コース:これはアフターケアです!?3
勢いで結芽を食事に誘い、連れてこられた職場から近い飲食店。純寧にとっては誰かとというよりも、外食する機会を自ら避けている。
それもこれも自身の容姿が原因と口にすれば、多少なりとも嫌味だと捉えられるだろう。
そういった事で傷つけられたこともある。
だから人との関わり合いで臆病になり、今もそれは変わっていない。
だが、元を辿れば仕方のない事。
今では純寧なりに折り合いをつけながら、癒し処【リリートリア】に務めていた。
(結芽さん、少しは落ち着いてくれたかな)
お店に入って、純寧は仕事中と違って結芽と向かい合う形で座っている。
職場では落ち着いた空間を演出するために照明の光量を絞っているが、今は煌々とLEDが店内を灯していた。
そのお陰で結芽の表情はしっかりと見てとれる。
しかし、純寧の興味は店内へと向いてしまう。
「あの、結芽さん。ここはどういったお店なんですか?」
数人掛けの席が多く、少し離れた場所にはカウンター席もあった。壁は油の汚れが染みついたのか、元からそうなのかわからない白のようなクリーム色。机や椅子はどこか量産的な木目調の柄と濃い茶色ばかり。
店主の強いこだわりは薄く、不明瞭に定められた規則性が感じられる。
いや、そういった人もいるだろう。
あえて内装にはこだわらず、料理をメインにしている。
辛うじて壁から吊るされるメニューの名前は、純寧でも知るモノばかりが多い。
「えっと、中華料理屋です……」
結芽のどこか申し訳なさそうな声音で告げられるも、純寧は気にも留めない。
「すみません、こういったお店に入る機会があまりなくて」
「そう、何ですね……」
純寧自身は正直に答えたが、それが結芽の表情を険しくさせていく。
(あ、あれ、結芽さん……?)
席に着いてから結芽はどこか情緒不安定で、純寧の一言にとどめを刺されたのか。どこか視線を彷徨わせるように、笑顔がどこか張りついている。
だから空気を換えるため、純寧は声を弾ませた。
「それでそれで、どうお料理を頼めばいいんですか」
「ああ、このタッチパネルで……」
「わ、これなら私でも気軽に頼めそうです」
テーブルの脇にラミネート加工されたメニュー表と、一台のタブレットが充電器と共に置かれていた。
(こういった配慮、ありがたいですね)
さっそく純寧はタブレットに手を伸ばすと、向かいに座る結芽はテーブルに広げられていたラミネート加工されたメニュー表を開く。
画面が立ちあがり、一番にオススメメニューが目をひいた。
(期間限定? これはこの時期だからという事で、定期的に変わるのでしょうか? そうなると次が気になりますね)
そう思いながら、純寧は画面をタップしていく。
「セットメニューがいっぱいですね。……ああ、こっちは単品。え、サイドメニューもこんなに」
飲食店という慣れない場に、興奮気味な純寧の口から自然と感想が零れる。
何度もメニュー画面を視線と指先を往復させていく。
記載されている料理の名前と写真から、知りうる知識から味の想像がわかりそうなモノ。純寧自身も食べたことがないわけではないが、ほとんどが自身の手作り。市販で売られているものから、ネットで調べられる誰かの味付けと試したことがある。
だが、飲食店という場が純寧の興味を擽っていた。
「あの結芽さん、このお店では何がおススメですか!?」
「え、おススメ?」
結局どれか一つに決められず、結芽を頼る事に。
すると、結芽が純寧を見つめていた。
「……何が可笑しんですか」
さっきまで眉間に寄っていたシワはなく、頬が緩んでいる。
「あ、いや……フフ」
「もぉ、何なんですか?」
終いには声にだしてまで笑われるも、純寧は不快に感じない。
口元を片手で隠して笑う結芽にタブレットを渡すと、手慣れたように操作をしていく。
お互いが見やすいようにタブレットがテーブルに置かれ、それを覗き込む。
「良かったら単品で何品か頼んで、一緒に食べません」
「……それは妙案ですね」
セットにすることで僅かばかり安く食べられるという点に魅力を感じていたが、それだけでお腹がいっぱいになってしまう可能性がある。
だから他のメニューにも興味がある純寧にとっては、少し勿体ない気分をなってしまう。
かといって単品メニューだけというのも、数が多すぎて選べずにいた。
そんな純寧の葛藤を、結芽は呆気なく解決してみせる。
(やっぱり結芽さんは来慣れてるんだな……)
紫紺色の瞳を瞬かせつつも、純寧は顔を僅かに俯かせた。
(私なんて、人目を気にして誰かとなんて……)
今となっては克服とまではいかないが、勤め先の【リリートリア】スタッフや客引きの際に顔を合わせる機会が増えた周辺にある居酒屋さんの従業員と挨拶くらいはできる。
だけくらいで、結芽のような存在は初めて。
(……私にとって結芽さんは何なんだろう)
あの時の事を思い返しても、不思議でしょうがない。
