[試作品]トロル (※正式バージョンの『[連載版]トロル』がありますのでそちらをお読みください。)
トロル(とろる)[名詞]
①北欧神話に登場する、醜い容姿をした毛むくじゃらの怪物。
②インターネットで攻撃的な発言を繰り返す人。インターネット・トロル。
③悪意感染型の犯罪行為、あるいは犯罪者。保健省がトロルと認定した場合、それに感染された者も含めて殺処分の対象となる。
◇脳無しのバクバ
インターネットは戦争をなくす——と、その本に書いてあった。
我々はインターネットを使えば、国境、人種、思想を超えて交流することができる。かつてない次元で対話が拡大し、人類の相互理解は飛躍的に深まるだろう。これは既存のあらゆる対立構造を根本的に解決するはずだ。すなわち、民主主義の本質的な価値がようやく実現するのだ。
「ネットは期待されていたんだなぁ」
男はその本を閉じて別の本を取り出した。それは同じ著者がその二十年後に出版した本だ。
男は同じ著者の本を読み比べるのが好きだった。そうすると著者の変化が見えてくる。『あの頃の私は間違っていた』などを見つけると、他人の悪戯を覗いてしまったような、そんなくすぐったい気持ちになるのだ。
さて、二十年後にはどうなったのかな。と、もう一冊を開くと、遺書のような書きつけが目に飛び込んできた。
もはやインターネットは悪意に汚染され、民主主義をも殺そうとしている。
先ほどの主張から一転し、そこには怨嗟が書き綴られていた。
二十年で何があったのか、と急いでページをめくる。インターネットが普及するにつれ、大衆は他者を理解するためでなく攻撃するに躍起になっていると書かれていた。
「あ〜。そうなっちゃったか」
ひょっとして今でも同じことが起きているのかも、と男は首をかしげた。もう何度も耳にしてきた共有脳のコマーシャルメッセージが頭をよぎる。
もし、海外出張が決まったら、
脳に英語をインストール。
もし、町に医者が足りないのなら、
あなたが医者になってあげよう?
もし、戦争になりそうなら、
共有脳でみんなと共感しよう。
なりたい自分で世界を平和に。共有脳インプラント。
「警報発令! 警報発令!」
突然、街中に警報が鳴り響いた。
「付近で悪意感染が発生。ただちに共有脳をシャットダウンし、最寄りの避難所で検査を受けてください。指示に従わない場合は殺処分の対象となります」
周りにいた人々が悲鳴を上げて逃げはじめる。
しかし、男はその様子を眺めながらも、手元の本すら閉じようともしなかった。そうしている間に一人だけ取り残されてしまう。
ピピッピピッと、呼び出し音がなった。
男はようやく本を閉じて携帯端末を取り出した。共有脳が普及した今では誰も使っていないスマートフォンだ。そのディスプレイには『保健省トロル対策局管理長官』と表示されている。
「はい。バクバです」と男は名乗った。
「儂だ。トロル感染が起きた」
「ちょうど現場にいます。神保町で本を」
神保町は昔から古本屋が軒を連ね、今でもその名残を残している。骨董品である本を趣味とするバクバは、暇を見つければここに通い詰めていた。
「好都合だ。また頼めるか」
「ええ」
「拠点は神保町駅だ。そこで落ち合おう」
「了解しました。これ以降は端末を切ります。ここはもう感染エリアですので」
「助かる」
通話を終え、端末の電源を落としたバクバは手元の本をじっと見た。
あと一ページだけ——と本をめくる。共有脳によって読書は不要になったが、彼は本を読むのが好きだった。とりわけ、自分の指で紙のページをめくり、続きを覗き込むようにして読むのが楽しい。
めくったページには、かつてはネットに希望を抱いた著者の、それを使いこなせなかった大衆への恨み節がつづられている。
