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コンテスト応募作

前世はきっとペンギンでした(改稿ver)

作者: 鉤尻尾(八重咲 桜)

 眠っている時に夢を見るだろうか?

 俺は、時々見ていた。多分、見ていたと思う。

 大体は朝起きたら忘れてしまうような夢。内容は覚えていないような夢。覚えていてもすぐ忘れてしまうような夢。


 けれど、ここのところ俺が見る夢は、そんな朧げなものとは違っていた。妙に具体的で、なぜか忘れられず、何夜にもわたって続いていく連なりのある夢――。


 俺は、毎夜ペンギンになった。


 安心して欲しい。頭がおかしいとか、着ぐるみを着る変わった趣味があるとかじゃない。ただ、毎晩、夢の中でペンギンになる。それだけの話だ。


 三十歳の、どこにでもいるような会社員が、毎晩ペンギンになっていた。


「疲れてるんじゃないの? 癒し系動画の見すぎじゃないの?」って思うだろ?

俺も最初はそう思った。実際、疲れてはいる。癒しも欲しい。

 でも動物系動画も、自然系動画も見ていないし、もちろん、動物園にも水族館にも行っていない。


 なのに、なぜか、毎晩決まって同じ“設定”の夢を見る。俺は、一体どうなっているんだろう?――そんな疑問を抱くようになっていた。

 けれどその夢は、不快でもなければ、眠れないほどの内容でもなくて。だから俺も最初は、深く考えようとしなかった。


 俺の見る夢は、極寒の大地で過酷に生きる野生のペンギンの夢ではない。人工の光と水音のなかで暮らす、水族館のペンギンになる夢だった。


 夢の中で、俺は大人しくて少し気難しい雄のペンギンだった。両目を繋ぐように白い帯模様が走り、黄色い足をした――『ジェンツーペンギン』という種類らしい。


 人間に喩えるなら、三十代前半くらいの。ちょうど、現実の俺と同じくらいの年齢だった。


 水槽のガラスに映るペンギン姿の俺には、左目の白い模様の中に、小さな黒い斑点――まるで泣き黒子のような印があった。現実の俺にも、左目の下に泣き黒子がある。だから妙に、夢の中のペンギンの俺に親近感が湧いた。


 年齢も近くて、性格も似ていて――夢の中でペンギンになっても、結局は現実の俺とそう変わらない。そんな、面白味のない一致に、俺はひとりで苦笑した。


◆◆◆


 同じ水槽には、多くの雌雄のペンギンたちが暮らしていた。つがいになっているペンギンもいれば、そうでない者たちもいた。


 残念ながら、俺は――非モテペンギンで、番はいなかった。ここは、彼女がいる現実の俺とは違うところだ。


 ふふっ。俺だけ悪いな。ペンギンの俺の中で、人間の俺は、勝ち誇るように肩をすくめていた。


 ペンギンの俺は、番を持たないまま適齢期を過ぎようとしていた。このまま番を持てず、孤独にその一生を終えるのかもしれない――。現実の俺は、夢の中のペンギンの自分をそんなふうに思っていた。


 ある晩の夢で。


 群れの中に、新しい雄のペンギンがやって来た。俺よりも、だいぶ若いペンギン。たぶん、番を持つのに適した年齢になったばかりの。


 今風に言えば、そいつは“陽キャ”だった。挨拶をしながらあちこちに顔を出して、瞬く間に群れに溶け込んでいった。


 気づけば、番を持っていない雌たちが、その若い雄を囲むようになっていた。正直、俺には何がそんなに魅力的なのか分からなかったけれど――きっと、ペンギン界でも“イケメン”だったのだろう。


 雌たちは、彼に代わる代わる、お辞儀をしていた。陰キャな俺は、そんな光景を、水槽の片隅から眺めていた。ぼんやりと、羨ましさを滲ませながら。


 夢の内容が気になってくると、ついスマホで検索してしまうのは俺だけだろうか?夢に出てきた“わからないこと”が、気づけば履歴を埋め尽くしている。


 俺の検索履歴は、今やペンギンだらけだ。


『ジェンツーペンギン』。それから――お辞儀の意味も。やっぱり、あれは求愛行動だった。


 ペンギンには、思っていた以上に複雑な求愛行動や習性があって、俺は興味津々で検索結果をタップしては眺めた。


 あの新入りが受けていた求愛行動の数々を思い出しながら。ふと、ふふふ、と笑ってしまう。


 普通は雄から雌に求愛するものらしいのに、あいつは完全に“ハーレム状態”だった。きっと、めちゃくちゃイケメンなんだろうな。


 ……そう思いながらも、どこか他人事のように、俺は画面を見つめていた。俺は、またペンギンの夢を見る。夢の中で、あのイケメンペンギンは、雌たちの丁寧なお辞儀にも一切応えることはなかった。


 お辞儀されては、それを避け。お辞儀されては、また避け。


 どこへ行っても、進む先を遮られ、まるで糸を引かれたように、ジグザグにしか歩を進められないあいつ。思うように直進すらできず、雌に囲まれて満足に飯を食うことさえ叶わず、不自由に見えたその姿に、俺は同じペンギンとして――哀れみを感じていた。


