理想の姿
私は、小学校一年生の頃、大きくなったら「綺麗なお嫁さん」になりたいと思っていた。私だけでなく、他の同級生の女の子たちも皆、その頃は私と同じ夢を持っていて、それぞれの心の内に、華やかな将来の理想の自分の姿を思い描いていた。
女の子は、いくつの時も、いくつになっても、綺麗でいたいし、周りから愛され、祝福を受けていたいものである。
それから数年経ち、九九やたくさんの漢字を覚える頃になると、「綺麗なお嫁さん」になるだけでなく、「コーヒー屋さん」にもなりたいと私は思うようになった。
きっかけは、その頃に初めて鑑賞したゴッホの『夜のカフェテラス』だった。
ゴッホの絵は、どれも印象的で美しいが、私はこの『夜のカフェテラス』が幼少の頃からとりわけ好きで、絵画に映しだされている世界そのものが、私の理想郷のように感じられた。
不思議なもので、幼少の頃に感動したことや、思い描いたイメージというものは、大人になってもなかなか色褪せないものである。
時計の針を一気に進める。
大学二年生になった頃、私は、東京の華やかな街の、お洒落な通り道に立っている夜のカフェでアルバイトをしていた。
小さな頃に思い描いていた夢が一つ叶えられたような気がして、当時は、そこで働けるだけで幸せな気分に浸れた。
少しだけ現実的な話をすると、夜、とりわけ深夜に訪れる客には、心に闇を抱えている者が多かった。
私が働いていたカフェは、個人経営のこじんまりとした店だったから、客と店員が、とりとめのない世間話しに夢中になることがしょっちゅうあった。
私もその例に漏れず、常連客との間で、とりとめのない話に耽ることが私の楽しみの一つであった。
その中で、週に二、三度の頻度で店に訪れにきていた美容整形の医師が、私の印象に今も強く残っている。
男は、五十代の半ば頃で、いつも品の良い服を身に纏い、紳士的な態度で接してくれる人間だった。顔は浅黒く、いつも疲れていて、頰も痩せこけていたが、見てくれは決して悪くなかった。店長からは、彼は都内でも有数の優秀な美容整形外科医だと聞いていた。
私にとって、この男は上客だった。口を開けばいつも興味深い話を聞かせてくれ、話が終わる度に不思議な余韻を私に残してくれたからだ。
男は、造花を嗜んでいた。自分で作るだけでなく、高価なものを職人に作らせて、それを買い取ることもしばしばだった。
一度、彼の部屋の写真を見せてもらったことがあるが、そこには、様々な形や色をした美しい造花が所狭しと部屋中に飾られていた。
「重力に負けないからね。」
彼は、少し哀しそうな表情で私に話した。
「僕は、これまでに数え切れないほどの女性の顔に触れてきた。僕の仕事は、彼女達の顔から皺という皺を取り除いてあげて、少しでも美しく見えるように、不要なところを削り、形を整えてあげることだ。
けれど、重力に逆らうことはできないんだ。しばらくすると、こいつのせいで、また顔に皺が戻ってくる。
それに、整形後の顔がいまいち気に入らないというクレームだってある。
それで、一度施術した後も定期的に『メンテナンス』をしに彼女達はやってくるんだ。
それが、僕を疲れさせるんだ。」
「つまり、一度手を加えれば、そのままの綺麗な形を保ち続けることができるから、造花がお好きということなのですね。」
「ああ、その通りだ。」
彼は紅茶をひと口、口に含んだ。
「でも、結局はまがい物の花なんだ。すぐに枯れて散ってしまうけど、自然に咲いた花の方が、よほど綺麗で魅力的に僕には映るね。」
「それなら、どうしてあんなに造花に凝っていらっしゃるの?造花じゃなくて、自然に咲いたお花でお部屋中をいっぱいにしても良いじゃない。」
彼は、しばしの間、沈黙した。そしてゆっくりと口を開いた。
