私の欲しいもの全てを持っている親友が、一人異世界に消えてしまった後に辿る道
目を開くとそこは元の世界だった。
元の世界の、見慣れた学校の通学路だ。もう、すぐそこを曲がった所に日菜の家がある。
「帰って来てしまったの……?」
日菜は茫然と立ち尽くす。
あの時。
一週間ほど前のあの時、私は親友の麻衣子と共に、ちょうどこの場所で異世界に召喚された。
帰宅途中の道を歩いていたはずなのに、突然目の前の景色が変わって、いつの間にか私達は広い部屋の中に立っていた。
『何…?』驚いて周りを見回す。
すると見た事もないくらい格好のいい三人の男がいる事に気づき、その美貌に更に驚かされた。
金髪の男と、銀髪の男、そして紺色の髪の男。
三人とも皆、背が高く顔立ちが整っていて、雑誌の中で見るようなモデルよりも美しい。
「あの人達、カッコいい……」
私が知らず呟くと、麻衣子がその男達に向かって冷静に声をかける。
「ここはどこでしょうか?あなた達はどなたですか?」
私の幼馴染でもある、親友の麻衣子はいつだって冷静だ。
こんな信じられない状況の中でも、それは変わらないようだ。
いつも落ち着いていて頭が良く、友達も多くて、皆に頼りにされてクラス委員にまで推薦されるような子だ。
―― 一緒にいる私とは違う。
私は勉強が嫌いだし、気が合う女子もいないし、友達もいない。男子と話す方が楽しいけど、男子と仲良くしていると女子の嫉妬を買って、陰口を言われてしまう。
「ちょっと可愛いからって」とか陰口を言うけど、私からすれば「そう思うならあんた達も努力しろ」と言いたい。可愛く見せる努力をしないから、男子に相手にされないのだ。
女子なんて意地悪なだけだ。
だけど麻衣子だけは、そんな女子達と違って私を受け入れてくれている。
と言っても、真面目な麻衣子と性格が合うわけではなく、男女に人気のある麻衣子に内心面白くないものを感じてしまう。
だけど私はどうしてか麻衣子に近づいてしまうのだ。
話していても苛々させられるだけだというのに。
麻衣子の話す「面白い先生」は、私にとっては「怖い先生」だし、麻衣子を慕う「優しい友達」は、私にとっては「私の悪口を言う嫌なヤツ」だ。
みんな、麻衣子に見せる顔と私に見せる顔が違い過ぎて、この差別に重く暗い気持ちにさせられるのだ。
「あの先生、本当怒ってばっかりだよね」
「あの子、性格ブスだよね」
そんな風に麻衣子に話しても、困ったような顔をして私に忠告するだけだ。
「日菜もちゃんと宿題して授業を聞いていれば、先生も日菜を怒ったりしないって」
「あの子は、日菜と同じクラスなんだし話してみなよ。日菜が向き合えは、あの子はちゃんと話を聞いてくれるよ」
――そんな注意を聞きたい訳じゃない。
「そうだよね、酷いよね」
ただそう言って私の味方をしてほしいだけなのに。
麻衣子との話は苛々させられるけど、でも私は何故か麻衣子から離れることが出来ない。
一緒に買い物に行って、麻衣子が買いそうになった物は欲しくなるし、麻衣子が可愛いリボンをつけると私も欲しくなる。私の方が可愛い物が似合うと認めさせたくなるのだ。
『少しは悔しい顔をしたらいいのに』
そう思うのに、麻衣子は何をしても涼しい顔をしている。
その顔にまた苛々させられてしまう。
麻衣子が男子の誰かと親しくなると、私もその子に興味を持ってしまう。
