第8話 朽木の願い
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三月十日(水) 午前二時 速水宅
雪村のことが気になるのか、雨宮さんは夜も眠らずにリビングで読書をしていた。見たことのないブックカバーだ。恐らく自前のものだろう。
彼女は俺の足音に気づくと振り向いた。
「眠れない?」
「ええ」
「幼馴染のことが気になって?」
「……」
無言はYESの意と受け取って間違いなさそうだ。
「どんな人だったか聞いてもいいか」
俺と出会う前の雪村は、どんな男だったのだろう。個人的な興味本位で訊ねてみると、意外なことに雨宮さんはすんなりOKしてくれた。
「不思議な人だった。――私に対して、話をすごく親身になって聞いてくれたりするのに、時々酷い暴力を振るってくる人だった」
雨宮さんはもしかしたら、誰かにこれを打ち明けたかったのかもしれない。
「理不尽に暴力を振るっては、それが終わると抱き締めるの。当時は意味がわからなかったけど、多分、壊れてるのよね」
「……確かに、不思議な人だ」
当時の彼女が可哀想だとかは一切思わないが、雪村がそんな人だとは全く知らなかった。前々から変なヤツだとは思っていたが、まさか幼馴染を前に箍を外すヤツだったとはな。
「同級生で、クラスも同じなのに、学校では一言も喋りかけてこなかった。だから学校では安心できたけど、学校が終わって家に帰ると、必ずと言っていいほど家の前で待ち伏せされていたの。それから親が帰ってくるまで、ずっと――」
「意外だな。あんたがそんなにか弱い人間だったとは」
「か弱い? 違うわ。か弱かったのは、むしろ棗の方よ」
「なぜ?」
「彼が、私に依存しているから、かしら。その理由はわからないけどね」
俺には理解が及ばない範囲だった。――あの雪村が? 考えれば考えるほど、雪村が俺から遠ざかっていくような気がしてならない。俺が、一番の理解者だと思っていたのに。俺の知らない雪村を、この女は知っている。
「聞いてくれてありがとう。少しスッキリしたわ。おやすみ」
雨宮さんは苦笑して立ち上がり、自分の寝床へと戻っていった。
――俺は、スッキリするどころか、心の中にモヤモヤと煙が立ち込めているような気分だ。あと少しの辛抱だ。早く終わらせよう。
そして、紋章を消し去って十字架から解放されるんだ。
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同日 午後五時半 都立海島高等学校体育館
ダンッ、ダンッ、ダンッ!
バスケットボールを弾ませながらゴールへ突進する。目の前に、ずっと俺をマークしていた後輩が姿を現すと、すぐに軸足の動きを止めて斜め後ろの英治にパスを回す。――しかしパスは思いのほか英治の位置から外れてしまい、そのままサイドラインを越えてしまった。
「おいー、どうしたんだよぉ」
英治に注意される。
「悪い。次はちゃんと渡すから――」
「そうじゃねぇよ!」
「えっ」
俺がミスをしたことがよっぽど気に入らなかったのか、英治は珍しく真面目な顔をして怒鳴った。
「さっきから、次は次はって。もう七回目だっつーの!」
「そんなに?」
パスミスやトラベリングなどの凡ミスは、今日だけで通算七回にも渡っていた。
「はいちょっと一旦休憩~」
英治が頭上で手を叩いて部員たちを休憩させる。各々が水分補給するなどやっている中、俺は英治に腕を引っ張られて更衣室に連行された。
「今日の蓮、なんかコンディション悪くね?」
「そうかもな」
「なんかあった?」
「……」
俺は黙りこくる。
やはり二年間友達をやっているだけあって、そういうところに鋭かった。
「言いにくいなら言わなくてもいーけど。今日はもう休めよ」
「ああ、そうするよ」
「一日頭冷やしてこい」
