ヴァルドール家での目覚め
ラティアの母シャルリアは、父レイモンドの元にセシリオ大神官家から嫁いだ。
大神官家の子は女神リーニエの祝福を与えられている巫女と呼ばれており、巫女を妻に迎えるというのはとても名誉なことである。
特にレイモンドの父は、熱心なリーニエ教信者だった。
そのため、レイモンドの意思など関係なくシャルリアを息子の妻に迎えることに決めたのだ。
長年式典の巫女として大神殿に勤めていたシャルリアがレイモンドに嫁いだのは、レイモンドが二十歳、シャルリアが二十九歳の時。
まだ遊びたい盛りのレイモンドは、真面目で大人しいばかりのシャルリアを嫌った。
度々仮面舞踏会や口に出せないことをしているパーティーなどに足を運び、若い女と遊んだ。
そして出会ったのが、義母である男爵令嬢マデリーンだった。
『お父様はどうして帰ってこないのですか、お母様』
『お仕事が忙しいのよ、きっと』
『お母様はすこし疲れた顔をしています。元気をだしてくださいね』
伯爵家にはいつも、母とラティアしかいなかった。それからほんの少しの使用人だけ。
巫女として生きてきた母は、質素倹約に慣れていた。ラティアも、少ない食事や古びた服を、特に疑問にも思わなかった。
母は賢い人で、いつもラティアの傍にいて、勉強も礼儀作法も何もかもを教えてくれていた。
ささやかで、静かで、とても満ち足りていた。ラティアにとっては幸せな日々だ。
だが母は時折疲れた顔を見せた。父が帰ってこないからきっと寂しいのだろうと、幼いながらにラティアは思っていた。
『お母様、手を出してください』
『どうしたの、ラティア』
『私、魔法が使えます。使いかたを、教えてくれるひとがいるのです』
『ラティア、それは一体、誰のことかしら……』
『しろくて可愛くて、ふわふわなのですよ』
不安な顔をする母の手を取り、ラティアははじめて『触癒』の魔法を使った。
それが『しょくゆ』と呼ばれる魔法だと、白くて可愛くてふわふわなものが、ラティアに教えてくれたのだ。
失われた魔力を回復させることができる、特別な魔法。
幼いラティアにはよく意味がわからない。ともかく、触ると元気になる魔法だと思った。
だから母を元気にしたくて、ラティアは触れ合った母の手に、自分の魔力をそそぎこんだ。
『ラティア!』
母は真っ青になり、ラティアの両肩を強く掴んだ。
母の指が、痛いぐらいにラティアの肩に食い込んでいる。母は見たことがないような、こわい顔をしていた。
『お、おかあさま……? 私、いけないことを、しましたか……?』
『違うの。ラティア、その力は二度と使わないで。誰にも言ってはいけないわ』
『どうして? 私、お母様の役に立ちたい』
『魔法を隠すことが、お母様のためなの。真っ白のお友達のことも、誰にも言ってはいけないわ。誰にも知られないように生きるのよ。ラティア、お母様と約束をして』
伯爵家の図書室で、本を読んでいた最中のことだった。
母は誰にも見ていないことを確認するように素早く周囲に視線を走らせて、真剣過ぎるほどに真剣な眼差しと声で、ラティアに言い聞かせるように言った。
『お願いよ、ラティア。どうか隠して。あなたを、守るために』
『……うん。お母様、秘密にする。もう、魔法は使わない。ぜったいよ』
ラティアが頷くと、母は安心したように微笑んで、それからラティアを優しく抱きしめた。
母の柔らかな体と優しい香りに包まれる。
図書室の本の匂いと、母の優しい声と、髪を撫でる手。窓から降り注ぐ柔らかな日差し。
いつしかラティアはふんわりとした眠気に誘われていた。
『力を使うと、疲れる。それは、魔力を他者に渡す行為だから』
ラティアの頭の中で、真っ白な友達の声が響いた。
けれどラティアは返事をしなかった。真っ白な友達とももう、話をしてはいけないのだと自分を戒めた。
そうすると──いつしか、声は聞こえなくなってしまった。
「……ここは」
ラティアは目を覚ます。ぼやけた視界が焦点を結び、まず目に飛び込んできたのは豪華なシャンデリアだった。
貴重なクリスタルがふんだんに使われている美しいものだ。
蝋燭よりもずっと高価で希少なルーンライト鉱石が光源に使用されている。
そのシャンデリアが吊りさがっている天井もまた、白壁に複雑で美しい紋様が刻まれているものだ。
「私……」
はっとして、ラティアは起きあがった。どこかの邸宅の、豪華な部屋のふかふかのベッドに寝かされている。
薄汚れた服のまま、白いシーツの上にラティアは横たわっている。
急いで飛び起きてベッドから降りようとした。その途端頭がぐわんと傾いて、ラティアはべしゃりとベッドの下の床に落ちた。
「……っ、いた……」
痛みがある。どうやらこれは夢ではないようだ。一瞬、死後の世界に来たのかと思った。
母に隠せと言われて以来、『触癒』の力は一度も使っていない。
アレクシスの魔力を回復させたとき、ラティアは息苦しさや倦怠感と共に、意識が遠のいていくのを感じた。
自分の力を全て渡しても、アレクシスを助けたいと考えていた。
あの時ラティアは、アレクシスを助けるためなら死んでもいいと思ったのだ。
触癒で命を失わなかったとしても、アレクシスに口づけるなどあまりにも不敬な行為だ。
首を落とされても、文句は言えない。それでもいいと、覚悟を決めていた。
床に這いつくばったまま動けないでいると、扉が開いた。
扉から入ってきた男を、ラティアは視線だけ動かして見あげる。
そこには──長い黒髪に深紅の瞳をした、まるで刃物で切り出した氷像のような厳格で冷たい美しさのある男、アレクシス・ヴァルドールが立っていた。