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コース:お試しで癒されに来ませんか?


(デカッ)


 振り返った先にいたのは、結芽からすれば頭少し低い女性。けどその見た目は少女のように幼くもあるが、羽織っている上着の前が閉じられないほどに育つ豊満な胸の存在感。


 同性ながらも結芽の視線も、そこへと注がれていた。


 それに負けず劣らず、綺麗な金色のショートボブヘアーにインナーを朱色に染めあげている。他にもぱっちりとした大きな二重瞼に、カラーコンタクトでもしているのか綺麗な紫紺色の瞳。


 異性どころか同性ですら羨む魅力を兼ね備えながらも、結芽が疎かにしつつある化粧にだって余念がなかった。


 夜の繁華街というのも相まってか、意外と女性の存在は周囲から浮いていない。


「そ、その、今ってお時間、大丈夫ですか」


「え?」


「ご、ごめんなさい! い、忙しかったですよね!?」


「あ、いや、そういうわけじゃ」


 ただ、問題なのが一つ。


(うわ~これ、明らかに私が虐めてる風じゃん)


 コートの前が閉めれないから寒いのか、女性のおどおどとした震えた態度に、自信なさげの声音と口ぶり。勇気をだして声をかけたにしても、あまりにも人と話すことに適していなかった。


 何よりも、今にも泣きだしそうな表情で結芽の前にいる。


 結芽からすれば単純に女性からの要件を訊き返しただけで、深々と頭を下げてその場から立ち去ろうとしていく。


「ちょっと、人の話聞きなさいってば!」


 けど今は逆で、結芽がキャッチと思しき女性の腕を掴んでいた。


 いくら客引きとはいえ、相手に強要や騙すような勧誘はしてはいけない。


「は、はひぃ……」


「とりあえず場所を変えましょう。私に用があるんでしょ」


 先にヒステリック染みた声を発した女性で注目を浴びていたが、結芽も気づけば叫んでいたようだ。


 周囲からの訝しむような視線に、ひっそりと息を吐く。


(別に私もだけど、彼女も悪いことしたんじゃないだけどな……)


 ほんの一瞬とはいえ注がれた視線は霧散するも、結芽はどこか居たたまれない気分に陥らされる。


 いったんはその場を後にする形で、少し離れた自動販売機とコインパーキングの前に移動した。


「それで、お店の呼び込みでしょ」


「は、はい」


 普通のキャッチであれば無視すれば傍を離れていき、結芽も普段からそうしている。


 だからこうして脚どころか、わざわざ腕を掴んで呼び止めることすらしないのだ。


 そう、ちょっとした気の迷い。


「え、えっと、ですね」


「うん」


 いや、単純にこの女性に興味を抱いたのかもしれない。


 こうして二人っきり、改まれば話せそうな気がしていた。


 結芽は女性を急かすことなく、ラミネート加工されたA4サイズの紙に視線を落とす。


「わ、私、(おう)()純寧(あまね)といいます」


「あ、これはご親切に」


 ぺこりと頭を下げてくる純寧に、結芽も軽く釣られて倣う。


(この娘、大丈夫かな……)


 いくら客引きだからといって、わざわざ自己紹介までしてくれる丁寧さ。彼女なりの礼儀なのだろうが、初対面の相手からすれば驚きでしかない。


 仕事の関係上、結芽は先方に挨拶をする機会ではそうしている。


 そう教わったからだ。


 ただ、こうも繁華街の道端で客引き相手に一度も経験が無かった。


 顔をあげた純寧はどこか満足げで、さっきまでの泣きだしそうだった雰囲気はない。


「つかぬことをお伺いしますけど、お仕事の帰りでしたか?」


「ええ、世間一般では仕事納めの日が近いですからね」


「そうでしたか、お疲れさまです」


「あ、ありがとうございます」


 いったい何をしたいんだろうという疑問を呑みこみつつ、結芽は半目で純寧を見据える。


「もしかしなくてもないですけど、かなりお疲れのようでしたの声をかけた次第でして……マッサージとかって興味ありません?」


「マッサージですか」


「はい」


 スラスラと言葉を発し始めた純寧に対して、結芽は眉根を顰めた。


 確かに十二月に入ってからどころか連日働きづめで、休みらしい休みの記憶が無い。精々その日は長く寝れて、溜まった洗濯物を洗って、スーツをクリーニングにだすだけで終わる。


 趣味と恋人が仕事のように、結芽からすればそれが日常と化していた。


 いくら世間がリモートワークやコアタイム制度を取り入れたところで、働くという事実だけは変わらない。そうしなければ高騰し続ける食材や洗剤などを買うどころか、今住んでいるアパートすら追いだされてしまう。