インターネット・トロルと呼ばれるごく一部の人間が、他者を執拗に攻撃し、社会は分断された。相互理解を促進するためのインターネットは、一部の愚か者の偏った悪意によって汚染されたのだ。つまり、バベルの塔を建てた頃より人類は何一つ成長していなかったと言える。
「面白い表現だな」とバクバは感心した。
バベルの塔を引用したのは絶妙だ。技術に溺れ高慢になった人間に、神は天罰として言語をバラバラにした。互いのことを理解できなくなった人間は対立し、二度と天を貫く塔を建てることが出来なくなったのだ。
もしかしたら、その仕打ちを恨んで人類は共有脳を開発したのかもしれない。そう考えるとまた面白い。今では共有脳で知恵の果実をお手軽にデリバリーできるようになった。神への反抗期はいよいよ本格化してきているのかも。
——まだまだ続きが気になるけど。
バクバはため息をついて本を閉じる。警報がけたたましく、これでは落ち着いて読めない。
そろそろ駅に行こう。
◇管理官アルナナ
「管理長官」と運転席の女が初老の男に声をかけた。
「なんだね。アルナナ管理官」
「先ほどのは音声通話ですか?」
男は「ああ」と男は肩をすくめる。「思念通話ができない相手だったのでな。実は儂も苦手なんだ」
「そうですか」
アルナナは長官の皺深い顔を横目で盗み見る。長官の世代では、幼い頃から共有脳をインプラントしていなかった。自分たちのようにはいかないのだろう。
「そろそろ感染エリアに入ります」と長官に告げる。「共有脳を切ってください」
「ああ」
長官にそう言いながらも、目を閉じ共有脳にシャットダウンを念じる。
すると(さようなら)と中性的な合成音声が別れをつげ、脳と社会の繋がりが断ち切れる。心に穴が空いたような喪失感を紛らわすために、アルナナは後頭部に露出している外接ソケットを指でなでた。
「手動運転に切り替えます」
先ほどまで勝手に動いていたハンドルに手をかける。普段は自動運転だが、感染エリア内ではあらゆるネットワークが遮断され、自動運転も機能しない。すでに車道には走行不可になった車両が点在していた。
アルナナはクラッチとギアをさばき、なめらかな緩急でその隙間を縫うように走行する。
「うまいもんだ」と長官が驚いた。「運転が趣味だったのかね? 若いのに珍しい」
「いえ」
今の時代、手動運転など好事家たちの贅沢であり、脳容量の浪費でしかない。
「脳にインストールしたものです」ミラーに視線を散らす。「トロル対策の業務に必要そうなものは入れました」
「それで運転をか? 法律や感染情報技術だけでも相当な量のはずだ。脳容量は大丈夫なのかね」
「ええ。前の配属での経験はクレンジングしましたから」
「やれやれ」と長官は頭をふる。「いわゆる脳のモジュール化というやつだな。あるいは勉強の無意味化か。いずれにせよ年寄りにはついて行けんよ」
「そうおっしゃる方は多いです」
「儂のような老害は特にな」
返答に困ったアルナナはギアを上げた。エンジン音が細り、外の景色が加速していく。この調子だと、あと数分もすれば神保町駅につく。トロルが潜んでいる感染エリアの最前線だ。
「質問してもよろしいでしょうか」
「どうした」
「保健省の社会大脳から、過去三年間の職員の業務経験をインストールしました」
「ふむ」
「ですが、実際にトロルに対処した経験データが一つもありませんでした」
長官から返事はない。
職員の業務経験データは組織にとって最も貴重な資産と見なされている。トロルに直接対峙した経験は絶対に保存されているはずなのに。
「アルナナ管理官」
「はい」
「仮に、君がトロルと遭遇したらどうなる?」
「努力はしますが、対処は困難かと」
「理由は?」
