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1.異世界転生

■“異世界”

 ある世界の住民から見て、その他の世界を指して呼ぶ言葉。

 すべての世界はある一定の進化段階に至るまで世界間の相互観測、および交通を実現することはできず、その長い歴史期間においてこの単語は「フィクション」のものとして扱われる。

 進化不十分な世界の住民が異世界に移動することは極めて困難であり、多くの場合、より上位の進化を遂げた知性による干渉を原因として、個人の意思とは関係なく異世界に「漂着」することとなる。


■2020年台の連続失踪事件

 世界各地で、複数の青少年が突如行方不明となる事件が多発している。被害者に共通点はなく、一部の事例では監視カメラから突然消失する、事故現場から遺体が消えるなどの超常現象を伴っており、国際的に注目を集める事象となっている。

 宗教界やオカルト・陰謀論界隈からは特に関心が強く、日本など一部の国ではこの現象を神秘的状況と定義した新興宗教が発生する動きもみられている。

 靴箱の戸を閉める、金属質の衝突音により、卿太朗はようやく今日一日の存在を認識した。夕暮れ時の昇降口、借りた本を返すという名目で人の群れを避けることができた彼を取り巻くのは、遠く聞こえてくる吹奏楽部の練習と、ロータリーで騒ぐ素行不良の生徒たちの歓声と、いましがた打ちあがった野球部のヒット。目の前は翳る。数秒間の静止ののち、指先にぶら下がった靴を半ば放り投げるようにして帰路につこうとした。

 惰性で通う高校の日々は、あと一年半も残されていた。


 「狭主さす」、という珍しい苗字を持って生まれてきたことだけに存在のすべてを賭けてしまい、それ以外の特色と言える何もかもを失ってしまったと自覚する卿太朗、現在高校2年生の青年は、校門を過ぎるときには必ず独りだ。

 隣をまばらに追い越していく二人組、三人組の生徒たちを羨んだりはしない。生来こうやっている方が性に合う、と、今のところは自覚している。それでも、学校を離れてしばらく歩いた交差点に差し掛かると、どうしても自分の孤独を思い知らされてしまうのだ。


 曲がり角に存在する、既に錆びついて誰も目にしていないような掲示板に、この数か月間、ずっと同じ張り紙がぽつりと貼られている。バスや乗用車のエンジン音を背に、どうしてもその写真を見に来てしまうのだ。


 『行方不明者 情報求』


 友達と並んで満面の笑みを浮かべた、卿太朗と同い年の女子生徒。ついこの間まで同じクラスにいて、多少の親交があった。親交があったとは言え、それは双方向のまともな会話が成り立っているようなものではなく、物好きな彼女の社交性に大きく甘えていたようなものだった。

 行方をくらます前日、帰り際に交わした会話は、短いながらも印象的だ。ファンタジー小説を原作にした、外国映画の話題だった。次の週末にでも一緒に見に行こう、という初めての約束に心を躍らせていた矢先の、失踪。結局あの映画は見に行かないまま、上映は終了してしまった。


 振り向いた卿太朗の目に照り付ける、強烈な西日。夏は近く、少し汗ばんだ首元の不快感に顔をしかめながら、コンクリートを踏みしめるように掲示板の前を去る。無人の自宅に向かって歩き出す。きっと今日も同じように、机上に置かれた千円札だけが、狭主家のつながりだ。


 産業道路に揺れる歩道橋を無感想に過ぎ去って、路地を通り、誰かの庭先に飾られた植木鉢をふと眺める。足は止まらない。止める理由がない。国道に出ると、運悪く信号に引っかかった。赤信号が直視できないほどのまばゆい夕陽から目を背けて、一分にも満たない思索の時間。彼の中に現れてくるのは自省だけ。

 目を背けた先に、約束の映画館が見えている。約束の日から経過した日数を数え始めると、猛烈な倦怠感を覚えて、その場に座り込みたくなる。その喪失感には名前を付けたくなかった。自覚してしまえば、耐えられなくなるのではないかと思い、おそろしかった。