ただ純粋に、勝手に心配してしまう程の疲れ切った後ろ姿をしていた。
だが別に結芽だけというわけではなく、数多くの働く社会人を見てきている。
お店にくるお客さんも、中にはそういった理由で癒しを求めているのだと雰囲気でわかってしまう。
誰だって、そうなのかもしれない。
それがあの時の結芽に必要だと感じたのか。
もしくは、それ以外の何かなのか。
純寧自身もわからないまま、偶然にも一緒にいる。
お客さんと従業員の関係を超えて。
グルグルと答えのない自問を続けていると、悲鳴をあげるように小さくお腹が鳴った。
それを誤魔化すように、純寧はタブレットを操作していく。
「これも、けどこっちも捨てがたい……」
「ちなみに普段からケッコー食べる方?」
正直、仕事終わりでお腹は空いている。
とはいえ、誰かと比較したことはない。
「そんなことはないと思いますけど、どうでしょう」
手持無沙汰でタブレットを指先で操作しつつ、結芽の反応を窺う。
「それもそっか」
真顔のような、どうとでも受け取れる表情。
それには純寧も困ってしまう。
(これは返答を間違えたかな……)
何か期待されていた感を拭えず、純寧は視線を彷徨わせる。
「とりあえず気になったのから頼んでこっか」
「そ、そんな決め方もあるんですね」
だが、結芽は気に留めた様子もない。
テーブルに置いていたタブレットを結芽は引き寄せ、単品メニューを次々とカートに入れていく。
そんな結芽に、純寧は驚きを隠せない。
(結芽さん、それはお金持ちの発想ですよ!)
食べ切れるかという疑問と、値段を無視した注文の仕方。
「あ、それと何か飲む?」
それだけに留まらず、結芽からの純粋な問いかけ。
「……お水以外にもあるんですか?」
「……ま、まぁ」
来店して、従業員の方に席へと案内されることなく座っている。それから遅れて顔を覗かせたかと思うと、水の入ったグラスだけを置いて去っていった。
お陰でテーブル脇にあるピッチャーの水を飲める。
後はご自由にというスタイルに、純寧自身はそれで満足していた。
頭の片隅にあるドリンクメニューを思い返していく。
「ほらこれ、ドリンクのメニュー」
記憶を頼りに思いだそうとしていたが、結芽がタブレットを見せてきた。
「お料理以外にもたくさんあるんですね」
その気配りが嬉しく、純寧は前のめりでタブレットを覗き込む。
(こういうの、楽しいな)
普段から足を踏み入れない飲食店という場に好奇心と、結芽の何気ない気遣いに興奮が冷めやらない。
「普段お酒とかは……」
「家族が飲むのを見たことはありますけど、特には……」
料理もそうだが、飲み物も名前と写真が一致する。
だけど、実際には飲んだことがないモノばかり。
(結芽さんは飲むんでしょうか?)
どこか難しい表情を浮かべている結芽。
せっかくだから結芽と同じモノを考える純寧は、静かに結芽の反応を待った。
タブレットを操作する結芽の指は動き、ソフトドリンクの画面に変わってしまう。
「こっちはお酒の入ってない――」
「その、私も飲んでみてもいいですか」
結芽なりに考えて気を遣ったのだろう。
だが、純寧の好奇心は勝っていた。
(あっ、やっぱり迷惑だったかな……)
どこか驚いたように目を丸くさせた結芽は、恐る恐るといった様子で指先をアルコールメニューへと戻した。
「私はビールにするけど……」
チラリと向けられた視線に、純寧は鼻息を荒く頷いた。
「じゃあ、それで」
それが余計に結芽の表情を険しくさせたが、同じモノがカートに入れられた。
「む、無理しないでよ?」
「……はい?」
そして、注文が行われた。
最後の忠告が疑問だったが、純寧は小首を傾げるだけ。
(……何か、問題でもあるのでしょうか)
記憶を遡ると、純寧の父親は美味しそうに飲んでいた。それは父親だけではなく、母親に姉と兄もだ。
かれこれ一緒に食卓を囲むというのも懐かしく、記憶は朧気ではある。
ソワソワと落ち着かない様子の結芽を正面に、純寧もただ待つしかない。
それからすぐ、純寧と結芽の前にジョッキが運ばれてきた。
「液体の上に泡が」
置かれたジョッキを前に、純寧は視点をさげてソレを眺める。
黄色い液体がシュワシュワと音を立て、白い泡も弾けていく。タブレットの写真と、記憶通りのビール。
一口も飲んだことのないソレだったが、純寧の好奇心は高まっていく。
「そ、そういうものだからね」
まるで水槽を覗き込むような姿勢の純寧に、結芽はどこか落ち着きがない。
(また私は……)
連れられてきた身でありながら、自分だけが楽しんでしまっていた。
そんな純寧を怒りもせず、大人の対応で接してくれている。
それに恥ずかしくなって、純寧は背筋を正した。
「とりあえず飲もっか」
「あ、そうですね」
不意にジョッキを掲げるように持ちあげた結芽に、純寧も真似してみた。
「乾杯」
「か、乾杯」
軽くジョッキを打ちつけ合うと、結芽は勢い良く液体を流し込んでいく。
(……結芽さん?)