「感染エリアでは共有脳が使えません。しかし、トロルは違います。汚染された脳は攻撃性が高く、あらゆる戦闘経験をインストールしています。加えて、それを別の個体に感染させ数も多い」
「そうだな。では、そのトロルへの対処原則は?」
「一、感染エリアの隔離。二、感染個体の殺処分。三、感染源と経路の分析。四、予防システムの構築、です」
「であるのに、殺処分の経験データだけが存在しない。なぜだと思う?」
他の三つ——隔離、分析、予防の業務経験は大量にあった。
「トロル対策局の職員では殺処分ができないから、でしょうか?」
「そうだ」
「では、軍が殺処分を?」
そう言いかけたアルナナを、長官がふっと笑って遮る。
「軍人とて同じだよ。いや、我々以上に不適任だ。トロル対策の素人どもが大量破壊兵器を担いだまま感染されたらどうする」
「そう、でした」
「安心したまえ。それは専門家に任せてある」
「専門家?」
「どうやら、着いたみたいだな」
いつの間にか神保町駅が見えていた。感染エリアは保健省が設定し、その外周を対策局が閉鎖する。ここはその中継拠点に指定された。
アルナナは適当な場所に車を停め、長官の後ろについていく。すでに感染検査の車両も到着し、その前に一般人たちが列を作っていた。おそらく、ここで精神検査を受けるように指示された人々だろう。
長官とアルナナは白いシートのテントに入った。
中では職員たちが緊張した面持ちで機材を設置していたが、その中に明らかに異質な男にアルナナは目をひかれた。
男だけが私服だった。
トロル対策局の職員は白いオーバーコートの着用を義務づけられている。この白衣は感染予防の電磁波遮断シートであり、共有脳の外接ソケットがある後頭部を覆うために襟は特に長くなっている。
だが、アルナナが気になったのは、私服だからというわけではない。
男は本を読んでいたからだ。しかも印刷された紙の本だ。
今でも、読書を趣味とする人はたまに見かけるが、例えばオーガニックカフェで小さな本を片手にするスタイルが多い。少し古くさいが優雅な趣味と見なされている。
しかし、その男は地べたにあぐらをかいて膝の上に大きな本をのせ、まるで穴を覗き込むように背をまるめて読んでいた。その口元は笑い皺を浮かべて、目を子どものように輝かせている。
「バクバ」
管理長官が声に、男は、はっとなって視線をあげた。
「あ、失礼しました」パタンと本を閉じて立ち上がる。「お久しぶりです。長官」
「即応してくれて助かった。相変わらず、本の虫め」
管理長官の頬が緩むのを見て、アルナナは少し驚いた。
この初老の上司は厳格なことで知られている。それなのに、この緊急事態で本を読んでいた男をにこやかに迎えたのだ。
「こちらこそ。長官であれば安心して動けます」
「そのことなんだがなぁ」と長官は口元をゆがめた。「君に折り入って頼みがある」
「なんでしょう」
「後ろの彼女を君に同行させてもらいたい」
「エリアの中へ、ですか?」
「ああ」
バクバは長官の肩越しにアルナナの方を見た。
「……まだ若い」
「年齢は関係なかろう」と言った後、長官はさらに声をひそめた。「実は、彼女は幹部候補だ」
「なおさらじゃないですか」
「ゆえに現場に触れる機会がどうしても少なくなる。だが、将来の幹部が現場を知らなすぎるのも重大なリスクだ」
「はぁ」
その二人のひそひそ話をアルナナは聞き流した。
それよりも、バクバと呼ばれた男が読みふけっていた本が妙に気になっていた。彼が小脇に抱えた本のタイトル『インターネットによる衆愚政治』に、思わずぎょっとする。あまりに攻撃性の強い表現だ。経験データと違い、紙の本は保健省のトロル検疫から漏れやすいのだ、と脳に入れておいた業務経験が教えてくれる。
「助かるよ」
長官はほっと胸をなで下ろした。どうやら話がついたらしい。
「アルナナ管理官」
「はい」