 信号が変わる。人が歩き出す。

 卿太朗も、少し遅れて歩き出した。


  夕陽を避けて、目線を下げて、

  反対車線に差し掛かったころ。


   足元の凹凸が、ふと気にかかる。

   アスファルトの隙間のくらやみ。


   その場に立ち止まる。

   風が強く吹き付ける。


   暗闇の奥に、何かが――






  転がる、身体。

  動かない、身体。

  大きなトラックの車体と、

  バンパーのぎらりとした陰と、

  ようやく理解した、片目だけの風景。




   アスファルトの隙間には、




 交差点から、跡形もなく、高校生が消えた。

 急停止したトラックの運転手は気絶したまま。

 周りの人間たちがざわつき始める。


 夕暮れはようやく、地平線に沈んでいった。






------------------------------------------


 卿太朗は強い衝撃を感じ取り、意識を取り戻した。

 目が開かない。音は辛うじて、衣擦れのようなものを聞き取れている。

 痛み、身体の淵ともいうべき、皮膚表面ではないどこかに痛みを感じている。どこが痛むのか、なぜ痛むのか、とにかくわからないまま起き上がろうとする。地面が柔らかい。土のようにも、ゼリーのようにも感じる。掴めば粒となり、押せば波打つようだ。

 冷たい。目を開いて外を確認したい。ここはどこなのか?自分は何をしているのか?

 意識だけがはっきりしている。記憶は徐々に、靄を晴らすように息を吹き返してきた。交差点だ。家にたどり着く直前の、交差点。大きな車両との接触。あの瞬間自分が道路の真ん中に立っていた理由は定かではない。とにかく、ここが超自然的な、おそらく人間が生きている間に到達することはないような場所であろうことを、即座に悟った。


 そして、自分はいま、得体の知れない感触の中を、真っ逆さまに落ちていることを理解した。落ちている。底の見えない穴の中、目が開かないのではなく、何も見えない場所の中を落下しているのだと立て続けに理解した。しかし、不思議と恐怖はない。安らかだ。臨死という概念を超えたところにいるのは間違いない。そこには大河の猶予も、審判の人影もなかった。脱落者はただ、文字通りに落とされるだけだった。


 突如、二度目の衝撃が彼を襲った。いつの間にか閉じていた目を見開くと、そこは草原のような場所。葉の一枚一枚が淡く白い光を放つ、平坦な草原。空は依然、黒一色。ここが最下層なのか、と起き上がると、どこまでも続くのっぺりとした風景がよく見えた。彼のほかには誰もいない。

 これが冥界?ずいぶんと寂しいところだ。

 何の指示もなく、他者もなく、突然夜中の草原に放り出されることが「死」という出来事であるならば、元の世界で過ぎた時間の終わりとしては何とも呆気ない。心の中でそう感じ取ったのか、きっとまだ何かあるはずだ、と楽観していた。宛てのない散歩に旅立とうとしたところで、ようやく卿太朗は異変に気が付く。右足が固定されている。

 草が絡みついているのだ。不自然に、ぐにゃりと伸びて脚を覆ってゆく植物の様子に、死人には似つかわしくない本能で強烈な恐怖を感じた。なんとか足を振って抜け出そうとするも、植物は止まらない。もう足首から先は見えない。呼吸を乱しながら、地面に転げながら必死に振り払おうとする彼の耳が、異音を捉えた。

 巨大な機械が起動するときに、その鋼鉄のパーツが錆を引きずるような低音。想像もできないような、圧倒的な力を持った捕食者が獲物を前にしたときに鳴らす喉の音。どのようにも形容できる。おそるおそる顔を上げた卿太朗の頭上に出現した球体が、その異音の発生源だった。

 ぐるん、と回転する表皮の向こうから、同心円状の模様。球体表面に空いた穴。

 「眼」だ、と思った。何か人知を超えた存在の視覚が、この矮小な人間の死者を見つめている。自分は観察されているのだ。見られるだけで、意識が圧迫されるようだ。これが、人々が地上で「神」などと呼んでいたものなのか?

 これがよく語られる、死後の審判者の正体なのか?

