修道院で炊き出しをしていた病弱令嬢、前世が元マフィアの女帝だったので、婚約破棄に来た王子を一撃で正座させる
銀の匙を静かに置き、冷め切ったコンソメスープから視線を外した。
白磁の皿に映る私の顔は、いかにも社交界の貴婦人たちが好みそうな、青白く儚げなものだ。少し強い風が吹けば吹き飛んでしまいそうな細い手首。陶器のように血色の薄い肌。伏せられた睫毛の影。
世間は私――ロザリア・エルンシュタイン公爵令嬢を「病弱で無力な深窓の佳人」と呼ぶ。社交界の華やかな夜会にも顔を出さず、公爵邸の奥でひっそりと息を潜めているだけの、無害で大人しい飾り物だと信じ切っている。
だが、その薄皮を一枚剥ぎ取れば、中身はとんでもない劇薬だ。
私には前世の記憶がある。それも、ただの記憶ではない。硝煙と血煙が立ち込める荒れ狂った港町で、裏社会の頂点に君臨したマフィアの女帝としての記憶だ。縄張りを荒らす外道には容赦ない鉄槌を下し、仁義を通す者には惜しみない庇護を与えた、あの血生臭くも筋の通った日々の記憶。
この世界に生まれ落ちた私の肉体は、確かに生まれつき病弱だった。肺腑が弱く、少し歩くだけで息が切れる。だが神の悪戯か、あるいは魂の業か、この華奢な器には常人の数倍にも及ぶ規格外の魔力が宿っていた。私はその莫大な魔力を、小手先の魔法ではなく、すべて己の肉体の補強と喧嘩術のために注ぎ込んだ。
細い筋肉の繊維一本一本に魔力を均等に編み込み、循環器の弱さを高密度の魔力循環で補う。外見こそ青白い令嬢のままだが、その実、私の筋骨は鋼のバネと何ら変わりない。
そんな私が、退屈極まりない社交界の代わりに足繁く通っていた場所がある。
王都の外れ、薄汚れた路地が迷路のように入り組む貧民街に佇む、聖堂修道院だ。
そこには身寄りのない孤児や、飢えに喘ぐ下町の人々が集まっていた。私は身分を隠し、粗末な木綿のワンピースに身を包み、夜明け前から厨房の大鍋の前に立った。
大人の背丈ほどもある特注の鉄鍋。そこに山盛りの根菜と、筋張った骨付き肉を放り込む。ずっしりと重い樫の木のへらを両手で握り、魔力を乗せて一気に底から掻き混ぜる。ぐつぐつと煮え立つ湯気の中で、灰汁を掬い、塩と香草で味を調える。
スープが煮え上がる頃には、厨房の前に腹を空かせた子供たちの長い列ができる。泥にまみれた小さな手が差し出す椀に、並々と注いだ温かいスープを渡す。子供たちが「ありがとう、お姉ちゃん!」と満面の笑みを浮かべてスープを啜る姿を見るのが、私の何よりの生きがいだった。
裏社会に生きた前世から、私の信条は変わらない。弱きを挫き、己の私利私欲のために筋を曲げる外道は絶対に許さない。だが、今日を懸命に生きようとする者たちには、腹いっぱいの飯を食わせるのが上に立つ者の務めだ。
下町の人々は私を「炊き出しのロザリアさん」と呼び、親しみと敬意を持って接してくれた。修道院長のアンナも、私の素性に薄々勘づきながらも、その泥臭い善意を深く受け止めてくれていた。
それが、私の守るべき平穏な日常だった。
だが――そんな静謐な時間を土足で踏みにじる無粋者が、今夜の大食堂に現れた。
公爵邸の大食堂の豪奢な両開き扉が、前触れもなく乱暴に蹴破られた。
重厚なオーク材の扉が壁に激突し、乾いた重低音が響き渡る。給仕をしていた侍従たちが小さく悲鳴を上げ、手にしていた銀盆を取り落としそうになる。
入ってきたのは、黄金の刺繍が施された豪奢な上着を身にまとった青年――この国の第二王子であり、私の形式上の婚約者であるジェラルドだった。その腕には、けばけばしい深紅のドレスを着た若い女がべったりと絡みついている。男爵令嬢のセレスティーヌだ。
「おい、ロザリア! こんなところで優雅に飯を食っている場合か!」
ジェラルドは食堂の中央へズカズカと大股で踏み込んでくると、食事中の私を見下ろして唾を飛ばした。酒の匂いがふわりと漂う。顔は赤く上気し、その瞳には歪んだ優越感と増長が満ちていた。
私は静かに銀の匙を置き、ナプキンで口元を拭った。椅子の背にゆったりと身を預け、冷めた視線を二人に向ける。
「……ジェラルド殿下。事前の連絡もなく、公爵家の夕食会に押し入るとは、王族としての作法をお忘れですか。それに、そちらの女性は?」
「ふん、作法だと? 出来損ないのお前に説教される筋合いはない!」
ジェラルドは鼻を鳴らし、隣のセレスティーヌの腰を抱き寄せた。