 ……だが、正直に言えば。そんなあいつを哀れに思う一方で、心のどこかがじりじりと熱を帯びていた。あれほどまでに激しく、熱っぽく、求愛されるあいつを、妬ましく思っていたのだ。


 だから、妨害してやろうと思った。あいつが雌から愛を受けるのを、俺が邪魔してやろうと。ペンギンの俺は、そう心に決めた。


 あいつに近寄ろうとする雌がいれば、その進路に立ち塞がった。あいつにお辞儀をしようとする雌がいれば、壁となってその視線を隠した。


……そんなことを繰り返していたある日。何を思ったのか、あのイケメンペンギンは、地味で目立たない俺の目の前にすっと現れて、ぺこりとお辞儀をしてきた。


 当然、ペンギンの俺は混乱した。だって、俺も雄なのだ。


 けれど、戸惑いより先に、胸が高鳴った。相手が雄であろうと雌であろうと――求愛されたことなど、一度もなかったのだから。


 だから俺は、震えるような躊躇いとともに、けれど確かに、そのお辞儀にお辞儀で応えた。


 ペンギンの俺は――求愛されたことが、ただ、嬉しかったのだと思う。


◆◆◆


 目を覚ました俺は、ぼんやりと天井を見つめながら呆然とした。


 ……なんだ、この夢は。

 えっ、これ、本当にあることなのか?


 半信半疑で夢の意味を調べてみると、ペンギンの世界では、同性同士の求愛行動も、そう特別なことではないと知った。


 そして再び夢の中で。ペンギンの俺と、イケメンペンギンは何度も何度も、お辞儀を交わし合った。やがてあいつは、俺の前で上を向いて、短く、甘く鳴いた。


 ――これも、ペンギンの求愛。


 番を持つことなど、どこかで諦めていた俺は、胸いっぱいの喜びとともに、あいつより少し高い声で鳴き返した。


◆◆◆◆


 俺の潜在意識は、いつしか夢のペンギンに、静かに、けれど確かに侵食され始めていた。


 デートで選ぶ行き先は、気がつけばペンギンのいる動物園や水族館ばかりになっていた。彼女には怪訝な顔をされ、とうとう、露骨に嫌がられるようになった。


 ふとした拍子に、ペンギングッズに手を伸ばしてしまう。マンションの棚や職場のデスクには、ペンギンの置物や文房具がじわじわと侵食し――スマホの動画履歴も、ペンギン一色になっていた。


 そんなある日の昼休み。

 俺は昼食の片手間に、眉間に皺を寄せながら、スマホでペンギンの動画を眺めていた。


「何、見てるんですか? 周藤すどう係長」


 突然、手元に影が差す。


 ひょい、とスマホを持つ俺の手元に忍び寄るようにして、その声の主が顔を寄せた。思わず息を呑む。すぐそばに感じたのは、人の温もり。


 黒髪の短髪が、ふと視界の端に触れた。驚いた俺は、反射的に身体を大袈裟に震わせ、何もやましいことなどないはずなのに、咄嗟にスマホを裏返して隠してしまった。


 そして――


「おい、急に覗き込むなよ!」


 そんなふうに、大きな声を上げてしまった。


「すみません、つい気になって……。周藤さん、ペンギンお好きでしたっけ?」


 ぱちくりと瞬く、優しげな眼差し。目の前の男は、整った顔立ちをほんのりと歪めて、柔らかく苦笑していた。


 この男――去年、中途で入社してきた、俺の五歳年下の後輩。名前を、間島まじまという。


 部署も違えば、年齢も近いわけではない。本来ならば、特に接点のないはずの存在。


 それでも陽気な性格の間島は、「知人に似ている」と言って、初日から俺に懐いてきた。

 俺も――懐かれるのは悪い気はしなくて、物腰柔らかなこいつをぞんざいに扱うことができず、つい困っていそうな時には手を貸してしまう。


 ……外面がいいから、余計な仕事を押しつけられやすいんだ。こいつは。


 俺は、どうして俺はこんな動画を見ているんだと、自分でも苦笑いを浮かべながら、思わず呟いた。


「好きっていうか……気になることがあって……」


「……そうなんですね。あっ、これ、スマホ覗き込んだお詫びってことで」


 間島は、何かを思案するように言い、俺のデスクにそっと、ある物を置いた。それは――見慣れた駄菓子。


 彼がよく俺に「いつも助けてもらってるお礼」として置いていく、小さな贈り物だった。


「ありがとうな、間島」


 そう言って、去ろうとする彼の背に礼を述べる。間島は柔らかく笑んで、ぺこりと頭を下げると、そのまま廊下の向こうへと歩いていった。


 礼儀正しいやつだ。なのに、どうしてさっきは、あんなふうにいきなりスマホを覗いたんだろう――?


