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こだわる  作者: 坂本梧朗
5/5

その5

 狭い店で、カウンターには二つしか空席がなく、四人はテーブルに座った。女がウイスキーのセットを持ってきて、若い課員に話しかけた。なじみらしかった。カウンターでは背広を着た年配の三人連れが飲んでいた。その中のはげ頭の男が 0氏達が入ってきた時からマイクを離さず、盛んに演歌を唸っていた。ここらあたりから 0氏の記億は定かでなくなってくる。次の事件を除いて 0氏が覚えているのは、横に座った同年輩の課員が変に高い声で童謡のようなものを歌ったということぐらいだ。


 0氏は前に座った若い課員と話をしていた。このスナックに案内した課員だ。彼と話を交わすのはその日が初めてだった。0氏はその男に年を尋ねた 若い課員は十八ですよと、冗談で返した。ははは、と0氏は笑った。それで済ませればよかった。しかし0氏はこだわった。杉山の件が頭に残っている。年をはっきりさせたい。そうしなければ再びあの苦しさに襲われる。それは耐えられない、と0氏は思った。それでも頭の一部では、馬鹿なことだ、と自分の固執を嘲笑する声もしていた。自己分裂の苦しみが再び0氏を捉えようとした。しかし0氏は酔っていた。酔いは理性には与しない。

「なあ、お前の年はいくつなんだ」

 0氏は若い課員に再び尋ねた。尋ねた瞬間、こいつは絶対答えないだろうと0氏は覚った。少しつっぱりがあるうえに、酔ってわがままになっている相手が、素直に答えるはずはないのだ。案の定、若い課員は笑い顔で「十八です」と答えた。0氏はうーむと唸ると後ろに傾き、背もたれに上半身をあずけて、天井を仰いだ。次の瞬間起きなおり、課員の背広の襟を摑んだ。                

「お前はいくつだと聞いているんだ! 」       

 0氏はどなった。「まあまあ」と同年配の課員がとめに入った。                      

「十八と言ってるでしょうが。あんた年を聞いてどうするんね」                       

 若い課員の目に怒りがあった。同時にどういうつもりなんだ、という戸惑いの色も浮かんでいた。0氏はすでに後悔していた。が、引っ込みがつかないので、「そうか、十八か、俺より年下なんだな。うん、それを確認しよう」と言って襟を離した。


 それから後の記憶が0氏にはない。ただ、馬鹿なことをした、悪いことをした、という自責の念が0氏を落ち着かせなかった。その思いをふりきるために、0氏はハイピッチでグラスをあけていった。……      


 いま、0氏はアパートに帰り着いて眠っている。間もなく夜が明ける。0氏は起き上がれるだろうか。起きあがれても会社へ行けるだろうか。                 


 目覚めた0氏を、昨夜の記憶がさいなむに違いない。常識を外れた自分の行為に0氏は恥じ入る思いをし、歓迎会を開いてくれた同僚の好意に対して、また新入りとして、余りに尊大であったと自分の態度を詫びる気持ちになるだろう。せっかく好意的だった職場の人々の気持を害なったことに思い当たり、自分の愚行を怒り、悔やむことになるだろう。そして会社に行けば、迷惑をかけた誰彼に頭を下げねばならないことを心重く自分に言い聞かせるだろう。以上は0氏の性格から考えて必然である。


 二日酔いの苦しみの上に、こうした思いを乗りこえて0氏は会社へ行けるだろうか。


 しかも会社に行って頭を下げた0氏に、0氏を介抱した同年配の課員は、スナックを出てからの0氏が何度もこけ、道行くアベックにちょっかいを出し、さんざんであったことを苦笑しながら語り聞かせ、記憶のない0氏をさらに打ちひしぐはずだった。


 0氏は思うだろう。幸福過ぎる日々だったと。それでわがままになっていたのだと。これが今まで通りの、人間関係の冷たい環境だったら、たとえあのような心的恐慌に見舞われても、必死に抑えたことだろうと。割り切って捨ててしまえたことだろうと。                                         


 そして、あれこれの思惑の最後に、この事件によって新しい職場の雰囲気も今まで経験してきたそれに、すなわち、お互いが打ち解けず、牽制し合うそれに、変るのではないかという予測が、0氏の気持ちを冷たく醒ましていくはずだった。                                                  


 夜は間もなく明けようとしている。


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