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西征と東征  作者: 登録情報がありません
第1章西征
6/20

元寇日本侵略1:上陸

西はシリア、トルコ、ハンガリーにまで支配下に置く大元王朝。

謎のシリア人大工アブドゥッラーと40人の船工たち。

そのシリアの船大工が外洋航行船を元寇に提供したら?

1274年:文永の役。元寇は博多を侵略する。

九州の詳細な地図を手にして……。

1274年:文永の役。


10月03日元軍が高麗の合浦(がっぽ)を出航。

軍船900隻、兵力約4万人(一般人船員1万人)の大戦力だ。


一人の高麗人が船上に(たたず)んでいた。

洪茶丘(こうちゃきゅう)、彼は高麗の「舟師」で艦隊の編成担当だ。


洪茶丘「900隻!よくもそろえたものよ」


高麗は勿論、北は黒竜江省から南は広東省まで材木をかき集めた。

黒竜江省はモミ、エゾマツ、カラマツの巨木が多い。

広東省はポプラの巨木に恵まれているが材質が柔らかく適材で無かった。


洪茶丘「針葉樹の巨木はすべて伐採した」


黒竜江省では足りず、越境してシベリアのサハの国に入った。

サハの国はモンゴルと混血しており、友好国だ。

しかしシベリアのサハの国は広大だった。


切っても切っても無尽蔵のように針葉樹の森林が続く。

それを馬車鉄道で切り出しては川まで運んだ。


鉄路による運送は古代ギリシャのディオルコスによった。

艀で川を下って、ハバロフスクの港から航走した。


洪茶丘「そしてこの威容だ」


見渡す限り、船また船!

合計5万人もの軍隊が今、港を出て海洋を向かっている。

艦隊の構成はだいたい次の4つの要素に分けられる。


■兵員4万人の生活の場が戦艦だ。

戦艦には軽疾艇(20人乗り)が6隻積載されていた。

戦艦300隻に軽疾艇1800隻(3万6千人分)である。


■騎馬(60頭)を運搬する運搬船「馬船(うまぶね)」。

モンゴルにおいて騎馬が無い騎馬軍団はあり得ない。

1万頭の騎馬が200隻の馬専用貨物船に積載されていた。


■180トン積載可能な400トン級貨物船「糧船(かてぶね)」。

1日2kgの飲糧食5万人分で100トン必要だ。

また馬にも飼葉(かいば)が1日2kg割り当てられた(+10トン)。


■同じく積載量180トンの貨物船「水船(みずぶね)」。

1日2リットルの飲料水5万人分で100トン必要だ。

馬にも飲料水が1日2kg割り当てられた(+10トン)。


船種は「スクーナー」である。

1200年代の北欧外洋船は「コグ船」であった。

「コグ船」は1096年以降の十字軍でも使われた地中海船である。


これに大三角帆を持つ「ダウ船」を合体させた。

「ダウ船」はインド洋貿易で使われた大型船だ。


アラブの大三角帆+北欧外洋船。

これを件のシリア人船大工が調達して完成した。

スクーナーの大艦隊である。


劉復亨(りゅうふくこう)「ここにおられたか、洪茶丘どの」

洪茶丘「征東左副都元帥、劉復亨さま」

船上に左副元帥が上がってきた。

階下で戦略会議が始まろうとしている。


会議は首脳部三人の密談である。

東征(日本侵略)の第一段階は対馬攻略だ。


東征都元帥「対馬を中継基地とする」

右副元帥「守護代:宗助国を調略致します」

左副元帥「略奪、殺傷、放火を厳禁致します」


対馬は唯一無二の海洋中継基地だ。

そこで狼藉を許すワケにはいかなかった。


当時の慣習は「陥落後に3日間の略奪を許す」であった。

始祖チンギス・ハンは富の略奪に最大の幸福を見出したほどだ。


この厳命は異例中の異例である。

不平不満を抑えるために、兵員には「平和報酬」が支払われた。

(平和報酬:今で言う給料の事)。


10月05日対馬に別働隊6千人が上陸・征服。

本隊3万4千人はそのまま博多に直行した。


挿絵(By みてみん)

10月07日九州唐津に突撃隊1千人が偽装上陸。

これは九州御家人の参上を阻止妨害する工作隊である。


10月10日九州博多沖に元軍の全軍団が集結。

戦艦300隻大小艦船600隻が博多湾に遊弋(ゆうよく)している。

そのひときわ大きい戦艦の甲板で戦略会議が開かれていた。


高麗の右副元帥「第六回使節団が湾内を測量した地図です」

測量と水深分布図を漢人の左副元帥が広げた。

筆で書いた原版らしく、多少見にくい。


挿絵(By みてみん)