 もしもの場合は実家という手もあるが、それでは仕事を変えないといけない。


 ここ最近では転職が当たり前になりつつも、結芽にはその気力すら湧いてこないでいた。


「マッサージって、ああいうのですか」


 結芽が指差す頭上には、夜の暗闇に煌々と輝く看板。見たところマッサージでも種類が違うのか、様々なキャッチフレーズが記載されている。


 もしかしたらと、結芽は頭の中で予想を立てていた。


「あ、いえ、ハンドテラピーです」


「……ハンドテラピー?」


 あまりにも耳慣れない単語だったため、結芽はオウム返しする形で首を傾げてしまった。


「その……ここでは寒いですし、良かったら、お店に来てみませんか……」


 さっきまでのハキハキとした調子は無くなり、急に自信なさげになっていく純寧。


 そんな浮き沈みの激しい純寧を前に、結芽はようやく得心がいく。


(そっか、それで声をかけられたんだった)


 あまりにも客引きとは違うから忘れていたが、純寧も同じだということを。


 ただ、マッサージとはあまり聞き慣れない。


 しかもハンドセラピーときた。


 容姿からは異性どころか、同性でも大丈夫なお店で働いていた方が人気もでそうなもの。


 だから結芽は脚を止め、純寧が発した言葉に耳を傾けたのだ。


「確かにデスクワークとかで身体は疲れてますし、興味がないわけじゃないですけど」


「けど?」


「なかなか行く機会というか、休みとなれば寝てばかりで家でダラダラしちゃうんですよね」


 こんなことを初対面の客引きに話したところで、どうでもいいかもしれない。


 純寧からすれば結芽は、声をかけて立ち止まってくれたお客さん。


 相手の事なんかよりも自分、もしくはお店のこと考える立場だ。


 けど――、


「あ~それわかります。私もダラダラとペットの癒され動画垂れ流しにしちゃいます」


 共感するように純寧は頷き、コートのポケットから一台のスマホを取りだした。


 誰もが無料でみられる動画サイトで、純寧がお気に入りで登録しているチャンネルだろう。画面越しに動き回る子犬や子猫は無邪気で、確かに眺めているだけ愛らしくて癒されそうだった。


 そんな純寧に、結芽は口もとに手を当てて笑う。


「あの、私どうすればいいですか」


「あっ! そのその、よければ、お店にどうでしょうか。わ、私が施術しますし、お、お値段も、少しだけお安くなりますから……」


 仕事のこととなると緊張してしまうのか、急に余所余所しくなっていく純寧。


 結芽からすれば純寧は年が近い筈なのに、何故か輝いてみえた。


(まあ、効果があるかわからないけどいっか)


 モジモジと顔を俯かせ、寒空の下で話しこみ過ぎたかもしれない。


「良ければ案内してくれますか」


「…………はい!」


 恐る恐るといった様子で顔をあげた純寧は、結芽の言葉を理解するまでに時間を置くと、嬉しそうな声音を発して笑みを浮かべた。


(なぁ~か、不思議な娘)


 そうと決まればお店に向かうだけなのだが、純寧は仕切りに辺りを見渡し始めた。それから手にしていたスマホを操作し、これでもかと画面を注視する。


「えっと~現在地がここだから……あっち? けど、こっちから来たような~」


「……大丈夫?」


「だ、大丈夫です!」


 どこか幸先に不安を抱きながらも、結芽は純寧の後ろをついて歩いた。


(そういえば、仕事終わりにどこか寄るのって初めてかも)


 ほぼ毎日を家と職場の往復ばかりで、辛うじて最寄り駅の近くで二十四時間開いているコンビニでご飯を買うくらいの生活。昼食も職場近くにあるお財布に優しいチェーン店で手軽に済ませるだけで、ゆっくりと辺りを散策したことがなかった。


 だから少しだけ新鮮な光景に映り、純寧には内心で申し訳なくも、お店につかなくてもいいかと思い始めていた。



「ここの四階です」


「え?」


 外で客引きをするだけあって、当たり前のようにお店は近かった。


 建ち並ぶ雑居ビル群の間を抜けると、正面には結芽が普段から使う最寄り駅。そこに横たわるように片側三車線の道路があり、様々な車のエンジン音が喧騒となって五月蠅い。


 それも慣れれば日常と化し、気にならなくなっていくもの。


 だから余計、結芽はお店の場所を疑ってしまった。


 駅へと向かう人が行きかう歩道に面して、曲がった先には一基のエレベーター。他のフロアには別の企業も入っているようで、マッサージをする環境なのかと疑問が過る。


 何より結芽は、純寧に声をかけれる今日までお店があることすら知らずに過ごして来た。


 意外というか、新発見をさせられた気持ちが勝る。


「普通のビルですよね」


「……そうですね」


 隣で不思議そうな顔をする純寧だったが、その時点でお互いの認識が異なる。


 結芽からすればありふれたビルでしかなく、純寧にとっては職場。


 逆に純寧からすれば、結芽がどんな場所を想像していたのかと疑問を抱く。


(癒し処【リリートリア】か。……確かにお店の名前っぽい)


 二人乗れば手狭に感じるエレベーターに乗り込み、目的の階を目指す。


「あ、ちょうど誰もいないみたいですね」


 先にエレベーターを降りた純寧は、外での声を潜めるように店内へと案内してくれる。


「へぇ~不思議な空間ですね」


 初めてのこともあって、忙しなく店内を見渡す結芽は感心してしまう。


 全体的にオフィスというよりも、落ち着ける空間を造るために手を加えられていた。


 各部屋をパーティションにはレンガ造りの壁紙を張り、天井からは人工的な蔦がぶら下がっている。どこからか水の流れる音や鳥のさえずりも聞こえてくるが、都心のオフィス内であることを考えるとあり得ない。明らかに癒しを与えようとしているチルいBGMが流している。