頭の良い麻衣子より、可愛い自分を選んでほしくなってしまうのだ。
たいがいの男子は私が興味を見せると私を好きになってくれるが、そんな私を見ても麻衣子の様子はやっぱり変わらない。
麻衣子が悔しがってくれるくらいの男子なら、もっと好きになれるかもしれないけど、麻衣子の興味がその程度なら、私にも価値が無いものだし飽きてしまう。
背が高くスラリとしていて、いつでも冷静で頭も良く、友達も多い麻衣子。
私の母は口癖のように言う。
「日菜も麻衣子ちゃんを少しは見習いなさい。麻衣子ちゃんこの前の試験、成績トップだったんだって?麻衣子ちゃんのお母さんが話してたわよ。本当に福井さんが羨ましいわ」
麻衣子は、私の母にだって褒められる。
私の母は、いつも不機嫌な声で文句ばかり言う人なのに。
『お母さんがそんなんだから、お父さんが嫌になって出ていっちゃうんじゃない!』
口に出さない言葉を飲み込んで、日菜は自室にこもったり、思いを抑えられない時は父のいるマンションに泊まりに行ったりする。
日菜の父は家を出て暮らしているけど、麻衣子の父は麻衣子と一緒の家で暮らしている。
麻衣子の家には出て行った家族はいない。
私の欲しいもの全てを揃えているそんな麻衣子といると、劣等感に襲われて叫び出したくなる時がある。
だけど私だって麻衣子に勝てるものがある。
顔は麻衣子より可愛いし、服のセンスもいいし、メイクだって上手い。「麻衣子のお母さんに可愛いがられる方法」だって知っている。
麻衣子の母は、甘える子が好きだ。ちょっと泣きそうな顔をして相談すれば、とても親身になってくれる。
「麻衣子も、日菜ちゃんみたいな素直で可愛い性格を見習ってほしいわ」
そんな風に麻衣子の母が言ってくれる時だけは、麻衣子に勝ったような気がして私は満足する事が出来た。
私は麻衣子が嫌いだ。
私が「親友」と呼ぶ麻衣子は、本当は私の事を鬱陶しいと思っていることを、実は知っている。
自分がやってきた事を考えると当然なのかもしれないけど、それでも麻衣子が私を避けるような様子を見せると追いかけたくなる。
自分がどうしたいのか、私自身がよく分からなくなっているけど、嫌いな麻衣子から離れられないのだ。
あははと笑う銀髪の男の笑い声に、日菜の意識が目の前に戻った。
麻衣子は頭がいいから、きっと気が利く事を話したのだろう。銀髪の美しい男が声をあげて笑っている。
『いけない。ここはきっと私にとって大事な場所になるはず。しっかりしないと』
日菜は目の前の男達の会話を聞き漏らすまいと、目の前の会話に意識を向けた。
男達に目を向けて、日菜は改めて感嘆する。
この三人の男は本当にカッコいい。
金髪の男なんて物語の王子様そのものだ。涼しげな銀髪の男も金髪の男と同じくらい美しい。二人は親しそうだし、きっと同じくらいの身分を持つ者なんだろう。
紺色の男ももちろんカッコいいけど……二人に比べると少し地味に見える。
『私は金髪のイケメンが一番好みかも』
そんな事を考えてながら男達を眺めていると、紺色の男が口を開いた。
「王子が大変失礼致しました。こちらの方々は、アーサー王子とルイズ王子です。私は護衛のエリスと申します」
『王子様!!』
え?嘘?本当に?
ここには王子様がいるの?
小さい頃、あの絵本の中で憧れた王子様みたいだと思ってたけど、本当に王子様だったの?
