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彼の選んだ情景

作者: 渡弥和志
掲載日:2026/01/24

 その村に、月を見上げる子どもがいた。


 山に囲まれているせいか、空はひどく近く、星も月も手を伸ばせば触れられそうに見える。


「おとーさん、あそこ、ふたつ、ひかってる」


 娘は縁側に腰かけたまま、空を指さして言った。

 男は手にしていた木皿を置き、隣に座る。


「双子の月だ。今夜は、よく見えるな」


「おっきいね」


「満ちてるからな」


「いつもならんでる。なかよし」


「そうだな」


 それだけの会話だったが、娘は満足そうに頷いた。


 空を見る時間が好きなのだ。昼間は畑を駆け回り、川で石を投げ、家に戻ればすぐ眠ってしまうくせに、夜だけは不思議と目をこすりながら空を見続ける。


 男は、そんな娘の横顔を見ながら、静かに息を吐いた。



 この村に来て、もう五年になる。

 剣を持つことも、命を奪うこともない生活に、ようやく体が慣れてきた頃だった。


 最初のうちは、夜になるたびに目が覚めた。

 物音に身構え、無意識に指が剣を探し、そこに何もないことに気づいて、ようやく息をつく。

 戦いを遠ざけた後の静けさに、体のほうが慣れていなかった。


 それでも、娘が隣で眠るようになってから、少しずつ変わった。

 小さな寝言を聞くたびに、剣を握ろうとするよりも先に、毛布を引き寄せるようになった。

 眠りを妨げないよう、足音を殺して歩くことを覚えた。


 守るということが、斬ることだけではないと、今さらのように知った。


 誰かを失わないために戦うのではなく、誰かと同じ朝を迎えるために、ただ生き延びる。

 それだけの理由で、今日まで歩いてきた。


 それが弱さなのか、逃げなのか、男には分からなかった。

 だが、娘の手の温もりを思い出すたび、この選択だけは、間違っていなかったと思えた。



「寒くないか」


「だいじょうぶ」


 そう言いながら、娘は男の上着の裾をつまんでいる。

 寒いのではなく、ただくっついていたいだけなのだと、男には分かっていた。


 少し前まで、こういう距離の取り方を、彼は知らなかった。

 誰かと並んで座る時間も、同じ空を見上げる意味も。

 それを教えたのは、この小さな手だ。


「おとーさん?」


「ああ、すまない」


 男は小さく首を振り、向き直る。


「そろそろ中に入ろう。夜風が冷える」


「えー、もうちょっと」


「また明日だ」


 娘は一瞬だけ唇を尖らせたが、すぐに立ち上がった。


「じゃあ、あしたもいっしょにみる?」


「ああ」


 その約束だけで、娘は満足したようだった。


 男はふと足を止めた。

 遠くの空を、もう一度だけ振り返る。


 かつて、自分の隣に立って、同じ空を見上げていた誰かの姿が、脳裏に浮かびかけて────すぐに、消えた。


 思い出すな、というつもりはなかった。

 だが、今は思い出す必要もない。


「おとーさん、はやく」


「今行く」


 娘の声に応じ、男は歩き出す。

 過去は背中に置いたまま。

 今、手を引いている小さな命だけを、確かに感じながら。




 その夜、雨が降った。

 山に弾かれた雨音が、屋根を叩き、土を打ち、村全体が静かなざわめきに包まれる。

 娘は布団の中で、何度か寝返りを打っていた。


「……怖いか?」


 男が声をかけると、闇の中で小さな頭が揺れた。


「ちがう。おとーさん……おはなしして」


「話?」


「まえの、ひと」


 男の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まる。


「……前の人?」


「うん。ときどき、ゆめにでてくるひと」


 娘は眠たそうな声で言った。


「しろいひと。やさしい」


 男は、返す言葉を探していた。

 だが、見つからなかった。


 白い。

 優しい。


 それだけで、胸の奥が、ひどく静かに軋んだ。


「……その人は、何をしてる」


「えっと……そばにいてくれる」


 それだけ言って、娘は再び目を閉じた。


 男は、雨音を聞きながら、天井を見つめる。


 そばにいてくれる。


 それは、かつて誰かが、自分にしてくれたことだ。


 何もできなくて、何も守れなくて。