何かの礼儀作法なのかと、純寧はただただ目を丸くさせる。
それも数秒とかからず、結芽の今まで聞いたことのない奇声を発してジョッキを置いた。
「ん~!!」
ジョッキの三分の一くらいを飲み終え、結芽は手の甲で口元を拭った。
「な、なるほど」
豪快に喉を鳴らす結芽の姿に、純寧は両手で持っていたジョッキを見下ろした。
(これは、それ程に美味しいモノなんですね)
「あ、一気には――」
結芽の飲みっぷりは見ているだけで清々しく、純寧も覚悟を決めた表情でジョッキに口をつけた。
「んッ!?」
だが、たった一口で咳き込んでしまった。
(な、何ですかこれは!?)
ジョッキを置き、未だシュワシュワと音を立てるビールを見つめる。
口いっぱいに流し込んだ液体の炭酸感が弾け、喉元を過ぎた瞬間にやってきた独特な苦み。それがまだ余韻を残し、口の中を漂っている。
驚きに声を発しようとしたが上手く呼吸ができず、それが原因で咳き込んでしまった。
「だ、大丈夫……?」
「ゴホッ……は、はい……」
口元を使い捨てのおしぼりを当てた純寧は、それから何度も咳き込みながらも呼吸を整えていく。
「すみません、初めて飲んだもので……」
「あ~いや、こっちこそごめんね」
「あ、謝らないで下さい。色々と勉強になりましたから」
どこか気まずそうに、純寧はジョッキで口元を隠していた。
(ううぅ……はしたなかったよね……)
そんな一波乱を気にせず、注文した料理が次々と運ばれてきた。
出来立てというのもあって白い湯気と、匂いが食欲を掻き立ててくる。
元より空腹状態というのもあって、純寧の意識がそちらに向いてしまう。
「冷めないうちに食べよ」
それは結芽も同じなのか、どこかぎこちない笑みを浮かべて箸を持っていた。
「あ、はい」
若干気まずかった空気から一転して、結芽の雰囲気が柔らかくなっていく。
それを目の当たりに、純寧も箸を手にした。
(……それで、どれから食べるべきなのでしょうか)
眉間にシワを寄せ、純寧は結芽を見つめた。
だが結芽は、そんな純寧に気づかない。
薄切りにされたチャーシューへと箸を伸ばし、薄く斜めに切られた白髪ネギを巻くように大きなひと口。何度か咀嚼したかと思えば、次にジョッキを手にしてビールを飲み始めた。
(……な、なるほど)
一息つく結芽の様子を目の当たりに、純寧は眉間のシワをさらに深くさせていく。
ついさっきの出来事もあり、未だにビールという飲み物に抵抗があった。
それに反して、結芽は美味しそうに食べている。
あくまで純寧の一方的な価値観だけで、もしかしたら結芽のような反応が普通なのかもしれない。
ジョッキを握る手に、自然と力が籠ってしまう。
「……」
「えっ、ど、どうかしたの……」
そして、純寧の様子に気づいた結芽。
どこか慌てたように視線を彷徨わせ、口をパクパクさせる。
(結芽さんを困らせてしまった! ……私が作法通りにしないから)
結芽に恥をかかせまいと、純寧も倣うように箸を動かした。
予想より薄いチャーシューに白髪ネギを巻くことに苦戦しながら、持ちあげると何やらタレがかかっていたことに気づく。テーブルを汚すまいと箸とは逆の手を受け皿に、可能な限り大きな口を開いて頬張った。
(ん、お肉であることは変わらない。それにこのタレも程良い辛さがいいですね。それにこのネギの食感も)
シャキシャキとした白髪ネギを噛む音を鳴らしながら、純寧は視線をビールジョッキへと向けた。
(そしてここで……)
まだ口の中にチャーシューとネギを残しながら、純寧はジョッキを勢いよく掴んだ。
それを勢いのままに、口をつけてビールを飲んでいく。
「んッ!?」
先程と変わらない、口の中を弾ける炭酸感。それと独特な苦み。
チャーシューの脂っこさとタレの程良い辛さはある。
だが、それを打ち消すビールという飲み物。
一息つくようにジョッキを置くと、結芽が不安そうな視線を向けていたことに気づいた。
「美味しいです!!」
「それは……良かったね……」
紫紺色の瞳を輝かせ、結芽に純粋な感想を伝えた。
(何でしょう。最初も今も苦さは変わらないのに、癖になるというか……もしかしてお料理との相性? ……だから結芽さんも美味しそうにしてたんですかね)