右副元帥「×印が水深を測定した箇所です」

「これだと見づらいので木版画の多色刷りで詳細を描き加えました」


彼はもう一枚のカラーの地図を見せた。

副官「敵地の海岸線を?しかも水深をどうやって?」


副元帥ら「第六回使節団は博多で一年間留め置かれた」

水深が段階をおいて描かれており、どこまでが浅い深いが一目瞭然である。


「釣り風情を装って地図及び水深を測量していたのだ」

右副元帥「能古島(のこのしま)より先は浅すぎて入れません」


挿絵(By みてみん)


左副元帥「水深10mでは戦艦の船底はギリギリです」

元軍戦艦の喫水線は2~3mだ。

静水面なら問題ないが、過積載や潮汐、船体の揺動がある。

それぞれ2mづつプラスすれば9mは余裕が欲しい。

つまり10mは9mに対して余裕が1mしかなかった。


能古島(のこのしま)より先は戦艦の喫水がギリギリだ。

水深15mの能古島(のこのしま)より外に係留するしかない。


東征都元帥がぬうっと姿を現す。

東征都元帥「浮消波堤とやらを使う時が来たようだな?」


右副元帥「シリア人船大工が既に貨物船に積載しております」

東征都元帥「停泊海域を設定しだい浮消波堤を投入せよ」

右副元帥「ハッ」


浮消波堤とは湾内などで生ずる小波を攪乱して消滅させる構造物だ。

古代から湾内に丸太を筏にしたものを浮かべて消波に尽くしてきた。


アテネの港、ピレウス。ローマの港、オスティアがそうだ。

今回は丸太に遮蔽板ローリングチョッパーを取り付けたモノだ。


これをアンカーで海底に固定して消波を図る。

この浮消波堤の効果により波頭を半減できた。

挿絵(By みてみん)

浮消波堤を二基設置すれば波高は1/4に攪乱できた。


戦艦300隻はこの急ごしらえの人工港に停泊投錨した。


揚陸は揚陸艦から船艇をを出して元軍兵を浜まで運ぶ。

東征都元帥「かねてより選定しておいた橋頭堡を取る!」


一斉に元軍兵を満載した小舟が博多湾に充満した。

勝負は時間との闘いだ、迅速さこそ命だった。


左副元帥「橋頭堡を確保が最優先だ!」

右副元帥「略奪するな!狼藉も厳禁!(はや)きこと風の如くだ」


こうして4万の元軍は、九州博多に上陸。

場所は博多の街ではなく、早良郡の百道原海岸に元軍本隊が上陸した。

挿絵(By みてみん)