日菜のテンションが上がる。
ドキドキと急に高鳴り出した胸を押さえて、王子達の前に出て挨拶をする。
「アーサー王子様、ルイズ王子様、私は桜井日菜といいます。名前が日菜で、日菜と呼んでください」
「ヒナ、はじめまして」
金髪のルイズ王子が品のある優しい笑みを見せる。
『ああ、本当に王子様だ』
日菜の胸が震える。
『ルイズ王子様と仲良くなりたい』
そう強く願った。
だけど銀髪のアーサー王子の様子を見て、日菜の思いが変わった。
麻衣子が自己紹介をすると、アーサー王子は麻衣子の言葉に大きな反応を見せたのだ。
麻衣子がただ他人行儀に、名字の「福井と呼んでください」と名乗っただけなのに。
「フクイって姓だろう?俺はマイコって呼ばせてもらうよ」
何が面白いのか、楽しそうに笑いながら麻衣子に言葉を返している。
――私が自己紹介した時は、何も言わなかったくせに。
『私よりも麻衣子の方に興味あるみたいじゃない』
そうなると、アーサー王子の方が気になってくる。麻衣子なんかにこの銀髪の美しい王子も取られる訳にはいかない。
自分の心がまた陰っていくようだった。
そこから私達がこの世界に召喚された理由を説明された。
どうやら私達はこの二人の王子様に召喚されたらしい。
私達個人を指定して呼んだ訳ではなく、『彼等の望む知識を与える者』を条件に付けたところ、私達が選ばれたようだ。
召喚されるのはひとりだろうと彼等は予想していたようだが、実際には私達は二人だった。
『麻衣子と私に共通する知識って何?』
日菜は急に不安になる。
自分が麻衣子に勝つ知識は、メイクとかファッションの分野くらいしか思いつかない。
「これがその問題内容になる」と手渡された王子からの資料を見て、日菜の身体が固まった。
資料の中に書いてある問題の意味が分からない。
こんなものを解ける訳がない。
チラリと麻衣子の方を見ると、資料を見ながら「ふうん」と頷いている。
『麻衣子には解けるんだ』
――麻衣子にしか解けない。
『それをこの王子達に悟られる訳にはいかない』
日菜の背筋に冷たいものが走る。
こんな素敵な王子様を麻衣子なんかに取られたら、それこそ私はどうしたらいいか分からなくなる。
焦る思いで資料を見つめ直していると、アーサー王子が王子様らしい綺麗な笑みを見せながら語った言葉に、日菜は心臓が止まってしまうかと思うほど驚愕した。
「君達が成果を見せてくれたら、俺達どちらかの妻として迎える事が決まってるんだ。俺達兄弟のどちらかを選んでもらうつもりだったけど、この召喚で二人も迎えられたからね。俺達も争う事なく結婚出来そうだ」
――王子様との結婚。
私の小さな頃の夢は、プリンセスになる事だった。
『夢が叶うかもしれない』
そう思うと、興奮で胸が震えた。
せっかくのチャンスを掴みたい。だけど麻衣子しか問題を解けない事が分かったら、私にそんなチャンスは巡ってこないかもしれない。
日菜は必死に王子達に頼み込む。
「ルイズ王子様、アーサー王子様、私達が問題を解く時は、麻衣子と二人だけにしてもらえませんか?集中する事で、早く問題解決を図りたいのです」
二人の王子は快く了承してくれて、日菜はホッと息をついた。
『良かった。後は麻衣子に任せて、その間私は王子様に気に入られるように頑張ろう』
そう自分に言い聞かせ、必ずチャンスを掴み取る事を自分自身に誓った。
一週間後、麻衣子は全ての書類を片付けた。
私達は最初にこの世界に来た時の部屋に呼ばれて、王子達から感謝の言葉と、今後の希望を尋ねられた。
私はもちろん、アーサー王子を選ぶ。
私はルイズ王子もアーサー王子も、どちらもカッコよくて好きだったが、麻衣子より上の立場になる人を選びたかった。
同じプリンセスでも、私は王妃になりたい。
だからルイズ王子がお茶を飲みながら、「アーサーが兄だ」と教えてくれた時に、私の心は決まっていた。
「私は…私はアーサー王子様を選びます!アーサー王子様、一目見た時からお慕いしております。私を将来の王妃として迎えてください」
――とうとう私の夢が叶う。
感動で涙が出てきそうだ。
それなのにアーサー王子からの言葉は、私を絶望に突き落とした。
「ありがとう、ヒナ。だけどヒナをこの国の王妃には出来ないんだ。……実は俺、王位継承権を持ってないんだよ。それでも選んでくれる?」
――王位継承権を持ってない?
アーサー王子は王様になれないの?
兄だから上の立場になる訳じゃないの?
ルイズ王子が次の王様になる王子様だったの?
どうしてそんな大事な事をもっと早く教えてくれなかったのよ!
このままでは、麻衣子がルイズ王子と結ばれてしまう。そうなれば、私はまた麻衣子に負けてしまう。
焦る気持ちで、王子達に告げた。
「あの、ごめんなさい、アーサー王子。……私は、様々な問題を解いていくうちに、この国のために尽くしたいと思うようになりました。私は王妃という立場になって、この国を支えていきたいのです。……ごめんなさい、私はやっぱりルイズ王子を選びます」
――だけど遅かった。
私の言い訳はルイズ王子に通用しなかった。
優しい人だし、あんなに私に笑顔を見せてくれていたから、受け入れてくれると思ったのに。
それに。
それにルイズ王子は、困ったような笑顔を見せながら、信じられない事を私に言った。
「うーん。さすがにそんな選ばれ方をされて、受け入れるのは難しいですね…。それにすみません。私もヒナをこの国の王妃にする事は出来ないのです。私にも王位継承権は無いので」
「え……だって、王子様の妻にしてくれるって……」
信じられない。
どうして今更そんな事を言うの?
