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西征と東征  作者: 登録情報がありません
第1章西征
7/20

前哨と糧食

対馬に上陸しなかった3万人の元軍は博多に直行した。



一方日本勢も手を拱いていた訳ではない。

対馬からは博多・太宰府に急を知らせる使者が立った。


対馬勢の小太郎と兵衛次郎の2人だ。

宗助国は自分が戻らない場合にと備えていたのだ。


だが、後塵を拝すること、もはや8時間越えである。


元軍のスクーナー船に、追い付き追い越すのは無理だった。


3万人の元軍のうち、さらに1000人の突撃隊が先んじていた。


大都にいる頃、日本にいるスパイの報告は随時、都元帥の耳に入っていた。

一大事の際は、「太宰府に九州御家人が駆けつける」という報告がある。


彼らが集結すれば、博多上陸は手間取る事になるだろう。

上陸地点に橋頭堡を築くのが厄介になってくる。


都元帥「九州地図を持ってくるように」

そこには太い筆跡で九州北部を東から西へ有明海に注ぐ大河が描かれていた。


集まった側近たちに、都元帥は言い放った。

都元帥「この河川を絶対防御戦とし、九州御家人を通すな」


側近A「全部で14の橋があります」

側近B「この神代浮橋が最も要所にある」

側近C「占拠だけだ、防備は後続の部隊がやる」


都元帥が地図の上で指さしたのは……。


筑後川!