「紹介してやろう。こちらはセレスティーヌ男爵令嬢だ。お前のような陰気で病弱な出来損ないとは違い、社交界の華として俺を支えてくれる、真に愛すべき女性だ!」
セレスティーヌは、勝ち誇ったような笑みを浮かべて胸を張った。豊満な胸元には、大粒のサファイアとダイヤモンドが贅沢に散りばめられた、目も眩むような首飾りが揺れている。
「ごきげんよう、ロザリア様。いつお会いしても、まるでお化けのように青白いお顔ですこと。そんな薄汚れた部屋着のようなドレスで、よく公爵令嬢を名乗れますわね」
セレスティーヌの扇の影からの嘲笑。周囲の侍従たちの一部も、私を軽蔑するような冷淡な視線を向けている。彼らにとって、社交界に顔を出さず、着飾りもせず、病弱を理由に引きこもっている私は、公爵家の名折れでしかないのだろう。
だが、私が見ていたのは彼女の歪んだ唇ではない。その胸元で怪しい光を放つ首飾りだ。
あのサファイアの細工、見覚えがある。王都の高級宝石商が、王室からの特注品として仕立てた逸品だ。時価にして金貨数百枚は下らない。一介の男爵令嬢が身につけられるような代物ではないし、放蕩が過ぎて王室からの小遣いを減らされているはずの第二王子が、ポンと買い与えられる額でもない。
そして――ここ数ヶ月、聖堂修道院に届くはずの王室からの支援金が、理由もなく激減していた事実が、私の脳内で一本の線として繋がった。
「おい、聞いているのかロザリア!」
ジェラルドが苛立たしげにテーブルを拳で叩いた。
「お前は公爵令嬢でありながら、貴族の義務である社交を放棄し、病気を言い訳にして引きこもるばかりか、あろうことか下町の貧民街に入り浸っているそうだな! 浮浪者や泥棒の子供らに残飯を配るような下賤の真似事をして、エルンシュタイン公爵家のみならず、婚約者である俺の顔にまで泥を塗りおった!」
食堂の空気が凍りつく。
ジェラルドは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私の目の前のテーブルに叩きつけた。
「よって、本日この時をもって、お前との婚約を破棄する! 新たな婚約者にはセレスティーヌを迎える! お前のような地味で無能な落ちこぼれは、そのまま貧民街のドブ川で野垂れ死ぬがいい!」
セレスティーヌが「まあ、殿下ったら頼もしい」とわざとらしく嬌声を上げ、私を憐れむような目で見つめた。
「可哀想なロザリア様。でも、身の程を知るべきですわ。殿下の隣に立つのは、私のように美しく、気品ある女性でなければなりませんの。下町のゴミ溜めに群がる虫ケラがお似合いの貴女には、最初から荷が重すぎたのです」
虫ケラ。
ゴミ溜め。
その言葉が、私の耳朶を打った。
脳裏に浮かんだのは、煤にまみれながらも懸命に生きる下町の住人たちの顔だ。不器用な手で木彫りの人形をくれた孤児の少年。炊き出しの終わりに「いつもありがとうな、お嬢ちゃん」と頭を下げてくれた老夫婦。彼らが必死に繋ごうとしている細い命の灯火。
それを、この豚共は今、虫ケラと呼んだ。
あまつさえ、彼らの命を繋ぐはずだった支援金を横領し、こんな安っぽい女の胸元を飾る首飾りに変えた上で。
すうっ、と、私の中で冷徹なスイッチが切り替わる音がした。
公爵令嬢ロザリアの儚げな仮面の下で、かつて血の海を渡り歩いたマフィアの女帝の魂が、静かに、そして獰猛に目を覚ました。
「……ジェラルド殿下」
私は静かに椅子から立ち上がった。
ふらつきもせず、衣擦れの音すら立てず。すっと背筋を伸ばしただけの私の姿に、ジェラルドは眉をひそめた。
「あ? なんだ、今更泣いて許しを請うつもりか? 見苦しいぞ、ロザ――」
言葉の途中で、私は床を蹴っていた。
予備動作はゼロ。足の親指の付け根に魔力を集中させ、床の反発力を全身のバネへと変換する。風の抵抗すら置き去りにする極限の初速。
距離にして約三メートル。その間合いが、瞬き一つの間に消失した。
「――え?」
ジェラルドの網膜が、目の前に迫った私の顔を捉えた瞬間には、すでに私の右拳は握り込まれていた。
華奢な指先が完璧な握り拳を形成し、そこに高密度の魔力が青白い燐光となって凝縮される。手首を固定し、腰の回転を拳の先端へと一点集中させる。狙うはみぞおち。肋骨の隙間、横隔膜の真裏。
空気を切り裂く轟音すら遅れて響くほどの、無駄を削ぎ落とした最短軌道の一撃。
ドッッッッッ――ン!!