 それにどこからか、嗅ぎ慣れない良い匂いも漂っていた。


「こ、こちらで、お、お待ちください」


「はい」


 外観からして建物自体は広くなく、結芽が案内された一室も三畳あればいいくらい。カーテンで仕切られたスペースも三つほどで、大声で話さない限りさほど他人を気にしなくて良さそうだ。


 そういった配慮も兼ねた造りになっていた。


「とりあえず座ってればいいのかな」


 準備があるからと去っていた純寧だったが、口調からして緊張していた。だから結芽に詳しく説明する余裕もなかったのだろう。


 何より、ぼおっと立っているのも変だ。


 通されて目に留まった、二脚の椅子。


 片方は背凭れに肘掛けがあり、伸ばした脚を乗せられる、結芽の生活では無縁の代物。


 もう片方は背凭れもなければ、ありふれた丸椅子。多少の座る場所を変えるには持ち運びが便利そうだ。


 結芽は特に考えることもなく、背凭れのある椅子に腰かけようとした。


「あ、あの、お上着、お預かりします。お荷物は、こ、こちらのカゴに」


「あ、はい」


 急に後ろから声をかけられたものだから結芽は内心で驚くも、純寧の方がさっきまで以上に緊張の色を滲ませていた。


 純寧が両手に持った小さな籠はカタカタと微かに揺れ、どこか鼻息も荒い。


「だ、大丈夫ですか?」


「ひゃ、ひゃい。が、頑張りましゅ」


 露骨すぎるほどの上がりっぷりに、結芽はただただ不安でしかなかった。


 ハンドセラピーがどんなものなのかは知らないが、純寧の言動に不信感を抱かない者はいないだろう。


(……本当に店員さんなのかな?)


「こ、こちらにゆ、ゆっくりと、おかけください」


「……はい」


 先ほどまで羽織っていたコートを脱いだからか、結芽の視線は純寧の胸もとへといってしまう。


 着瘦せどころの話ではなく、コートの上からでもその存在感は確かだった。


 けど今は、それがさらに強調されるような双丘を描いている。


「ど、どうか、しましたか?」


「いえ、肩が凝りそうだなって」


「……はい?」


 脈絡もなければ、これから施術を受けるのは結芽の方だ。


 緊張の色を滲ませていた純寧だったが、その一瞬だけ瞳を丸くさせた。遅れて何かと気づけば、バツが悪そうな表情を浮かべる。照明の光量が絞られて薄暗かったが、それでもわかりやすいほどに頬を染めていた。


「た、確かにそうですけど、ふ、不便です、よ?」


「はぁ」


 険のある結芽の相槌に、純寧は両肩を窄めて項垂れてしまう。


「サイズはいつも通販で、高いのに可愛くないし、ショップで目にして、気に入った服が着れなくて、……学生の頃なんてだ、男子からの視線がき、嫌いでした……」


 結芽からすればある者の羨ましい悩みだが、純寧の声音や雰囲気といった節々から嫌悪感が汲み取れた。


「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」


「だ、大丈夫です。お陰で、多少の緊張が解けました」


 顔をあげた純寧の表情には笑顔があり、結芽は少し居たたまれなくなってしまう。


「ささ、座ってください」


「おおぉ!?」


 純寧に勧められるまま背凭れのある椅子の腰を下ろそうとしたが、どこまでも沈み込んでいくことに結芽は変な声を発してしまう。


「初めてこんな椅子に座りました」


「そ、そうでしたか」


 気づけば背中に手を添えてくれていた純寧と同じで、結芽は瞳を丸くさせていた。


「で、では、こちらに靴を脱いであ、脚を伸ばしてください」


 正直このまま両足を離していいのかと不安に思うほどに椅子は柔らかく、全体重を背凭れだけで支えられるのかと不安に思う。


 けどそれも、背中に手を添えてくれたままの純寧がいる。


 普段の生活では慣れない環境に緊張しつつ、結芽は靴を脱いで両脚をフットレスに伸ばした。


(うわ、なにこの体勢……すっごい楽)


 少し斜め上を見る体勢で肘掛けに腕を乗せると、軽い浮遊感を錯覚させられる。


「そ、それでは、始めさせて、もらいます」


「お願いします」


 緊張する純寧とは裏腹に、座っただけで蕩けたような声音を発する結芽。両脚を覆うように薄手の膝掛けを乗せられ、包み込むような温かさが爪先から伝わってくる。


「えっと、お客様は、ハンドセラピーが、初め――」


「結芽です、境乃結芽」


 改めて客引きの際に純寧がみせてきた、ラミネート加工されたA4サイズと一緒に渡された名刺。

それを思い出したように、結芽は純寧の言葉を遮るように名乗ってしまった。


(あれ、間……悪かったかも)