 首をかしげながら、俺はデスクの上に置かれた駄菓子を見下ろした。


 それは、まるで小石を模した包みに包まれた、一口サイズのチョコ。『石チョコ』――と呼ばれる、誰もが一度は見たことのある、素朴な駄菓子。


 俺は安っぽいチョコが好きだから。それで、間島はいつもこれを選んで俺にくれるんだと思っていた。


 けれど。


 今の俺には――それが、もっと別の、特別な意味を持つように思えてしまう。


 そんなはず、ないのに。


 俺は、指先で石チョコをつまみ、しばし見つめ続けた。


◆◆◆


 その夜に見た夢は――あの石チョコと、ぴたりと繋がっていた。


 ペンギンの俺は、イケメンペンギンから、小石を一つ、贈られていた。


 これは『一緒に巣を作りませんか?』という求愛の合図。


 ペンギンの俺は、その小石を前に、有頂天になっていた。嬉しくて嬉しくて、羽を震わせながら、自分も新しい小石を用意して――ウキウキしながら、それをあいつに贈った。


 そして俺たちは、小石を贈り合い、番になった。


 勝ち誇っていたはずの夢の中の自分に、俺は、いつしか嫉妬心と劣等感を覚え始めていた。俺は、夢の中のペンギンのように、心が浮き立つような恋をしたことがない。


 俺の恋愛は、いつだって――知人の紹介でなんとなく始まって。なんとなくデートして、嫌がられなければスキンシップして。拒まれなければ、キスして。その先のこともして、気づけば『一緒にいる関係』になって。


 でも、そうやって始まった関係は、いずれ合わなくなって、相手に別の想い人ができて。結局、フラれるか、自然に終わっていく。


 俺は、そんな別れに、転んだ子どものように涙をこぼすけど――傷口にはすぐ瘡蓋ができて、立ち上がる。


 燃え上がって火傷するような恋もなければ、凍りつくような恋もしない。ただただ、曖昧で、無難な関係だけが過ぎていく。


 誰かに、激しく、強く求められたこともなければ。誰かを、同じように強く求めたこともなかった。


 今付き合っている彼女とも、ただ流れに身を任せたような始まりだった。好き、だったのかもしれない。けれど、はっきりとは言えない。


 少なくとも――ときめきや熱情、そんなものはなかった。


 だからこそ。


 ただまっすぐに、欲しいものを、相手に求める。そんなペンギンたちの素直さと本能が、羨ましかったのだ。


 俺は、夢の中のペンギンたちに――彼らの愛のかたちに、心ごと、引き摺られていた。


 間島が俺のデスクにそっと『石チョコ』を置いていくたび、胸の奥がふわりと浮き上がるような、言葉にできない喜びが込み上げた。

 あの独特な所作、間島の癖である丁寧な『お辞儀』ひとつで、頬に熱が灯り、理性が戸惑いを覚えるほどに心が揺れる。


 ……どうかしている。夢の中のペンギンに、感化され過ぎているだけだ。

 同じようなやりとりを、これまで幾度となく交わしてきたのに、なぜ今さら。

 人間の間島が、そんな意味を込めているはずがないのに。


 けれど、俺の変化に気づいた彼女は、当然のように浮気を疑った。言い争いになり、そして――あっけなく、終わった。

 二年という時を共に過ごし、互いに将来を考えていたはずだったのに。


◆◆◆


 俺が彼女に振られた現実に打ちのめされているというのに、夢は容赦なく続いていく。

 夢の中で俺は、番と共に巣を作った。

 小さくとも大切な石を一つずつ運び、協力して築き上げた、小石の巣。

 その完成とともに、俺たちは寄り添って眠り、羽を繕い合った。


 巣があると、自然と子どもが欲しくなった。

 だが、俺たちには産めない。

 俺たちは産めない卵の代わりに、餌のイワシを抱え温めた。……そのイワシは、産まれることのない命の象徴だった。


 ――目が覚めたとき、俺は涙を流していた。

 夢のせいで泣くなんて、初めてだった。


 元カノに、俺はどれだけ酷いことをしていたんだろう。

 彼女は子どもを望んで、結婚を急いでいた。けれど、俺は決断を先延ばしにしていた。

 夢で感じた“産めない苦しみ”に、ようやくその重さを知った。

 俺は中途半端な好意だけを見せびらかし、彼女の時間を、人生を浪費させた。

 振られて当然だ。


 ……それでも俺は、夢の内容に涙を流したあと、不思議ともう彼女に未練を感じていなかった。

 最低なことに、もう彼女とよりを戻したいとは、思えなかった。


 夢の中での俺たちは、仲睦まじい番だった。

 ジェンツーペンギンにしては珍しく、繁殖期を越えてもずっと寄り添い合った。

 鳴き合い、羽を繕い合い、共に眠った。


 俺たちは、ずっと産めない卵を待ち続けていた。

 そんな俺たちを哀れんだのか、飼育員が、産み捨てられた卵をそっと巣に置いていった。

 そのときの、胸の奥から満ちてきた歓び。

 俺たちは順番にその命を温め、交代で守った。


◆◆◆


 課へのクレーム対応が長引き、夜も更けての残業となった。

 静まり返ったフロアに、俺の足音だけが響く。部下たちを先に帰し、ようやく一息ついた俺も、そろそろ帰ろうと席を立つ。


 デスクの上を片付けていると、不意に、どこからか耳慣れた“鳴き声”が聞こえた。

 それはペンギンの、求愛の鳴き声。


 心臓が跳ねる。まさか。

 辺りを見回すが、音の出所は分からない。

 それでも確かに聞こえたその鳴き声は、やがてふっと、霧が晴れるように消えた。


 ――きっと気のせいだ。

 そう自分に言い聞かせながら帰り支度を続けていると、今度は明確な足音が背後に近づいてきた。


 振り返ると、そこにいたのは……間島だった。


「間島?どうしてここに?もう帰ったんじゃ……」


「買い物帰りに会社の近くを通ったら、まだ明かりがついてて。もしかして、と思って」


 間島は、手にしたエコバッグを小さく揺らしながら、微笑んだ。

 ……まさか、それだけのために戻ってきたのか?