鈍く、重い破壊音が大食堂に木霊した。
「ごふっ……!?」
ジェラルドの口から、肺の中の全空気が一気に吐き出された。濁った唾液と胃液が混ざり合った飛沫が宙を舞う。彼の眼球は限界まで見開かれ、黒目が白目を求めて泳いだ。
衝撃波が背中の衣服を突き破らんばかりに膨らむ。ジェラルドの体がわずかに宙に浮きかけたが、私は即座に左手を伸ばし、彼の襟首を鷲掴みにした。
吹き飛ばして壁にぶつけるのは簡単だ。だが、それでは「説教」ができない。
私は襟首を掴んだまま、下方向へと鋭く引き落とした。同時に、相手の膝の裏へ私の右足の甲を滑り込ませ、関節を的確に蹴り崩す。
ズザァッ!
大理石の冷たい床に、ジェラルドの両膝が勢いよく叩きつけられた。
「がッ……あ、ぐ……っ!」
激痛と呼吸困難に悶え、前のめりに倒れ込もうとする王子の後頭部の髪を、私は容赦なく右手で掴み上げた。グイと上を向かせ、背筋を無理やり直角に伸ばさせる。足首を交差させ、太ももの上に尻を落とさせる。
完璧な、非の打ち所のない「正座」の完成だった。
時間にして、わずか二秒足らずの出来事。
大食堂の全員が静止した。給仕たちも、護衛の兵たちも、何が起きたのか脳の処理が追いつかず、口を半開きにして硬直している。
「ひっ……!? で、殿下……!? な、なにを……!?」
隣にいたセレスティーヌが、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。顔からは先ほどの勝ち誇った色が完全に消え去り、紙のように真っ白になっている。
私は正座させたジェラルドの頭髪を掴んだまま、冷徹極まりない淑女の微笑みを浮かべた。
「……殿下。人の家にお邪魔した際は、まず姿勢を正してご挨拶をするのが礼儀というものでしょう? 王室では、そのような初歩的な躾すら教えていただけないのですか?」
「ひゅ……っ、あ……が……っ!」
ジェラルドは肺に空気が入ってこず、喉をヒューヒューと鳴らしながら、涙と鼻水を垂れ流して私の腕を掴もうともがいている。だが、私の指先は魔力によって万力のように固定されており、爪一枚分すら動かない。
「な、なんなのよ貴女……! 気でも狂ったの!? 殿下に暴力を振るうなんて、国家反逆罪よ! 衛兵、衛兵は何をしているの!? この狂った女を今すぐ切り捨てなさいよ!」
床に座り込んだセレスティーヌが、甲高い悲鳴を上げて喚き散らした。
私は掴んでいたジェラルドの頭を無造作に放り出した。王子はゴトリと床に突っ伏し、激しく咳き込みながら脂汗を流す。
そして、私はゆっくりとセレスティーヌへと歩み寄った。
カツン、カツン、と大理石を叩く私の靴音が、静寂に包まれた大食堂に冷たく響く。その一歩ごとに、私が前世で何千人もの悪党を呑み込んできた本物の「殺気」が、容赦なく解放されていく。
「ひ、ひぃっ……!」
セレスティーヌの悲鳴が喉の奥で詰まった。彼女の肌に鳥肌が立ち、瞳孔が恐怖で限界まで収縮する。本能が、目の前にいる存在を「人間」ではなく「頂点捕食者」だと告げているのだ。