博多周辺には「異国警固番役」といい、御家人の守備隊が陣取っていた。

だがその他の地域には、ほとんど警護や守備はされていない。


当時、大陸では南宋が元軍の進軍に頑強に抵抗していた。

南宋の水軍はよく抗戦したが、多勢に無勢、戦局は敗戦一色であった。


そのため、南宋からの難民が、続々と九州に押し寄せていた。

その中に紛れ込んでの上陸である。


肥前国松前郡にある唐津湾などは南宋からの避難民で一杯だった。

擬装した元軍は、唐津湾に真っ昼間から堂々と接岸した。


さらに元軍の偽装工作は徹底的だった。

元軍偽装船から、多数の僧侶たちが、九州に降り立った。


唐津の人々はすっかり騙されてしまった。

庶民A「桜木色の平衣をまとっていらっしゃる」

庶民B「南宋の高僧に違いない」

庶民C「ありがたや、ありがたや」


唐津の地頭がやってきた。

唐津の地頭は松浦党の佐志房だ。


佐志「如何にして唐津を選ばれた?」

元軍「仏教の守護神サラスヴァティーを頼って参りました」

佐志「おおっ、松浦佐用姫の事か」


松浦の者で佐用姫伝説を知らない者はいない。

新羅討伐に赴く大伴 狭手彦を思う余り、七日七晩泣きはらし石になった。


日本全国にある弁財天伝説の本家本元でもある。

弁財天はヒンズー教の女神サラスヴァティーの事である。


佐志房は快く僧侶たちを通した。

僧侶たちは重そうな荷駄を下ろし始めた。


聞けば弁財天の秘仏だという。

村人たちはあっさり信じてしまった。


村人A「厳木に観音堂を建立して下さるそうで」

村人B「荷駄はそのための建材やそうだ」

村人C「ありがたや、ありがたや」


1000人の偽装集団が粛々と峠道を越えた。

すれ違う村人は誰一人疑わない。

相知、岩屋、厳木と峠越え、多久、小城、佐賀と迂回ルートを取った。


やがて街道の先に、大河が見えてきた。

元軍隊長「筑後川だ!」


それぞれの橋を占拠し、用意を周到に進める。

最も主要な橋は神代浮橋である。


こうして先行の突撃隊は、全ての橋を占拠した。

計画によれば、九州御家人に先行する事、1日半の筈だ。


地元の地頭が不審に思い、近づいて来た。

押っ取り刀の所従を数人引き連れている。


所従とは武家の士分のない隷属民の身分の者で武士ではない。

百姓下人より身分が上だが、首級を取っても手柄と認められない。


彼らをぶっ飛ばすのは容易いことだ。

だが先行する突撃隊の任務は、橋の確保で簒奪ではない。


地頭「なんですかね、この騒ぎは?」

元軍部隊はすでに装束を土木人足に代えていた。


元軍「我々は橋を補強しに来た者です」

「近々、九州御家人の薩摩国島津様、肥後国相良様がここをお通りに」


地頭が見わたすと、それらしい測量なども始まっていた。

もちろんそれは投擲兵器の斜角と射程距離の測量である。

だが地頭にそんな知識がある訳ではなかった。


地頭はチラリと人足たちの手や指を見た。

(そう来ると思ったよ)。


抜かりはない、高麗の人足だからだ。

屈強な体躯に地頭は満足したようだ。


万が一に備えて、印判状も用意していたが、そこまで疑ってはいなかった。

地頭「そうでござったか、失礼申した」


地頭は去って行った。

元軍の完璧な日本語に誰も不審には思わない。


元軍は京都で日本語を学んでいたので弱冠京訛りがあった。

これがいかにも下向衆らしい趣きがあったのだ。


コンコン、カンカンッ。

神代浮橋は舟を並べて桁と板を渡したものだ。

流れが速い場所では、流れに負けて弓なりになった。


挿絵(By みてみん)


これを防ぐ方法は上流側から舟橋を引っ張るワイヤーを構築する。

吊り橋を横倒しにしたような格好で、流速抵抗に拮抗出来るようにする。


岸辺に杭が打たれ、ロープが通され、動滑車で引っ張る。

動滑車を使えば仕事量は半分、移動距離は倍で済む。

元軍「ザー、ザー、ザー、ヤオヤー」


挿絵(By みてみん)


いかにも補強であり、実際そうであった。

これなら大軍も一気に橋を渡れるだろう。


だが、誰かが1本でも索張りを切れば……。


元軍900隻の船団は刻々と博多に近づきつつあった。


一方、対馬は完全に元軍の中継基地と化した。

対馬守護代の宗助国は釈放された。

もうジタバタしても始まらない。


当面は元軍支配下で鳴りを潜めるしかなかった。

高麗の合浦からは、民間人が続々とやって来た。

遠征軍の後方支援の為である。


羊も続々と島に上陸して、牧畜が始まった。

ここで羊を育て、屠ったほうが効率的だからだ。

日本人は牛馬は知っていたが羊は初めて見た。


島民「目がイヤだ、目が不愉快だ」

横長の楕円形の瞳孔が気に入らないらしい。


いよいよ元軍900隻の大船団が、博多湾沖合に姿を現した。

博多警固番役は上を下への大騒ぎである。


御家人A「太宰府に急使を早く!」

御家人B「おいおい、なんて数だよ、ありゃあ」

御家人C「ここで手柄を立てて上京のチャンスを掴む!」


元軍は4万人の兵士、一般人の船員を含めば5万人の大所帯である。

これに1日も欠かさず、兵站を送り続けるのだ。


ここで元軍の戦闘糧食を覗いてみよう。

日本にはモンゴル兵の肉食を満たす蓄獣がいない。

戦闘糧食はすべて海上輸送に頼っていた。

モンゴル人の戦闘糧食はいわゆる「モンゴレーション」である。


チャンサンマハ:塩茹で羊肉。

ボールツォグ:ヒツジの脂で揚げたドーナッツ。

アーロール:干しヨーグルト。

ボルツ:ジャーキーの粉砕したモノ。

アイラグ:馬乳酒。


チャンサンマハは塩茹でだが、賞味期限は当日。

ボールツォグ、アーロール、ボルツは日持ちがする。

アイラグは腐敗せず、1週間ぐらいは日持ちした。


1人1日あたり2kgの戦闘糧食を消費するとしよう。

2kgx5万人=10万kg=100トンである。

もっとも大きい元軍の輸送船は1隻あたり300トン(12世紀ダウ船)に達した。

これは積載量にして180トンである。

100トン以上なら、必要充分であるといえるだろう。


この輸送船が、通常+予備+非常用と3隻連なって、派遣軍の後方にひっついていた。

兵站は日本上陸が成功し、現地での畜産が開始されるまで必要だ。


すくなくとも12ヶ月間は。


羊の子供が食肉用に育つまでに12ヶ月が必要だからである。

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