済まないだろうなあ」
「ふっ、その時は私が守ってやるさ」
「おお、オリガ様のお墨付きもらえてよかったじゃん! ところでオリガ、親衛隊とは付き合いあるの?」
「まさか。噂には聞いているというだけだ」
「確かに、実際にオリガを取り巻いている連中なんて見た事ないな」
「私は周りに怖がられているみたいだからね」
「そこで俺を見ないでくれよ……」
口の端を少し吊り上げて笑うオリガの眼差しに、エディが軽く首をすくめる。
「ところで……」
そんなエディの様子を愉快そうに見つめると、周りを見回してオリガが言った。
「君たちは、まだしばらく食べ終わらないのかね?」
「えッ!?」
一同がオリガの方を見て異口同音に叫ぶ。あれほど大量の食べ物が盛り付けられていた彼女の盆上の皿には、どれひとつとして食べ欠けが残されてはいなかった。
「なあ、アレス。オリガってさ、いつもあんなに食うのか?」
昼食が終わり、午後の授業へと向かう学生たちで込み合う廊下。他の組の女子学生たちが教室の男子の格付けに夢中になっているその後ろで、エディがアレスに話しかける。食堂にいる時から気になっていたようだが、さすがにオリガの目の前でその話題を持ち出すのは気が引けたのだろう。彼にとっては幸運な事に、そのオリガは教室に戻るやひとり早々に午後の教場へと行ってしまった。彼女がいなくなった事で、ようやくこの話について切り出せたようであった。
「そうか、エディはあれを見るの初めてだったか」
「てか、ありえないだろ! 量もそうだけどよ、どんだけ食うの速いんだよ!」
「俺たちも最初はびっくりしたさ」
「びっくりどころじゃねえよ! あれじゃもう、ただのびっくり人間じゃねえか!」
「あ、オリガじゃん! まだいたんだ?」
「ひっ!?」
オリガのプレッシャーから開放されたのか饒舌になるエディであったが、背後から聞こえてきた大声に慌てて振り返る。アレスも後ろを見ると、そこには舌を出してウィンクするマリーと苦笑するカリンの姿があった。
「ばっ、バッカ野郎! 本人が聞いてるかと思ったじゃねえか!」
「あっれ~、本人に聞かれちゃまずい事でも話してたの? これはキチンと報告しなきゃ……」
「バカ! 言うな! あ、いや、言わないで!」
「私、明日はミートソースのスパゲティが食べたいな~」
「うん、わかった! わかりました!」
「マリーちゃん、あんまりいじめちゃダメだよ……」
見かねたカリンがポニーテールの暴君をいさめる。もっとも、マリーも本気で言っているわけではなかろうが。学生たちで込み合う三階への階段を上りながら、エディがひとり感心したようにうなづく。
「俺たちも、あのくらい食わなきゃ強くなれないのかねえ……」
「いや……人それぞれでいいと思うぞ?」
「そうだな……」
あいづちを打ちながら、階段の上へと視線を移すエディ。
「俺にとっては、こうして女子のスカートの中が見えるかどうかの方が……ぐはぁっ!?」
「はいは~い、階段はちゃんと前を見て歩こうねえ」
尻にマリーの膝蹴りを食らったエディは、階段を三階まで上ると内股ぎみの哀れな姿で、アレスたちとは反対側へと歩いていった。今日は基礎体力向上の日なので、アレスたちは舞踏場へと向かう。こうして今日もいつも通りの学園生活が過ぎていくのだと、この時は誰もが思っていたのだった。