私はセレスティーヌの前にしゃがみ込み、冷え切った指先で、彼女の震える顎先をすっと撫で上げた。
「……うるさいわよ、三下が」
私の唇から漏れ出たのは、貴族令嬢の澄ました声ではない。底冷えのする、ドスの利いた女帝の声音だった。
「だ、誰が三下よ……っ、私は男爵家の……っ」
「黙りなさい。誰の許可を得て、私の前で口を開いているのかしら?」
指先を彼女の喉仏へと滑らせ、わずかに魔力を込めて爪を立てる。それだけで、セレスティーヌの全身が硬直した。彼女の膝から力が抜け、底知れない恐怖がその瞳を支配する。
「いいこと? 落とし前のつけ方も知らない餓鬼が、大人の縄張りに土足で踏み込んでくるんじゃないわよ。婚約破棄? 結構よ、そんなゴミクズ熨斗をつけてくれてやるわ。だがね――」
私はセレスティーヌの胸元に輝く、大粒のサファイアの首飾りに視線を落とした。
「――この首飾りの金、どこから出たものか、私の前で筋を通して説明できるかしら?」
セレスティーヌの体がビクリと跳ねた。
「な、何を……何のことですの……! これは、殿下が私への愛の証として贈ってくださったもので……!」
「愛の証、ねえ」
私は冷笑を深め、床に這いつくばってようやく呼吸を取り戻しつつあるジェラルドを見下ろした。
「ジェラルド殿下。貴方のここ三ヶ月の王室遊興費の支給限度額は、月あたり金貨五十枚のはずです。先代のやらかしのせいで、貴方の放蕩には厳しい監査が入っているはずですからね」
「ぐ、う……な、なぜそれを……」
「知恵の回らない頭で考えるのはおやめなさい。そして、その女が首に巻いているサファイアの首飾り――王都の宝飾ギルド『ルミナス』の帳簿価格で、金貨四百二十枚。どう計算しても、貴方のポケットマネーで買える代物ではないわね」
私は淡々と、だが逃げ場のない論理で二人を追い詰めていく。
「一方で、王都の聖堂修道院には、毎月王室から金貨百枚の貧民救済支援金が下賜される手はずになっていた。しかし、ここ三ヶ月の間、修道院に実際に届いたのは月あたりわずか金貨十枚。残り九十枚が、財務局の書類上は『支給済み』となったまま、どこかへ消え失せている。三ヶ月で合計二百七十枚」
私はセレスティーヌの首飾りに手をかけ、引きちぎらんばかりの力で持ち上げた。
「消えた支援金二百七十枚に、貴方の遊興費の残額を足せば、ちょうどこの首飾りの代金と一致するのよ。……ずいぶんと分かりやすい計算式だと思わないかしら?」
「め、滅茶苦茶だ……!」
ジェラルドが床に手をつき、必死に怒鳴り返した。
「根拠のない言いがかりだ! 修道院の支援金が減ったのは、下町の治安悪化に伴う予算削減だ! 俺が公金を横領したなどという証拠がどこにある! 言いがかりで王族を侮辱した罪、万死に値するぞ!」
「証拠? ええ、そうね。証拠がなければ、貴方のような往生際の悪い豚は納得しないでしょうね」
私がため息をついた、その時だった。
バァン!!