 ポカンとした表情で瞳を丸くさせる純寧に、惚けていた意識がハッキリとしていく。


「ゆ、結芽さんですね」


 だがそれは杞憂だったように、純寧は嬉しそうに頬を緩めた。


「私の方も純寧と呼んでください」


「あ、はい。純寧さん」


「では、改めて始めさせていただきますね。結芽さん」


 外で声をかけられてから、時折みせるオドオドとしない口ぶりと態度。


 それは単なる緊張からのモノかと勘違いさせられるが、人それぞれ違いはある。


 純寧の場合は、純粋な人見知りの性格からか。


 誰もが初対面の人間に対して気を使ったり、顔色を窺ったりとコミュニケーションにおいて建前、気を張るのが日常的になりつつある。


 そんな社会からの要求は高く、純寧は緊張状態にあった。


「それでこのハンドセラピーなんですけども、セロトニン・オキシトシンの研究から医療行為として普及しているんです」


 それもほんの少しのキッカケで、相手に心を開いてくれる。


「セロト……オキシト……?」


 聞き慣れない単語に眉根を寄せる結芽に、純寧ははにかみを浮かべる。


「セロトニン・オキシトシンです。もしくは幸せホルモンとも言います」


「幸せホルモン……」


 何もかもが結芽にとっては知らないことばかりで、ただただ困惑の色を隠せない。


 それでも純寧は気にしなかった。


「とま、業界的な言葉で説明されてもわからないと思います。なので、何も考えずに日ごろのお仕事での疲れや不満、将来に対するストレスなんかを聞かせてください」


「けどそれ、聞いてて辛くない?」


 生きている中で過去の後悔、将来への不安はふとした時に考えてしまうもの。過去をやり直すなんて現代社会の技術では不可能で、将来のことを考え始めてしまえば、あまりにも漠然とし過ぎて果てがない。


 結芽も高校を卒業、それを機に進学して上京した時は自信に溢れていた。


 だがそれも、気づけば借りているアパートと会社を行き来するだけの生活を送っている。


 大学の頃に知り合った友人達とも繋がっているのはSNSのみくらいで、社会人始めたての頃はちょくちょく連絡を取り合っていた。中には地元の高校で仲良かった友人達は結婚、子育てと結芽にとっては無縁に近い生活を送っている。


 何が起きるかわからない世界。いくら気心が知れているとはいえ、誰もが他人でしかないのだ。


 そう簡単に悩みを打ち明けられるものでもない。


「そういった、心の癒し処になれればと思ってます」


「……そっか」


 それを良しとするかのように、純寧の声音は優しく結芽の耳朶を打つ。


「左手、失礼しますね」


 半透明なボトルから粘性のある液体を両手で広げ、純寧は結芽の手に触れた。


(……ん? ……んっん!?)


 視覚的には触れているはずなのだが、そうとは思えないほどにソフト。むしろ触れていないのではと錯覚してしまう程にゆっくりで、そこから包み込むような温かさが広がっていく。


 不思議な感覚にとらわれながらも、結芽は全身をソファに預けていた。


「結芽さんは、小さなお子さんを抱っことかってしたことあります?」


「ない、ですかね」


 地方で会社員として勤める父と、子育てから解放されて社会復帰としてパートタイムで働く母の元に、一人っ子として生まれ育った。可もなく不可もない生活を送り、環境的にも近所の住人はほぼ家族に等しいほどの付き合いがあった。


 そこに結芽よりも年下の子、同じ小学校に通う子もいたが抱っこするほどでもない。


「じゃあじゃあ、犬や猫とかでもいいです。ただ触れ合ってるだけで癒されませんか?」


「ああ、それならわからなくもないです」


 通っていた高校の周辺に出没する、誰にも尻尾を振らない茶色のトラ模様をした太々しい猫を思い出してしまう。


 結局卒業までに触れるどころか、近づくこともできなかったが、時折その姿を目にできただけでも癒された。


「それと似た状況です。こうして誰かと触れ合うことで、セロトニン・オキシトシン――幸せホルモンが分泌されるんです」


「へぇ~」


 純寧の話半分、気づけば結芽の意識は微睡んでいた。


 日々の仕事から生じる疲れや、人付き合いからのストレス。いくらアパートから職場までが近いとはいえ、都心での主な移動手段は電車。時間帯によっては満員、週末の駅周辺は酔っ払いでどんちゃん騒ぎだ。


 それ以外にも、些細なことで脳は無意識にストレスを感じてしまう。


 それすらを純寧が受け入れ、許してくれるかのように解してくれる。


「お仕事でお疲れだと思いますから、眠ってもいいですからね」


「えっと……はい……」


 落ちそうになった瞼を開き、純寧の方へと視線を向ける。


 真剣な表情で結芽の左手を見つめていた。まるでそこだけの時が止まったかのような、ゆっくりとした動きで一本一本の指を丁寧に包み込み、優しく触れてくれる。


(何だろう、このフワフワした感覚……)