「現時刻より、君はバクバ氏の管理官とする」
「了解いたしました」
「君が管理官とはいえ、彼の方が経験豊富だ。指導してもらうつもりでやりなさい」
「はい」
敬礼で応じながらも、アルナナの脳内は疑問で埋め尽くされていた。
明らかに部外者のこの読書男は、長官が言っていた専門家なのだろうか。だったら、彼の経験を社会大脳にアップロードしてもらうように要請すべきだろう。
「アルナナさん、よろしくお願いします」
「質問してもよろしいでしょうか」
「えっ」
バクバはきょとんと目を丸くする。
「殺処分の専門家の方ですか」
「専門家?」
「ええ、トロルの」
「専門家ではありませんが……」
バクバは寂しそうに表情を曇らせた。
アルナナは外部メモリチップを取り出してバクバに差し出す。
「殺処分の経験がお持ちならば、その経験をここにコピーして頂けませんでしょうか。ご協力のほどお願いいたします」
「ああ」とバクバは笑った。「そういうことですか」
「もし、懸念があれば教えてください。確約はできませんが、対価をお支払いすることも検討させていただきます」
「残念ですが……」
「なぜ」
「僕は脳無し、なんですよ」
「のうなし?」
バクバは背中を向け、自分の首筋の髪をかき上げた。
アルナナは「あっ」と驚く。そこにあるはずの共有脳の外接ソケットがなかった。まるで生まれたての赤ん坊のような、何もない首筋が覗いていた。
そこでようやく該当する情報が思い浮かぶ。
脳無し(のうなし)[名詞]
①共有脳をインプラントしていない人間、あるいはその蔑称。社会大脳の経験・感情データにアクセスできない一方で、トロルウィルスなどの精神感染に対して高い耐性を持つ。
②前述の特性を活かし、トロル感染エリアへの侵入調査を請け負う業者。
「あっ、なるほど。脳無しの方だったのですね」
と脳を痛めていた疑念が氷解して、アルナナの肩の力が抜ける。
「そうなんです」とバクバは笑う。
アルナナは蔑称でもある『脳無し』を無邪気に口にしたことに気がつき「申し訳ありません」と頭をさげた。
「いえ。珍しいですからね」
「想定しておくべきでした」
「まぁまぁ。よろしくお願いします」
バクバも彼女に合わせて頭をさげた。
◇感染エリア 神保町駅周辺
あらゆるネットワークから遮断され、避難命令が出た神保町は閑散としている。普段なら気にもとめないカラスの鳴き声や、狭い裏通りを吹き抜ける風の音が妙に大きく聞こえる。
特にアルナナは共有脳を通して網膜に拡張現実《AR》の広告ディスプレイや経路案内ナビを透過して街を見ている。その仮想表示が取り払われた街の姿を目の当たりにして、残業で化粧を諦めた同僚の素顔を見たような罪悪感を、彼女は思い出していた。
「これが」感染された街の姿なのか、と口にしかけたのを飲み込む。業務に関係のない感想は慎むべきだ。
「どうしました」
「私が立案した計画なのですが、」と別のことを聞く。「消極的過ぎると思いませんか」
「そうかな」
「バクバさんが殺処分の専門家であるのであれば、」しかも、あの管理長官が頼りにしているほどの人だ。「感染源への直接的対処を優先目標にすべきだったのかも」
先導するバクバは振り返らずに「う〜ん」と唸っている。
「感染源を断てば早期終結の可能性もあります」
「そうですね。……そうかも」
その要領を得ない返事にアルナナは少し困惑した。長官からバクバの指導を受けるように命じられたのだが、本人からは何も意見が出てこないのだ。
「見えてきましたよ」
バクバが立ち止まって、ひときわ高いビルを指し示す。ここらで一番大きなショッピングモールだ。
「突入する前に」とバクバは振り返る。「いくつか確認させてください」
「はい」
「作戦目標はあのモール内の検疫と封鎖ですね」
「ええ」