更なる好奇心に内心で駆られながらも、結芽が枝豆に手を伸ばしたのを見逃さなかった。
「ふむふむ」
スーパーで見たことも、レシピで炊き込みご飯にもしたことのある食材。
こうしてそのまま食べる機会はなかったが、商品として売られている。
(……生? けど、それだと青臭い気が……)
恐る恐る口にして、殻から豆だけを口へと運ぶ。
「食感がいいですね」
「そういう食べ物だからね」
頬を綻ばせる純寧に、結芽は端的に答えてくれるだけ。
(生ではなくて一度茹でてる。炊き込みの時もですけど、食感と塩加減がいい)
どこか気まずそうにしながら、結芽はジョッキに口をつける。
(さすが結芽さんです。食べ慣れてるんですね)
枝豆の食感を楽しみながら、次の料理はと視線を向けてしまう。
そんな純寧をよそに、結芽は真っすぐと背筋を伸ばす。
「純寧さん、自分が気になるの食べていいですよ」
不意にそんな事を言われ、純寧は無言で瞬きを繰り返した。
一度は結芽の言葉を脳内で反芻し、意味を理解して、口を開く。
「そ、そうは言いますけど、こういったのはマナーがあるのかと思って……」
「マナーって……」
内に秘めていた素直な感想を口にすると、結芽は呆れたように肩を落とす。
(ああ、また何か私は……)
慣れないことに、可能な限り結芽の真似をして応えようとした。
けど、その結果は失敗に終わってしまったようだ。
それにどこかいたたまれず、純寧は視線を落とした。
「好きなのを自由に食べる。……それがマナーって感じです」
だが結芽からの、どこか純寧を納得させようと選んだ言葉が返ってきた。
(……結芽さん、私に気を遣って)
それがどこか申し訳なく、再確認のために言葉を選んだ。
「なるほどビュッフェですね」
すると結芽は、さらに困ったような笑みを浮かべた。
(なんか、このままだと結芽さんをずっと困らせてしまいそうですね)
純寧はどうするべきかと思考を働かせたが、上手く脳の整理がつかなかった。
だからといって、食べないというのも作ってくれた人に申し訳ない。それに急な誘いに乗ってくれた結芽にも……。
落としていた視線をテーブルに向け、純寧は箸を動かした。
「これは知ってます。よく家で作りますから」
結芽の言葉通り、深くは考えずに食べることを楽しむことに意識を切り替えていく。
目についた餃子。
一口サイズに形作られ、どこか既視感を覚えた。
「自炊するなんて偉いですね」
「……そうですか?」
こんがりと焼き色が美味しそうで、純寧も焼く時は火加減に注意を払っている。
それを、このお店は綺麗に仕上げているのだ。
自炊をしていることを結芽に関心を持たれたが、純寧の意識は餃子に向いていた。
綺麗な一列に六個が並び、その左端を箸で摘まんだ。
「んん! 美味しいですッ!」
「そんな大げさな」
パクリと一口頬張り、肉汁が僅かに染み広がる。さらに噛むと、白髪ネギとは異なるシャキシャキとした食感がニラだと察しがつく。
(お手製? けど形は均一だし、それはそれで先程の方はかなり腕の立つ料理人という事なんでしょうか)
日本語は片言で、地肌は色黒だった。
グローバル化どころか、ジェンダーレスが進んでいる世界。経験と実績を積めば誰でもこれくらいはできるのかもしれない。
飲食店での業務経験が無い、純寧にとってわからない世界が広がっている。
料理一つを取っても真摯に、味の研究をする純寧に対して、結芽は卓上に置かれていた醤油とラー油を混ぜてタレを作っていた。
それに餃子を浸して一口。
「うん、美味しい」
「ですよね!」
気づけばお互いにジョッキが空になっており、純寧はタブレットに手を伸ばした。
「それにしてもビールというのは美味しいですね。父が飲んでいる姿を見たことがありましたが、こうして私も口にすることがあるなんて」
「私も家では飲まないかな」
どこか舌足らずな結芽の言葉に、純寧は真顔で瞼を瞬かせた。
「そうなんですか? てっきり飲む機会が多いのかと思ってました」
タブレットを操作する手を止め、純寧は結芽を見つめた。