 それでも、ただ隣に座ってくれた。

 言葉を交わさずとも、祈るように、ただ。


 男は、そっと拳を握った。


 守れなかった過去がある。

 取り戻せない選択がある。


 それでも今、自分の手の中には、確かな温もりがある。

 それを離す理由は、どこにもなかった。


「……すまない」


 誰に向けたのか分からない言葉が、闇に溶けた。




 翌朝、雨は上がり、村にはいつもの音が戻っていた。

 娘は何事もなかったように目を覚まし、外へ飛び出していく。


「きょうは、はれ!」


「そうだな」


 男は洗濯物を干しながら、娘の後ろ姿を見守った。


 走り方も、転び方も、笑い方も、何ひとつ覚えてはいない。

 しかしふとした仕草だけが、どうしようもなく、あの人を思い出させる。


 それを、奇跡だと思うか。

 それとも、ただの偶然だと思うか。


 男は、答えを選ばなかった。

 今ここにいる、この子が現実だ。

 それで、十分だった。




 昼過ぎ、村の広場が少しだけ騒がしくなった。


 泣き声だった。

 娘は真っ先に駆けていった。


「どうしたの?」


 転んで膝を擦りむいた幼い子が、地面に座り込んでいた。

 血は滲んでいるが、大した傷ではない。

 それでも泣いてしまうのは、子どもには当たり前だ。


「だいじょうぶ」


 娘はそう言って、しゃがみ込んだ。

 自分の服の裾を破り、ぎこちなく傷を押さえる。


「ほら、ぎゅってして」


 幼い手つきで、精一杯、誰かの真似をするように。


 泣き声が、少しずつ小さくなる。


 その光景を、男は少し離れた場所から見ていた。


 胸の奥が、ひどく静かに痛んだ。


 同じ仕草を、かつて見たことがある。


 同じ声色で、同じように、誰かを安心させていた人を。

 記憶の中の姿と、今、目の前にある姿が、重なりかけて────


 男は、目を伏せた。


 違う。

 これは、別の命だ。

 似ているだけで、同じではない。

 そして、同じでなくていい。


 娘は、傷の手当てを終えると、ぱっと顔を上げて言った。


「ほら、もうないてない」


 幼い子は、こくこくと頷いた。

 それだけで、誇らしげに笑う。


 男は、ゆっくりと歩み寄り、娘の頭に手を置いた。


「……よくやった」


「えへへ」


 それだけで、娘は満足そうに笑った。

 かつて、自分が守れなかった人は────

 今、自分の手の中にいるわけじゃない。


 しかし。


 守ることのできる時間は、ここにある。

 失ったものの代わりではなく。

 続いていく、別の物語として。

 男は、そっと娘の手を取った。


「帰ろう」


「うん」


 二人は並んで、家路につく。

 夕暮れの空には、薄い月が浮かび始めていた。

 娘は足を止めて、それを見上げる。


「あのさ」


「どうした」


「ゆめのひとね……ときどき、わらってる」


「……そうか」


「でも、さいごは、いなくなる」


 男は、何も言えなかった。


「でもね」


 娘は、男の手をぎゅっと握る。


「いまは、おとーさんがいるから、へいき」


 胸の奥に、静かに、何かが落ちた。

 それは、痛みでも後悔でもなく────

 ようやく辿り着いた、受け入れに近い感情だった。


「……そうだな」


 月を見上げたまま、男は言う。


「それで、いい」


 過去は、もう戻らない。

 しかし、消えるわけでもない。


 思い出は、こうして、別の形で、生き続ける。

 名前も、顔も、語られなくても。


 それでも確かに、誰かの中に残り、誰かの歩みを支えている。

 それなら、それでいい。

 それが、あの人が願った世界なら。


 男は、静かに歩き出した。

 娘の小さな手を引いて。

 戦いのない、名もない村の、ありふれた夕暮れへ。


 それが、彼が選び続ける情景だった。


お読みいただき、誠にありがとうございました。

もしお気に召しましたら、評価・ご感想などお待ちしております。


また、こちらは長編『ヘルドゥラの神々:漆黒の女王』のスピンオフでもあります。

世界観など気に入ってくださるようでしたら、ぜひ長編本編や、他の短編も覗いてみてくださいませ。

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