「中に人がいた場合は?」
「可能なかぎり脳内スキャナーで感染確認します。感染度が低ければ拠点まで護送。規定値以上ならその場で殺処分。抵抗した場合も強制執行の妨害罪で殺処分対応が適当です」
「分かりました。では、僕からも一つ」
「なんでしょう」
「今から二百年くらい前に世界大戦があったそうです」
「はぁ」
アルナナは眉をひそめた。ようやく、助言をもらえるのかと耳をすましたのに。
「この戦争で人類は初めての総力戦を経験したとされています。多くの国で徴兵制が導入され、国民が最前線で戦いました。あっ、いや、本格的な徴兵制はナポレオンまでさかのぼるかな。まぁいいや。大切なのは、戦争の主体が貴族階級から国民へと変わってしまったことなのですが……」
「あ、あの。何のことでしょうか」
アルナナの困惑はいよいよ深くなる。
過去の歴史に世界大戦があったことは脳の断片に残っていた。定期的に不要になった経験をクレンジングしてはいるが、よく耳にする情報はどうしても海馬にこびりついてしまう。だが、ナポレオンの情報は今の脳にない。
「デイブ・グロスマンの名著『戦争の心理学』です」
アルナナは、また攻撃性の高い本を読んでいるな、と眉をしかめながらも、それでもバクバの話を理解しようとした。
「戦争のお話ですか?」
「あの時代は一般市民が戦争に放り込まれたのです。今では考えられないことですが、あの当時の銃は実弾が中心で、互いに見える位置まで近づいて撃ち合うのです。塹壕っていう、穴をほってその中に隠れながら、バンバンと」
「はぁ」
「で、ここからです。なんと兵士の発砲率はたったの20パーセントだったそうですよ。撃たれても80%の人が撃ち返そうとしなかった」
いかにも、信じられないでしょ、といったように頭をふりながら、アルナナをじっと覗き込む。
彼女は完全に出口を見失っていた。彼の話が終わってしまったのだ。どうやら、自分に何らかの反応を求めているらしい。作戦目標を目の前にして、この人は何を言いたいのか。
「それはあの……。つまり、どういうことでしょうか」
「アルナナさんは銃を持っていますね?」
「あっ、そういうことですか」
アルナナは拳銃を取り出す。
現在の感染段階では、銃火器を感染エリアに持ち込むことは許されていない。たとえ、このような旧式の実弾銃であってもだ。
しかし、管理官であるアルナナは特権として、ある程度の武装が許可されている。流石にレーザーライフルまでは持ち込めないが。
「確かに、この拳銃は専門家であるバクバさんが使った方が合理的ですね。現場での装備の譲渡も私の権限の範囲内です。分かりました。お貸しいたします。ただし、くれぐれもトロルに奪われないよう、ご注意ください」
「あっ、いえ」と手をふって突っ返されてしまう。「それはアルナナさんの護身用ですから」
「はぁ」
「僕が言いたかったのは、引き金を引けた人は20パーセントしかいなかった、ということです。実際に敵を殺した人はもっと少ない。ちゃんとした人間は人殺しなんてできないのです。戦場で殺された人々の多くは、殺人に心理的抵抗を感じない数パーセントの異常者よるとされています。デイブ・グロスマンはその大量殺人者を狼≪けもの≫と呼んでいます」
「……私も撃てない、と?」
「そういうわけでは」とバクバはうつむいた。「ただ、あの本が伝えたかったのは、引き金のちゃんとした引き方だと思うのです。彼は軍人でしたし、前線兵士には適切な心理ケアが必要だと訴えていました。別の著書では、未成年の銃犯罪を抑制できない社会に対して、激しい怒りを書いています」
「トロルの感染エリアでは、現場判断による殺処分が認められています。問題ありません」
「ええ」とバクバは頭をかく。「無駄な時間を取らせてしまったようです。すみません。そろそろ行きましょう」