早良郡には現在の二級河川室見川がある。

ここに弱冠の港湾施設(土塁港)があり、ここで騎馬輸送船は馬を下船させた。

木製のガントリークレーンに馬を陸揚げするホイストの付いた専用船だ。


10000頭の戦馬を1隻に付き60頭に分割して積載してきたのだ。

170隻余の馬戦用の輸送船が次々と戦馬を上陸させた。


モンゴル兵は馬の上で生活していると言われている。

馬がいない元軍は「戦車がいない戦車兵」のようなものだ。

5隻目が接岸して、馬を降ろしている時であった。

すでに300騎の騎馬隊が具足とともに揚陸されている。


港湾守備隊の所従たちがわらわらと、押っ取り刀で駆け付けた。

その様子を見ると、正規軍にはとても見えない貧相な身支度だ。


モンゴル軍士官A「鎌倉武士ではないようだが・・・・・・」

モンゴル軍士官B「雑役の者(下人)が見張りに付いていると聞く」

モンゴル軍士官C「よし、今のうちに上陸するぞ」


上陸したのは大元帝国の精鋭たるモンゴル騎馬隊だ。

所従たちは、あっという間に蹴散らされてしまった。


元軍隊長「深追いするな!」

元軍の戦術は奇襲と待ち伏せだ。、


元々深追いする東欧軍を全滅させた戦術が待ち伏せだった。

東欧軍は逃げ惑う元軍兵を深追いして陣地から遠く離れる。


重装騎兵は鎧の重みで、馬の体力がすぐ限界に達する。

精魂尽き果てたところを見計らって皆殺しにした。


東欧軍はこの奸計に面白いように引っ掛かった。

元軍隊長「蹴散らされたと見せかけて……」


モンゴル軍士官A「実は海岸防風林の奥で待ち伏せか!」

モンゴル軍士官B「我々の待ち伏せ攻撃と同じ手だ!」

モンゴル軍士官C「その手には引っ掛からんぞ!」


実は、倭兵は異国警固番役に無理矢理任ぜられた地域の所従たちであった。

所従とは地頭に使える士分のない兵士である。


異国警固番役は損な役回りだ。

いつ来るかも知れない元軍を果てしなく待つ。


やがてその役目は士分のない所従に回ってきた。

士分でないので首級による恩賞もない。


だんだん規律が緩んできて、だらしなーくなっていた矢先だった。

彼らは、最も恐れていた鎌倉武士ではなかったのだ。


モンゴル騎馬隊の馬は、日本馬の祖先とも言えるモンゴル種だ。


これらは東ヨーロッパ軍の戦馬ディストリエに比べると見劣りする。

彼らは草原を疾駆する為にO脚に品種改良された軍馬だ。

だが、日本の丘陵地帯ではバランスが悪く、踵を返すとこけてしまう。

日本の馬(木曽馬基準)はX脚なので、丘陵地帯でも大丈夫なのだ。


元軍は日本の地形に合わせて、日本馬(木曽馬)の祖先を連れてきていた。

日本馬の祖先、すなわちモンゴル馬だ。

元軍は日本の地勢を徹底的に調べ上げていた。


百道原の砂浜海岸にも続々と歩兵が揚陸艇から吐き出されてきた。

十人隊アルバン、百人隊ジャグンと続々上陸する。

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

当時の日本は一族、郎党、歩卒、所従と雑多に武士団を構成していた。

頭目を討ち取れば組織も命令系統も崩壊した。


元軍は十人隊アルバンが集まり、百人隊ジャグンを構成する。

頭目が倒されても、次の頭目が代行して指揮を執った。

組織も命令系統も保持していた。


当時の元軍のほうが時代の慣習や(しがらみ)に捕らわれず異常だったのだ。

それはまるで現在の軍隊のような構成であった。


元軍歩兵らは弓兵、投擲隊、槍兵、青竜刀隊という構成だ。

他にも何やら、見た事もない兵器が続々と陸揚げされてきた。


日本軍の偵察隊は、元軍を遠巻きにしながら、絵図でそれを描き写した。


百道原の砂浜海岸には漁村もある。

「让一下!」「Намайг дага!」

猛然と駆け抜ける元軍兵たち。


元軍は唖然とする平民に目もくれない。

略奪も狼藉もなく、素早く散開した。


上陸作戦の(かなめ)橋頭堡(きょうとうほ)だ。

早良郡に上陸するや、百道原から3km東方の赤坂に橋頭堡を築いた。

ここは敵地だ、すぐさま防御円陣を組む。


元軍船からとんでもないものが陸揚げされてきた。

元国東北の大慶(ターチン)油田のタール(アスファルト・ピッチ)である。

これに兵隊や馬が入り込むともう抜けられない、転ぶと動けない。

バリケードは視認出来るが、これは叶わなかった。


その沖に、2本マストに大三角帆を付けた、アラブ風の(ダウ)船が投錨した。


挿絵(By みてみん)


大三角帆は中東ダウ船のもの、船体は北欧コグ船のものだ。

元軍らしい全世界いいとこ取りの艤装である。

シリア人船大工謹製、東征都元帥の専用船。


小型の連絡艇(ビンエース)から降り立った貴人はその人であった。


忻都(きんと)東征都元帥「まずは橋頭堡を取ったぞ」

「鎌倉武士どもの趨勢(すうせい)はどうか?」


高麗の右副元帥「本隊は息の浜に集結中です」

漢人の左副元帥「援軍の九州御家人らは筑後川にて足止めに成功」


念入りに調べ上げた地図で、(おき)の浜と筑後川を指さした。

漢人の左副元帥と高麗人の右副元帥はうなずき合った。作戦通りである。


薩摩や日向、大隅など南九州の御家人の援軍は厄介な存在だった。

筑後川は難所ゆえ橋を作っても流され、神代浮橋が架橋されていた。


ここで足止めすれば渡れず、もう九州御家人はどうする事も出来ない。

博多に集まった日本軍本隊を撃破すれば良いのだ。

実際の元寇では元軍は鎌倉武士にしこたまやられています。

対馬からの急使が太宰府に駆け込み、「元寇来たる」の報に接したからです。

これにより準備態勢が整い、迎撃態勢を持って元軍に臨んでいます。

菊池武房の赤坂の戦い。

鳥飼潟の戦い。

百道原・姪浜の戦い。


これはIF戦記なので、対馬からの急使は間に合いません。

よって、これらの戦いは起きません。

鎌倉武士の異常な強さを懸念した元軍は徹底的に接近戦を避けます。

詳しくは「もし元寇が台風で全滅しなかったら?蛇足:鎌倉武士」をご覧下さい。


逆に元軍がてつはうを使って夜襲に出ます。

次回は元寇日本侵略2です。

「てつはう」登場!

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