この二人は王子様じゃなかったの?
王妃にしてくれるっていう言葉は嘘だったの?
混乱する私に、傍らに控えていた護衛のエリスが「私から説明しましょう」と話し始めた。
「アーサーは第六王子で、ルイズは第七王子という立場になります。お二人の世界ではどうかは分かりませんが、この国では王位継承権を持つのは第一王子の私一人だけなのです。私の本当の身分を名乗らなかった事は申し訳なく思いますが、私は召喚した責任者として、私達の問題に取り組んでくれる者を護衛をする立場です。ですが、この二人の妻にと話していたのは本当の事です。ヒナ様は、この二人は選ばれないのですか?」
――エリスは護衛じゃなかった。
彼が第一王子で、一番身分が高い人だった。
選ぶべき人は彼だったのだ。
私の心からの言葉を伝える。
「はい。私は……私はエリス王子様を選びます!」
『私は彼を選びたい!』
私の夢を叶えてくれるのは、彼だったのだ。
だけど私がエリス王子に答えたその時、私は忘れていた。
私はエリスを護衛だと思っていた。
――当然だ。彼はそう名乗っていたし、一番身分が高いような素振りを見せていなかった。
だから私は彼を軽んじ過ぎた。
私が王妃になれば、彼は私よりずっと身分が下になると思っていたから、彼を使用人のように見て扱っていたのだ。
『最初から言っていてくれれば、私は彼を敬ったのに』
そう後悔するが、もう遅かった。
彼は非情な言葉を私に投げかけた。
「ヒナ様、私はお二人がこの世界に来てくれた時から、お二人の事を見ていました。急に召喚されたにも関わらず、問題に真摯に取り組んでくれたのは、マイコ様ただお一人です。ヒナ様は、アーサーとルイズに『自分が解いた』と虚偽の報告をし続けましたね?ヒナ様がこの世界で為された事は、散財のみでした。
この国の王妃となるには、資質が足りなさすぎます。――どうぞ元の世界にお戻りくださいませ。ああ、今身につけている宝飾品は、どうぞ記念にお持ち帰りください。……では、こちらに」
エリスはそう言って、帰還の場になると思われる、印を付けた場所を私に差し示した。
側に控えていた使用人が、私をその場に誘導しようとする。
上手くいっていたはずだった。
麻衣子が書類を解き終わる度に、こまめに王子達の元へ届けに行っていたのは私だったし、王子達はいつでも私を笑顔で迎えてくれていた。
お茶も夕食も街への買い物も、私一人だけを連れて行ってくれていたし、たくさんのドレスも宝石も「素敵」と言えば全部買ってくれていた。
それなのに王子達は私を選ばなかった。
「また一枚解き終わりましたよ」
書類を届ける度に王子達にかけたその言葉は、『誰が』と言わなかっただけで、嘘をついていた訳ではない。
確かに「私も解いた」と伝えた事はあるけど、私だって最初のうちは解いていた。ただ全部が不正解だったから、麻衣子に手直ししてもらっていただけだ。
虚偽の報告なんかじゃなかったのに。
この三人の王子達は酷い。
いつも一緒にいたルイズ王子とアーサー王子は、私を王妃に出来ない事を黙っていた。
エリス王子は、第一王子なのにそれを説明しないで「護衛」としか名乗らなかった。
『最初から試すつもりでいたんでしょう?』
能力が無いものを受け入れる気がないと知っていたら、最初から期待なんかしなかったのに。
王子様の顔をして、この三人は私に嫌な面を見せてくる。
まるで元の世界の、あの怖い先生とあの性格ブスな女子のように。
――こんな世界、こっちから願い下げよ!
