Gの気配
ここはとある大学の講義室。
学内でも比較的広い講義室であり、階段状の座席がずらりと設置されている。
『大学の講義室』と聞いて、広く一般的に思い浮かべるような講義室。
そんな部屋の扉を開けた女学生――立花詠美。
彼女はさっと室内を見渡すが、まだ誰の姿も無い事を確認すると、眉をハの字に垂らし、肩を落とした。
時刻は朝の八時を回ったところ。
一限目の講義が始まるのは、今から一時間後の午前九時。
詠美は一番後ろの座席に座り、背もたれに体重を預けた。
***
温かな朝の日差しが窓から差し込む。
凛と澄んだ空気で冷え切っていた室内がゆっくりと暖まっていく。
まるで自身の強張った身体までもが解きほぐされていくような感覚に、詠美は心地よい眠気に包まれていった。
――そんな中。
「あれー? 詠美? 早くない?」
詠美が腰掛けてから五分と経たない内に、詠美に語りかけてくる明るい声が、がらんとした講義室に響き渡る。
突然の予期せぬ出来事に、詠美は大袈裟なくらい体をびくりと揺らした。
見れば、一人の女学生が朗らかな笑顔と共に詠美の元に歩み寄って来ているではないか。
「おはよー!」
女学生は爽やかな挨拶と共に、詠美の隣に座る。
「ああ……おはよ」
あからさまに覇気の無い挨拶を返す詠美の目元には隈が浮いている。
「どうしたの? 元気ないじゃん」
「いや。なんかさ。……あまり眠れなくて、ね」
「なになに? 悩み事?」
「……うーん」
詠美は低く唸り、歯切れの悪い返事をする。
しかし、そんな自分の顔を不安そうに見つめる彼女の姿に、詠美はすぐに申し訳ない気持ちになった。
しかし、詠美は迷った。
自分が今抱いている悩みについて、彼女に相談してしまっても良いのだろうか、と。
――人によっては、酷い嫌悪感を催すかもしれない。
そういう話題だった。
だが、このまま話さずに終わる流れでもない。
少しだけ考えてから、詠美はゆっくりと口を開く。
「一人暮らしを始めてから、初めての感覚なんだけどさ。
なんか最近、家の中で視線を感じるんだよね。
……何か、別の気配っていうの?」
話し始めてなお、詠美は未だ打ち明けるべきか迷っている自分に気付いた。
何より、口に出すのが怖かった。
自身が抱くこの得体の知れない恐怖――その片鱗を口にするだけで、もう後戻りができないような気がして。
それでも詠美は、この恐怖を一人で抱えるのにも限界が来ていた。
――誰かに聞いてもらいたい。
――誰かに助けてもらいたい。
詠美はその気持ちの捌け口を彼女に求めた。
「……もしかしたら家、『いる』のかもしれない……」
それはひどく漠然としたものだったが、詠美なりの決死の告白だった。
詠美は固く目を瞑り、彼女の返事を待つ。
――何を言っているんだろう、と思われただろうか。
しかし返ってきたのは、詠美が思いもよらなかった返事だった。
「……さては詠美、苦手なくち?」
その返答の意味を理解するまでに数秒を要したが、やがて詠美は驚きのあまり目を見開いた。
「……もしかして、そういうの詳しい?」
「えっと、別に詳しくはないけど、よく見るし」
「え!? よく見るの!?」
「う、うん。あんまり人には言えないけどね」
――いけない。食いつき過ぎたか。
「ご、ごめん!」
引き気味な彼女の様子に、自身の勢いを省みた詠美は慌てて謝った。
***
「ああいうのはね、やっつけるのは簡単なんだけど」
気を取り直して再び口を開いてくれた彼女に、詠美は安堵した。
そして今度は気を落ち着け、なるべくゆっくりとした口調で彼女に訊ねる。
「簡単なの?」
「うん、まあね。問題は予防策だよ。
あいつらは、『隙間』があればすぐ入ってくるからね」
「……隙間」
「玄関とか窓は勿論の事、エアコンの通気口とか、レンジフードの隙間とかも、気を付けたいところだね」
詠美はふと、自宅の風景を思い出した。
無防備なエアコンの通気口。
レンジフードが取り付けられた部分に確かに空いている、わずかな隙間。
それらを鮮明に思い浮かべた詠美は、込み上げてきた吐き気をグッと堪えた。
「あとはさ、飲み残し!