 いや、違う。いまの自分にはわかる。


「や、やめ――――」


 口をついて出てきた声。

 何かが自分の中に入ってくる。何かが「眼」に吸われていく。

 体の中を直接掻き回されているかのようだ。

 知りえないことを知っている。

 「眼」が多くを教えてくれる。

 ただ事実だけが流入し、吐き気を催す。

 耳を塞いでも声が聞こえる。

 脚を覆った植物が胸まで迫っている。

 喉の奥に空気が詰まって抜けない。

 目を閉じるどころか、その「眼」から背けることができなくなった。


 この存在が連れていく場所に、想像していたような死後の世界はない。

 この存在は、悪意や善意どころか感情も持たない、ただのシステム。

 何かの意思に従って、この存在はここに巣食っていたのだ。


 「眼」が接近する。


 「眼」が接近する。


 「眼」が接近する。


 もう、すぐそこに。




 それが「眼」だとわからないほど、天から降ってきた穴のように。






 飛び起きる。悪夢を見た翌朝のように、息を切らしている。

 少し冷たく固い寝床――ではなく、そこは岩の上。周囲は森。仰向けに倒れた彼の上を、鳥のようなシルエットが旋回している。その向こうで、少し日が傾いたような色をした空。薄く亀裂のように筋を広げる、雲と思しきもの。亀裂の節々に瞬く星。

 身体に異変はない。起き上がろうと思えば起き上がれるし、そのまま歩き回ることもできる。あまりにも唐突な回復に、そして、まだ半分夢を見ているかのような風景に、戸惑いを隠せない。

「……何だったんだ?」

 まだ、記憶の最前列に「眼」のことが居座っている。あの場所にいたときは頭から溢れるほどの物事を知っていたような気がしたが、いまはもうあやふやになってしまった。状況からして、あの存在が自分をここに連れてきたとみるのが自然だろう。

 しかし、それと思しき存在はどこにもいない。自分が寝かされていた岩にも文様なんかが彫られていることはなく、ここが神殿か何かであるようにも見えない。本当に偶然、ここに落とされただけなのかもしれない。


 あてもなく、森の中を歩き出す。生まれて以来都会で暮らしてきて、まともに自然に触れるような生活をしてこなかった卿太朗にとって、その風景は映画や絵画の中の存在そのものだった。歩いているうちに頭が冴えてきて、徐々に不安が大きくなってきた。

 森というもののイメージに引きずられているが、もしかすると熊のような獰猛なヤツに遭遇するかもしれない。そうなったとき、自分は生き延びられる自信がない。

 先ほどから、生前――便宜上そのように呼ぶしかない――と同じように歩けば疲れ、少しずつ喉が渇き始めている。つまり、自分はまだ生物としての活動を続けており、生存のためには食事や水の確保が必要ということだ。生憎、森のなか、ひとりで生きていけるような知恵はつけていない。まだ明るいからいいが、夜になったらどうなる?


 そんな危険予測に満ちた精神にトドメを刺すかのような事実に、思わず足を止めた。砕けた倒木を見つけたのだ。伐られたのでもなく、寿命で倒れたのでもなく、踏みつけて砕かれたかのように損壊した倒木だ。それも、一本や二本ではない。獣道のように、左から右へそんなものが落ちている。

 何かがここを通過したらしい。樹木を蹴り倒し、踏みつけて突き進むような生物が。


 身体の芯が冷えていく。この世界に安全な場所がある保証はないが、とにかくどこかへ移動しなくてはならないと感じた。時間帯を掴もうと上空を見上げると、まだ明るい空に網目状の雲が見えている。

 違和感。

 網目状のものは半透明ながら、雲にしては輪郭がはっきりしている。それに、先ほどから全く動いていないように見える。どんなに上空が無風だとしても、あんなにも複雑な文様はとっくに崩れていてもおかしくないだろうに。

 そうして上空を見つめているうち、もうひとつの違和感に気づく。

 太陽が、どこにも見当たらないのだ。


 太陽はいま、かなり地平線に近いところにあって、いまは朝方か夕方か、そんな時間帯なのだろうか。それにしては明るいし、光が一方から浴びせられているような影は見えない。


 どうなっているんだ?