お店に入ってから、終始結芽がメニューを注文している。この場に不慣れな純寧はそれに甘え、初めての経験に驚きっぱなしだ。
そんな結芽も飲み慣れていない。
どこかトロンとした表情で、頬杖をつく結芽。
「ん~確かに仕事の付き合いではあるけど、こうしてプライベートで誰かと飲むのは初めてかな……」
考え込むように、結芽はジョッキに口をつけた。
倣って、純寧もジョッキに口をつける。
ほぼ同じタイミングで一息吐き、しばらく見つめ合う。
「フフ」
「ヘヘ」
ジョッキが空であることに、再び二人は笑い合った。
「結芽さんは何飲みますか?」
「ん~? ビール以外だったら何でもいいよ~」
椅子の背凭れに寄りかかる結芽を前に、純寧はタブレットを操作した。
(……ビール以外、そうなるとこの二つ? もしくはお酒じゃない方が……)
気分的に、お酒というものに興味が尽きない。
だからアルコール飲料のつもりだったが、結芽からは任された。
ちょっとした責任感を覚えるも、まだ結芽と一緒に楽しみたい。
「この、お茶のお酒って美味しいですかね?」
「ん~? ビールよりは飲みやすいと思うよぉ~」
どこか舌足らずの結芽だが、タブレットを見せると覗き込んでくる。
「あ~これもサワー系で飲みやすいと思うよ」
「サワー?」
「そうそう、炭酸がシュワシュワって感じ」
「シュワシュワ……」
ニヘラっと笑う結芽に、純寧の好奇心を擽ってくる。
お互いに一台のタブレットを覗き込んでいるが、顔の距離が近いことに気づいていない。
「もしくは私がお茶で、純寧ちゃんがサワーにする。それを飲み比べよ」
「え、良いんですか?」
「え~ダメ~?」
上機嫌に笑ってみせた結芽に、純寧は首を横に振った。
「そのその、こういったのも一つのマナーという事であれば」
動揺を隠せない純寧に、結芽は喉を震わせた。
「だ・か・ら、楽しく食べるのがマナーだよ」
「そう、ですか」
経験者である結芽がそういうのだ。
場に不慣れな純寧は、ただ頷くしかない。
「わかりました、お互いに飲み比べましょう」
そういって、純寧は二種類の飲み物を注文した。
どこからか軽快な音が鳴ると、奥から従業員の男性が野太く叫んだ。
「ッ!?」
あまりにも不意だったので、華奢な両肩を飛びあがらせる純寧。対して結芽は背凭れに寄りかかった大勢のまま動じない。
(な、なるほど……こういったお店なんですね……)
純寧は不安で店内を見回すも、他のお客さんは元からいない。
どこか落ち着かない純寧だったが、しばらくして注文した飲み物が運ばれてきた。
「結芽さん、飲み物きましたよ」
「ん? あ~はぁ~い」
まるで小躍りするような足取りの従業員にお辞儀をしながら、純寧はどこか半透明で底が黄色っぽい飲み物を受け取った。
(ビールと似た炭酸のようですが、まったく色が違いますね)
去り際も奇声を発する従業員をよそに、純寧は置かれたジョッキをただ見つめる。
「はいはい、とりあえず飲んでみる」
「わ、わかりました」
ジョッキを上空に掲げる結芽に倣い、純寧も両手で持ち上げた。
「乾杯ッ!」
「乾杯……」
結芽の高らかな音頭に、純寧も可能な限り声を張った。
後から込み上げてくる羞恥を誤魔化すように、純寧はジョッキに口をつける。
(これは……)
唇からの冷たさに続いて、炭酸の弾ける感覚が伝わってきた。それを口に含むと、じわっとレモンのような風味が鼻を抜けていく。
「ぷはぁ」
ビールと同様で初めての感覚だが、飲みやすさが違う。
一息吐いた純寧は、ジョッキが半分ほどないことに気づく。
「これ美味しいです!」
「フフ~こっちもどぉ~ぞ」
そういって、結芽も半分ほど飲み干していたジョッキを渡してきた。
交換するように、純寧の手元には茶色い液体が注がれた飲み物が回ってくる。
「はい、もう一回! 乾杯ッ!」
「か、乾杯ッ……」
さっきよりも声高らかな結芽の音頭に戸惑いながらも、純寧も負けじと声を張った。
ジョッキをお互いに鳴らし合い、勢いのままに飲んでいく。
「んんっ!」
「ぷはぁ~~!」
力強くジョッキをテーブルに置いた結芽に、何度目ともなる純寧は驚きを隠せない。
(何だろう。結芽さん、楽しそう……)
その姿に、純寧は頬を緩めてしまう。
