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いわくつき物件にご用心!?  作者: umo
第一章「天井裏からこんにちは」
2/5

[2]お隣さん? (前編)

[2]


 引っ越し業者が去ってから二時間弱。

 組み立て式の棚やベッドに思わぬ苦戦をしたり冷蔵庫のアースの繋ぎ方に悩んだりということがあったが、だいぶ荷物の整理も進んできた。もう数十分ぐらいでひと段落つきそうだ。

 引っ越しのあんちゃんの言葉はもう気にしていない。あれは去り際の定型句だ。エアコンが既に設置されていたのをうっかり忘れて、そのまま言ってしまったということだろう。

 部屋が冷えていた件については……保留だ保留。あのときはどうかしていた。落ち着いて考えてみれば特別害があったわけではないし、これから暖かくなってくる季節、部屋が涼しくなるのはいいことだ。

 幽霊がどうとかはあえて考えの外に置く。そんな存在がこの部屋にいようがいまいが、見えない俺には関係のないことだ。

 俺に害や悪影響があるかないか。そこだけが係争点で、俺はこの部屋が冷える不思議現象に対し、『少なくとも冬が来るまでは問題ない』という判決を下した。

 そんなわけで、友人一同に「お前の考え方って、幸せだよな」と絶賛を受けるほど精錬された精神構造をしている俺は、端から転居など考えもせず、荷解きを続けているのであった。

 ――とりあえず今日と明日は荷物整理と必要なものの買い足し、落ち着き次第にバイト探して……

 と今後の計画を立てつつ段ボールを開封していた俺の耳に、奇妙な音が鳴り響いた。

 ――パキッ

「…………」

 音源は天井辺りだろうか。これぐらいじゃ驚く気にもなれない。

 それにこの乾いた木片を折るような音。確かこれは、『木鳴り』ってやつだ。詳しくは知らないが……木材が乾燥して、収縮する際に出るとかなんとか。

 そういえば『いわく』のひとつに「奇妙な物音が聞こえる」というものがあった。

 まさか、前の住人たちはこれをお化けの仕業だと思ったんじゃあるまいな?

 なんてことを考え、手を止めることもなく荷解きを続けていると、

 ――カタ……カタカタ……

 また物音だ。今度も上から聞こえる。

 汚れが沁みついた板張りの天井を見上げるが、もちろん何も変わったところはない。

 古いアパートだから壁や床も薄いのだろう。二階の住人がなにかをしているに違いない。

 おっと、住人で思い出した。引っ越しのあいさつ回りしなきゃな。とりあえずは隣と真上だけでいいよな?

 今朝の内に準備しておいた手土産の紙袋を手に取り、入っていた三つの箱を取り出す。中身はそれぞれ実家の近くの洋菓子店で買ったロールケーキだ。俺の大好物でもある。

 だいぶ冷えてきた冷凍庫へ保冷剤を放り込む。ついでに箱のひとつもそのまま冷蔵庫へ入れておいた。

 それから残った二つの箱をそれぞれ紙袋に入れ直し、暗くならないうちにと腰を上げる。

 すると、

 ――カチャ……カチャ……

 やはり上から、今度は陶器を打ち合わせるような音が聞こえた。二階の人、食器でも洗ってるのか? その程度の音まで漏れてくるなら、これは相当気をつけないとならないんだが。夜は音楽がかけれないな……。

 ということで物音なんて気にせず、俺は隣の部屋へ向かう。

 上着も羽織らず部屋着で外に出てしまったが、やはり少し寒い。春は一体いつ来るのやら、暦なんて当てにならないな。とにかく、さっさと要件を済ませるとしようか。

 隣室のネームプレートには『上下』と書かれていた。なんて読むんだろう。ウエシタ? ジョウゲ? カミシモ? そもそも人の名前かどうかも怪しい。

 まあ本人に訊ねれば済むことかと思考を打ち切り、呼び鈴を鳴らす。

 ………………。

 出ねえ。

 今度は扉を軽く叩き、

「すみません! 隣に越して来た者ですが」

 声を張り上げてみるも、聞こえるのは背後の道路を車がゆっくりと通り過ぎる音だけだ。

 留守だろうか? よくよく考えてみれば現在時刻は平日の昼間だ。春休み中の学生か専業主婦でもなければ、いないことの方が多いだろう。

 と、出直そうとしたところで、部屋の中から物音がした。次いで、声がかけられる。

「あーい。ちょっと待ちなー」

 若そうな女の人の声だ。なんともやる気がなさそうではあるが。

 待つこと十数秒、扉が開けられる音がしていよいよお隣さんとの初対面――――

「へいへい。どちらさんで?」

「……や、あの。お取り込み中なら出直しますが?」

 お隣さんの姿を認めた瞬間、思わずそう言ってしまった。

 彼女は声から想像できる通りの若い……といっても俺よりだいぶ上……二十代半ばか後半ぐらいの女性だったのだが、なんというか、その、刺激的というか扇情的というか、非常に目に毒な格好をしていらっしゃった。

