地球がバナッハ=タルスキー分解してから半年
地球がバナッハ=タルスキー分解してから半年、内閣官房では毎朝、存在確認表が配られた。
A4三枚。
一枚目、今日の首都機能維持区域。
二枚目、今日の政府継続性判定。
三枚目、昨日まで存在していたが、今朝は存在が確認できない地名・機関・人物。
三枚目だけ、結城修司は呼吸が浅くなる。
横須賀港第二燃料埠頭西側倉庫。
神奈川県横須賀市汐入町三丁目。
首相官邸危機管理監付運転手・木戸正幸。
都立桜城高校二年四組 西尾真帆。
西尾真帆。
娘の同級生の名前だった。
備考欄は、いつもの事務的な文言で締められている。
消失か、競合継続への移行かは未判定。
半年まえなら、女子高生の名前が政府の存在確認表に載るだけで、国家が終わっている。
いまは、国家の終わり方にも様式がある。
◇
結城修司は、紙を折って地下危機管理センターへ入った。
官僚になってから二十五年、国家とはもっと頑丈なものだと思っていた。
法律。
予算。
選挙。
戸籍。
条約。
そういうものをつなぐ地味な実務こそが国家の骨格だと信じてきた。
いま、その骨は毎朝少しずつ軋む。
「始めましょう」
鳴瀬首相が言った。
結城はまた小さな違和感を覚えた。
鳴瀬は、こんなふうに文をきっぱり切る人ではなかった気がする。
だが首相の口調の変化は、この国では優先順位の低い異常だった。
◇
「外務省から」
外務審議官が立ち上がる。
「在京米国大使館より、現内閣が前回共同確認文書と同一の執行主体であることの補足説明を求められています」
アメリカは消えていない。
大使館も、在日米軍も、横須賀もある。
それでもアメリカは、そちらの政府は昨日の政府と同じか、と日本に照会してくる。
その文面を聞くたび、結城は国家としての屈辱を覚えた。
「加えて」
審議官は続けた。
「在京太平洋駐留連合連絡室を名乗る主体から、安全保障実務協議の打診が届いています」
「そんなものは承認していない」
官房長官が言う。
「承認記録はありません。ただ、一部省庁では“前からある”という証言が出ています」
誰も笑わなかった。
次に国土地理院。
「横須賀港第四バースに、米軍補給艦が接岸している記録と、太平洋駐留連合補給船が接岸している記録が並立しています」
壁に二枚の写真が映る。
同じ港だ。
片方には星条旗。
もう片方には、日の丸に似た旗の右下に青線が三本入っている。
次に法務省。
「昨日まで行政参照上は有効だったが、本日、複数台帳から痕跡が薄化または消失している事例が二千件を超えています」
「家族の証言は」
首相が問う。
「保持率にばらつきがあります。覚えている家族も、覚えていない家族もいます」
家族側記憶保持率。
国家はとうとう、そんなものまで数え始めた。
◇
会議の最後、首相が結城を見た。
「横須賀へ行ってくれ。生活がどう壊れているか見てきてほしい」
結城はうなずいた。
本当は行きたくなかった。
条文や統計なら、まだ距離がある。
生活には、人の顔がつく。
◇
公用車の中で、結城は娘に短いメッセージを送った。
《西尾真帆さん、今日学校来てるか確認して》
返信はすぐには来なかった。
横須賀市役所の臨時対策室では、地図が二枚並んでいた。
一枚では汐入町三丁目。
もう一枚では第三補給町。
「学校では在籍不明、病院では保護者不明、港では所属不明船舶です」
市の危機管理監が言う。
「学校は特に厳しいです」
教育委員会の担当が続けた。
「在籍が消えるだけではなく、競合も出ています」
「競合?」
結城が聞く。
「同じ名前の生徒が二人いる、と複数の担任が証言しています。校務システムには一名分しか残っていないのに、教室では二人見えている、と」
その報告が終わるのと入れ違いに、台車を押して小柄な女が入ってきた。
「保存水と簡易食、追加です」
物流会社のジャンパー。皆川美奈。官邸でも見た顔だった。
「あ、官邸の方」
彼女は結城を見ると笑った。
「今日はこっちでしたか」
「こっち?」
「川崎のセンターを出たときは横浜向けだったんですけど。途中で噛んだみたいで」
結城は思わず聞いた。
「困らないんですか」
「困りますよ」
皆川は箱を下ろしながら答える。
「でも、届けるものは届かないと困る人がいるので」
◇
中学校では、空気のほうが壊れていた。
担任が出席を取る教室の後ろに、一人の女子生徒が座っている。
名簿にない席に、普通の制服で、普通の顔で。
「あの」
少女は、ひどく小さな声で言った。
「私、昨日までいたと思うんですけど」
何人かがうなずき、何人かが知らない顔を見る。
担任は名簿と教室を何度も見比べて、それから、もっと嫌なことを口にした。