 全身から力が抜けていき、辛うじて背を預けているソファのお陰で姿勢を保てていた。


「なんだか嬉しそうですね」


「へぇ!? そ、そんなことはないですよ」


「そうですか? だったら見間違いかもですね」


「もしかして相当お疲れですか」


 純寧の口調にはどこか呆れが混じっていたが、結芽は微かに肩を上下させる。


「そうかもです」


「それはそれは、お疲れさまです」


 たったその一言に、結芽は短く息を吐いた。


(こんなにゆっくり過ごすの、いつ以来だろう……)


 寝て起きて一番に思いつくのは仕事のことばかり。常にメールのチェックは欠かせず、いつでも連絡が着くようにスマホは肌身離せない存在になっていた。


 捉え方からすれば依存にも等しいが、現代社会においては普通のこと……。


 けど今の結芽には、気にする余裕がない。


「どうです、初めてのハンドセラピーは」


「ふ、不思議な感覚です」


「そうですか」


 何気ない、どうとでもない会話。


 それすらも煩わしさを感じず、言葉を選んで気を遣う必要もない。


 結芽はいつまでもこの時間が続いてほしいという気持ちから、潮の満ち引きのように押し寄せてくる睡魔に耐えていた。


「次、右手を失礼しますね」


「……あ、はい」


 数拍遅れた結芽の返事はどこか間の抜けた、惚けた素の反応に近かった。


 結芽の左手を包み込んでいた純寧の温もりは遠ざかり、少しだけ寂しい気持ちが押し寄せてくる。


 だがそれも、純寧の動きを目で追っている間だけのこと。


 小さな丸椅子を手に純寧は、結芽の右側に移動して腰を落ち着けた。そのまま先ほどと同じようにアロマを伸ばした両の掌で右手を包み込む。ゆっくりと一本一本の指を先端から優しく触れていく。

それは視覚的な情報に過ぎず、結芽は目に見えない何かに包まれ続けていた。


「もし差し支えなければ、どんなお仕事をされてるか訊いてもいいですか?」


「えっと~簡単に言うと事務職ですかね」


「じゃあやっぱり、普段から食事とかは気を遣うんですか」


 少し驚いたような反応を示した純寧に、結芽はこてんと首を傾げた。


「……いえ、朝は食べなかったりも多いですよ。お昼は手早くチェーン店とか、コンビニが多いですかね」


「そ、そうなんですか。私の勝手なイメージだったですけど、正直驚きです」


「そんなに驚くことですかね」


 夜も遅くまで営業しているスーパーに立ち寄り、値引きされたお弁当や総菜を買うことが多い結芽の生活。


 にもかかわらず、純寧の興奮した様子は結芽を尊敬している節があった。


「……純寧さん。もしかしてですけど、私の仕事を勘違いしてません」


 さすがの違和感に気づかないほど、結芽の意識は落ちていなかった。


「ジム職ですよね? やっぱり、普段から鍛えて――」


「デスクワークの方です」


 結芽の間髪入れない指摘に、純寧は表情を変えず手だけを動かしていた。


 妙な間が訪れる中、結芽の包む右手から温もりだけが伝わってくる。


「ご、ごめんなさい! わ、私――」


「あ~大丈夫です。むしろ、勘違いされたことに驚いてますから」


 少しだけ手に力が籠ったのか、それすら痛みではなく心地よく感じられる。


 静かな店内だけあって、他に誰もいなかったと思えるほどに声のボリュームが高かった。結芽がこれまで接してきた短い時間では初で、驚きの反面愛らしく映った。


「ジム職って、どんなことするんだろ」


「ムキムキに鍛え続けるとか?」


 純寧を揶揄うつもりはなかったが、逆に結芽が興味を抱いてしまっていた。


 常日頃から己の肉体を鍛え抜き、もちろん食事にだって細心の注意を払って栄養バランスもしっかりしているのだろうか。


 それは結芽にとってはハードルどころか、二の足を踏んだところで別世界。


 現状で栄養バランスを気にしていない、ただの食事。美味さを気にするが価格や手軽さを求め、毎日のことだから目立った変化を求めるのは気が向いたら。大抵がパッと目についた品で済ませていた。


「って、こんな貧相な身体にジム要素あるようにみえます」


「もぉ~だからわざとじゃないですってば」


 ぷっくりと両頬を膨らませた純寧は、それすらも可愛らしく魅せる。


 最初はマッサージと聞いて、女性でも大丈夫。もしくはそういったコンセプトの、大人なお店だと勘違いしていた。それも純寧の幼さに不釣り合いな豊満な胸に目がいき、結芽の思考が勝手にそう定義づけたこと。


 実際にはハンドセラピーで、先に謝るのは結芽の方だった。


「純寧さんこそ、どうしてこのお仕事を?」


 だからちょっとした好奇心から、結芽は純寧に訊いてみることにした。


「わ、私ですか?」


 結芽からの質問が意外だったのか、純寧は少しだけ黙り込んだ。


(って、私も訊かれたら困るか……)


 数年前、大学卒業前の時期を思い返してしまう。


 単位は早い段階で取り終え、持て余した時間をバイトや就活に費やしていた。


 アルバイト自体は接客と、借りたアパート周辺で時給の良さだけで選んだ。働いてみれば店長を始めとした年齢的に上、結芽と同い年だが数か月だけ先輩は人が良かった。後から入ってきた同い年や年下にも同じように接してあげ、人付き合いの観点で言えば良好でしかなかった。


