第7話「はじめての“褒め言葉”に、心臓がバグった」
翌朝、教室のドアを開けた瞬間——
「……あれ、神原くん?」
クラスの女子が俺を見て、一瞬、目を丸くした。
その言葉に反応するように、席の近くにいた男子たちも、ちらちらとこっちを見てくる。
「なんか今日、雰囲気違くね?」
「メガネ、変えた?」
いや、変えてねえよ。ただ、昨日美容師に言われて、フレームをちょっとだけ曲げて調整しただけだ。髪型も整えたとはいえ、顔はこのとおり、デフォルトのまま。
なのに——
(なんだよ……この空気……)
突然スポットライトでも当たったような注目に、思わず足が止まりそうになる。
浮かれてると思われたら死ぬ。いや、本当に死んでしまう。羞恥心で。
俺は俯いたまま、自分の席へと向かって、そそくさと腰を下ろした。
静かに、静かに。波風立てずに。
——と思っていたら、すぐ後ろの席から、聞きなれた声が落ちてきた。
「悪くないじゃん」
振り向くと、そこにはいつものように椅子を逆さにして座る一ノ瀬がいた。足を組んで、余裕のある姿勢で、俺を見下ろして、にやにやしている。
「きもちわる……」
つい口をついて出た言葉。でも、一ノ瀬はまったく気にしてない様子だった。
「照れんなって。初めての美容室にしては上出来でしょ。ちゃんと鏡見た?」
「見たわ……帰ってから三時間くらい……」
自分でも引くくらい鏡を見た。いや、見ざるを得なかった。変わった自分が、なんか信じられなくて。
「はは、それ、かわいいな」
「はああ!? ……お、おま、誰に向かって——」
「お前」
即答だった。
こいつ……やっぱ、なんかズルい。
昨日の夜も、ずっと鏡とにらめっこしてた自分を思い出して、また顔が熱くなる。あれを見られてたわけじゃないのに、なんでこんなに見透かされてる気分になるんだろう。
そのとき、タイミングを測ったように、教室のドアがガラッと開いた。
「おはよー!」
いつも明るくて、クラスのマドンナ的存在——中村さんだ。
「……あれ、神原くん? 今日、なんかかっこよくない?」
まっすぐ、迷いなく俺を見て、そう言った。
その瞬間、俺の全細胞が一斉にパニックを起こした。
(い、今、俺に言った!? かっこいいって!?)
まるで人違いでもされたような気分。でも、たぶん、現実だ。だって周りの女子たちが、次々と賛同の声を上げていくんだから。
「ほんとだ。なんか清潔感あるし、目元もスッキリしてるし……ね?」
「髪型、いつもと違うよね?」
「すごい似合ってる!」
その声の洪水のなかで、なんか、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
まるで、俺が“クラスの一部”として、ちゃんと認識され始めたような——そんな感覚。
(やべえ……ほんとに、変わってきてる? 俺……)
背後からまた、一ノ瀬の声がした。
「褒められてんじゃん。モテ期来た?」
「こ、こねーよ! 絶対来ねーし! 俺は……っ」
「キモオタだから?」
「う……」
図星を刺されて、言葉が詰まった。
でも、一ノ瀬はそんな俺を見て、口元をほんの少し緩めた。
「別にキモくてもいいけど。自分で“キモい”って言うのは、あんまかっこよくないよ?」
「……じゃあ何て言えばいいんだよ」
「“キモいけど、育てれば光る原石”って言えば?」
「……なにそのポケモソの進化前みたいな扱い」
「進化、したいだろ? 俺が育ててやるよ。つーか、もう始まってんだよ。お前の変身」
冗談みたいな口調なのに、なぜかその言葉が真っ直ぐに胸に刺さった。
(育ててやる、って……それ、なんか……)
ちょっとだけ、ドキっとした。
心臓の鼓動が跳ねたのは、きっと気のせいじゃない。
◇
昼休み。俺が弁当を開けようとした瞬間、一ノ瀬が当然のように隣の席に座ってきた。
「お前、放課後空いてんだろ」
突然の宣言に、箸が宙で止まった。
「……は? なに?」
「服、見に行く。お前のダサさ、見てらんねぇから」
うるせぇ。言われなくても分かってんだよ。でも、心のどこかで「行ってみてもいいかな」と思ってしまった自分がいた。
「……別に、行ってもいいけど」
どうしてこんなことになってるのか分からない。でも、拒否する理由も特になかった。
いや、あった。あったけど——
一ノ瀬が前に座って、俺のことをまっすぐに見てきたら、口答えする気が起きなかった。
すると、一ノ瀬は唐突に言い放った。
「つーかさ、もう制服やめろ」
箸を落としそうになった。
「……は? なんで?」
「お前が制服着てると余計に“陰キャ感”が加速すんだよ。俺が選んだ私服、着てこい。そっちのがまだマシ。この高校、制服でも私服でも大丈夫だし。」
言葉の選び方が絶妙にムカつく。でも、不思議と腹は立たなかった。
俺のために言ってるような、違うような。いや、きっとその両方。
でも——俺の中にある“変わりたい”って気持ちを、見透かされたみたいで。
なんか、悔しいような、でもちょっとだけ嬉しいような。
「……マジで?」
「マジ。だから今日、服買いに行く。覚悟しとけ」
じゃあな、と言って一ノ瀬は席を立った。
「ま、待てって、一ノ瀬!?」
「いいから来い。黙って俺に着せ替えられとけ」
俺の抗議を無視して、一ノ瀬は教室を出ていった。
あいつの背中は軽くて、でも、なんだか頼もしかった。
きっと、からかい半分。でも——
(それでも、あいつが引っ張ってくれるなら……)
もう少しだけ、この流れに身を任せてみてもいいかもしれない。
俺の“変化”は、まだ始まったばかりなのだから。