「……西尾、立って」
前の列で一人の女子生徒が立つ。
後ろの名簿にない少女も、びくりとして立った。
教室がざわつく。
「西尾真帆が、二人いるんです」
教頭が、結城にだけ聞こえる声で言った。
「でも、校務システムには一人分しかありません」
前の西尾は泣きそうな顔で、後ろの西尾を見ていた。
後ろの西尾も、同じくらい怯えている。
「私、どこ行けばいいんですか」
後ろの西尾が言った。
結城のスマホが震えた。娘からだった。
《真帆、今日休みじゃない》
《学校に二人いるって騒ぎ》
結城は返信できなかった。
国家が名前を一つに戻せないあいだに、女子高生の一日が壊れていく。
◇
港では、もっと露骨だった。
見慣れない白い輸送船が三隻。
船腹の文字は日本語に似ていて少し違う。
倉庫の壁には《横須賀第三補給廠》と《PACIFIC RESERVE DEPOT 3》が両方書かれている。
「うちの親父、昨日まであの倉庫にいたんだぞ!」
「そんな町名は前からねえ!」
「あの船の連中、なんで日本語わかるんだ!」
警察も海保も、自衛隊も、見慣れない紺の制服の連中も、一瞬だけ動きを止めていた。
誰がどこまで出るか、決めきれない。
皆川がいた。
台車に水と医療物資を積んで、臨時避難所へ向かおうとしている。
「待って」
結城が言った。
「危ない」
皆川は首を振った。
「待ってるほうが止まるでしょ」
その瞬間、官邸から電話が入った。
「結城補、至急です。横須賀案件、首相単独決裁では危険と判断。複層署名制を前倒しできますか」
首相単独決裁を止める。
官房長官、法制局長官、結城の三者が監査印を揃えるまで執行を止める。
制度としては正しい。
継続性が揺らぐ首相一人に権限を預けるほうが危険だ。
正しい。
あまりにも正しい。
「……やります」
◇
その承認に、十二分かかった。
法制局確認。
官房長官押印。
警察庁と海保の優先順調整。
対外適用確認。
十二分。
そのあいだに炎が上がった。
火炎瓶か、燃料漏れか、後で誰にもわからなかった。
群衆が押す。
バリケードが倒れる。
岸壁の角度が、一瞬だけずれたように見えた。
悲鳴。
落水。
クレーンの警報。
皆川の台車が倒れた。
水のボトルが転がり、簡易食が散った。
結城は走った。
皆川はコンテナと台車の間に挟まれていた。
結城が膝をついた、その視界の端を、もう一人の皆川が走り抜けた。
同じジャンパー。
同じまとめ髪。
違うのは肩の配送タグだけだった。青ではなく赤。
赤い皆川は、振り返りもしない。
混乱の向こうへ、別の避難所か別の港か別の継続へ向かうように消えた。
足元の皆川が、結城を見る。
「ああ、官邸の方……」
「喋るな」
「これ……避難所、届けないと……」
救急は遅れていた。
法域未確定。
出動ルート競合。
接続再編。
その遅れは、いま結城が作った。
「ごめん」
結城の口から出たのは、それだけだった。
皆川は、痛みに歪んだ顔で、それでも小さく笑った。
「大丈夫……たまに、もう一人が先に着くから」
その一言で、彼女がどこまで知っていたのか、結城にはわからなくなった。
「でも……届いたら、同じですよ」
それが最後だった。
◇
官邸に戻った結城は、洗面台で吐いた。
人が死んだ。
自分の判断で死んだ。
しかも、同じ女がもう一人いた。
吐瀉のあいだに、スマホが震えた。
娘からだった。
《真帆、うちにいる》
数秒後に、もう一通。
《さっきまでいなかったのに、急に玄関にいた》
《同じ真帆だと思う。でも違う気もする》
結城は鏡を見た。
顔が、少しだけ自分に似ていない気がした。
◇
地下危機管理センターでは、もう次の会議が始まろうとしていた。
死亡三名、重傷十九名、行方不明七名。
「私がやらせました」
結城は席につくなり言った。
「複層署名制の前倒しを了承したのは私です。辞表を出します」
首相はしばらく黙っていた。
「出してもいい」
やがて言った。
「だが、いま出せば制度が逃げたと見える」
その言葉は赦しではなく、呪いだった。
「君はたぶん正しかった」
首相は続けた。
「そして人が死んだ。そういう日だ」
その瞬間、外務審議官が青ざめた顔で一枚の紙を持って入ってきた。
「至急共有です。米側照会文書の追加ページが見つかりました」
紙が回る。
英文は短かった。
Regarding Deputy Chief Cabinet Secretary Yuki Shuji, our records indicate two concurrent executive identities currently interacting with the Japanese government.