「そうですね」
アルナナはほっと息をついた。ようやく前に進める。
「先頭は僕にやらせてください。アルナナさんは後ろの警戒を。最優先目標の分子還元3Dプリンターは……え〜と」
「地下2階です」
「すみません。昔から物覚えが悪くて」
共有脳がないなら自然記憶に頼らざるを得ないからだろう、とアルナナは納得しつつも疑問がわく。どうして脳無しのままなのだろうか。見たところ、彼は三十代の半ばだ。インプラント手術をためらうほどの年齢ではない。
「いきますよ」
「はい」
アルナナは頭をふって、拳銃を握りしめた。
旧式の実弾銃の扱いも脳に入れてある。何度か射撃場で撃ってみて体感しての調整も念入りにした。彼が言うような懸念はあるまい。
バクバを先頭に正面エントランスを抜け、階段で地下へと移動していく。
目標は業務用の分子還元3Dプリンターの確保あるいは破壊だ。過去の事件で、トロルたちがプリンターで銃火器の複写製造を行ったことがある。必要な設計データは旧式のインターネットから調達したようだ。
モールにある大型のプリンターを使えば、銃の量産すら可能だろう。
「待って」
先頭をいくバクバが、背後に手の平を向ける。
「何か?」
バクバは人差し指を口にあて、手招きをした。アルナナがそのすぐ側まで歩みよると、廊下の向こうから声が聞こえてきた。甲高い、空気を裂くような声。女の悲鳴だ。
「トロル?」
共有脳によって他者理解が当然になった現在、悲鳴があがるような状況はありえない。脳が悪意に侵されていない限り……。
「接近します」
「はい」
慎重に悲鳴がする方へと進む。
次第に大きくなっていく悲鳴にアルナナは目眩を覚えた。経験データには似たような状況のものがいくつかあったが、リアルでの体験するのは初めてだった。
「見えました」とバクバが廊下の角で止まる。「距離五十。男が二、被害者らしき女が一」
アルナナも覗くとそこには、女を組み伏せている二人の男がいた。馬乗りになった男は女の顔を何度も殴りつけている。よく見ると、女の服がはだけ、白い肌が露出していた。
「傷害罪。それに……強姦?」
「のようですね」
いずれも根絶したはずの犯罪だ。感染エリアではこのような時代遅れの犯罪が横行するものだ、と脳が教えてくれた。
「現行犯により、トロル感染者と断定します」
アルナナは膝を折り拳銃を構えた。
「撃てますか?」
アルナナは「ええ」と頷いた。先ほどの20%がどうの、といった懸念の確認だろう。
「この距離なら外しません。性行為にふけっているなら、奴らは痛覚遮断もしていないはず。問題はありません」
照準を馬乗りになって上下に動く胴体に定めた。
トロルは共有脳を使って痛覚遮断をすることが多い。なので、胴体を撃っても無力化はできないため、頭を狙う必要がある。だが、今なら胴に当てるだけで十分なはずだ。
女性の悲鳴が耳をつく。
安全装置を親指で下ろし、引き金に人差し指をかけた。
明らかな現行犯。本件は殺処分が適当だ。
呼吸を整える。
撃つ瞬間は息を止めたほうがよい。銃口のブレを抑えるためだ。
「……万が一は、」とバクバさんに声をかけておく。「援護をお願いします」
「分かりました」
「撃ちます」
呼吸を整えて、息を止めた。
手前のトロルに狙いをつけ直す。
もう一丁、拳銃を持ってくるべきだった。感染者は二人いる。初弾を当ててももう一人が気づくだろう。バクバさんにも銃を持たせて二人同時に仕留めるべきだった。
今回の感染源は何なのだろう?
あの二人も単なる感染者なのかもしれない。だとしたら憐れだ。ウイルスに脳を上書きされただけなのだ。ほんの数時間前まで普通の善良な市民だっただろう。
——もしかしたら、脳クレンジングをすればまだ間に合うのでは?