そんな思いで麻衣子を呼んだが、麻衣子は異世界を選んだ。
私がこの世界で二人の王子と過ごしている間、ずっと麻衣子の側にいた、護衛だったエリス王子との結婚を選んだのだ。
だけど麻衣子をこの異世界に残らせる訳にはいかない。あの子がプリンセスなんて許せない。
「ねえ、一緒に帰ろう?ねえ、麻衣子にはそんな王子様は似合わないって」
必死に麻衣子を説得しようとして―――そしてこの元の世界に戻っていた。
目を開くとそこは元の世界だった。
元の世界の、見慣れた学校の通学路だ。もう、すぐそこを曲がった所に日菜の家がある。
「帰って来てしまったの……?」
日菜は茫然と立ち尽くす。
『ああ、まだ頭の整理がつかない』
だけど、こんな場所でこんな格好で立ち尽くしている訳にはいかない。私は異世界のドレスを来て、豪華なアクセサリーを身に付けたままだ。
どこかに残っていた理性だけで日菜はノロノロと歩き出そうとして――足元にあった物につまづきそうになる。
足元を見ると、召喚前に手に持っていた日菜のカバンと、カバンの横には召喚時に着ていた制服が袋に入って置かれていた。
『なんて用意がいいの?まるで私を最初から返そうとしてたみたいじゃない』
日菜はおかしくもないのに、乾いた笑いだけが口からもれ出した。
『とにかく帰って考えなくちゃ』
足元の荷物を掴み取って、日菜は弾かれたように足早に歩き出した。
「あら?日菜ちゃん、お帰りなさい。今日はすごくオシャレしてるのね。日菜ちゃんは可愛いから、とっても似合うわよ」
家の玄関の扉に手をかけた時、背中からかけられた言葉に日菜の背中が凍りつく。
『麻衣子のお母さんだ!』
麻衣子は日菜と一緒に異世界へ召喚されたが、彼女は異世界に残ってしまった。
あれから1週間が経っている。この世界では麻衣子と共に大騒ぎになっているだろう。
「異世界に召喚されていた」なんて、誰も信じてくれるはずがない。そんな言い訳が通用する訳がないのだ。
ドクンドクンドクンと心臓が痛いくらいに跳ねる。
顔色を無くした日菜を見て、麻衣子の母が心配そうに日菜の顔を覗き込んだ。
「日菜ちゃん、なんか顔色悪いわよ。おばさん、日菜ちゃんのお母さんに会いに来たけど、今日はやっぱり帰るわね。家でゆっくり休んでね」
麻衣子の母は、優しい声で日菜に声をかけた。
――おかしい。
麻衣子の母はいつもと変わらない。何かがおかしい。
『もしかしたら』
ある可能性に気づく。
もしかしたら、あの世界とこの世界の時間軸は変わっていて、この世界では時間が過ぎてないのかもしれない。
「あの、麻衣子のお母さん、」
「麻衣子?ふふふ、だあれ、それ?」
今日の日付を聞こうと麻衣子の母に呼びかけると、麻衣子の母はおかしそうに笑った。
「え、だって。麻衣子の……。ねえ、おばさん。麻衣子って何してるの?」
「もう、日菜ちゃんたら。麻衣子ってだあれ?……日菜ちゃん、熱があるのかしら?もう本当に今日は早く家に入って休みなさい」
本当に心配するような顔をする麻衣子の母に、日菜はもう話す言葉も見つからず、頷いた。
「うん。実は頭が痛いんだ。もう家に入るね。さようなら」
そう麻衣子の母に挨拶をして、日菜は自宅の扉を開けて入った。
「あら、やっと帰ってきたのね。日菜、あなたお父さんの所に行くなら行くで、ちゃんと連絡くらいしなさいよ。一週間も連絡もしないなんて。……あの人も連絡くらい入れればいいのに、本当にそういう所が嫌だったわ。…あ、そうだ。日菜の担任の先生にはひどい風邪って話してるから、月曜には登校しなさいよ」
母が今までと変わらない、不機嫌を隠さない声で私に声をかけた。
そんな事より、母は「一週間」と言った。
日菜はその言葉にギクリとする。
「……一週間、私は帰らなかったの?」
「あんたお父さんの所でどんな生活してたのよ。……もう本当、あんたもお父さんに嫌な所が似てきたわね」
日菜は、母の当てつけるようなため息に背を向けて、自分の部屋に向かった。
「日菜、そんな格好で外に出ないで。どこかのお姫様じゃあるまいし。高校生にもなって、そんな仮装をしてても笑われるだけよ」