「願いを込めているのさ。彼女達が、本当の意味で自分の望む姿になれますように、ってね。」
私には、彼が何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。
キョトンとして彼の顔を眺めている私をしばらく見つめた後、彼は言葉を続けた。
「僕には、どうしても忘れることができない人がいてね。その子のことで今も時々苦しむことがある。」
彼は上着のポケットから煙草を取り出し、それに火をつけた。
「少しだけ、話しても良いかな。」
彼は煙草を口に咥え、煙をゆっくり吐くと、静かに語り始めた。
僕がこの仕事に就いて結構な年月が経ち、技術的にも経済的にも安定した時期に入ろうとしていた頃、一人の小学生時代からの同級生が僕の目の前に現れた。
彼女は、中学校の音楽の先生で、ピアノが上手な人だった。
僕自身は、心の中では、いつも訪れる患者を「良いお客」と、そうでない「悪いお客」とに区別する癖があってね。それによれば、彼女は、僕の中では間違いなく「悪いお客」だった。理由は単純で、彼女が美人だったからだ。
もともと顔の整った人に施術を施し、より綺麗にするのは、技術的に難しいことはもちろんだが、それ以上に精神的にどうしても気が引けてしまうんだ。
『こんなに綺麗な顔を持っているのにどうして?』
『神様があなたに特別に与えてくださった恩恵をどうして大事にしないんだい?』
といった感じでね。実際、その時も同じことを彼女に思ったよ。
でも、彼女の意志は固かった。彼女は自分の顔の皺をすっかり取り除いてほしい、と僕に言った。
あの時は、僕も彼女も四十を過ぎた頃だったし、正直に言って、彼女は実際の年齢よりもずっと若く見えたから、とんでもない要求だと思ったよ。
それで、会ってしばらく話す内に、僕は彼女が「普通じゃない」と思うようになった。彼女は明らかに、精神的に問題を抱えていたんだ。
彼女がなぜ、今よりも若く見られたいと思ったと思う?それは、教え子の中学校二年生の男の子に恋をしていたからなんだ。
その男の子のことを話す時の彼女の目は、キラキラと輝いていてね、表情も嬉々としながらも情熱的だった。僕は、それを見て、それまですっかり忘れていた彼女に関する記憶が頭の中に蘇ってきたんだ。
彼女は、まだほんの小さかった小学生の頃から、年下の男の子が大好きな女の子だった。
初めは、小さい子の面倒を見るのが好きな子なんだと、僕や周りの生徒、それから大人たちも考えていた。
でも、しばらく時間が経つにつれて、どうやらその考えは間違いだとみんなが気付くようになった。
彼女は、明らかに恋愛対象として、性的な対象として男の子達を眺め、接していたからだ。
今でも強烈に印象に残っているのは、小学校の五年生の時だ。
放課後、学校の裏庭で同級生と隠れんぼをしていた時だった。僕は自分が隠れる番だったから、裏庭の小屋の中の小さな箱の中に隠れていた。すると、しばらくして小屋の中に誰かが入ってきた。僕は見つけ役が来たのかと思って箱の穴から小屋の中を見て、息を殺した。
それは、僕の遊び相手ではなく、彼女と二年生くらいの可愛いらしい男の子だった。
彼女は、小屋の中で男の子の背中をギュッと両手で抱きしめると、突然、男の子の唇にキスをしはじめた。男の子は最初は抵抗していたけど、彼女は学校でも一、二を争うくらいの美少女だったし、それぐらいの年の男の子にとっては、三つ年上の女の子には怖くて逆らえなかったんだろう。最後には文字通り、彼女のされるがままだった。
彼女は、男の子に何度も何度も繰り返しキスをしていた。両手は、男の子の背中から肩、腰、それからお腹へと、絶えず男の子の上半身をまさぐるように動いていた。