 一体何度目だろう。疑問があふれて止まらない。


 歩きながら考えよう、と、来た道をいったん戻ろうとしたとき、彼は既に手遅れとなっていたことを知った。獣の姿が見える。木と草の陰から、黒い体毛と黄色い目。不気味なほど静かに、唸り声の一つも上げず、二匹、三匹、四匹と現れる。目測でおよそ十歩の間合いを保ちながら、テレビで聞きかじった程度の知識で後退り。声を上げたくなる衝動を片手で必死に抑え、過剰に深くなった呼吸を制して、どの牙が最初に自分に突き立てられるのか、自動的に考えてしまう自分を呪った。

 咳のような呼気の音が、自分自身をどんどん焦らせる。片手で背後の障害物を探りつつ、余裕綽綽という風で歩み寄る獣たちから離れようと努める。あのおそろしい「獣道」を越え、また森の中に入りそうだ。敵は慎重に機会をうかがっているらしい。きっと、視界が制限される森の中に入った瞬間、素早く取り囲んで殺すつもりだ。

 意図ではないにしろ、交差点の事故で失いかけた命を再び失ってしまいそうだ。今度は一瞬でも、不意の一撃でもない。考えれば考えるだけ恐ろしくなる。そうして制御が利かないままの精神が、敵の唸り声に呼応して叫びを上げそうになった時。


「止まって、そのまま」


 人の声が聞こえた。少女の声だ。目線だけを横にずらすと、背後の木陰に何者かの姿が見えた。震える足を止め、目線は獣から外さない。次の指示はすぐに与えられた。


「あと三歩、ゆっくり下がって。助けてあげる」


 いまは彼女の素性などどうでもいい。従わなければ目の前の敵に食い殺されるだけだ。一歩、二歩と、土を踏み込む。次の足を出そうとした瞬間、敵はこちらへ飛び掛かってきた。間合いを一瞬にして飛び越え、牙を突き立てんとするその姿に目を閉じる。

 風を切る音がした。


 獣の首元、側面を迸る鮮血。飾り気のない短刀が毛皮を裂き、敵は空中で身をよじる。体側を地に打った敵と入れ替わるように、別の個体がジグザグに駆け出す。少女は脇腹を狙う突進を側転して回避すると、短刀を投げつける。

 速い。彼女の姿を一点に捉えることができないほどだ。恐るべき運動能力と瞬発力を見せつけながら、残る二匹を挑発する。

 武器を持たない彼女との間合いを蹴り潰す、ぎらぎらとした捕食者の目。屈むように回避した彼女の背後に、もう一人の少女が弓を構えていた。ひゅん、と甲高い笛のような音とともに、獣は口内を穿たれて地に倒れる。最後の一匹は不利を悟って、素早くその場を離れていく。弓使いの少女はすかさず矢を引き出し、既に草葉の陰に隠れつつある背中を、容赦なく射貫いて見せた。

 森に、静寂が戻る。ほんのわずかな時間の出来事だった。

「大丈夫?立てる?」

 短刀を拾い上げた少女が、ぱたぱたと小走りで近づいてくる。腰を打ったようでうまく起き上がれない卿太朗を、手引きして起こした。

「……あ、ありがと……」

 先ほどまで弓を構えていた少女も、少し遅れて歩み寄ってきた。

 視線は彼女たちの頭部に留まる。ぴょこぴょこと耳が動いているのだ。人間の耳ではなく、ネコ科のそれに近い。彼女たちの大きな目に開いた瞳孔はアーモンド形に近く、手指は微妙に人間のものとは異なっているように見える。おそらく一般的な人間よりも指が少しだけ短く、代わりに発達しかけの褐色の爪がついている。

「ここは危険……“モンスター”の獣道が、まだ新しい……」

「そうだね。急でごめんだけど、お兄さんも一緒に帰ろ!」

 おとなしい弓使いと、社交的な短刀使いに手を引かれて、急ぎ足でその場を離れることにした。仕留めた獣の骸は、二人が袋に回収して持ち上げた。




 短刀使いは、「スィル」と名乗った。彼女の紹介により、弓使いの名前は「ウィカ」と知った。彼女らの容姿を不思議がるこちらの様子に違和感や疑念など抱かず、ただ森の中を足早に進んでいく。脚力の差が現れ、距離を埋めるために会話では声を張っている。なおも、この場に留まることは許されないようだ。