「お帰りですか?一緒に駅まで、どうですか?」


 その申し出に、断る理由などなかった。

 間島と並んで会社の外へ出ると、彼はコンビニで買ってきたカフェオレと、いつもの石チョコを俺に手渡してきた。


 その手の温もりに、胸がきゅっとなる。

 ……ひょっとして、これを渡すためだけに?

 そんな勘繰りが脳裏をよぎる。


 もらったチョコを口に含み、温かいカフェオレで喉を潤す。

 強張っていた身体が、少しずつほどけていく。

 ぬるりと溶けた甘さに、思わず、ほぉっと息を吐いた。


 それに気づいた間島が、微かに目元を緩めた。


「お疲れ様です」


 その一言が、心に深く染み渡った。

 ――こういう時、人間で良かったと、心から思う。

 ペンギンのように、限られた鳴き声や仕草ではなく、言葉という繊細な手段で、気持ちを伝えられるから。


 俺はカフェオレを手にしながら、彼に微笑み返した。


「チョコとカフェオレ、ありがとうな。今度、何か奢るよ」


 その言葉に、間島は花がほころぶような笑顔で頷いた。


 ――夢の中の俺たちは、卵を無事に孵すことに成功した。

 卵から孵ったのは、小さな小さな雌の雛だった。


 俺たちは交互に噛み砕いた餌を与え、両側から羽を整えてやり、雛を真ん中に三羽で寄り添って眠った。


 そのときの満ち足りた感覚は、まるで体温ごと心を満たす蜜のようで――どんなに高級な布団で眠るよりも、どんなに美味い物を食べるよりも、ずっと深く、幸福だった。


 俺は、その温もりに包まれながら、ゆっくりと目を覚ました。


◆◆◆


 約束通り、俺は間島に奢ることにした。

 社食が良いという彼の希望に従い、庶民的なランチを共にする。

 安上がりな男だ。高給取りではない俺は、こっそり胸を撫で下ろす。


 選んだ日替わり定食は、俺の好きなアジの南蛮漬けとイカの唐揚げがメインだった。

 うまうまと頬張っていると、視線を感じた。


 ふと顔を上げれば、向かいの席の間島が、慈しむような目でこちらを見ていて、俺は危うく噎せかけた。


 渡されたお茶をひとくち飲んで落ち着くと、間島がそっとスマホの画面を俺に差し出してきた。

 突然のことに戸惑いながらも、受け取って画面を見る。


「なんだ?これ……『海洋生物水族館入場チケット』?」


 ペンギンが有名な、あの県内の水族館。

 元カノと一度訪れたことがある。


「ふるさと納税の返礼で届いたオンラインチケットなんですけど、誘う人がいなくて……。周藤さん、ペンギンが気になるなら、一緒に行ってくれませんか?」


 そう言った間島は、僅かに緊張を滲ませた声音だった。


 俺は、一瞬、返す言葉に詰まった。

 いい歳した男二人で水族館なんて、どうなんだ――


「……彼女と行けばいいんじゃないか?」


 遠回しに、そう告げると、間島はあっさりと答えた。


「俺、1年前から彼女いませんから」


 いや、そうだとしても……お前が誘えば、誰かしらついて来るだろ。

 その言葉は、セクハラまがいになりそうで、喉の奥で押しとどめた。


「どうせなら、一緒に楽しめる人と行きたいんです。ペンギンの雛も孵ったって言うし……。周藤さんは、俺と行くの、嫌ですか?」


 その声は、柔らかく、けれど真剣だった。

 だめですか?

 こてんと小さく首を傾げる仕草が、どこか無垢な小動物めいていた。俺より大柄なはずの間島が、俺を見上げるその眼差しは、何かに縋るような、どこか甘えるような上目遣いで――