先ほどジェラルドが蹴破った食堂の扉が、再び乱暴に開かれた。だが今度は、蹴破られたのではない。力強い膂力によって、左右へと叩きつけられたのだ。
「おいおい、ずいぶんと景気のいい大立ち回りをやってるじゃないか、ロザリアのお嬢さん!」
響き渡ったのは、野太く、張りのある女性の声だった。
現れたのは、黒い修道服に身を包んだ大柄な女性――聖堂修道院の院長、アンナだった。その引き締まった浅黒い顔には歴戦の凄みが漂い、とても神に仕える聖職者には見えない。彼女の右腕には、仕立ての地味な痩身の男が、まるで仕留められたウサギのように襟首を掴まれて宙吊りにされていた。
「ひ、ひぃぃっ! お助け、お助けください……!」
銀縁眼鏡をずり落としながら泣き叫んでいるのは、宮廷会計士のエルンストだった。
「アンナ。早かったわね」
私が声をかけると、アンナはニッと豪快に歯を見せて笑った。
「おうよ! お嬢さんに『支援金を扱う役人の動きが怪しいから見張っといて』って頼まれてたからな。下町の連中に網を張らせてたら、馬車で王都からずらかりそうになってたこのモヤシ野郎を、西門の検問所であっさり引っ捕まえたのさ!」
ドサリ、とアンナはエルンストを大理石の床へ放り投げた。
「エ、エルンスト……!? 貴様、なぜここに……!」
ジェラルドの顔から、今度こそ完全に血の気が引いた。
「アンナ、ご苦労様。怪我はなかった?」
「あたしがこの程度のモヤシ相手に怪我するわけないだろ。それよりお嬢さん、こいつ、懐にとんでもねえ『お宝』を抱え込んでやがったよ」
アンナがエルンストの背中を革靴の先で小突くと、エルンストは胃を押さえながら床に額を擦り付けた。
「申し訳ありません、申し訳ありません! すべて、すべてジェラルド殿下に脅迫されてやったことです! 逆らえば財務局から追放し、一族郎党を投獄すると脅され……!」
「き、貴様エルンスト! 黙れ、口を慎まんか!」
ジェラルドが血相を変えて立ち上がろうとするが、私はその肩を上から軽く踏みつけた。それだけで、ミシミシと骨が軋む音がして、ジェラルドは再び大理石に平伏させられる。
「エルンスト。言い訳はいいから、持っているものを出しなさい」
私の静かな命令に、エルンストは震える手で上着の内ポケットから、黒い革表紙の分厚い手帳を取り出した。
「こ、これです……! 殿下の命令で作成させられた改ざん帳簿の写しと……万が一の時のために私が個人的に記録していた、本物の横領原本です! 修道院の支援金から引き出された日時の記録、殿下の私的な遊興費への流用先、そして――セレスティーヌ男爵令嬢への宝飾品購入の領収書まで、殿下の直筆サイン入りの指示書とともに、すべてここに綴じられております!」
食堂が、しんと静まり返った。
原本。
それは、いかなる言い逃れも不可能な、動かぬ国家犯罪の証拠だった。
私はエルンストからその手帳を受け取り、パラパラと頁をめくった。
几帳面な筆跡で、不正の全貌が克明に記されている。日付、金額、流用先、そしてジェラルドの署名と花押。どれ一つ取っても、反論の余地など微塵もない。
「……なるほどね」
私は手帳をパタンと閉じ、床に這いつくばるジェラルドを見下ろした。
「先月十二日、修道院支援金から金貨九十枚を着服。同日、宝飾ギルド『ルミナス』にてサファイアの首飾りの内金として支払い。先々月二十八日、同じく支援金から金貨九十枚を着服、首飾りの内金として支払い。……殿下、貴方の『愛の証』とやらは、貧民街の子供たちが飢えを凌ぐためのスープの鍋から、肉と野菜を強奪して作られていたわけだ」
「ち、違う……それはエルンストが勝手にやったことで、俺は知らん! 嵌められたんだ!」
「見苦しいわね。自分のサインすら他人のせいにするつもり? 裏社会の三下ですら、自分が切った啖呵の落とし前くらいは自分でつけるものよ。貴方は王族の皮を被った、ただのこそ泥じゃない」
「な……っ、この売女が! 公爵令嬢風情が、王族たるこの俺を泥棒呼ばわりしてタダで済むと思うなよ! 衛兵! 何をしている、こいつらを全員捕らえろ! 反逆者として首を刎ねてやる!」