このご時世だしさ。最近、リモート飲み多いでしょ?
飲み残しのビールの缶とか、あるんじゃない?」
「あ」
詠美は一昨日の夜、ビデオ通話アプリで行ったリモート飲み会を思い出した。
あれは確か――。
「ゼミ飲みやったよね、一昨日!
そういえば、あの日はびっくりしたよねー。
いきなり教授が入ってくるんだもん。
ゼミ長のサプライズだったらしいけど、あれは無いよねー!」
――そうだった。確かに、あれには驚いた。
詠美の所属しているゼミは人数が多い事で有名である。
彼女もいたんだっけか。
見逃したのかもしれない。
詠美は再び、申し訳ない気持ちになった。
「詠美、結構飲んでたじゃん?
あの時の空き缶、残ってるでしょ。
明日、忘れずに出しときなよ?」
そうだ。明日は『資源ゴミの回収日』だ。
忘れずにゴミ出ししなければ。
「あとさー。ポテチの袋、放置してるでしょ?
そういうの良くないよー」
「え、そういうのにも寄ってくるの?」
「何言ってるの! 寄ってくるよー。常識だよー」
「そうなんだ。知らなかった」
「掃除機もかけときなよ?
たぶん青のりとか、落ちてると思うよ?」
確かにあの手のスナック菓子は、気付かないうちにポロポロと床に落ちているものだ。
昨日食べた『のり塩味』の青のりなんかも、床に落ちているかもしれない。
***
「それにしても、『視線を感じる』って表現する人、初めてかも。
詠美ってもしかしてポエマー?」
深刻な顔の詠美に対して、くすくすと軽快に笑う彼女。
その姿に、詠美はある違和感を抱いた。
その違和感の正体を確かめるため、詠美は恐る恐る口を開く。
「さっきから、微妙に話が噛み合ってない気がしてたんだけど。
……何の話してる?」
「え? Gの話じゃないの?」
「G?」
彼女の予想外の返事に、詠美の口からは間の抜けた声が漏れた。
「Gだよ、G! ゴキ!」
「え? ゴキブリ!?」
「……違うの?」
「違うよ!」
――先ほどまでの会話は何だったのだろうか。
違和感の正体を理解した詠美は、脱力感と虚無感に襲われた。
しかし、元を辿れば、最初にはっきりと言わなかった自分が悪いのだ。
そう思い直し、改めて自身の悩みの種――その正体として疑わしいモノの名前を口にした。
「……有名な都市伝説だよ。『隙間女』」
「何それ?」
「聞いた事ない?
――部屋の中で何者かの視線を感じてそちらを見ると、タンスと壁の間に空いたほんの数ミリの隙間に女が立っていて、こちらをじっと見ていた――。
っていう怪談話」
「へぇ。それで『隙間女』か。
……って、まさか詠美の悩みって……」
詠美は咄嗟に顔を逸らした。
怪訝な表情を浮かべているのが、彼女の顔を見ずともわかった。
――やはり、馬鹿みたいだと思われただろうか。
これ以上、私の話など聞く気も起きないだろうか。
このままでは彼女が去ってしまうのではないか。
そう考えるなり急に心細くなった詠美は、一旦、話題を先程までのものに戻すことにした。
「っていうか、Gだったら今の時期は出てこないでしょ。
春とは言え、まだ寒いよ?」
「えー、そんな事ないよ!
昨日だって引っかかってたよ? 『あの罠』に!
ほら、冷蔵庫とキッチンの間に仕掛けてたやつ!」
あの罠?