「い、嫌じゃない……」


 潤んだ瞳が真っ直ぐに俺の心を射抜いた瞬間、思わず本音が唇から零れ落ちていた。

 嫌じゃない。嫌じゃないのだ。

 困ったことに。

 俺の胸の奥は、まるで初めて番にお辞儀をされたときの、夢の中のペンギンのように、こくこくと静かに、けれど確かに熱を帯びて鳴動していた。


「じゃあ、一緒に行ってくれるってことで! 周藤さんはいつがご都合いいですか?」


 にぱっと、花が咲くような笑顔を見せた間島。

 その笑みの勢いに抗えず、俺は自分の都合の良い日を、ほとんど反射的に口にしていた。

 スマホを返そうとして、ふとタップしたホームボタン。

 ぱっと浮かび上がった間島のホーム画面に、俺は目を奪われた。


「間島、すまん。ホームボタンを押しちまった。それでホーム画面になったんだが、その画像って……」


 間島が驚いたように目を見開き、慌てた様子で俺の手からスマホをひったくった。

 ちらりと画面を確認し、手を差し出したままの俺の姿に気づくと、表情を緩めやがて申し訳なさそうな顔で呟いた。


「すみません。変な画面だったんじゃないかと焦ってしまって。……俺、好きなんです、ペンギン。これは俺が一番好きなペンギンの写真です」


 潤んだままの瞳と、うっすらと紅潮した頬。

 ペンギン好きを恥ずかしがっているのか、間島の目元と耳の先までが染まっていた。

 俺はその照れくさそうな様子に少しだけ戸惑いながらも、そのホーム画面のペンギンに目を留めた。

 ――左目の白い模様に、小さな黒子のような黒点。それは、夢の中に現れる『俺』と瓜二つだった。

 間島に聞くと、それは拾い画像だという。俺は、そのペンギンの姿が頭から離れず、何度も検索した。

 だが、同じ画像には、ついぞ辿り着けなかった。


◆◆◆


 ついに、間島と水族館に出掛ける日がやってきた。

 休日の水族館。家族連れやカップルで賑わう中で、男二人連れの俺たちは、やはりどこか浮いていた。

 けれど、そんな周囲の目すら霞むほどに、俺はジェンツーペンギンの雛に心を奪われた。


 ふわふわとした羽毛。まだ灰色がかった、柔らかな産毛。

 小さく、けれど一生懸命に鳴くその姿に、夢で見た『娘』の面影が重なり、胸が締め付けられた。

 気づけば、目尻が濡れていた。


「えっ、周藤さん! 泣いてるんですか?」


 驚きつつも優しい声音で、間島が俺の背をとんとんと優しく叩く。

 その手のひらの温度と、律動するリズムが、まるで子守歌のように俺の神経を鎮めていった。

 間島の手のひらから伝わるぬくもりに包まれていると、不思議と涙の理由が、少しずつ自分の中で形を持ちはじめる。

 ――これはただの感動じゃない。

 何か大切なものを、思い出しかけているような。


 結局俺は、周囲の目など気にすることなく心から楽しんだ。

 土産物売り場をうろつきながら、ふと、間島は今日を楽しんでくれただろうか、と考える。

 2月が近いせいか、売り場の棚にはハートやピンクを基調とした、どこか甘やかな雰囲気のグッズが並んでいた。

 物思いに耽りながら品を眺めているうちに、俺はいつの間にか間島とはぐれてしまっていた。


 間島を探していると、あるグッズに目を惹かれた。

 なぜか、心に引っかかる。俺はそれをそっと手に取り、レジへと向かった。


 会計を終えたあと、俺はスマホを取り出し、間島に電話をかけた。

 コール音が響いた次の瞬間、棚の向こうから、耳馴染みのあるペンギンの鳴き声が聞こえた。


 ――なんだ? まさか……。


 声に導かれるように歩み寄ると、そこにはスマホを手にした間島の姿があった。

 着信音が、まさかのペンギンの鳴き声――。


「お前、着信音までペンギンの鳴き声なの?」


 思わず呆れ混じりに尋ねると、間島は気まずそうに笑った。

 俺が発信を切ると、鳴き声はすっと止んだ。


「……俺、大好きなんです。この鳴き声」


 その声に、少しだけ愛おしさが滲んでいた。

 ペンギンの求愛の鳴き声。

 ――変なやつ。

 でも、それが間島らしいと思った。


 俺と番が『娘』をある程度まで育てると、飼育員は新しい卵を任せてくれた。

 俺達は喜んでその卵を交互に温め、立派に孵した。

 今度孵ったのは雄の雛だった。

 俺達は『息子』に交互に噛み砕いた餌を与えて、両側から羽繕いをした。

 そして『娘』、『息子』、番と俺で4羽で寄り添って眠った。

 ……その温もりは、夢から覚めた今も鮮明に心に残っている。


◆◆◆


 彼女と別れた俺を、間島はよく誘ってくるようになった。

 居酒屋で飲んだり、買い物に行ったり、互いの家で手料理を分け合ったり。

 まるで、歳の離れた友人のように。