ピンッと額を指で弾かれる。英治なりの気遣いで、元気を出せ、という意味合いだ。それを察した俺は立ち上がり、スポーツバッグを肩に担いで更衣室を出た。
どうやら相当、雪村棗のことで参っているらしい。誰かに言われるまでもなく自ずと気づいていたが、まさか部活すらまともに取り組めない状態にあるなんて。沈んだ気持ちをなるべく顔に出さないように体育館を出る。
そこには、いつものように“取り巻き”たちがいた。
「お疲れ様です! 東雲先輩!」
取り巻きの女子生徒たちが一斉に俺に声を掛ける。中にはタオルやドリンクを差し出す者もいた。普段の俺なら絶対に受け取らなかったが、今日は突然気が変わったように、タオルを受け取ってその場で汗を拭き、ドリンクを飲み干した。
「ありがとうございます!」
初めて受け取ってもらえたことに感激したのか、女子はえらく機嫌がよさそうだった。俺も少しばかり調子が良くなり、
「こっちこそ、ありがとう」
と彼女たちに微笑んだ。
――帰ろう。榊原の家――今の俺の家に。
「蓮のやつ、雨宮さんとなんかあったな?」
高坂は、取り巻きの女子と積極的に関わる東雲の姿を見て推理した。
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三月十一日(木) 午後五時 警視庁連続全焼事件捜査部会議室
会議を終えた朽木は、一人その場に留まった。
仙郷寺全焼事件ののち、なぜ朽木だけが生き残っていたのかと問われ、そこから疑惑が疑惑を呼んで朽木が疑われている始末である。故に朽木は会議以外で口を利いてくれる者がいなかった。
私は所詮、七光だけで終わってしまうのだろうか。誰からも認められずに朽ち果ててしまうのだろうか。思い悩んでいる中、会議室に一人の若い男が現れた。
「朽木さん!」
自分の名を呼ぶその男に、朽木は「誰だ?」と思いつつも、リアクションをしなければ失礼なので、「どうかされましたか」とだけ言っておいた。
「覚えていませんか? 同期の中山です!」
そんな男、いただろうか。身に覚えがない。
「朽木さんが連続全焼事件の捜査部長をやっていると聞いたので、来てみました」
中山という男が親しげに話してくるあたり、本当に知り合いだったのかもしれない、と思い始めた朽木は、なんとなく「久しぶり」と返した。
「あんまりよくない噂も耳にしますが……きっと皆、朽木さんと気持ちは同じだと思います。これだけ不可解な事件なんですから。だから思いつめないでください!」
「思いつめてるだなんて、そんな風に見えたか?」
「朽木さんはあんまり気持ちを言葉にしない人ですからね。僕にはすぐわかりますよ」
よく見ているんだなあ、と朽木は関心する。同期というより後輩染みた喋り方をするが、年下だからだろうか。
「隣、失礼します」
中山は軽く会釈をすると朽木の隣の席に座った。副部長の席だ。
「朽木さんの願いって、なんですか?」
しばらく談笑していると、中山は唐突に話を切り出した。
「願い?」
「そうです、例えば、警視庁のトップに立ちたいとか、この世から悪を断ち切りたいとか、誰かから認められたい――とか」
中山は、全てを見透かしたように細い目をして朽木の顔を覗き込む。
「願い、か。確かに、警視庁のトップに立つことも、この世から悪を断ち切ることも、警察官としての願いといえば願いだ。でも私は、今この席にいることも、警部補という肩書きも、全て父親のコネでしかない。だから、私の一番の願いは、朽木昴という一人の人間として認められたい――のかもしれない」
朽木は感傷に浸りながら目を細めた。ブラインドの隙間から西日が漏れ、その光は中山の輪郭を覆う。
「その願い、忘れないで下さい」
中山は優しい笑みを浮かべながら、光の中に消えていった。それを見た朽木は、きっと自分のストレスが生んだ幻覚なのだと、そう解釈した。
そうだ。いくら無茶でも、負け試合だとしても。それでも私は、前に進まなくてはならない。