結城は、その一文を二度読んだ。
『副長官補・結城修司について。
我々の記録では、現在、日本政府と接触している並行する執行主体が二名存在する』
会議室が無音になる。
「ふざけているのか」
官房長官が低く言う。
「米大使館は真正と主張しています」
審議官が答える。
「加えて、昨夜の会見映像の一部に、結城補のネクタイ色が異なる版が流通しています」
結城は、自分の首を触った。
いまは紺だ。
だが洗面台の鏡の中の自分は、たしかにえんじ色のネクタイを締めていた気がした。
首相が、ひどく静かな声で言った。
「だから昨夜、君の娘さんの友人のことを知っていたのかもしれない」
結城は首相を見た。
「私の、もう一人から聞いたと?」
首相は答えなかった。
「あるいは」
結城は続けた。
「あなたの、もう一人が知っていたのか」
首相はなお黙っていた。
その沈黙が、答えより不気味だった。
それで全部がつながった。
冒頭の首相の違和感。
皆川の最後の台詞。
娘の家に現れた西尾真帆。
港を走った赤いタグの皆川。
そして、自分のネクタイの色。
消えていたのではない。
分かれていたのだ。
同じ球から、別の同じ球が作られるように。
同じ政府から、少し違う政府が。
同じ首相から、少し違う首相が。
同じ皆川から、少し違う皆川が。
そして同じ結城修司からも。
「別の私は」
結城は、自分の声とは思えない声で言った。
「何をしたんですか」
誰も答えられない。
だが首相だけは、目を伏せて言った。
「少なくとも、あちらの君は昨夜、娘さんを迎えに行った」
結城は息を止めた。
自分は行けなかった。
会見と会議と死者対応で。
だが別の自分は行った。
「そして」
首相は続けた。
「複層署名制には反対したらしい」
結城は壁に映る死者数を見た。
こちらでは皆川が死んだ。
あちらでは、別の誰かが死んだのだろうか。
正しさが二つある。
責任も二つある。
どちらも誰かを守り、どちらも誰かを殺す。
それが、この世界のバナッハ=タルスキーだった。
◇
深夜の会見で、結城はカメラの前に立った。
「本日の横須賀港周辺で発生した接続再編及び群集事故により、三名が死亡しました」
「政府判断に伴う遅延との因果関係を認めますか」
「認めます」
ざわめきが広がる。
官房長官が、横目でわずかに結城を見る。
「少なくとも、一因です。私が了承した運用変更が、その遅れを生みました」
政治的には失格の答え方だった。
だが嘘をつく気力も、資格もなかった。
「ただし」
結城は言った。
「いまこの国に、完全に正しい手順はありません。私たちは今日、最小の誤りを選ぼうとして、失敗しました」
記者たちが書き留める。
誰もが、その“最小”が何と比べての最小なのか知りたがっている。
だが結城は、それを言わなかった。言えなかった。
「それでも、届かなければ困るものだけは、明日もあります」
そこで結城は頭を下げた。
誰に対してか、自分でもわからない。
死者にか。
生者にか。
もう一人の自分にか。
◇
夜明け前に帰宅すると、ソファで西尾真帆が眠っていた。
娘が毛布をかけている。
「この子、やっぱり真帆だよ」
娘が小声で言う。
「でも、うちの真帆じゃない感じもする」
「うちの真帆って何だ」
結城は聞いた。
娘は少し考えた。
「去年の文化祭の話が、少し違うの」
結城はその答えに、妙に納得した。
違うのは、そういうことなのだ。
名前も顔も声も同じ。
だが去年の文化祭が少し違う。
「パパ」
娘が言う。
「今日、迎えに来てくれたよね」
結城は凍った。
「……行ってない」
娘は首をかしげた。
「でも、パパだったよ」
その一言で、結城はもう抵抗しきれなかった。
別の自分がいる。
しかもそいつは、自分が行けなかった場所へ行っている。
◇
翌朝、存在確認表が配られた。
三枚目の末尾に、新しい行が増えていた。
内閣官房副長官補・結城修司 競合継続二件確認。統合不能。
備考欄には、他と同じ事務的な字でこうあった。
両者とも行政執行能力あり。排除は高危険。
結城はその紙を見つめた。
自分が、表に載る側へ回った。
首相が席につく。
少し違う首相。
だが、たぶん向こうにも少し違う首相がいる。
「始めましょう」
会議室は静まり返っていた。
誰もが、もはや自分だけが一つだとは言い切れない。
結城はゆっくり息を吸った。
皆川は死んだ。
あるいは届いた。
自分は失敗した。
あるいは別の自分は別の失敗をした。
それでも、どちらの政府にも、今日届けなければならないものがある。
「……それでも」
声はひどくかすれていた。
「今日の政府を、届けましょう」
首相は疲れ切った目で、確かにうなずいた。
◇
地球がバナッハ=タルスキー分解してから半年。
国家は、消えるのではなかった。
有限個の壊れた部分に分かれ、少し違う国家へ、少し違う町へ、少し違う家族へ、少し違う自分へ組み替えられていくのだった。
それでも、誰かが届ける。
水を。
薬を。
名簿を。
謝罪を。
責任を。
そして、ときには、もう一人の自分が引き受けたはずの昨日の続きを。
結城修司は、そのときようやく理解した。
地球がバナッハ=タルスキー分解したのではない。
分解されたあとも、元と同じ世界だと名乗り続ける役を、
人間のほうが降ろされなかったのだ。