 だが、就活は甘くいかない連続ばかり。


 興味を持ったインターンシップには参加してみて、結芽自身が活かせる強みが何なのかと探り、どの職種にどの専門性が必要なのかと学んだ。その上で結芽にあった職種を見つけてはSEを送り、書類審査を通って筆記の末に面接を受けた。


 それでもほとんどが典型的に記された、簡素なお祈りメールが届くばかり。


 最初は何がダメだったのかと考え、同じく就活に勤しむ友人達とも夜な夜な議論を交わした。そこから生まれた人脈を辿り、一時的とはいえ交友とも同士が増えていった。


 それも今となっては希薄で、もしかしたら自分だけがグループに所属しているのではと錯覚してしまう。それを確認するのも面倒で、結芽自身もトーク一覧から削除してしまっている。


 だから改めて、純寧の問いかける反面で結芽自身にも訊ねる行為。


 あくまで純寧には、参考にさせてもらう為でしかなかった。


「一番はやっぱり、少しでも誰かに癒しを与えたいと思ったからですかね」


「……癒しを?」


 今度は結芽が目を丸くする番だった。


「私、誰かと話すのが苦手で、両親や姉、兄達からすればすごく落ちこぼれなんです。い、妹からはそんなことないって言われるんですけど、やっぱり自信がなくて……」


 さっきまで生き生きとして純寧の表情に翳りが差し、眉根を少しだけ寄せる。


「それでも本能って言うんですかね、誰かに尽くしたいっていう気持ちがあるんです」


「それが、癒しを与えるってことになったの?」


「……変、ですかね」


 結芽からすればお給料が良いとか、何となく興味を持っていたからという。どこか似た考えが、純寧の中にもあるものだと疑っていた。


 けどそれは予想の斜め上、両親を始めとした姉や兄達の家族に対する劣等感から来ている。どれだけ妹からの言葉とはいえ、純寧には慰めでしかないのか。負けん気根性ともいえる、一本の強い芯が通った志が感じ取れた。


「そんなことないと思う」


 だから余計、結芽には眩しく映った。


 決して慰めや励ましではなく、純粋な気持ちからソファの背凭れから離れていた。


「そう、ですか?」


「うん。すっごくいいと思う」


 揺れる紫紺色の瞳からは不安や疑念、身に染みた劣等感は拭いきれていない。


 それでも結芽は、純寧の事を真っすぐと見つめ返した。


「ふふ、ありがとうございます。……なんだか私の方が相談事に乗ってもらってるみたいですね」


「べ、別にそういった意図は……」


 フワッとした表情で微笑んだ純寧に、結芽はバツが悪そうにそっぽを向いてしまう。


(それじゃあ、私の性格が悪いみたいじゃん……)


 心のどこかで、純寧を下に見ようとしていた。


 けど逆に、バカバカしく思えるほどに比べられない。


 むしろ、比べることすら烏滸がましさがあった。


「ささ、あまり興奮しすぎるとダメですよ」


 気づけば純寧の顔が近くにあり、結芽は咄嗟に離れようとした。


 だが場所もソファの上で、両脚をフットレスに伸ばしている体勢。上手くバランスがとれるわけもなく、背中を純寧に支えられた。


 そのままゆっくりと背凭れへと誘われ、どこか高ぶっていた気持ちを落ち着ける。


「はい、全身の力を抜いてくださいね」


「……はい」


 純寧に優しい口調で言われるがまま、結芽は深く息を吸って吐く。


 しばらくの間結芽と純寧は口を開かず、その場には沈黙が訪れた。


(カッコ悪っ……)


 特に気まずく感じていた結芽は天井を見上げ、瞼を閉じて寝たふりをしていた。


 そのことに純寧は気づかず、結芽の右手をゆっくりと丹精を優しく包み込む。


 それだけで高ぶっていた結芽の気持ちは凪いでいき、フワフワとした感覚に内側から温かくなっていく。


「正直、いつまでもこんな生活でいいのかなって時々考えちゃいます」


「……そうですか」


 ぽつりと零した結芽の独り言に、純寧は静かに言葉を返す。


「両親には今でも色々と心配かけてると思うけど、私のやりたいようにって背中を押してもらって上京したんです」


「……はい」


「大学に入っていろんな人と知り合って、地元との違いに何度も驚かされるばかりで」


「そういうの、多いですよね」


「なんだかんだで上手くいってると思ってたんですけど、ご時世的なもので就職も厳しくて、何とか就けた仕事も微妙で、ただただ毎日を惰性に過ごしてる気がするんですよね」


「そんなことないですよ」


「ありますよ。……だって、あの時純寧さんに声をかけてもらえなかったら私、まったく同じ日を過ごしてたかもしれないですもん」


「それは……」


 少しだけ間を置く純寧に、結芽は黙って耳を傾ける。


「……別に、悪くない生き方かもしれませんよ?」


「っ!?」


 ゆっくりと瞼を開いた先には、変わらず純寧が座っている。


 けどその表情は真剣そのもので、決して結芽の事を傷つけようなどと思った様子はない。


 結芽の視線に気づいたのか、純寧は少しだけ顔をあげる。


「だって、今までもそれで頑張ってこれた。続けることができるくらい強い人です。大変だ、しんどいなって時は何度もあったと思います」


 入社の前日、忘れ物がないかと何度もチェックして就寝した。だけど当日になって電車の遅延、慣れない路線の乗り換えに手間取り遅刻。初日からやらかしたと思いつつも就業し、色々と仕事を教え込まれた。一年目は何かと覚える事ばかりで、生活のすべてがガラリと変わってあっという間に過ぎていった。