どこかポカポカとした気持ちになりながら、お互いに空のジョッキを見つめ合う。
「純寧ちゃん! いい飲みっぷりだねッ!」
「その、美味しくて、つい……」
「なら飲も! 私もまだ飲みたいからさッ!」
テーブルの充電器に立てかけていたタブレットを手に、結芽は慣れた様子で操作をしていく。
「おつまみ……いや、まだあるからいいか」
「そうですね。まだほとんど手付かずです」
改めて、少し冷めてしまった料理たちを見つめる。
「ちなみに、結芽さんのおススメはどれですか?」
「おススメ? ん~どれもお手頃で美味しいけどぉ~」
悩む素振りで頭を左右に揺らし、閉じていた瞼をカッと見開く。
「飲んだ後のラーメンッ!」
「……えっと~」
語気を強めに宣言をしてみせた結芽だが、純寧は反応に困ってしまう。
さすがに料理の名前は知っているし、タブレットには写真もある。
だが、このテーブルには置かれていない。
それもそのはずで、注文をしていないからだ。
純寧がタブレットを操作した時に、一番におススメメニューが目に留まった。その次にセットメニューだったと記憶していて、メインはラーメンだ。
(……結芽さん、もしかして……)
結芽の様子に、純寧は小首を傾げてしまう。
ちょっとしたお酒の場に慣れず、誰かとの食事も初めて。
しかも結芽とはお客さんという関係で、二度しか会っていない。
ほぼ初対面に等しい間柄でありながら、勢いのままでここにいる。
どこか結芽の症状に不安を抱いていると、奥からテンションの高い従業員がジョッキを両手で運んできた。
「え、あの……」
テーブルの食器が軽く浮く勢いでジョッキが置かれ、奇声を発して奥へと下がっていく。
だから呼び止める間もなく、純寧はただただ唖然とさせられる。
「結芽さん、あのぉ~」
「ん~」
どうしたものかと結芽を頼ろうとしたが、椅子の背凭れに寄りかかり、今にも滑り落ちそうになっていた。
それに気づいて席を移動し、純寧は結芽の隣に座る。
「あの、結芽さん。飲み物が――」
「ん? あ~きたきたぁ~」
「えっ」
肩を揺らして結芽を起こすと、テーブルの惨状を目の当たりにしても陽気だった。
「あれ、いつの間に隣に移動したの?」
「あ、ついさっきですけど……本当に大丈夫ですか?」
「ん~だいじょーぶ、だいじょ~ぶ! ほら、純寧ちゃんも飲もうよ」
「え、ですから……」
止めに入ろうとする純寧だったが、結芽は気にせずジョッキを手にした。
それを勢いよく飲み、軽快に喉を鳴らしていく。
(結芽さん、普段からこんなに飲むの……)
ついさっき、外どころか家では飲まないと公言している。
だが、今しがたテーブルに置かれたジョッキの数がおかしい。
純寧が気に入ったサワーと、もう片方はお茶の二種類だが、合わせて十個ある。何かの間違いかと従業員を呼び止めようにも、声を張って呼ぶ勇気がなかった。
それどころか、奥で叫ぶ従業員の奇声にかき消されてしまうかもしれない。
念のためタブレットを手に、注文履歴を確認する。
(お店の方、間違って持ってきてますね。……この場合はどうすれば)
すぐに呼んで指摘をすればいいのだが、その内の一つを結芽が口をつけてしまった。
それでもまだ九個は残っている。
「あの、結芽さん。お店の方が間違って持ってきたみたいないですが……」
両手でジョッキを包み込むように持ち、結芽はクピクピと喉を鳴らしていた。
さっきよりもトロンと目じりを下げ、小首を傾げるように純寧を見つめる。
「ん~サービスじゃない? 純寧ちゃんが可愛いから」
「か、可愛いって……冗談言ってる場合じゃ――」
「純寧ちゃんは可愛いよ」
そういって結芽はケタケタと笑いだす。
(これは、その……)
結芽からの間髪入れない言葉を無視して、純寧は一人肩を落とした。
「それより飲も。あ~それともまだ食べる?」
「結芽さん、もうこれ以上は――」
「これ以上は?」
タブレットに手を伸ばそうとする結芽を制すると、凭れかかってくるように見あげてくる。
「これ以上は何っていうの?」
「えっと、あの……」
ほぼ密着する形で座っていることに純寧は気づく。
(……今の結芽さん、めっちゃカワイイッ!!)