「バクバさん、」
アルナナは震えが止まらない銃口を降ろした。
「申し訳ありません。……あなたの忠告通りでした」
その拳銃を、バクバはそっと奪い取った。
「アルナナさんは80%のちゃんとした人間だというだけです」とバクバは拳銃を右手で構え、もう片方の手で腰から短刀を引き抜いた。「そして、僕は、デイブ・グロスマンがいうところの異常者です」
バクバは音も立てず、滑るように前へ進む。
決して急がず、ひたりひたりとにじり寄っていく。時折、聞こえてくる女の悲鳴にすら反応せず、銃口は暴漢にすえ、左手にした刃が濡れたように光りをはじいた。
その距離は次第に縮まり、暴漢の首裏にある外接ソケットが見えるほどになった。そこから接続コードが伸びて女の首筋と直結しているのが確認できた。直結による脳感染だろう。もはや、彼がトロルであることは確定だ。
「もし」
と、怒りもなく、バクバは無機質な声で呼びかけた。
女に興じていたトロルがつられて振り返る。その喉元にバクバは短刀を突きつけ「警告です」と告げた。右手の拳銃はもう一人のトロルの眉間に向けられている。
「二人とも両手をあげ、その場にうつ伏せに」
「……テメェ」
トロルは動かなかったが、しかし、指示に従う様子もない。
女の引きつった息だけが時を刻む。
トロルに降伏の気配はなかった。バクバはこういった状況で猶予を与えるべきではないこと熟知している。多くのトロル・ウィルスは、降伏にかかわらず殺処分になると脳にすり込むため、感染者は最後まで抵抗をあきらめない。
そして、投降しても殺処分になるのは事実でもある。
「警告はしました」
その時、動いたのは女だった。彼女が腕を振り上げバクバの腕を払ったのだ。
直結された共有脳から操作されたか、あるいは感染させられたトロル・ウィルスによるものか。女の「違うの!」という悲痛な叫びが響く。
喉元の刃から解放されたトロルがバクバに飛びかかる。
しかし、バクバは備えていた。
トロルに組み付かれながらも、その背中から短刀を突き刺した。あばらの隙間から心臓へ刃を入れ、ぬるりと引き抜くと同時に横に飛ぶ。
バクバが転がった後の床を銃弾の雨が叩く。
もう一人のトロルの手にマシンピストルが握られていた。
バクバは身を起こすと同時に、そのトロルに飛びかかる。
短刀でマシンピストルの銃身を切り払うと、別手の拳銃でトロルの腹を撃つ。三発目でトロルの膝が落ち、四発目でその頭を打ち抜く。
バクバは足元に倒れた二体の死亡を確認し、息を整えた。そして、「ひっ、ひっ、」と肩を震わせている半裸に剥かれた女の側へと近づく。
「嫌、来ないで。違うの……お願い、許して」
女はまだ十代の少女だった。
「君は」とバクバは上着を脱ぎ、少女に投げ渡した。「ご両親はいるかい」
「……は、はい」
少女は呆然として、渡された上着で肌を隠そうともしない。
「まだ、覚えている?」
「……多分」
バクバは少女の共有脳から伸びているコードをたどり、足元に倒れたトロルからプラグを引き抜いた。
「名前は?」
「思い出せません」と少女の頬に涙がつたわる。「自分の名前も、お母さんとお父さんの名前も! 弟もいたと思うんです」
「そうか」
トロルウィルスは感染者のパーソナリティにかかわる記憶情報を優先的に消去する。自我を不安定にし、悪意に染めやすくするためだ。
「私も……殺されるんですか?」
「まだ分からない。これから脳をクレンジングして、検査に通れば元の生活に戻れる可能性もある」
バクバは少女から見えないように短刀を背に隠した。
そのまま正面にかがみ込むと、潤んだ大きな瞳がバクバを覗いていた。彼女のはだけたままの胸元が青い影をつくっている。
「あの」と少女が頬を赤らめた。「こんなことをお願いするのは、ダメだと思うのですけど」
「なんだい?」
「抱きしめてもらっていいですか?」
「ああ」
バクバがうなずいて少女に近寄ると、彼女はバクバの首に飛びついた。その手には接続コードが握られていた。彼女はそれをバクバの後頭部に何度もあてて「ない!」と叫んだ。
「残念だけど、」
「ソケットをどこに隠したの!」
「僕は脳無しなんだ」
バクバは少女をしっかりと抱きしめて、短刀でその心臓を突き刺した。
◇トロル対策局のオフィスカフェ
「おや、読書が趣味だったのかね?」
管理長官はオフィスカフェにいたアルナナを見つけ、声をかけた。
「長官」
「それとも、社会大脳にない経験でも書かれているのかね?」
「そのようです」
アルナナは読みかけの本にしおり紐をさして、テーブルの上におく。
読書による情報取得は非効率だ。だからこそ、想いをはせるのに向いているのかもしれない。特に、バクバさんが教えてくれたデイブ・グロスマンはあの事件を整理するのに最適だろう。
「バクバの影響か」
「分かりますか?」
「君は分かりやすいな」
長官は「前の事件についてだが」といって向かいの席に腰をおろし、自分の首筋を指で叩いた。「伝えたいことがある。秘匿回線で」
「思念通話でよろしいですか?」
「努力しよう」
二人は目を閉じてリクライニングに背を預ける。室内の自然環境音が聴覚から遠のいて、脳が溶け合うような共有感覚に身を委ねた。
(ふと思ったのだが、若者たちは言語すら必要としないのかね?)
