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こだわる  作者: 坂本梧朗
3/5

その3

 さて、車内に戻ろう。

 O氏は捨て去ろうと焦った。こんなことのために今から始まるせっかくの楽しい時間を失いたくはない。しかし、そう思えば思うほど、疑念の枷は 固ㄑ心にはまってくる。早く片づけたい、という心が動く。いや、こだわるな、捨ててしまえ、という声がする。O氏は苦しんだ。早く片づけよう、というプラグマティズムがO氏の口を開かせた。

「この課に来る前に他の課に居たの」

 O氏の声は少しうわずっていた。杉山は「えっ」と言った。そして「いえ、ずっとこの課ですけど」と怪訝そうな声で答えた。O氏は途端に後悔した。「あ、いやいや」と言って黙りこんだ。O氏は悲しかった。何でこんなことになるのだと思った。車内にさっきまであった朗らかな雰囲気がすでに失われかけているような気がした。しかも困ったことにはO氏の中で疑念はますます強く根を張りだしているのだ。O氏はまた口を開いた。泣きたかった。

「大学に行ったのかね」

「え、私ですか、生きませんよ。高卒です」

「ああ」

 O氏は力なく答えた。自分の言葉が 杉山の心を 傷つけたように感じた。または、自分がT大出であることをひけらかす言葉のように受け取られたのでは、とも思った。無力感のなかで、自分をコントロールの効かない他人のように0氏 は感覚した。もう黙るのだ、とO氏は自分に言い聞かせた。捨てるのだ、と 念じて 唇を 嚙んだ。O氏が黙りこんだので、女達は二人で喋り始めた。運転する同僚が時折りビヤガーデンへの道筋を尋ねてきた。それに答える他は、O氏は苦しげに風景を見ていた。


 同僚は車を有料駐車場に入れた。O氏は車を降りながら、杉山と顔を合わすのを辛く感じた。こだわりを持っている相手の顔を見るのが辛いのだ。何ということだ、と心の中でO氏は舌打ちした。今夜一番楽しませてくれそうな相手の顔を見るのが辛いなんて。O氏は駐車場の出口で振り返った。一人で行ってしまうのもおかしいと思ったからだ。自己に逆らって、杉山の顔に視線を向けた。当然の事だが、杉山は 平静な顔をしていた。彼女は無心だ、と 思うとなおさらO氏は 辛ㄑなった。


 そのビルの一階には様々な店が入っていた。杉山はO氏と並んで歩いていたが、ブティックの前で足を止め、ショウウインドに見入った。品物を眺めながら、「こんな店がここにあるのねぇ」と独り言のように呟く。「そうだね」とO氏も立ち止まって相槌を打った。「わたし、これと同じものを○○屋で買ったの。ここの方がだいぶ安いわ」「このネックレス」「そう、この方が少し大きいぐらいだわ」インカの首飾りのようなネックレスである。杉山の声にはどこか甘えがあり、ここでO氏が冗談でも言えば、二人の間は急速に打ち解けたものになるに違いなかった。しかしO氏はついに何も言えなかった。エレベーターの前で同僚と主任の女性が待っている。二人は少し急ぎ足でそちらに歩いていった。


 屋上は寒かった。杉山が寒い寒いを連発した。ビヤガーデンがオープンしてまだ日が浅い頃である。陽が落ちると冷えこんだ。ビールが入れば暖かくなると皆で言い合っていたが、ジョッキを傾けるとなお寒くなった。しかし若い男の課員たちは、職場でと同じように賑やかだった。杉山など女子社員との冗談のやり取りも陽気なものだった。O氏は楽しもうと思った。疑念など忘れて、この暖かい人達のなかに入って楽しもうと思った。しかしそう思うと逆に疑念が鎌首をもたげてくるのだった。いっそ杉山に尋ねてみようかとも思った。そのほうがサバサバしていいだろう。主客格の自分がむっつりしていては皆に悪い。しかし過ぎた雑談を今になって蒸し返すことにO氏は気後れを覚えた。そうすることで、自分の異様な固執ぶりが、人前に曝されるのを恐れた。それに杉山への 配慮もあった。人の前で経歴を 尋ねて彼女を傷つけることにならないかと思うのだった。杉山が自分の隣に座っていてくれたら、とO氏は思った。かと言って杉山の側まで行って尋ねるのはいかにも異様だった。O氏は沈黙しがちになった。頭上に輝くイルミネーションの電球を眺めながらO氏は、この狂気はなんだろう、と絶望的に思った。客席の端にスクリーンが張られ、子供向けのアニメが大きく映写されている。課員達はそれを見ながら談笑している。O氏一人がぽつねんとしていた。係長が、飲んでますか、と声をかけてきた。ハイッとO氏は頭を下げ、せかされたようにジョッキを口に持っていった。落着きのない対応だった。同僚が話しかけてくる言葉にも、反射的に答えるだけで、会話はそれで途切れてしまう。自分の対応がなっていないことをO氏は強く意識した。それは自責となってO氏を苦しめた。O氏は次第に心の自由を失っていった。背後から襲ってくるような寒さも、O氏の心を硬直させるのに一役買った。


 寒いこともあり、ビヤガーデンは三十分あまりで切り上げ、一同はパブに向かった。移動の間、O氏の沈んだ態度のためか、話しかけてくる人もなく、O氏は自分に吐息をつきながら歩いた。


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