育てられた恩
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どうにも、呼吸が不規則だ。
喉の奥に大きな石を強引に押し込まれたように、苦しい。
フィオーレ家でのできごとが、ラティアの頭の中をぐるぐると巡る。宝石を盗んだとエストに罵られ、罰として鞭打ちを受けた。その日の夜は背がひりついて、眠ることさえ難しかった。
ある日は、ようやく眠りについた夜半過ぎに、マデリーンの金切り声によって呼びつけられた。
寒い冬の日だ。暖炉の薪がないから木を拾って来いという。
暗がりの中森に入った。月明りを頼りに薪を拾い集めた。指先も足先も凍えて痺れ、感覚がなくなった。
あまりの寒さと、足元がようやく見える程度の暗がりのせいで満足に薪拾いができずに家に戻れば、役立たずだと言われてマデリーンに命じられた使用人に冷水を浴びせられた。
それでも──生きていることが不思議だった。
その過去が、ラティアの首を絞めているようだ。
役立たずのお前を養ってやっているのだと、マデリーンはラティアに何度も繰り返し言っていた。
「ラティア」
「……」
「ラティア!」
「……っ、旦那、さま……」
いつの間にかラティアは、馬車に乗っていた。
アレクシスに促されて、馬車に乗ったのが遠い昔のことのように感じられる。その後の記憶がすっぽりと抜け落ちているようだった。
アレクシスがラティアの肩を掴み、顔を覗き込んでいる。ジルバとアリーチェも心配そうにラティアを見つめていた。
「すみません、ぼんやりしていました」
「お前は、あの小娘がおそろしいのか?」
「エストさん、ですか……?」
「あぁ。とるに足らない小娘だ。恐れる必要はない。今のお前には私がいる。なにも、怖がらなくていい」
「……い、いえ、私は」
震えるラティアを引き寄せて、アレクシスが抱きしめる。
ジルバが驚いたように目を見開き何かを言おうとして、アリーチェがその手の甲を抓って彼を黙らせた。
「……ありがとうございます。旦那様のお傍にいると、安心、できます。お恥ずかしいところをお見せしました。恩を返せと言われて、その通りだと思ってしまって」
「あの者たちが、お前に何かしてくれたか? お前は今にも死にそうなぐらいにぼろぼろだった。人間以下の扱いを受けていたのだろう」
「ラティア様の話を、私も聞いたことがあります。フィオーレ家の……マデリーンと言ったかしら。あの奥方は、力を失った巫女であるシャルリア様が生んだ子だから、ラティア様は外に出られないぐらいに体が弱いと言っていました。甲斐甲斐しく世話をして、実の子ではないけれど養ってあげているのだと、まるでご自身を聖母か何かのように……」
社交界に顔を出していたアリーチェが、悲し気に目を伏せる。
ラティアの様子を見て、ただごとではないことに気づいたのだろう。ジルバは不愉快そうに眉を寄せた。
「シャルリア様の娘であるラティアに、あの者たちはいったい何をしたのだ」
「ジルバ殿。ラティアの口からそれを語らせるな」
「そうはいってもだな。アレクシス、口にしなければわからんのだ。俺は察するのが苦手だ。そのせいで、アリーチェの不幸にさえ気づかなかったぐらいだ」
「お父様は馬鹿者です」
アリーチェに冷たく言われて、ジルバはしゅんと項垂れた。
強面で大柄な男であるが、よほど反省をしているのか、その体は一回り小さく見えた。
「あぁ、そうだな。その通りだ」
「そんな風に馬鹿だから、お母様は苦労をなさったのです。馬鹿、本当に、馬鹿だわ!」
「すまない」
今までのうっ憤を晴らすようにアリーチェにまくしたてられて、ジルバはさらに小さくなる。
二人のやり取りは、ラティアの目には微笑ましく映った。
今までの不幸がどうであれ──そうしてやり取りをできているのだから、きっとアリーチェはもう大丈夫だと感じた。
「うるさい。喧嘩なら他所でやれ。お前たち家族の事情など、私にとってはどうでもいい」
「すまんな、アレクシス。今はラティアのことが心配だろう。様子がおかしかった」
「ラティア様、酷い思いをされたのですね。私にも、経験があります。私は義母に疎まれていましたから。……でも、表立った暴力などはありませんでした。陰口を言われたり、家族の行事でのけ者にされたり、それぐらいでした。ラティア様はもっと、辛い思いをされたのではないですか?」
「いえ、私は……ただ、使用人として働いていただけ、で。役立たずだと、私はいつも言われていました。……恩を返せ、と、言われました。私は、旦那様の傍にいてはいけないのだと思います」
「馬鹿なことを言うな。お前が私から離れることを、私は許可しない」
「ですが、結婚相手を決めてある、そうです。……私がその方と結婚をすることで、育ててもらった恩を返せるのではないでしょうか」
「必要ない」
結婚の話など寝耳に水だが、もしそれが本当だとしたら、ラティアの行動は家族への裏切りになるのではないか。
義母に逆らうことで起こるだろう報復を、ラティアは恐れている。
アレクシスに迷惑をかけたくなかった。
「お前は、私の傍にいればいい」
「その言いかたでは、ラティアが萎縮してしまうだろう。アレクシスはラティアを守りたいと言っているのだ」
「ラティア様、頼れる人がいるのなら甘えていいとあなたは私に言いました。あなたこそ、アレクシス様に頼るべきです。ラティア様、たとえ家族であってもわかりあえないことはあります。あなたに加害をしていたものたちに、あなたが返すべきものはなにもありません」
「……っ、はい、ありがとうございます」
ジルバやアリーチェに励まされ、アレクシスに抱きしめられたままラティアは頷いた。
この腕の中にいていいのか。
こんなに幸せで──いいのだろうか。
ラティアは気持ちを落ち着かせるために、軽く唇を噛んだ。
今は、ロザリアを助けることだけを考えなくてはいけないのに、エストの言葉がべったりと脳裏にこびりついて離れなかった。