背中から飛んできた母の言葉に、日菜は何も言わずに自分の部屋の扉をバタンと閉めた。
日菜は自分の部屋の扉を閉めると、震える手でカバンの中から携帯を取り出した。
――充電切れだ。
目覚まし時計に付いている日付に目をやると、あの時からちょうど一週間が過ぎていた。
あの日は金曜日だった。
今日も金曜という事は、私は月曜から五日間学校を休んだのだ。
母は先生に風邪だと連絡を入れたようだ。
「一週間も私がこの世界にいなかった事に気づかないなんて……」
日菜は顔を歪ませて笑う。
そしてハッと気づく。
『麻衣子!』
さっき麻衣子の母は、「麻衣子」の言葉に反応しなかった。
『麻衣子の事を忘れたの?』
――いや、そんなはずはない。
嫌な予感がする。まさか、と笑いたいけど笑えない。
『……携帯!携帯で確かめられる!』
日菜は携帯を充電しようとするが、手が震えて充電ケーブルがうまくささらない。
何とかケーブルをさして、携帯が起動するのを焦る思いで待つ。
『早く早く早く早く!早く動いて!早く本当の事を教えて!』
この待っているしばらくの時間が、永遠に思える。
日菜は深呼吸する。
『大丈夫。麻衣子は消えたりしていない。大丈夫。全部履歴は残っているはず。大丈夫。だってあれば現実だったもの。このドレスだって、この宝石だって、また私が身につけている』
――起動した!!
急いで携帯を開き、麻衣子との履歴を探る。
LINEの履歴がない。麻衣子の登録もない。
――間違えて消してしまったかも。
電話帳の登録がない。
――電話なんてかけないから、最初から登録してなかったかも。
アルバムを開く。
……麻衣子の写真が一枚もない。
一緒に撮ったはずの写真は、日菜一人だけが笑っている。
麻衣子はいなくなってしまった。
麻衣子の存在は、この世界から消えてしまった。
麻衣子の母はもう、『麻衣子のお母さん』じゃなくなってしまった。麻衣子には歳の離れた兄がいるから、『孝利お兄ちゃんだけのお母さん』になってしまったのだ。
もう麻衣子を知っているのは、私だけなのかもしれない。
日菜の身体中が震える。
もうこれ以上、あの世界のドレスを着ていられなかった。
着ていたドレスを脱いで丸め、アクセサリーを外し、まとめて袋に詰め込んでベッドの下に押し込む。
いつも部屋で着ていた部屋着に着替えて布団の中に潜り込んだ。
全てが夢だと思いたかった。
だけど眠れない。
ドクンドクンドクンと痛いくらいに鳴る、自分の心臓がうるさい。
『駄目だ、眠れない』
気を紛らわそうと携帯に手を伸ばしかけて、麻衣子の存在が消えた事を思い出して手が止まる。
『何でもいい。何でもいいからやる事――』
そこまで考えた時に日菜は思い出す。
月曜から学期末テストだ。未提出の課題も、まだ手を付けていない。
日菜はあまり開いた事のない教科書と参考書を開いて、課題に取りかかった。
今まで勉強をするなんて思いついた事も無かったが、今はやる事があるなら何でもよかった。
課題で出されたものは、日菜にとって理解出来るものでは無かったが、出来る限りの事をした。
金曜の夜から月曜の朝方まで、あまり眠ることも出来ず、必死に勉強をし続けた。
手を止めるのが怖かったのだ。
手を止めて、あの世界を思い出すのも嫌だった。
眠ってあの世界の夢を見るのも怖くなった。
ただひたすら目の前の事に集中して、ほとんど理解は出来なかったけど、それでもあの世界から逃れるように、真剣に目の前の参考書を見つめた。
あれから一年が過ぎようとしている。
麻衣子がいないこの世界で、日菜は今も麻衣子をよく思い出す。
毎日ふとした瞬間に麻衣子の事を思い出して、その度に胸が締め付けられる。
だけど今では、戻ってきたばかりのような、暗く澱んだ思いに押しつぶされそうになるほどの苦しさはない。
無理矢理忙しくさせた日々を送るうちに、以前よりは思い出す事も少なくなってきて、永遠に続くかと思われたその息苦しさは、時間と共に少しずつマシになってきている。
私一人だけに記憶を残して、この世界から消えてしまった麻衣子。
帰ってきたばかりの頃は、王子達やあの世界への憎しみに苦しんだ。
『どうして私の記憶も消してくれなかったの?
