第十四話「翳鬼」
「ひまね。」亜弥子が溜息交じりに言う。
桃源郷村の旅籠の一室で僕と亜弥子は何をするでもなくただそこに座っている。
こうなったのには訳がある。実は数時間ほど前に桃源郷村に着いたのだが、音羽隊正はすぐに僕達を部屋に連れていって自分は霧夜旅帥たちとどこかへ行ってしまった。
「でもなんで部屋から出るなって言われるんだ?」
「外に行くと何か危ないからじゃないの?」
「闇の国にそんな治安の悪いところってあるの?大体僕は六道領に行った後なのに。」
「それもそうね。多分あの人達何か私達に隠し事してるんじゃない?」
「じゃあ、窓から外に出てみる?僕らだって一応魔術局員なんだから多少の事なら何とかなると思うけど。どうする?」
「行ってみる?」
「とりあえず見てくる。」僕が窓から飛び降りた。二階なのでそうは高くない。
「大丈夫そうだよ。」亜弥子が窓の桟に手をかけた時、
「何が大丈夫なんだ?」音羽隊正が僕の後ろに立っていた。
「まあ、充分説明しなかった俺も悪かった。実は、この近くに翳鬼という化け物が出るんで俺達は来たんだ。
「化け物って何ですか?そんなのいるわけないじゃないですか?」
「そいつの正体が人間で化け物のふりをしているというのなら説明がつくがな。」
「でも翳鬼って聞いたことないですけど。」
「まあ、君達は知らないだろうな。五年ぶりに現れたんだから。まあ、簡単に言うと殺生を愉しんでいる奴だ。俺の母親も殺された。一緒にいた俺の弟も何かの呪詛のせいで五年間ずっと入院している。」
「そうなんですか。」音羽隊正の母親と弟がそういう目にあったのなら僕達を出歩かせたくない理由が分かるような気がする。ここで無理に大丈夫、とかいうのも野暮だろうからおとなしく部屋に戻ろう。
「聞いてたわよ。音羽隊正の話。」
「でも翳鬼って一体何者なんだろ?」
「そういえば、外が何か騒がしくない?」窓を覗くと村が火の海になっていて、村人が逃げ惑っている。
「翳鬼だあ!翳鬼が来たぞ!みんな逃げろ!」一人の村人が叫んでいるが、あえ無く何かに屠られた。
「もしかして、あれが翳鬼か。」
「人を殺すのに躊躇しない人間なんて始めてみた…」さすがに、僕だけでなく亜弥子も言葉を失ったようだ。しばらく呆然としていると、仙静旅帥が部屋に入ってきて、
「ここはもう安全ではない。急いで隠れるぞ!」仙静旅帥について僕達は階下に下りて行った。階下でも人々が逃げ惑っていた。その時、旅籠の扉が開いて
「火巫祀火之迦具土神召喚演舞…」先程見た翳鬼が人々を燃やし尽くした。
「お前達は魔術局の回し者か!」低く野太い声で僕らを罵倒するように翳鬼は言った。もう逃げられない、そう悟ったらしく仙静旅帥は、
「覚悟してくれ。今度ばかりは誰も助けてくれないぞ。」
「火巫祀火之迦具土神召喚演舞!」もう一度翳鬼が今度は僕達に向かって火を吹いた。
「水巫臥龍演舞!」亜弥子がとっさに反対呪文で防御した。実戦の時には亜弥子の目が変わる。そしてそのままの勢いで僕が持っていた短剣を奪い取って翳鬼に投げた。翳鬼は難なく交わした。亜弥子の目的はどうやら、向こうに敵意を示すことらしい。
「汝、我を敵に回すか。宜しいのだな。その度胸だけは認めてやる。大した女だ。」少し笑みを浮かべながら翳鬼は言った。
「火巫祀火之迦具土神召喚演舞!貴様らごときこれで充分だ!」
「水巫臥龍演舞!」亜弥子がまた反対呪文で防御する。
「妖巫悪来刀一閃!」先ほどの術とはわけが違う。仙静旅帥がこれを防御しようとして失敗してそこに倒れこんだ。
「仙静旅帥!大丈夫ですか?」反応がない。心臓が止まった。僕は人の死をこれほどまでに痛感したことがなかった。なんとも言えない恐怖感と罪悪感で僕の胸は一杯になった。
「死人の相手をする余裕があるか、小童が!」次は僕に向かって呪詛を唱え始めた。
「妖巫悪来刀…」僕は思い切り翳鬼に突っ込んだ。
「何をする小童!」
「人を殺しておいてそんなに自分が死ぬのが怖いか?」僕はハッタリをかましたつもりだが、僕の手は完全に翳鬼に掴まれた。
「実体があるってことはやっぱりお前人間か。」
「俺に触れる事が出来たのはお前が初めてだ。こんなガキがな。おもしろい。だが、これが最初で最後だろう。」翳鬼は拳を挙げた。万事休す、と僕が思ったら
「やっと姿を現したか翳鬼。お袋と泰臥の仇!」音羽隊正と神功旅帥が援護に来た。
「祗園一族の人間か。お前も死にたいか?こいつのように。」翳鬼は仙静旅帥の死体を指差して言った。これが、翳鬼か。絶対的に精神を支配するように翳鬼が僕に微笑みかける。
「お前もついでに死ね!」