 ――たとえ俺の胸が、間島の差し出す石チョコや、深く丁寧なお辞儀に、どこかざわついたとしても。


 夢の中でペンギンの俺は、番と共に2羽の子供を立派に育てた。

 子供達が巣立ってからも、俺たちは変わらずにお辞儀し合い、鳴き合い、羽繕いし、身体を寄せ合って生きた。

 それは、人間で言えば俺が七十歳を迎える頃まで続いた。

 これって凄いことなんだ。途中で番を解消することなんてままあることだから。


 でもどんなに俺達の仲が良くても、一緒にいたいと願っても、寿命はどうしようもなかった。

 飼育下のジェンツーペンギンの寿命に近づいた俺は、急激に体調が悪くなった。

 まだ50代の番と違って、俺は動けなくなった。

 あちこちの痛みに、動かなくなる身体に、ペンギンの俺は自分が番を残して逝くのだと悟った。

 ペンギンの俺が最後に、番のあいつにしたことは石を渡すことだった。

 ちょうどバレンタイン時期に飼育員達が用意したハート型の石。

 笑っちゃうよな。死の間際に『一緒に巣を作りませんか?』だなんて。

 でも、それが俺の、番への心からの気持ちだった。


 それが俺が見た、ペンギンの夢の終わりだった。


 俺はこの夢を見た後、同性同士で番ったペンギンについて、そして番に先立たれたペンギンについて調べた。

 まるで胸の奥を指先でなぞられるような、どうしようもない焦燥感に突き動かされるまま、幾つものページを彷徨い、そしてその過程で、ある一本の動画に辿り着いた。


 ——三十五年前の、水族館の動画。


 それは、同性同士のペンギンの番を紹介する記録映像だった。

 時を超えて残されたその映像が、誰かの手によって動画投稿サイトにアップされている事実に、俺は驚愕した。

 そして、画面に映る二羽のペンギンを見て、俺は思わず息を呑んだ。


 ……そこに、ペンギンの俺がいた。


 左目の周り、白い模様にぽつんと浮かぶ黒子のような黒点。

 夢の中で番だったあいつが、求愛の鳴き声を上げている。

 その声に、ペンギンの俺が応えるように鳴く。


 画面越しのあまりにも優しく、そして哀切に満ちたそのやりとりに、俺の胸は焼けつくように苦しくなった。

 頬を伝った滴は、知らぬ間にこぼれていたものだった。


 ——ああ、お前は、本当にいたんだ。あれは、夢なんかじゃなかった。


 幸福と、そして切なさが、細く編み込まれた糸のように絡み合って、俺の心臓を優しく、でも確かに締め付けた。

 俺は無宗教だし、輪廻転生だの、前世だのを本気で信じたことはなかった。

 けれど、今だけは違った。


 ——きっと、このペンギンが、俺の前世だったんだ。

 ——俺が見たのは、夢なんかじゃない。記憶だったんだ。


 確信に近い感覚が、俺の全身を包んだ。

 画面に映る、俺の涙に濡れた番の姿に、そっと指を添えて撫でる。

 この一瞬でも、時を越えて繋がれる気がして。


 俺は彼らを、側に置いておきたくて、大切に保存しておきたくて、ダウンロードボタンを迷わず押した。

 そして、動画の中の番だったあいつをスクショして、スマホのホーム画面に設定する。

 画面をなぞる指先は、まるで祈るように震えていた。


 さらに調べていくと、件の動画以外にも、いくつかの画像や記事に辿り着いた。

 俺たちは、ペンギンの同性カップルとして有名だったらしい。

 ある記事には、番のあいつが、俺の亡骸の前で別れの鳴き声を上げ、その後、一羽で生涯を終えたと記されていた。


 ……俺は、あいつよりもずっと年上だったし、大分早くに死んだ。

 記事を読み終えたとき、俺の胸に強く込み上げたのは、後悔だった。

 最後に、あいつにハート型の石を渡したことに対する。

 求愛に応えてしまったことに対する。そんな後悔。


 ——もしかしたら、あの石が、死んだ後もあいつを縛ってしまったんじゃないか。

 ——もっと若いペンギンと番になっていれば、あいつは孤独な歳月を過ごさずに済んだかもしれないのに。


 前世を知ってしまって、そしてあいつの生涯を知ってしまって。俺の心は沈んだ。

 そんな塞ぐ俺を、間島が家に招いた。


◆◆◆


 何度も訪れた、あいつの部屋。

 その夜は、いつもよりほんの少し、灯りが柔らかかった気がした。

 手慣れた手付きで作られた夕飯に迎えられ、並んで酒を飲みながら映画を観る。

 選ばれたのは、寿命の違う種族同士の恋を描いたロマンス映画だった。


 ……前世の俺と、番だったあいつを否応なく思い出してしまって、気づけばまた、目尻に熱いものが滲んでいた。


 そんな俺の背中を、間島の手が優しくぽんぽんと叩いた。

 その手の温もりに、もう一度、涙がこぼれた。

 ふいに、背中にあった手と逆の間島の手が、俺の頬に触れる。

 ふわりとした弾力が、濡れた頬に優しく触れた。