僕は箱の丸い穴から、言葉を失って彼女と男の子の様子を眺めていた。
彼女は自分の唇を男の子の唇から離す度に、その情熱的で大きく見開いた目を男の子の顔に注いでいた。彼女の表情は燃えるように興奮していた。
時間にしておよそ二、三分くらいの出来事だったけど、僕にとってはまさに気の遠くなるほど長い時間だった。
彼女と男の子の「情事」は、僕の遊び相手が小屋の中に入ってきた時、終わりを告げた。彼女は声を上げて驚き、僕の同級生の顔を見ると、急いで男の子の手を引いて、小屋から出て行ってしまった。
僕は、その数秒後に彼に見つかってしまったが、彼からの「あいつら、何やってたの?」という質問には正直には答えず、
「さあ。ゴニョゴニョ小屋の中で内緒話してただけだよ。」
と言って、その場を適当に誤魔化した。
でも、あの時の光景はトラウマのように僕の目に焼き付いて離れようとしなかった。しばらくは彼女の顔を見るたびにあの時の光景がフラッシュバックしてきて、頭の中から出て行こうとしなかった。
ようやくあの時の出来事を忘れることができたのは、中学校に入学して毎日が飛ぶように忙しくなった頃だった。
でも、彼女の年下の男の子に対する情熱は冷めるどころか、ますます燃え上がっていった。
事件が起こったのは、中学三年生の夏休みが終わった直後だった。
彼女が妊娠したらしい、という噂が校内を駆け巡った。
相手は、二つ年下の男の子で、隣町に住む彼の従兄弟だという。
僕もそれまでに何度かその男の子を見たことがあった。彼女に負けないくらい、美しい顔をした少年だった。
まもなく、彼女は学校を1ヶ月近く休むことになった。
お腹の中の赤ちゃんは堕ろすこととなった。だが、彼女は絶対に嫌だと暴れて泣き叫んだらしく、親からの懸命な説得によって、泣きべそをかきながら、ようやく承諾したという。
ちょうど、受験シーズンに入っていたことが吉と出た。彼女が学校に戻ってきた頃には、僕も含め、みんな受験勉強に忙しくてそれどころではなかった。それで、まもなく彼女の身の回りに起きたことは風化して、僕たちの間で忘れ去られてしまった。
そして、半年後には、僕たちはそれぞれの高校に進学した。彼女とは住んでいる場所がそれほど離れていなかったから、たまにお互いが相手の姿を目にすることはあった。
でも、彼女は小さな頃からピアノの先生になるのが夢だったし、学生時代を通じてピアノの練習に熱心に取り組んでいたし、僕は僕で、勉強や部活動に忙しかったから、お互いに関わることはほとんどなくなってしまった。
それから二十年以上経過して、こうして病院で再開した時も彼女は、僕のことを覚えてくれていた。
僕は、彼女の幼少時代に想いを馳せた。
もし、僕がこの仕事を引き受けなかったとしても、彼女は別の整形外科医のところに行って手術を受けることになるだろう。
それなら、幼馴染の僕の手で、責任を持って引き受けよう。僕はそう考えた。
「ごめんなさい。でも、好きで好きで仕方ないの。どうしても、自分の気持ちを抑えることができないの。」
彼女は、哀しそうな声で僕に言った。
僕は、かつて小学校の裏庭の小屋の中で見た光景には一切触れずに、彼女に教え諭すように、そして、やっぱり施術をしないでおくと僕に言ってくれることを願いながら、注意深く言葉を口にした。
「でも、もし、その子に手を出して、それが世間にバレてもみなよ。君は犯罪者として後ろ指を指されて、大手を振って道を歩くことはできなくなるぞ。
まして、君は曲がりなりにも学校の先生じゃないか。ある意味、世間の模範とならなければならないのに...。
年下趣味は想像の中だけですませておくべきじゃないかな。