焦点の定まらない結芽と見つめ合おうにも、フラフラと首も左右に揺れていた。しまいには拗ねた子供のように頬を膨らませ、無言で何かを訴えてくる。
この時点で純寧の中で確証が得られた。
「まだ手付かずの料理があるでしょ。残したらせっかく作ってくれた人に申し訳ないと思わないの」
あえて結芽の手からタブレットを取りあげず、幼子を宥めるように窘める。
わざとらしく頬を少し膨らませ、ジッと結芽を見つめた。
「……思います」
すると、結芽は首を小さく縦に振った。
それからタブレットを充電スタンドに戻し、シュンと肩をすぼめる。
(……気、悪くさせたかな)
純寧に背中を向けたまま動かない結芽に、どう声をかけようかと悩まされる。
「……飲む」
かと思えば、結芽はテーブルに置かれたままのジョッキを手にしていく。
「だから結芽さん、これは従業員の方が――」
「出されたモノは残さない」
「えっ、あ……はい」
いったい何に闘志を燃やすのか、結芽は頑なに譲ろうとしない。
結芽の隣に腰かけたまま、純寧は何一つ言い返せなかった。
「だから、純寧ちゃんも付き合って」
「が、頑張ります」
クピクピと飲み始める結芽を横目に、純寧も恐る恐るジョッキに口をつけた。
(これは止めるべきなんだよね……)
少しずつだが、結芽のジョッキから液体が減っていく。
どこか無理をしているような、眉間にシワを寄せている。
「あの、無理は……」
「枝豆」
行儀悪くテーブルに突っ伏し始めた結芽だったが、ノソノソと料理に手を伸ばしていく。
「あ~あ~手が……」
「これくらい平気だよ」
箸を持つことを諦めた結芽は、手が汚れることをいとわない。
素手で枝前を、次に茶色い衣の揚げ物を頬張っていく。
それを見て純寧は、おしぼりで結芽の手を拭いてあげる。
「もぉ、私はいいから純寧ちゃんも食べよ」
「あ、自分で、食べれますから……」
「はい、あ~ん」
自分で勧めておきながら、結芽は摘まんだ揚げ物を純寧の口元へと運んでいく。
それがあまりにも急だったことと、人目がなくとも羞恥が勝る。
そこで押し問答が始まるかと思いきや、結芽の手から転がり落ちてしまう。
「ふふ~美味しい?」
「……ふふ(おい)し(し)ー(い)です」
咄嗟に身体が動き、落下する揚げ物を大きな口で頬張った。
その様子を結芽は満足した表情を浮かべる。
「ねぇねぇ、次は何食べる?」
もごもごと口を動かしながら、次を勧めようとしてくる結芽を見つめる。
(これ以上飲ませるのはまずい……)
ジョッキはまだ半分も残っている。
だが、純寧自身もこれ以上は身体が受け付けない。
そんな身の危険を感じながら、上手く働かない思考を巡らせる。
「ん」
テーブルに置かれていた料理を前にした結芽だったが、急に背筋をピンとさせて動かなくなる。
何事かと不安を抱く純寧よそに、ゆっくりと後ろに倒れていく。
「……結芽さん?」
半ば純寧に凭れかかってきた結芽の顔を覗き込む。
「すぅすぅ」
「……寝てる」
規則的な寝息を小さく開いた口から零し、結芽は起きる気配がない。
(……これは、しばらく寝かせてあげよう)
純寧の肩に頭を乗せきた結芽を、起こさないように優しく撫でてあげる。
気づけば店内を流れる微かな音楽と、奥から従業員の野太く叫ぶ声。寝る場としては不適切だが、結芽は心地よさそうな寝顔。
(いつまでもみてられるな)
頬を微かに緩めながら、純寧は残りの料理をチビチビと摘まんでいく。
「……どうしてでしょうね」
密着するように眠る結芽に訪ねたわけでもない。
ただそれでも、お酒という力が内気な純寧の背中を押したのだろう。
「あの時、初めて結芽さんに声をかけられたのが不思議だったんです。ある日を境に私はあえて他人を避けるように生活をしてきて、それは今も変わっていません」
誰かに聞かせるわけでもない、純寧のちょっとした独り言。
「けど別に、誰これと嫌ってたわけじゃないです」
手にしたままのジョッキを、少しだけ強く包み込む。
「……本当、ちょっとした陰口を仲の良かった友人の口から聞いちゃったんです」
それを今でも思いだしてしまうのか、純寧の眉間にシワが寄っていく。