 視界が滲んで焦点が合わない。けれど近すぎる距離に、間島の顔があった。

 推し測るようなその眼差しが俺を覗き込み、そして俺は理解する。

 頬に触れたのは、間島の唇だったと。


 間島の顔がさらに近づいて、唇と唇が触れそうになった刹那。

 俺は、はっと我に返った。


 とっさに後退りし、間島を突き飛ばした。

 縋るような間島の声も、迷いなく振り切って、俺はあいつの部屋を飛び出した。


 マンションの外に出て、最寄り駅まで走って……ようやく、足を止めた。

 走ったせいで、心臓が痛むほど脈打っている。


 ……突き飛ばしてしまった間島は、大丈夫だっただろうか。

 もっと穏やかに、やり過ごす術はなかったのか。

 でも、いや……。

 あいつを正気に戻すためには、あれが最善だったはずだ。


 ぐちゃぐちゃに入り混じった思考が、胸の奥で暴れ続ける。


 俺はその日から、間島を避けるようになった。

 私生活はもちろん、職場でも。

 もともと仕事上での接点はなかったから、それは容易だった。


 それでも、俺のデスクには変わらず石チョコが置かれた。

 けれど俺は、それを間島のいない隙を見計らって、そっとあいつのデスクに返すようになった。


 ——酷いことをしている。自覚は、ある。

 でも、俺には間島を受け入れることができなかった。


 本当は前から間島にどういう目で見られているか知っていたと思う。

 間島が俺にどういう好意を向けているか、薄々分かっていた。

 間島がペコペコするのも、気を遣って菓子を用意するのも俺にだけだった。

 陽キャなようで人との距離がある間島が、私生活での遊びに誘うのは、会社の連中では俺だけだった。

 俺は心のどこかで気づいていながら、それを今まで拒否しようとしたことはなかった。


 けれど——今は違う。

 前世の番の面影が、どうしても頭を離れない。

 俺の理性が、囁く。


 ——間島を突き放せ。

 ——それが、あいつのためだと。


 たぶん俺は、今でも前世の番を特別に想っている。

 それに俺は、間島より五つも年上で、男だ。


『あいつの相手が俺でなければ』なんて後悔を残すようなこと、今世では繰り返したくない。

 間島は俺の態度に見る見る元気をなくしたけど、流石に仕事に支障をきたすことはなかった。

 ……時間が、すべてを解決してくれる。俺はそう信じていた。


◆◆◆


 あっという間に、バレンタインデーになった。

 間島が、俺のデスクに石チョコを置くことはもうなくなっていた。

 きっと間島も冷静になったんだろうと、俺はスマホのホーム画面を震える指でなぞった。


 俺の勤める会社は、総務から義理チョコ廃止令が出ているので楽だ。

 でも、極めて個人的なやり取りは禁止されていない。

 俺が目撃したのもそんな個人的なやり取りだった。

 たまたま通りかかった資材置き場で、間島が同じ部署の高杉さんに告白されているのを見た。

 俺はすぐにその場を離れた。

 矛盾に満ちた心が、じくじくと鈍く痛んだ。

 それでも、これが正しい流れなんだと、俺は震える指先で再びスマホのホーム画面をなぞった。


 翌日、間島は体調不良で休んでいた。

 気にかけながらも、仕事の資料を取り出そうと引き出しを開ける。


 ——そこに、見覚えのない石チョコがあった。

 それと並んで、小さなキーホルダー。

 それは、あの日水族館で買って、家に置きっぱなしにしていたはずの——ハート型の小石がついたキーホルダーだった。


 ……なぜ、ここに?


 驚きに言葉を失ったまま、机の中を見つめていると、隣の席の同期・山田がひそひそと話しかけてきた。


「そういえば昨日、周藤が帰ったあと、間島くんがあんたの机に何か入れてたわよ。いつもの友チョコ?あんたたち、なんなの?間島くんに『周藤とはいつからの付き合い?』って聞いたら、『前世から』って、変なこと言ってたけど……」


 俺は、言葉を失った。間島の「前世から」という言葉。

 俺の机に残された、石チョコと、あの小石のキーホルダー。


 ……まさか。まさか、そんな……。


 俺は、冷静になりたくて、そっと席を立った。

 呼吸がうまくできないほど胸がざわついていて、このままでは自分を保てない気がした。

 向かった先は給湯室――けれど、間が悪いことに誰かがいて、ひそひそとした話し声が耳に入る。


 別の場所へ行こうと踵を返しかけた瞬間、その声の主と話の内容が耳を刺した。


「昨日、間島さんに告白したんでしょ?どうだったの?」


「……ダメだった。好きな人がいるからって、チョコも突き返されて。あ~!! もうっ、ムカツクっ!! 少し見た目が良くて、言いなりになってくれそうだから、相手してやろうと思ったのにっ! 風邪ひいてざまぁ見ろって感じっ」