「お兄さん、転生者の人でしょ?」

「なんだって?」

「てんせいしゃ!別の世界から来たんだよね!」

「――なんでそんなことを!?」

「最近たくさん来るんだって!長老さんが教えてくれた!」


 いきなり、少し先を走っていたスィルが足を止めた。息を切らす卿太朗のことは意に介さない様子で、下り坂の向こうを指さしている。

「見えたよ。あの村まで行けば、とりあえず安心!」

 山林の中、わずかに見える人工的な構造物。スィルはそのまま坂道を駆け下りていく。

「……ここ、かなり傾く。怖くない?」

 ウィカは無表情ながらも少し気遣ってくれている。あぁ、うん、と曖昧な返事をすると、彼女もそのまま坂道を下って行った。坂道は確かに傾斜がきつい。転げ落ちるほどではないが、転んだらタダでは済まなさそうだ。

 慎重に、しかし急ぎ足で二人に追いつこうと駆け下りる彼の行く先は、簡易的に舗装された道路になっていた。大小ばらばらの石を埋め込んで作った、まるで子供が見様見真似で街道を真似たかのような足元。表面は多少削られていて足を取られることはなかったし、ここまでの土を蹴る道程よりは歩きやすくなった。

 集落のはずれには、簡素な柵と家畜が見える。初めて出会う生物だ。牛とも、羊とも、豚やラマなんかとも違う。体高が人間の背丈ほどもある四足歩行生物。真っ黒な体毛に覆われた体に、小さな角のついた控えめな頭。ピンク色の口を大きく開けて、あくびをしている。

 畜産従業者と思われる住民が、窓からこちらを見ていた。軽く会釈して目線をそらす。前方、集落の中心部から甕を持って歩いてくる子供の頭を、スィルが通りすがりに撫でている。集落は想像していたよりも広く、住民はかなり多い。老年から子供まで、皆ゆったりとした雰囲気で暮らしている。頭上は木々の枝葉が覆い、優しい木漏れ日が地を照らしていた。


 十字路の交わる広場を抜けた先、ぽつりと突き当りに建てられた家屋の前について、軒先のベルを打ち鳴らす。

「長老さんがね、転生者さんはみんな自分のお客様だから、必ず会わせて、って言ってたの」

「長老さん――ここに住んでるの?」

 長老と呼ばれるからには、この集落の統治者なのだろうが、それには到底見合わないような家だ。木の板を並べて作った壁、丸く縁取った窓、かやぶきのような屋根。象形文字のようなものが描かれた扉を押し開けて、背の高い人影が姿を現した。

「長老さん!転生者さん連れてきたよ!」


 “長老”という言葉から思い起こされた人物のイメージとは違う。

 右目を隠した長くしなやかな白髪。そこからのぞく実在感がないほどに美しく整った顔立ちは、それだけで性別を判定する材料にはなりえない。

「ようこそ、よくここまで辿り着いてくださいましたね」

 柔らかな微笑み、中性的ながらも低く落ち着いた声。卿太朗が体を強張らせながら短く返答すると、彼を連れてきた二人の方にも向き直った。小さな彼女たちの目線に合わせ、腰を折って二人の頭に手を伸べる。

「おかえりなさい、スィル、ウィカ。お客さまをお連れしてくれてありがとう」

 ふわり、と額を撫でる彼――あるいは彼女――に、満足そうに笑顔を浮かべるふたり。二人の狩人は卿太朗に手を振り、どこかに歩き去っていった。

「では、あなたはどうぞ中へ。少しだけ、お話しましょう」






「改めまして、ようこそ。私の名はグウィディオン。この集落の長老……と、呼ばれています」

「狭主、卿太朗です。えっと……」

 本棚が壁を成す部屋。不思議な光がちらつくランタンの光。テーブル上には紅茶のような温かい飲み物が湯気を立てている。何を続けたらよいものか、と思案して黙り込む卿太朗の様子を見て、グウィディオンは口にしたカップを下ろし、話を切り出した。

「まだ混乱されているかと思います。転生してくる方は皆そうです。突然日常から切り離され、見ず知らずの土地に突き落とされる……」

 憂うように目を伏せる彼。心なしか、声のトーンが落ちているようにも感じる。

「……あの、さっき僕を助けてくれた人、僕が別の世界から来たってことを知っていたのですが、それは――」

「私が教えたことです。この世界の外側には無限に広い場所があって、そこには無数の世界が浮かんでいる。そこから、あなたのように、この世界へと落ちてくる人がいるのです。私たちの集落は、そうした転生者の皆さんを可能な限り保護し、『この地』で生きていくための支援をしているのです」

