第2話「なに笑ってんだよ」
放課後。いつもなら誰にも見つからないように、そっと下を向いて校門を出る。
誰にもぶつからないように。話しかけられないように。
空気になりきって家に帰る。それが、俺の日課だった。
……だった、のに。
「おーい、神原~」
聞き慣れない明るい声が、真後ろから響いた。
振り向かなくても分かる。あの声は——
「……一ノ瀬」
「当たりー。なんで隠れるように帰ってんの? 逆に怪しいわ」
ガッと肩に手を置かれ、俺は完全に足を止めさせられる。くそっ、帰宅ルートまで割れてるのか。尾行でもされてたのか?
「何の用だよ」
ぶっきらぼうにそう返しても、一ノ瀬は全く動じない。
それどころか、俺の顔を覗き込んで、にっこり笑った。
「ちょっと暇だったからさー。お前、帰り道コンビニ寄るよな?」
……なんで知ってんだよ。
「お前……つけてた?」
「いやいや、たまたま何回か見ただけ。怖い顔すんなよ。てか、ちょっと寄ってこーぜ?」
有無を言わさず、肩を押される。
コンビニくらい、たしかに行く。けど、こいつと? なんで俺がそんな社交イベントに……。
「俺、別にお前と一緒に——」
「……いいから。ちょっとだけな?」
その声色が、ふと低くなった。
命令、みたいだった。だけど、不思議と嫌な感じじゃなかった。
◇
「甘いもん、好きなの?」
一ノ瀬が冷蔵スイーツコーナーの前で訊いてきた。
その手にはいつのまにか俺の買おうとしていたプリン。俺の愛しの濃厚カスタードくん。
「……見ればわかるだろ」
思わずムッとして答える。
だって、それは俺の……毎週金曜だけのご褒美……。
「へぇ、意外とカワイイとこあんじゃん。甘党?」
「うるせぇ。放せ、それ俺の」
「やだ」
一ノ瀬は悪戯っぽくプリンをくるくると回しながら言った。
「今もデブなのにもっと太るぞ?」
その一言が、ぐさりと心に刺さった。
「……うっせ。知ってるよ」
俺の声が、少しだけ小さくなる。
自分が太ってることなんて、いちいち言われなくても分かってる。
そりゃ、ちょっと運動すればいいし、夜食やめればいいってわかってるけど——
わかってても、できないのが人間なんだよ。
俺は無言でプリンを奪い返そうと手を伸ばした。けど、それより先に、一ノ瀬が言った。
「でもさ」
「……なに」
「お前、顔の造形は悪くないよな。……目、ちゃんと見たら、意外とキレイだし」
「は?」
思わず変な声が出た。
今、こいつ、何を言った? 今の……冗談? 罰ゲームの一環?
それとも……まさか、気まぐれな優しさ? 気持ち悪い。なのに、心臓が変な跳ね方をした。
「……なに笑ってんだよ」
そう言った俺の声は、少しだけ震えてたかもしれない。
一ノ瀬は、ふっと目を細めて言った。
「別に。ちょっとだけ、興味湧いてきたからさ。……お前が、どう変わるのか」
「変わらねぇよ、俺は。ずっとこうだ」
そう言ったのは、俺なのに——
そのあとも一ノ瀬の言葉が、頭の中にぐるぐると残った。
『お前、顔の造形は悪くないよな』
そんなの、誰にも言われたことがない。
自分ですら思ったことがない。
「変わる」なんて、自分とは無縁の言葉だと思ってた。
でも——あんな顔で、あんな目で言われたら。
もし、もし少しでも“変われたら”って……ほんの一瞬でも考えた自分が、情けない。
◇
その夜。
俺は鏡の前に立っていた。
風呂上がり、濡れた髪をタオルで拭きながら、自分の顔を見る。
ブツブツの肌。重たいまぶた。二重あご。
俺の顔は、やっぱり、冴えない。
——でも。
「目だけは、……まっすぐしてる、か?」
自分で言って、自分で苦笑した。なにやってんだ俺。
でも、鏡に映る自分に、少しだけ興味を持ったのは、初めてだった。