ジェラルドが狂乱状態で叫ぶが、食堂を取り囲む衛兵たちは誰一人として動かなかった。彼らも馬鹿ではない。提示された帳簿の重みと、事態の異常性を完全に理解していた。
そこへ――。
コツ、コツ、コツ、と。
ジェラルドの騒ぎ立てる声とは対照的な、規則正しく重厚な足音が、廊下の奥から響いてきた。
大食堂の空気が、ふたたび張り詰める。今度は、先ほどまでの泥仕合とは次元の違う、絶対的な支配者の威圧感によって。
アンナが会計士を捕らえた報せは、どうやら王宮にも届いていたらしい。開け放たれた扉から、白銀の甲冑に身を包んだ近衛兵の一隊が、無言のまま整然と食堂内へ展開した。そして、その中央を割って、一人の男が姿を現した。
白髪混じりの美しく整えられた髭。隙のない純白の軍礼装。腰に佩いた豪奢な儀礼剣。大柄で威風堂々たる体躯から放たれるのは、一国の頂点に立つ者だけが持つ、冷徹にして峻厳な覇気。
この国の統治者――国王ルドヴィークその人だった。
「……なんたる醜態か」
低く、地鳴りのような声が大食堂に響き渡った。
「父……父上……!?」
ジェラルドの顔が絶望に染まった。
ルドヴィーク国王は、大理石の床に涙と鼻水で汚れ果てて正座している息子の姿を一瞥し、次いで腰を抜かして震えるセレスティーヌ、床に平伏する会計士エルンスト、そして仁王立ちするアンナへと視線を巡らせた。
最後に、その鋭い灰色の瞳が、手帳を手に悠然と佇む私を捉えた。
「ロザリア嬢。……何が起きている」
私は静かに手帳を胸の前に掲げ、非の打ち所のない完璧なカーテシーを披露した。
「ごきげんよう、ルドヴィーク陛下。夜分遅くの騒音、心よりお詫び申し上げます。……ただいま、身勝手な婚約破棄を突きつけに来られたジェラルド殿下に、貴族としての礼儀作法をお教えしていたところでございます」
私の澄ました言葉に、周囲の近衛兵たちが微かに息を呑む。
「ほ、報告します!」
近衛兵の隊長が進み出ようとしたが、ルドヴィークは片手を挙げてそれを制した。王は自ら大股で歩み寄り、私の手から黒い革表紙の手帳を受け取った。
国王の冷徹な視線が、原本の頁を素早く走る。頁がめくられるたびに、王の眉間の皺が深く刻まれていった。
「……公金横領。それも、下町の貧民救済予算からの流用か。あまつさえ、それを私的な遊興費と愛人への贈答品に充てていたとはな」
「父上! 違います、それはエルンストの罠です! 俺は知りません、ロザリアが俺を陥れるために仕組んだ陰謀です!」
ジェラルドが床に縋り付こうと手を伸ばした。
だが、ルドヴィークはその手を、履いていた軍靴で冷酷に払いのけた。
「見苦しいぞ、ジェラルド」
その声には、一切の情愛も、温情も含まれていなかった。
「王家の者が民の施しを盗み、私欲に浪費するなど前代未聞の恥晒しだ。言い逃れは通らん、花押の魔力痕がすべてを証明している」
「ひ、陛下……! お許しください、私は殿下に唆されただけで……!」
セレスティーヌが泣き叫びながらすり寄ろうとするが、ルドヴィークは冷ややかな一瞥すら与えなかった。
「近衛兵」
「はっ!」
「第二王子ジェラルドの王籍を今この瞬間をもって剥奪する。即刻連行し、王城の最下層地下牢へ叩き込め。横領に関与した関係者の洗い出しが完了するまで、一切の接見を禁ずる」
「父上!? お待ちください、父上――!!」
「連れて行け」
ルドヴィークの非情な宣告に、近衛兵たちが一斉に動き出した。ジェラルドの両脇を屈強な兵たちが抱え上げ、抵抗する王子の体を力任せに引きずっていく。大理石の床に、みっともない靴の摩擦痕が引かれていく。
「そして、セレスティーヌ男爵令嬢」
ルドヴィークの冷酷な刃のような視線が、へたり込む女へと向けられた。
「公金横領の共犯、ならびに王族を教唆した罪により、身柄を拘束する。男爵家は取り潰し、全財産を没収の上、貴様は国外追放とする。二度とこの国の土を踏むことは許さん」
「いやぁぁぁっ! 嘘よ、そんなの嘘よぉぉっ!」
狂乱するセレスティーヌもまた、近衛兵たちの手によって乱暴に大食堂から引きずり出されていった。遠ざかっていく二人の見苦しい悲鳴が、やがて夜の闇の中へと消えていく。