「支援?」

「たとえば、一時的な拠点を貸与したり、食べ物や水を供給したり、『この地』における世界の特徴を教えたり、といったことをしています。これは、あとで落ち着いたころに、あなたにもさせていただければと」

「……助かります、ぜひ、よろしくお願いします」

 部屋の隅に置かれた、いくつかの机が目につく。きっと、学校の机のような役割なのだろう。

「今日はまだ知識を入れるべき時ではありませんし、落ち着くまでは何日か待ちましょう。いまのうちに聞いておきたいことがあればお聞きしますが、いかがでしょうか?」

「え、っと」

 問いは喉まで出てきている。ただ、それを言い出すことには躊躇した。目線を上げると、グウィディオンは優しい目で返答を待っていた。数秒の間を置いて、話し始めた。

「いくつか、いいですか」

「もちろん」

 聞くには躊躇する内容を一旦置いて、もうひとつ思いついた質問を先に挙げてみることにした。


「ここに来るとき、だと思いますが、大きな『眼』を見ました。そいつが近づいてきて、僕は動けなくて、それで……ここに……」

「……」

 思い出すだけで、声が震えた。瞬きをするだけでも、暗闇に浮かぶ「眼」の姿が浮かび上がる。手のひらに汗をかき始めた卿太朗に、彼は告げた。

「それはきっと、あなたを『この地』に引き込んだ存在でしょう。我々の間でもよく知られている、外世界を観測する上位存在です」

「上位存在……?」

「そうですね、神様のようなものとお考え下さい。あの『眼』は、外部の存在を見つけるだけではなく、見ることでその情報を読み取り、吸い出してしまうのです。何かの意思により、『眼』が必要と思えば、こうして異世界から人間を呼び出すこともある、ということですね」

「つまり、僕はこの世界の神様に呼ばれて……?」

「――はい、何らかの意図があってのこと、でしょう」

 目的がわからない。神様が自分を見つけて、元の世界から自分を引き込んで、一体ここで何をさせようというのだろうか?


「ほかに、聞いておきたいことはありますか」

「……あの」

 息を呑む。


「僕は、元の世界に帰れるんでしょうか」


 グウィディオンは、答えに窮しているようだった。

「それは――」


「帰る方法はない。諦めろ」

 横から口を挟んできた、鋭い声。驚きながら目をやると、ドア枠に背を預けるような姿勢の、少し背の低い青年がいた。冷ややかな表情で歩み寄ってくる。グウィディオンの表情に緊張が見える。

「ダイラン、いまは――」

「包み隠すことも、回りくどく諭すことも、後の傷を増やすだけだ。それともグウィディオン、前と同じように、彼も生き残れないと言いたいのか?」

「それは……っ」

 ダイラン、と呼ばれた目つきの悪い青年は、卿太朗の顔を覗き込むように距離を詰めた。冷汗が頬を伝うのがわかる。

「卿太朗、と言ったな。新入り」

「は、はい」

「元の世界への帰還方法は、少なくともここにはない。『この地』を隅々まで見て回れば一つくらい見つかるかもしれないが、期待するな」

 彼はそう断言しながら、グウィディオンの側に立つ。先ほどまで柔和な顔をしていた長老も、悲しげな顔で俯いている。

「俺の名はダイラン。お前と同じ転生者で、ここに落ちてから大分経った。必要があれば手を貸す」

 彼はグウィディオンに何かを手渡しながら、また壁際に立つ。ここから先の会話は、彼もそこで聞いているつもりらしい。

「……彼は見ての通り厳しい人ですが、でも、決して悪い人ではありませんので。何かあれば応えてくれるはずです。たぶん……」

 ダイランは何も反論しなかった。


 グウィディオンは、手渡された小さな包みを開き始める。小ぶりな宝石のついたペンダントのようだ。ランタンの光を反射して、赤や青、ほかのあらゆる色に瞬いている。

「これは、いまのあなたに必要なものです。詳しくは追って説明しますが、『この地』では多くの生物が、特別な力を持っているのです。この石は、あなたに宿った素質を見極めてくれます」

 手渡されたペンダントは、見た目以上に重い。

「少し不便かもしれませんが、この数日間は、それを首にかけて生活してください。あなたの中を流れる“力”に反応して、その情報を蓄積していきます。明後日の夜には、きっと結果が出てくることでしょう」