 言葉が、喉の奥で詰まった。ムカついた。けれど同時に、俺はほっとしていた。

 間島が、高杉さんの告白を断った。それを知って――俺は、心の底から安堵していたんだ。それが、どれだけ身勝手な感情か、自分でもよく分かっていた。


 前世で残してしまった、あの深い後悔。それを繰り返さないように、今世は生きようと決めていた。

 間島には、もっとふさわしい人がいる。そう言い聞かせていた。高杉さんのように、綺麗で若くて、間島の優しさを自然に受け入れられるような――そんな女性が。


 ……でも。見た目だけで、間島の全てを決めつけるような奴に。優しさを利用して、支配しようとするような人間に。そんな相手に、間島を渡したくなかった。


 俺が――俺が間島を幸せにしてやりたいと、心から思ってしまった。


◆◆◆


 午後、俺は「急用ができた」と言って、有休を取った。

 言葉にしなくてもすべてを悟ったような顔の山田が、急ぎの仕事を快く引き受けてくれた。


 真っ直ぐ家に戻り、あのキーホルダーと荷物を手に取る。そして、そのまま急ぎ足で間島のマンションを目指した。


 途中のコンビニで、思いつくままに必要そうなものを買い込み、ようやくマンションのエントランスに辿り着いた時、ふと足が止まった。

 不安が胸を締めつける。いきなり来て、迷惑じゃないだろうか?もしかしたら、すでに誰かが看病してくれているかもしれない。


 心臓の音が煩わしくなるほど高鳴る中、俺は意を決して間島に電話を掛けた。


 数回のコールののち、掠れた、けれど焦ったような声がスマホから流れてきた。


『周藤さんですかっ?』


「……あぁ、周藤だけど。今、お前のマンションのエントランスに来てるんだ。渡したい物があるから、開けてもらえるか?」


『っ、すぐ開けますっ!!』


 呼吸を整える間もなく、部屋の前に着く。

 インターフォンを鳴らすと、内側から扉が勢いよく開き、ほのかに赤みを帯びた顔の間島が顔を出した。


「っ、どうして周藤さんが、こんな時間に、ここに……?」


「……風邪引いたって聞いて。見舞いに来たんだ。入れてもらえるか?」


 頬を赤らめながらも、間島は黙って頷いてくれた。


 リビングのテレビには、あの動画が映し出されていた。

 35年前の、あの水族館の映像――ペンギンの俺と、その番とが、互いに求愛の鳴き声を交わしていた記録。

 俺の中にあった疑念は、その瞬間、確信へと変わった。


 ソファーに腰を下ろした間島が、テレビの画面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「俺、前世の記憶があるんです。……きっと俺の前世はペンギンでした。この動画に映ってるのが、前世の俺で。番がいたんです。……今の俺も、この番が忘れられない。笑っちゃうでしょう? 頭、おかしいと思いますか?」


 その背中にそっと寄り添い、優しくとんとんと叩いてやる。


「俺も、思い出したんだ。前世の記憶を。……俺にも番がいて、今の俺も、その番を忘れられそうにない。……笑っちゃうよな。頭、おかしいと思うか? 俺の前世も、きっとペンギンだったんだ」


 間島が顔を上げ、濡れた瞳で俺を見つめてきた。

 俺は間島の背中を叩く手とは逆の手で、間島の頬を伝う涙をそっと拭う。


 そして、そっとその頬に唇を寄せた。

 視線が絡み合い、呼吸が重なる。唇と唇が、静かに、柔らかく重なった。


◆◆◆


 やわらかな寝具に包まれて、間島は静かに目を覚ました。

 その腕の中には、寄り添うように眠る番がいる。

 ゆっくりとした寝息が、胸元を優しくくすぐる。

 その温もりが、現実のものだと告げてくれる。


 番が、記憶を取り戻してくれてよかった。

 石チョコも、お辞儀も、背中をとんとんすることも。

 ハート型の小石のストラップも、全部――全部、あの人に思い出してほしくてやった。

 それらはすべて、ペンギンの求愛のしぐさだった。


 今日の動画も、周藤がここに来てくれるかもしれないと信じて、流しておいた。

 枕元にある、番がくれた『石チョコ』とハート型の小石が、宝石のように光って見える。


 初めて周藤に出会い、前世の記憶を取り戻してから、もう1年――長くて、切なくて、それでもどこか温かい1年だった。


 腕の中で、周藤がわずかに身じろぎした。

 ふるふるとまつげが揺れ、うっすらと目を開ける。

 眠たげな眼差しが間島を見つめ、にこりと、ほにゃあと微笑んだ。


「つぎの、たまごは……雌かなぁ? 雄かなぁ?」


 その言葉を最後に、またすやすやと眠りの中へ還っていく。

 間島は、胸が締め付けられるような、けれど甘く幸福な痛みに、息を詰めた。


「……たまごは、今世ではもういいよ。俺は前世であなたと2羽も育てたし。あなたが居れば、それで幸せだから」


 静かに囁き、腕の中の番に唇を寄せた。


 ――あぁ、本当に、また出会えてよかった。


 番が死んだ日。

 飼育員たちは、前世の間島に別れを受け入れさせようと、亡骸を見せた。

 新聞記事には、「番の死を理解し、別れの鳴き声を上げた」と書かれていた。

 けれど、それは違う。


 あの日、前世の間島が上げたのは、『求愛の鳴き声』だった。

 番の死を理解できなかった。理解したくなかった。

 ただ、願っていた。

 鳴き声を上げれば、番が、あの優しい声で返してくれると――そう、信じていた。


 けれど、その声は、もう二度と返ってこなくて。

 その時、ペンギンの間島はようやく――番を失ったのだと、思い知った。


 残ったのは、後悔だった。

 ペンギンの間島は、番から最後に贈られたハートの小石に、小石を返すことができなかったから。

 番が息を引き取ったのは、間島が「良い石」を探していた、その最中だった。


 だから、前世の間島は、残された生涯を後悔と共に生きた。

 けれど、それは決して不幸なことではなかった。

 番と過ごした、人間に換算すると三十年以上の、かけがえのない時間の記憶があったから。


 そして今、再び――間島は、番と出会った。


「今世は、2人で幸せになりましょう。死に別れても、寂しくなくなるくらいに。……幸せな記憶が残るくらいに。時間は、まだたくさんあるから」


 人間として生まれ変わった間島は、番である周藤に、ペンギンの時には果たせなかった包容をし、そっと唇を重ねた。



─【前世はきっとペンギンでした 完結】─


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