食堂に残されたのは、震える会計士エルンストと、腕を組んで満足そうに鼻を鳴らすアンナ、そして私と国王だけだった。
「……エルンスト」
ルドヴィークが呼びかけると、会計士は「ひぃっ」と悲鳴を上げて床に額を押し付けた。
「そ、極刑だけは……極刑だけは何卒ご容赦を……!」
「貴様の罪は重いが、自ら原本を提出し、不正の全容を白日の下に晒した功績は認める。財務局からの免職および一定期間の労役を課すが、命までは取らん。……連れて行け」
「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……!」
エルンストは涙を流しながら近衛兵に付き添われ、食堂を後にした。
静寂が戻った大食堂で、ルドヴィーク国王はゆっくりと私へと向き直った。
その灰色の瞳には、冷徹な統治者としての光とともに、隠しきれない驚嘆と興味の色が宿っていた。
「……ロザリア嬢」
「はい、陛下」
「先ほどの一撃、見事なものだった。無詠唱による魔力の瞬時収束、最小の予備動作、そして急所への正確無比な打撃。近衛の猛者でも、あれほど淀みのない打撃を放てる者はそうはおらん」
王の言葉に、私は淑やかに首を傾げてみせた。
「何をおっしゃいますやら。私は生まれつき体が弱く、激しい運動などとても叶わない深窓の令嬢にすぎません。先ほどのことは、理不尽な暴力を前にした病弱な乙女の、必死の正当防衛にすぎませんわ」
私の白々しい言葉に、後ろで控えていたアンナが「ぶふっ」と噴き出しそうになり、慌てて口元を手で押さえた。
ルドヴィークもまた、苦笑とも感心ともつかない表情で髭を撫でた。
「病弱な乙女の正当防衛、か。……あの愚息のみぞおちには、完治までに数週間はかかる打撲痕が残っただろうがな」
「手加減はいたしました。前世の感覚なら、内臓ごと背骨を砕いていたところです」
「……何か言ったか?」
「いいえ、独り言でございます」
私は優雅に微笑み、話を本題へと引き戻した。
「さて、陛下。婚約破棄の件はこれにて円満解決と存じますが……問題は、彼らが着服した支援金の行方でございます」
「うむ。男爵家の没収財産、ならびにジェラルドの私有財産を換金し、横領された金貨二百七十枚は速やかに全額回収させる」
「ええ。そしてその金は、全額、聖堂修道院へ補填していただくことをお約束願えますでしょうか。あそこには、明日食べるパンにも事欠く子供たちが大勢おります。横領のせいで削られたこの数ヶ月分の補填はもちろんのこと、迷惑料として色をつけていただいてもよろしくてよ?」
国王を相手に臆することなく「迷惑料」を要求する令嬢など、この国の歴史上、私くらいのものだろう。
だが、ルドヴィークは不快感を示すどころか、むしろ愉快そうに口端を吊り上げた。
「……相分かった。回収した全額に加え、王室からの特別下賜金として金貨百枚を上乗せし、明朝一番で聖堂修道院へ届けさせよう。それで手打ちとしてくれるか、公爵令嬢」
「寛大なるご配慮、心より感謝申し上げます」
私は深々とカーテシーを捧げた。筋は通った。落とし前はきっちりと回収した。ならば、これ以上王室を追い詰める理由はない。
「アンナ、聞いたわね」
「へへっ、しっかり耳の穴かっぽじって聞いてたよ! これで子供たちに、たらふく肉を食わせてやれる!」
アンナが嬉しそうに太い腕を振り上げた。
ルドヴィークはそんな私たちを見つめ、静かに息を吐いた。
「ロザリア嬢。……お前がエルンシュタイン公爵家の奥に引きこもっていた理由が、ようやく分かった気がする。社交界の浅ましい狐どもなど、お前の器にはあまりにも狭すぎたのだな」
「滅相もございません。私はただ、美味しいスープを作って、大切な人たちの笑顔を見ていたいだけの、か弱い令嬢でございます」
私の澄まし顔に、国王は今日一番の苦笑を漏らし、「近衛、引き上げるぞ」と踵を返した。
騒乱の去った大食堂に、再び静寂が戻ってきた。冷め切ったコンソメスープの皿を侍従に下げさせながら、私はアンナに向き直った。
「アンナ。今夜は公爵邸に泊まっていくといいわ。明日は朝一番で、市場へ買い出しに行くわよ」