長官の脳が信号を発した。
(いえ。思念通話とはいえそこまでは。『言葉はいらない』とは言う人もいますが、いささか誇張が過ぎると思います。共有脳を直結すれば不要になると思いますが、夫婦でもない限り慎むべきでしょう)
(あるいは、トロルウィルスを感染させる場合は、か)
それを冗談だと判断し、アルナナは笑いの信号を送る。
(さて、神保町での感染事件についてだ。本件は三体の感染者を処分し、早期終結となった。感染者が所持していた実弾銃は、君が優先目標に設定していた分子還元3Dプリンターで作成されたものだと判明した。上層部は本件の経緯から君の判断能力を高く評価している)
(私ではなく、バクバさんのおかげです)
(だろうな。しかし、彼の管理官は君であったし、これは官僚的な記録作業に過ぎない。脳無しである彼の名を残すわけにはいかない。君が彼の貢献を把握しておくこと、それが現実的なラインだろう。……続けてもいいかね?)
(申し訳ありません)
(以上の官僚的判断に基づいて君に辞令が下った。長官直属の管理官として昇進だ)
(承りました)
(まったく淡々としたものだな)と長官は驚きに安心がまじった信号を発した。(喜びも倦怠も優越感すら伝わってこない。……これ以降、君は第一席の管理官になる。儂に何かあれば現場指揮は君だ)
(はい)
(それと、要請のあったバクバの件だが……)アルナナの脳がかすかに震える。(安心したまえ、彼は君のチームに入ることを了承したよ。彼は管理官を悪く言うような男ではないが、それでも『君なら安心だ』と言っていた)
(……はい)
(やれやれ。内心のプライバシーなど、もはや成立しえないな)
二人は思念通話を終え、長官は「休憩中にすまんな」と言い置いて席を立った。
それを見送った後、アルナナは本の続きを読む。
デイブ・グロスマンは撃たれても撃ち返そうともしない80%の人間を「羊」に例え、数%の殺人に抵抗のない異常者を「狼」と呼んだ。
その上で羊を守る「牧羊犬」の必要性を訴えている。時には殺人すら厭わずに市民を守る番人だ。
「私の牧羊犬、か」
アルナナはまるで少女のように、くすくす、と笑って、ページをめくった。
——了
こんにちは、舛本つたな です。
『トロル』を読んで頂いてありがとうございます。
本作は長編として構想したものですが、はじめに短編として公開しました。ネット小説という形式を活かして、長編として書く前に皆さんのご意見を聞けたらなぁ〜、という皮算用です。
もし、よろしければ、ふっと沸いた何気ない感想を残して頂けると幸いです。
『攻○機動隊』や『サイコ○ス』が好きなんですね〜、という感じでよろしくお願いします(笑)
色々な人の意見を参考にし、長編として書くか、書くにしても構想を修正するか、を判断したいと考えています。
何卒よろしくおねがいします。