――ああ、あれか。
粘着シートでゴキブリの足を絡めとる、ゴキブリ捕獲器の代表として有名な、あの罠。
それはわかった。
だが――。
詠美はやれやれと呆れながらも、優しく微笑んだ。
「ほら、って言われても知らないよ。貴方の家の事なんて」
「何言ってるの? 詠美の家の事だよ」
当たり前のように、さらりとそう言い放つ彼女。
その無機質な笑顔を前にして、詠美の顔は凍りついた。
***
確かに、詠美の自宅の冷蔵庫とキッチンの隙間にも『あの罠』は仕掛けてある。
しかしそれを知る者は、詠美以外にはいない。
それだけじゃない。
思えば今までの会話の節節にも、彼女のおかしな言動が見てとれた。
『明日、忘れずに出しときなよ?』
――なんで家の地域の資源ゴミの回収日を知っている?
『たぶん青のりとか、落ちてると思うよ』
――昨日食べたポテチの味なんて、教えていないのに。
まるで生活を覗き見られているかのような、具体的すぎる情報。
当然の事ながら、詠美が彼女を家に招き入れたことなど無い。
「まさか詠美がそんな事で悩んでいるなんて思わなかった。
なんだか……心外だなぁー」
――そもそも、彼女は、誰だ?
それに気付いた途端、詠美の体はガタガタと震え出した。
温かな日の光のおかげで、講義室内は寒くもない。
それなのに、詠美は体の震えを止めることができなかった。
震える肩を、震える両手で抱き、顔を伏せる。
隣に座る、得体の知れない女。
今となっては、もう彼女の顔を見ることもできない。
「……そういえばこれ、見つけといてあげたよ。
何日か前、落としたでしょ?」
そう言って、彼女は手の平を上にして詠美に向ける。
怖い。しかし不思議と彼女の声に逆らえない。
詠美はゆっくりと、その手の平に視線を移す。
そこにあったのは、小さなピアスのキャッチ。
それは確かに数日前、詠美が自宅で無くした物だった。
「……ベッドと本棚の間の『隙間』。
そこに落ちていたんだヨ」
詠美は彼女の手の平から、徐々に視線を上に移していく。
「……私ハ詠美のためヲ思っテ。
……せっカく届ケテあげタのニ……」
今朝の朗らかな彼女の声は、もうそこにはない。
いくつものくぐもった声が混ざった、不気味な不協和音。
その声の主である彼女の顔は――。
……ギ……ギギ……。
軋む音とともに、みるみると細長く、歪に、その形を変えていった。
詠美はふと、一昨日のリモート飲み会で起きた、不思議な会話を思い出した。
***
『詠美ー?』
『……』
『詠美ー? いないのー?』
『……ああ、ごめん。今戻った。
やっぱ家だからって飲み過ぎたらダメだね。
でももう大丈夫。今トイレでスッキリしてきたから』
『吐いてきたのかよー。でも、おかしいなー』
『え? なにが?』
『詠美のカメラ、奥の方でずっと顔っぽいのが写り込んでた気がしたからさ。
席外してるとは思わなくて』
『……変なこと言わないでよ、もう』
――詠美は今になってわかった。
彼女――隙間女もまた、ずっと飲み会に参加していたのだ。
詠美のPCのインカメラで。
詠美の後ろにある、タンスと壁の隙間から。
「……心外ダナァ!」
隙間女は声を荒げて、詠美の頭を両手でがっしりと掴む。
そして両手に力を込めた。
まるで万力に挟まれたように、詠美の頭は両側から強く圧迫される。
「……あ……がが……」
声にならない苦痛の叫びが口から溢れてくる詠美。
一方で隙間女は、細長く歪んだ醜い顔をより一層歪めて、不気味に笑う。
「……悲シイヨ。……デモ、嬉シイヨ」
隙間女の手の力が緩まることはない。
詠美の頭がミシミシと嫌な音を立てる。
「……頭の次ハ、身体ヲ……ネ?
……ソウスレバ、ホラ……」
何かを悟らせようとする隙間女。
しかし、詠美にはもうそれを聞き入れる余裕は微塵もない。
「……エイミ……一緒ニ……行コウ……」
詠美の頭が――潰れる。
……パァンッ!!
***
その後、床にできた謎の血溜まりによって、しばらくの間、この講義室は使用禁止となった。
原因は未だ不明。
そして――。
立花詠美の行方を知る者は、誰もいない。
『Gの気配』――おわり。