「おう! 腕によりをかけて、王都一番のスープを作ってやろうじゃないか、お嬢さん!」
私たちは顔を見合わせ、夜の静寂の中で小さく笑い合った。
◆ーーーー◆
翌朝。
東の空が白み始め、柔らかな朝の光が王都の屋根を黄金色に染め上げていく頃。
昨夜の公爵邸での大捕物などまるで夢であったかのように、貧民街の聖堂修道院の朝はいつも通りの静けさの中で幕を開けた。
小鳥のさえずりが響く厨房で、私は袖をまくり上げ、粗末なエプロンを身につけていた。着飾ったドレスも、宝石もここにはない。だが、この綿の肌触りこそが、私にとって何よりも心地よかった。
ゴトゴトと、特注の大鉄鍋が火の上で心地よい音を立てている。
今朝のスープは、昨夜の勝利を祝う特別な仕込みだ。ルドヴィーク陛下が約束通り、夜明けとともに王室の早馬で届けてくれた補填金と特別下賜金の一部を使い、市場で最高に新鮮な食材を仕入れてきたのだ。
大振りに切った新鮮な牛すね肉、甘みの詰まった玉ねぎ、鮮やかな人参、ホクホクのじゃがいも。それらをじっくりと炒め、香味野菜と牛骨から取った出汁とともに、大鍋でコトコトと煮込んでいく。
「ふふ、いい香りね」
私は樫の木のへらを両手で握り、鍋の底からゆっくりと掻き混ぜた。
ずっしりとした重みが両腕に伝わってくる。昨夜、王子の鳩尾を沈めた私の拳は、今はこの大きな木べらを握るためにある。暴力は、仁義を踏みにじる外道を叩き潰すための最後の手段にすぎない。本当に大切なのは、守るべき場所と、守るべき人々の腹を満たすことだ。
煮え立つスープから立ち上る、温かく芳醇な湯気が、厨房いっぱいに広がっていく。私は小皿にスープを少し掬い取り、息を吹きかけて味見をした。
肉の旨味と野菜の甘みが完璧に溶け合い、香草の爽やかな香りが後味を引き締める。極上の一杯だ。
「おーい、ロザリアのお嬢さん! 表に子供たちが集まり始めたよ!」
厨房の扉を開けて、アンナが顔を出した。その手には、綺麗に洗われた大量の木椀が抱えられている。
「ええ、こちらも準備万端よ。アンナ、鍋を運ぶのを手伝ってくれる?」
「任せときな!」
二人で大鍋の取っ手を持ち、修道院の中庭へと運び出す。
朝の澄んだ空気の中庭には、すでに何十人もの下町の人々が列を作っていた。昨夜の騒動など露知らず、ただ温かい朝飯を求めて集まってきた無辜の人々だ。
「ロザリアのお姉ちゃーん!」
列の先頭にいた小さな男の子が、木椀を掲げて駆け寄ってきた。泥で汚れた顔に、満面の笑顔を咲かせている。
「おはよう、トミー。今日も元気に起きられたわね」
私は膝をついて男の子と視線を合わせ、優しく微笑みかけた。
「うん! お腹ぺこぺこだよ! 今日のお肉、すっごくいい匂いがする!」
「ええ、今日は特別に美味しいお肉が手に入ったのよ。たくさん召し上がりなさい」
私は柄杓を取り、大きな木椀に並々と熱々のスープを注いだ。ゴロゴロとした柔らかな牛肉と野菜が、琥珀色のスープの中で湯気を立てている。
「わあぁっ、お肉がいっぱいだ! ありがとう、お姉ちゃん!」
トミーは嬉しそうに椀を受け取り、両手で大事そうに抱えながら席へと走っていった。熱いスープを一口啜り、「おいしい!」と叫ぶ声が中庭に響く。
次から次へと、下町の人々が椀を差し出してくる。私は一杯一杯、心を込めてスープを注ぎ、笑顔を返していった。
「いつもすまねえな、お嬢さん」
「お嬢さんのスープを飲むと、今日も一日頑張ろうって気になれるよ」
「体に気をつけてね、お嬢さん。あんまり無理しちゃ駄目だよ」
温かい言葉の数々が、私の胸を満たしていく。
病弱な公爵令嬢。マフィアの女帝。世間が私をどう呼ぼうと、どう見なそうと、そんなことはどうでもいい。
理不尽に奪われかけた平穏は、己の手で完璧に取り戻した。外道共は牢獄の冷たい床で罪を償い、ここには飢えを満たして笑い合う人々の温もりがある。
立ち上るスープの白い湯気を見つめながら、私は木べらを握り直し、朝の陽だまりの中で静かに、そして満ち足りた笑みを浮かべた。
――さて。今日も一日、美味しいスープを配るとしましょうか。