 それも二年目となれば多少の余裕ができ、先輩からの時折仕事を手伝ってほしいと頼まれることも増えていった。それが徐々に増え、気づけば数人ではあるが後輩もいる状況。


 仕事での付き合いはあるものの、振り返ってみれば名前程度しか知らないでいる。


 先輩としてどうなのかと、結芽は内心で自虐してしまう。


 そんな結芽のこれまでを知らない相手、今日が初対面の道端で偶然声をかけてきた純寧はバカにしない。


 むしろ――、


「けど諦めずに続けて、少しでも何か自分の力にさせてきたんじゃないんですか」


「……そうだと、いいな」


 励ますように、積み重ねてきた日々を肯定してくれる。


 微かに弧を描く口角に、無意識なのか傾げた小首で見上げられ、結芽は鼻を啜った。


「……良かったです。少しでも結芽さんの気が晴れたのなら」


「ホント凄いな、ハンドセラピーって」


「ええ、ですから時間いっぱい癒されてってくださいね」


 ずっとこの時間が続いてほしいと思いながら、結芽は純寧に笑い返していた。


「また、来てもいいですか?」


「はい、いつでもいらしてください」


 応えるように、純寧も笑顔を崩さなかった。



 さっきのような重い沈黙は結芽と純寧の間にはなく、しばらく経つ。


「では、こちらにお掛けください」


「……あ、はい」


 ハンドセラピーというだけあって、両手への施術が済めば終わりだと思ってしまう。


 丁寧に塗り広げられたアロマが純寧の手によって拭われていくのを、結芽はどこか寂しい気持ちで眺めていた。


 それでも純寧に『いつでもいらしてください』という言葉だけで、嬉しい気持ちでいっぱいだった。


 だが、まだ続くようだ。


 純寧に言われるがままソファから立ち、さっきまで脚を乗せていたフットレスに座るよう促される。


 そのまま回転させたソファの背凭れと向かい合わされ、結芽は困惑を隠せない。


「えっと、楽な姿勢で背凭れに寄りかかってください」


「ら、楽な姿勢?」


 と言われても、中々に不自然な格好。


 感覚的には背凭れを前に座るようなものかと思いつつ、額を頭部後ろ辺りに押しつけて両腕を前に回した。その際にリクライニング機能でつんのめってしまい、結芽は変な声を発しそうになってしまう。


「では、お背中失礼しますね」


 かなりの近い距離から純寧の声が耳朶を打ち、結芽の背筋をゾワゾワとした感覚が駆け抜けていく。


 それも束の間、さっきまで両脚を覆っていた膝掛けが背中の上に乗せられた。


「おっ、おおっ!?」


「……ど、どうかしましたか?」


「え、い、今、何かしました」


「……ただ結芽さんの背中に触れただけですが」


「そ、そうですか」


 純寧が声をかけてきた時とは違い、結芽の背中を不思議な感覚が広がっていく。膝掛けのせいもあって温かいのか、もしくは純寧の体温が高いのか、じんわりと見えない何かが包み込んでくれる。


 両手の時とはまた違った効果で、結芽の事を癒していく。


「もしかして背中、弱かったりしますか」


「そ、そういうのじゃないですけど……ふ、不思議な感覚です」


「ふ、不快に感じるのでしたら止め――」


「続けてください」


 間髪入れない結芽の申し出に、純寧は逡巡しつつも両手をゆっくりと動かしだす。


 結芽の首筋から肩甲骨へ、そのまま背中に沿って下へと降りていく。それが腰辺りまで達すると、上へと戻っていく。


 その動きは激しいものではなく、時間をかけて丁寧に。


(な、なんだこれッ……!?)


 さっきまで体勢が違いのもあって、結芽は目を白黒させていた。


 指先からの伝わってくる温かさは微かで、一息吐く小休憩のような感覚だった。


 だけど今は、これでもかと結芽の全身を。まるで後ろから純寧が抱きしめている、そんな錯覚してしまう程に包み込んでいく。瞼を閉じると純寧の両手がどこにあり、そこを中心に熱が広がっていくのを感覚的に捉えられる。