それに、重要な点は、君の顔から皺をなくしたところで、その男の子は君のことを好きになってくれるとは限らないぞ。」
彼女は、僕の言葉を黙って聞いていた。
彼女は、特に反論はしなかった。
ただ、ぼそりと呟くように言った。
「...あの子の望む姿になりたいの。
たとえ、なれなくても少しでもその姿に近付きたいの。」
僕は静かに溜息をついた。
もう、彼女には何も言わなかった。
一週間後、僕は彼女の顔に施術を施した。
施術はうまくいった。もともと美人で若々しく、ほとんど皺の目立たなかった彼女の顔は、さらに若々しくなり、大学生だと言われても信じて疑わない容姿になった。
彼女は自分の新しい容姿に満足していた。
僕は、歯痒いような、悔しいような気持ちで鏡に写る彼女の満足そうな美しい笑顔を眺めていた。
それから間もなくして、僕の不安は的中することとなった。
彼女は教え子の生徒に猥褻行為をはたらいたとしてニュースや新聞で報じられ、学校を退職させられた。
更に二ヶ月後、彼女は首を吊って自殺しているところを家族に発見された。
僕は、悔しさと罪の意識で涙が止まらなかった。仕事の方は、一か月ほど休んだ。
彼女が美容整形をしたことは誰も知らなかった。もし、そのことを指摘したとしても誰も信じようとはしなかっただろう。
施術なんかしなくても、充分に美しく、若々しく見えたから。
彼女の死後、葬式が執り行われた際に、僕は彼女の家族から、彼女に関する新たな情報を耳にした。
彼女は三人兄妹の末っ子だったが、実は彼女には三つ下の弟がいたこと。
彼女は、その弟を大変に可愛がっていたこと。それから、その弟は彼女が小学校に入学した直後に病気で亡くなったこと。
「あの子はね、亡くなった弟によく折紙で造花を作ってあげてたの。それがなかなか上手な出来映えでね。
弟もあの子のことが大好きだったの。
『お姉ちゃんの造った花が一番きれい。』って言って、病気で息を引き取るその時まで、あの子の折った造花を握りしめていたわ。
あの子は、弟の欲しがる色の花を次から次へと折ってあげててね。そうすれば、弟の病気が少しでも良くなると信じていたのよ。
弟が亡くなった時、
『あの子の欲しがる形と色をした花を全部折ってあげられなかったから、あの子はいなくなっちゃったの。』
って言って、ずっと泣いてたわ。」
僕は、彼女の母親から、彼女が幼かった頃、亡くなった弟のために折った造花を見せてくれた。
赤色、緑色、白色。それぞれの色で折られた造花は、四十年近く経った今も綺麗な形で咲き誇っていた。
僕の脳裏に、ふと小学生時代の、あの学校の裏庭の小屋の中での出来事がよぎった。
初めは、亡くなった弟を思い出し、その子を愛でるように年下の男の子に接していた彼女。
それが、体が思春期を迎えるにつれ、いつしか親愛の情から性愛の情へと変わってしまったのだろう。彼女自身、きっとその変化に戸惑いを覚えていたに違いない。
でも、幼かった彼女は、自分ではその感情を整理し、コントロールすることができなかった。そして、気付いた時には、自分の嗜好にどんどん拍車がかかってしまっていた。
僕は、彼女の母親が僕に見せてくれた、彼女の折った造花の形を思い出し、自分でも作ってみた。
出来は悪くなかった。
さらに、何度も何度も作った。
僕は、彼女が自分の弟の望みを叶えてあげるために花を作ったのと同じように、これまで僕が仕事で関わってきた女性達が、本当の意味で自分の望みを叶えられるように花をたくさん作った。より美しい物を作れるように、時にはプロの作品を購入して参考にしたりしてね。
まがい物の顔に、まがい物の花。
たくさんの美しいものに囲まれているけれど、
僕自身の心は今も満たされていない。