「わかりました、えっと、これ……」

 ペンダントなど、卿太朗は生まれてこの方着けたことがない。金属部品の継ぎ目があることはわかったが、どうしたものかとまごついていると、それを察して、グウィディオンが席を立った。

 首元にチェーンが触れ、冷やりとした感触が皮膚に広がる。同時に、首の後ろに触れる彼の手。とても温かい手だ。人の体温というよりも、日だまりの心地よさに似ている。そして同時に、何か心地のよい匂いが漂う。香水のようでも、ハーブのようでもない、もっと自然に由来した何か。森林の命を例えたようなその香りに包まれ、不意に体が強張る。仕上げに石の位置を整えて、グウィディオンは小さく頷いた。

「不便をかけてすみませんが、あなたの安全のためでもあります。どうか、これを外さないように」

「は……はい……」




 その日はそのまま、部屋で休むように勧められた。

 「この地」における自分の部屋。素朴で暖かみのある木造家屋は、グウィディオンの家のすぐ近くに設けられていた。大きめのベッドがひとつ、テーブルと椅子、いくらかの書籍が入った本棚、簡易的な調理場、水回り。意外にも水道設備はしっかりと整備されていて、元の世界には劣るが、問題なく使用できそうな状態になっていた。この世界に入ってきてからの文明レベルは、おおよそ中世ヨーロッパをモチーフにした、いわゆる「異世界ファンタジー」の範疇に収まるものかと考えていたが、卿太朗の読みは若干外れていたようだ。あるいは、自分よりも前にやってきたという「転生者」たちが、これらの技術を供与していったのだろうか?


 白いベッドの上に寝転がると、激動の一日が思い返される。

 トラック事故、恐ろしい「眼」との遭遇、獣の追跡から集落に至るまでの出来事――あまりにもたくさんのことがありすぎた。それだけに、先ほどダイランから与えられた残酷な事実も、どこか他人事のように感じられていた。


 元の世界に帰ることは、諦めろ。


 じわじわと、その言葉の重さが染みてきた。こんな時になって思い返される、学校や家庭の姿。想定することもできないような出来事によって、突然奪われて戻らない日常。あまりにも現実離れしすぎた事柄の前に、やはり頭の整理がついていないかもしれない。ここに来るまでに本気で命を危機も経験した。知らない物事だらけの世界で、なぜかすんなりと受け入れられて、自分はこの場所にひとりで住み始めている。

 それを自覚すると、急に自分の状態が奇妙だと実感できてきた。

 そのまま何か考えていたかったが、ほんの少し目を閉じたあと、既に窓の外は明るくなってきていた。


■サラウンダー・ファング Surrounder Fang

 オオカミ型、中位知能社会生物。

 森林に中規模のコミュニティを形成して生息する肉食獣。比較的小型であるため伸びた草の陰や樹木の裏側に身を隠しやすく、奇襲攻撃による狩りを得意とする。一般に三匹から四匹程度の群れを形成し、捕らえた獲物はそのまま群れの内だけで一部を食べ、残りを分割して巣穴に持ち帰る。

 頭部前方に向いた目は大きく発達しており、視覚を頼りに周囲の状況をよく理解する。非常に憶病な性格で、一度自分の位置を獲物に悟られると襲撃までに長時間の吟味を要する。たとえば吟味中に獲物が駆けて逃げ出したり、想定外の動きを見せたりすると、混乱して不用意に襲い掛かってしまうこともある。このような興奮状態では極端に視野が狭く、近距離の物体に対して過剰に焦点を合わせてしまう。

 非常に画像記憶能力に優れていることから、群れの仲間を攻撃した相手を瞬間的に覚え、長いときには数十日もの間復讐のために動き回る。復讐者となった個体は鳴き声によるコミュニケーションで巣穴の仲間を募り、より大きな部隊を形成して対象の殺害に執着する。そのため、特にこの生物が多く生息する地域にテリトリーを持つ「獣の民」は、交戦した狩りの群れは一匹たりとも逃さずに仕留めるよう、徹底して教育されている。最悪の場合、復讐に来た群れと大規模な衝突に発展し、集落全体に被害が拡大することもありえるためである。



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