「どうですか、結芽さん」


「ふ、不思議な感覚です」


「そうですか」


 どうと訪ねられても、あくまで結芽の感覚でしかなかった。


 しかもそれが、言葉としてどう表現していいのか上手い言い回しが思いつかない。


 だからただただ、素直に思ったことを言葉にしていた。



 それから体感十数分、時間としては一時間が経とうとしていた。


「では、これで施術は以上となります。最後にお水やお茶、ジュースなど飲まれますか?」


「お、お願いします」


 色々とお店側で用意しているようだったが、純寧の説明をほぼ聞き流すように結芽は飲み物をお任せにしてもらった。


 背中への施術を終えて、結芽はソファの背凭れに身体を預けるように天井を見上げている。


「身体、軽ッ」


 純寧からもうすぐ一時間経ちますよと言われ、正直驚きを隠せなかった。何よりもマッサージと耳にして、本当に疲れがとれるのかと半信半疑でしかなかった。


 けど今となっては、全身がこれでもかと軽く感じる。


 頭の中もどこかスッキリと、快眠できた日の朝に近かった。


「こちら、ローズティーです」


「ローズ? ……バラ」


 あまりにもお洒落で、馴染みない単語に一度言葉を噛み砕いて変換させた。


 手渡されたガラスのグラスは、どこかタンブラーのような形をしていてお洒落で。中の液体も淡いピンク色と、数個の氷が浮いていて綺麗だ。


 カラン。


 すっぽりと結芽の掌に収まったグラスから、溶けた氷とがぶつかり合った音を奏でた。


「い、いただきます」


 恐る恐ると一口、結芽はグラスを少しだけ傾けた。


「あ、美味しい」


「私のおススメです」


 口の中に広がる、ハーブとはどこか似ているようでそうじゃない風味。冷たい液体が喉元を通り、胃の中に入っていくのですら鋭敏に感じられた。


 それくらい、脳がリフレッシュできている。


「あ、あの、今日は、どうでしたか?」


 気づけば、最初に声を開けてきたオドオドした雰囲気に変わっていた純寧。どこか落ち着きがなく指先を弄び、視線もあちこちと結芽を捉えていない。


(もう少し、自信もっていいと思うだけどな……)


 まるで人が変わったかのような、どこか可愛らしく思える純寧の姿。


「すっごくいい時間でした」


 結芽の言葉で勇気づけられるかわからないが、素直な気持ちを投げかけてあげた。


「も、もしよかったらじ、次回以降のご来店よ、予約を取りやすいようれ、連絡先の交換、してもらえませんか」


 みせられたQRコードは、結芽も使うトークアプリのモノ。


「あ、あ、お、お電話でも可能ですし、急な来店でもだ、大丈夫です。た、ただ、混み合った――」


「これでいいですか」


 手を伸ばせば届く距離にある荷物入れから鞄を掴み、脇のポケットにしまっているスマホを取りだした。後は手慣れた動作でパスコードを解除、数件の通知を知らせるトークアプリを起動させる。


 両親がスマホを手にして、使い方に悪戦苦闘している時とは状況が今は違う。


 ホーム画面から右上に並ぶアイコンの一つをタップ、そのままQRコードを読み込むモードに。それを純寧がみせている画面近くに移動させて、後は登録ボタンを押すだけ。


 結芽は構わず、登録ボタンを押してフレンドに純寧を追加した。


「えっと、どうかしました?」


 そんな結芽の流れるような一連の動作を、純寧はポカンとした表情をしていた。


(……名前、間違ってないよね?)


 ローマ字の小文字で【ayane ouma】と表示されている。


「あ、もしかしてお店のと間違えちゃいました」


 これではいかにも、純寧自身が個人的に連絡先を交換したことになる。


 それでは予約どころか、ただ単の友達登録でしかない。


「ま、間違ってないです。こちらから予約できます!」


「そ、そうですか」


 食い気味に声を張る純寧に戸惑いながらも、確認のためにと結芽は名前を打ち込んだ。すると一瞬で既読が付き、純寧も登録の確認ができたことを告げた。


「それじゃあ、また機会があれば」


「こ、こちらこそ、またいらしてください」


 改まった形でお互いに頭を下げ合い、結芽は会計を済ませてお店を後にした。


 結芽がエレベーターを降りると、肌を刺すような寒さが襲ってくる。さっきまで店内は空調が効いていたのもあって、自然と身を縮めてしまう。首もとを亀のように引っ込め、目と鼻の先にある駅へと向かった。


 外の喧騒は変わらず賑やかで、お酒の魔力にあてられたかのように陽気の人達が目立つ。


 純寧に声をかけられるまでは、どこか苛立ちを覚える光景でしかなかった。


 けど今の結芽には、気にならない。


 最寄り駅までの最短で到着するホームを目指し、出発を知らせるベルに歩調を速める。どうにか扉が閉まる前に乗れたが、既に座席は埋まって立つしかない。


 それすらも結芽にとっては些細な事。


「帰ったら仕事を済ませて。……まあ、休みがとれた実家にでも帰ってみようかな」


 正直実家に帰る事には乗り気ではなかった。


 ただちょっと、前向きに検討してもいいかなと思いつつあった。


 それもこれも癒し処【リリートリア】で、人生初のハンドセラピーを施術されたからなのか。


 もしくは、純寧との出逢いが変えたのか。


 もしかしたら、そのどちらもかもしれない。


 キッカケはどうあれ、結芽にとっては濃くて有意義な時間を過ごしたことは変わらなかった。

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