第三章 競輪との違い
アクセルを踏み込めば速くなる──そんな単純な話じゃなかった。
エンジン音は鋭く吠える。タイヤは乾いたアスファルトを蹴る。体が振動し、五感が痺れる。
けれど、拓人の走りは伸び悩んでいた。
F4の走行練習が始まって一週間。拓人はすでに、バンクとサーキットの“決定的な違い”に気づいていた。
「なあ遥……」
ピットでヘルメットを脱ぎながら、拓人はメカニックの篠宮遥に声をかけた。
「これ、脚で走る競輪と違って、全部“機械越し”だよな。感覚が掴めねぇ」
遥はモニターを見ながら答える。
「そう。車体の重心、エンジンの出力特性、ブレーキバランス、気温、湿度。全部が絡む。速さってのは、体力じゃなくて、情報を読み取る力で決まるの」
「情報、か……」
拓人は思い出す。
競輪では、自分の脚と、相手の背中、そして風だけを信じていた。今はそれが、モニターの数値と機械の音、センサーの反応に置き換わっている。
「お前の最大の武器は、反応速度と集中力だ。そこは活かせる。ただ、脳みそを使う走り方を身につけなきゃ、F1なんて到底無理だぞ」
江藤が背後から現れ、ミネラルウォーターを渡してくる。
「クソ頭使う世界に来ちまったな、佐倉」
「ほんとだよ……こんなに“考えて走る”なんて思ってなかった」
それでも、拓人は諦めなかった。
サーキットに来るたび、毎日ノートを取り、映像を見返し、データとにらめっこしながら、自分の“走り”を解体していった。まるで、壊れた自転車のギアを修理するように。
「……また0.4秒縮んだ。ラインも前より安定してきてる。佐倉、やるじゃん」
遥が褒めた時、拓人の頬がわずかに赤くなった。
彼女の評価はいつも冷静で的確だ。それだけに、認められた実感があった。
「お前、レースは好きか?」
ある夜、車両整備の手伝いをしながら、拓人が何気なく聞くと、遥は一瞬だけ手を止めて答えた。
「好きって言えるほど、楽じゃない。でも……速さには、救われたことがある」
「救われた?」
「昔、事故で……兄が死んだ。私も整備手伝ってた。だけど、止められなかった」
静かな声だった。工具の音も止まっていた。
拓人は何も言わず、ただ車体の下に潜り、彼女と同じようにナットを締めた。
速さに救われることもあれば、速さがすべてを奪っていくこともある。
けれど、それでも、人は“速さ”に惹かれてしまう。
そして、ある日のテスト走行──
「佐倉、今日が本当の“勝負”だ。タイム出してみろ。F3チームのスカウトが来てる」
江藤が告げた。遥の表情も険しくなる。
拓人はうなずいた。
F3、それはF1の2つ下のカテゴリー。そこに進むことが、夢への第一歩となる。
エンジンが唸り、空気が張り詰める。
拓人は、マシンに乗り込んだ瞬間、奇妙な静けさを感じた。
恐怖はない。
ただ、風を裂く感覚を、もう一度味わいたいと思った。
──1周、2周……セクタータイムは着実に縮んでいく。
最終ラップ、拓人はわずかにブレーキを遅らせ、マシンを滑らせるように曲げた。
グリップが、粘る。
(──いける!)
立ち上がり、加速、ゴール。
ピットに戻ると、江藤が無言で親指を立てた。遥は苦笑いしながら、データを拓人に見せた。
「トップタイム。F3昇格、これで決まりだよ」
拓人は、黙って頷いた。
F1まで、あと二歩。
その足音が、確かに聞こえ始めていた。