一緒に異世界に行った者だから消えなかったの?
私を苦しめるために記憶を残したの?』
思い出したくなくても思い出したし、考えたくなくても考えてしまっていた。
だけど今は思い出す度に、押しつぶされそうな息苦しさに、立ち止まって動けなくなってしまう事は無くなった。
少しずつあの日の事は過去になってきている。
帰ってきたあの日から、日菜は携帯を触る事が怖くなり、あの世界をなるべく思い出さないように勉強に集中した。
勉強をし過ぎて頭が痛くなると、台所の流しにたまったお皿を洗ったり、掃除をしたり、お風呂を磨いたりして、思いつく家事を手伝った。
それは別に母のために心を入れ替えた訳ではなく、ただやる事を見つけて動いていたかっただけだ。
ひと時もじっとする事が出来ず始めた事だが、何も言わなくても家事の手伝いをするようになり、机に向かって勉強に集中する私を見せるせいか、母の私に対する態度が柔らかくなってきた。
母は日菜に嫌味を言わなくなり、当てつけがましいため息もつかなくなった。
机に向かう瞬間はいつも、あの世界で麻衣子が机に向かって書類に取り組んでいた姿が頭を過ぎる。
その姿を頭から消すように、軽く首を振ってから勉強を始めるのが日菜の癖になっていた。
勉強を始めると分からない事がたくさん出てきて、自分一人では解決できない事は、先生のところに質問に通うようになった。
あの怒ってばかりの怖い先生は、日菜が質問に通い出す頃には、怖い先生ではなくなっていた。
あの性格が悪い、私の悪口を言っていた女子は、話してみると優しい子だった。
「ごめんね。桜井さんのこと誤解してたみたい。桜井さん、すごく頑張ってるよね。私に分かる事あれば教えるから聞いてね」
そんな風に笑ってくれた。
何度か話すうちに仲良くなって、あの子は今度一緒に買い物に行く約束までしてくれた。
『あの雑貨屋さんで、あの子に一番似合うアクセサリーを見つけてあげよう』
日菜は約束の日を楽しみにしている。
日菜がこの世界に一人で帰ってきて、日菜が必死な思いで変わっていくと、周りも変わっていった。
誰も麻衣子の事を覚えていないけど、麻衣子が私に話していた事は本当だった。
あの先生は面白い先生だったし、あの子は優しい子だった。
麻衣子と離れて、必死に勉強をして少し内容を理解出来るようになると、勉強も悪いもんじゃないと思えるようになったし、一緒にいて楽しいと思える友達も出来た。
男子に媚びても碌な事がないと思うようになって、男子の機嫌をわざわざ取ることもなくなると、変わった私に悪口を言う女子はいなくなった。
自分の居場所がやっと出来たように思えた。
今、自分が以前とは違う環境の中にいれるのは、麻衣子の記憶があったからだ。
あの記憶があるから自分は変わる事ができた。
時々遊びに来る、もう麻衣子の母ではなくなったおばさんは、昔と変わらず私に優しく話しかけてくれる。
麻衣子を知らないおばさんの事を、悲しい思いで見るのは私だけだ。
きっとおばさんの中の麻衣子を消したのは、あの世界のおばさんへの優しさなんだろう。
麻衣子の事も、あの世界の事も、完全に忘れる事は出来ないかもしれない。
ベッドの下に丸めて押し込んでいる、あの時のドレスや宝飾品を眺めて懐かしむ日は来ないかもしれない。
それでも自分は変われたし、この変わった自分を麻衣子に見せたいと思う時がある。
私が麻衣子を思い出して、麻衣子に会いたいと強く思う瞬間があっても――きっと麻衣子は私に会いたいとは思っていない。
私の事を思い出す事もないのかもしれない。
私はやっぱり麻衣子が嫌いだ。
私の中に記憶だけ残して、私だけに会いたいと思わせる麻衣子の事は、やっぱり好きになんかなれない。