「学生の頃って何かと異性の目を気にしちゃうじゃないですか。特に姉や兄が学校では有名人で、その妹でもある私も注目の的でした。それは私の妹もで、まあ本当にできた姉や兄、妹に挟まれてるんです」
口では姉や兄、妹を立てつつも、どこか棘を含んだ言い回し。
「特別勉強や運動が得意というわけでもなく、芸術的な感性を持ち合わせたわけでもない私です。最初は姉や兄が笑われないよう、妹にとって自慢できる姉になろうと頑張ったんですよ」
一息吐くようにジョッキを傾け、静かにテーブルへと置く。
「ただそれは、無駄だったんです」
純寧の声音には抑揚もなければ、表情からは何も汲み取れない。
「両親の遺伝といえば聞こえがいいかもしれませんが、私にとっては争えないモノでした」
目を覚ますことのない結芽を横目に、純寧は続けた。
「異性に好かれることで同性からはよく思われず、それがしかも友人からもで、私が告白を断り続けることが状況を悪化させていきました」
「ん~」
まるでタイミングを見計らったような結芽の唸る返事。
それが嬉しかったのか、純寧も結芽に寄りかかる。
「……けどしかたなくないですか、誰とも知らない相手から告白されて付き合う。それが友人の好意を寄せる相手ともなれば、余計に断るというか……私にとって魅力を感じなかったんです」
それが狭い学校という社会の枠でもあれば、誰が誰を好きで、誰が誰と付き合っている。その逆で誰が誰を嫌い、別れたなんかという噂は広がるモノ。
それはネットが普及し始め、人目を憚ることなくやり取りされるようになっている。
だから表面上では仲良くとも、裏ではなんて言うことは少なくない。
「昔は裏掲示板? というものがあったらしいです。それに近い裏アカで、友人達が私の有りもしない噂や陰口を言い合っているのを知ってしまったんです。それも……」
純寧は一度言葉を区切ると、ゆっくりと瞼を閉じた。
それからしばらく黙り込む姿は、どこか覚悟を決めるような、思いだしたくもない記憶が呼び起こされたのか。
「『ウリをして異性に媚びてる』という噂の真相を知ろうとした同級生達に問い詰められ、偶然とはいえ私に用事があった姉にその場を助けられました」
店内の空調が故障しているわけでもなく、純寧は自身の身体を抱くように腕を回した。
「それもあって私は、あえて他人を避け続けているんです」
そんな純寧が、こうして誰かと一緒にいる。
しかも肩を貸して、抱き着くようにして寝かせているのだ。
「今の仕事を始めてから何とかお客さんとは接するようにしていますが、結芽さんは特別なんですかね……」
テーブルには注文した料理や飲み物が残ったまま。
だが、初めてのお酒に純寧の瞼も重くなっていく。
(……結芽さんが傍にいるなら、大丈夫だよね)
気づけば店内のBGMに、二人の微かな規則的な寝息が混じっていく。
それからどのくらい経っただろうか。
「ん!?」
「……結芽、さん」
急に肩の重みが無くなったかと思うと、結芽が立ちあがっていた。
何事かと純寧は目を擦り、自身も寝てしまっていたことに気づく。
「すみません、お会計を」
(あ、もうそんな……)
まだハッキリとしない意識の中、結芽が颯爽とレジへと歩いていく。その後を、遅れて奥から従業員が姿を見せた。
「結芽さん、半分……」
少しふらつく足取りで結芽に追いつくも、既に会計が済んでいる。
「あの、結芽……」
片言の日本語に元気よく見送られ、まだ暗い外へとでた。
(今、何時……)
店内の空調が効いていたから寒さを感じなかったが、外にでた瞬間に身震いしてしまう。
寝起きに近い純寧は一気に目が覚め、上着を羽織った。
「結芽さん、始発……」
スマホを鞄から取りだすと、路線によっては始発が動いている。
だが純寧は、自宅と職場が近かった。一駅くらいはと普段から歩き、あまり電車を利用する機会が少ない。
周囲からの視線というのもあり、人見知りをこじらせている。
(そういえば、結芽さんはどこに住んでるんだろう)
あくまで職場がこの辺という事だけで、住まいの最寄り駅は知らない。
出来る事なら送ってあげたいが、純寧が声をかける間もなく駅の方へと歩いていく。
「あの……」
一人取り残されてしまった純寧の手は、虚しくも未だ眠る街の空を切った。