二人の時間は残りわずか
Eros
「……は、ぁ」
変な声が漏れたが、これは仕方ないと思う。
「どした?お前、お叱りうけるようなこと、あったっけ?」
となりのデスクの奴が話かけてくる。
ああ、俺もさっきまではそう思ってたよちくしょうめ。
叱責されるネタはないってな。
洋一は、答えず、ただもう一度、深いため息をついた。
よりによって、アメリカかよ。
先ほど、上司のデスクに呼びつけられ、
洋一は来期――九月からアメリカで働くことになった、と告げられた。
まあ、順当だと、自分でも思う。
英語に堪能だし、業績もそれなり。独り身だから、腰が軽い。
自分がアメリカ行きになった理由はいくらでも思いつく。
ただ、それでも思ってしまった。
どうして俺で、どうして今の時期なんだよ、と。
「……なんもなかったよ。お叱りはな。……アメリカに行け、ってさ」
同僚にそう返すと。
「まじか!……ていうか、栄転のくせに、なんでそんな顔してんだよ」
と、呆れられた。
そんな顔ってどんな顔だ。そう思いつつ、口に出しては
「数か月しか住んでねえんだよ、今のアパート。引き払うのがめんどくせーって思ってさ」
と言うに留めた。
「あー」
同情するような、納得するような声をあげた同僚は、それ以上追及してこなかった。
真っ暗な部屋に帰ることは数か月で慣れた。
今日も、テーブルの上には夜食が用意してあった。
じゃがいもが入ったコンソメスープ。
昨日とちがうのは、そのわきに置いてあるメモだ。
『チンして食べてください』
会話だとふつうなのに、手紙だと丁寧なんだな、と思いながら、
洋一はその丸まっちい字を眺めた。
体に染み渡るような、そのスープをのんだ後、メモの後ろに
『サンキュ。うまかった』
と書いたのは、このどこか優しい時間を、
すこしでも長引かせたかったからかもしれない。
言い出せないまま、時は過ぎる。
アメリカ行きの前に、日本での仕事を片してしまわなければならない。
そのために、最近の洋一は休日出勤が続いていた。
深香とは、鍵を渡して以来、顔を合わせていない。
そんな状況にじりじりしていた。
初めの一回。気まぐれで書いた返事から、メモでのやりとりは続いた。
『お疲れさま。煮物はチンして食べてください』
『ごちそうさま』
『鍋の中にみそ汁があるので、あっためて食べてください』
『量が多かったから、朝飯にまわした。うまかった』
『おいしかったならよかったです。今日のスープも、残ったら明日の朝ごはんにしてください』
なんて、明らかに朝飯込みの量のスープを作っておいてくれたりして。
簡単だ。このままの、たいしたことじゃない、という調子で、
『そういや、九月からアメリカに行くことになった』
と、書き置きすればいいのだ。
そうしたほうがいいとは分かっている。
そうすれば、深香とは離れて、
いつか、ああ、そういえば変なおじさんがいたなあ、
なんて思い出に変わるんだろう。
それがいやだというのは、自分の独占欲、執着でしかないと分かっている。
分かっているからといって、はいそうですか、とはいかないだけで。