 ぶっちゃけて言えば、バスタオル一枚だった。

 頭の頂点でざっくばらんに結ばれた、しっとりと濡れた黒い髪。そこから仄かに漂う湯気。微かに上気した頬は官能的なものを感じさせ、そうして見るときつく釣り上がった目も、ある種の人間には堪らない興奮を覚えさせるに違いないと思えてくる。

 整った顔立ちに負けず劣らず、スタイルも抜群だ。173センチある俺よりも長身だが、それでいて体格のバランスがいい。

 女性らしさを感じる丸みを帯びた肩から伸びる腕は理想的な肉付きで、主張の激しい胸を押さえつけるように組まれている。腕に潰される形となっているそれは髪から滴り落ちるしずくの受け皿となり、雄大な双子山に囲まれた湖を形成していた。

 そこから視線を下ろすと、濡れて肌に張り付いたバスタオルが優美な双曲線を描いており、その下の丸いヒップラインを強調している。そして腿を伝うしずくの軌跡は長く伸び、健康的な脚線が目にまぶしく映った。

 モデルをやっていたと言われてもまったく疑う余地のない美女が、バスタオル一枚を身に纏い、ドアに凭れかかって仁王立ちしている。

 たった今まで風呂に入ってましたと言わんばかりの格好に、俺はその艶めかしい肢体を嘗めまわすように見詰めて……じゃなくて、至って常識的な反応として目を逸らしながら(でもやっぱりちらちらと盗み見ながら)出直しを提案したわけだが、

「んん? 別に構わねえよ。見られて減るもんじゃねえしな」

 おっとこまえな返答である。姐御とか姐さんとか呼びたくなってくるな。

 でもこのアパートの前の道路は、周辺住民しか利用しないような路地とはいえ、駅にほど近いこともあってそれなりに人も通る。

 ここはさっさと用事を済ませて引っ込んでもらうのが得策か。できればこのようなお美しいお姐さんとはじっくりねっとりとお話ししたいところではあったけれども。

「まあ気にしないならいいですが。改めましてこんにちは、今日、隣に越してきた瀬古井せこい青磁せいじといいます」

 できるだけ胸に視線を送らないように挨拶すると、姐御は「おぉ」と感心したように声を上げた。

「少年がお化け部屋の今回の入居者か。半年ぶりの犠牲者となるわけだな」

「お化け部屋って……」

 すごく不吉で失礼なことを楽しそうに言う人だなおい。

 しかし、そうか……いわくつき物件の噂はアパート住人にも伝わってるんだな。厄が移るとか言って変に避けられなきゃいいけど。

 俺が引き攣った顔でどう反応を返すべきか迷っている間、お隣の姐御は俺の顔をまじまじと見詰めてきた。なんだか値踏みされてる感じがするのは気のせいだろうか。

 よくわからんが……とりあえずお化け部屋だの犠牲者だのについてはスルー、渡す物を渡してひとまず引っ込んでもらおう。あまりに目の毒で俺がつらい。

 俺はふたつ持っていた紙袋のうち、ひとつを姐御に差し出した。

「よければこれ、どうぞ。ロールケーキです」

「へえ、わざわざ手土産まで持ってくるとは感心じゃないか。最近のやつはろくに挨拶にも来ねえからなァ」

 嬉しそうに受け取ってくれたのはいいけど、この人に常識を語られるのはちょっと違和感があるよなあ……。まだ第一印象でしかないけど、なんか元ヤンキーっぽいし。レディースの族長とか過去にやってそう。

 なんて失礼な感想を抱いていると、姐御がとんでもないことを言い出した。

「立ち話もなんだな。ちょっと上がっていきな。茶ぐらいは出してやる」

「は? いや、でも……」

「ガキが遠慮してんじゃねえよ。つーかここじゃあたしが寒いんだよ。おら、とっとと上がりな、少年」

 姐御は顎をしゃくって部屋の中に入るよう促した。

 っていうかガキって……。俺はそんなに幼く見える容姿はしていないつもりだ。それに遠慮しているというよりは気が引けてるんだが……。そして寒いのはあんた自身の責任だ。

 なんだかんだ心の中で文句をつけながらも、「じゃあ、折角なので」とか言いながら上がらせてもらうことにした。すれ違う際に漂ってきたシャンプーのいい香りは、脳の記憶野にしっかりと留めておいた。

 ――まあ、初対面の女性の部屋に上がり込むのに下心がないとは言わない。むしろ下心がほとんどのウェイトを占めている。好みド真ん中ではないが、美人さんの知り合いは多いに越したことはないしな。性格も、少なくとも破綻はしていないようだし。

 ……ま、上がったのにはもう一つ理由があるといえばあるんだけど。

 中に入ってみると、部屋の間取りは俺のところと同じということが分かった。玄関を入って右手に洗面所と浴室、左手にトイレ。奥への十畳のワンルームに続く途中にキッチンが設置されている。

 肝心の十畳間プライベートルームに入っての第一印象だが……拍子抜けするほど普通だというのが正直な感想だ。

「適当なところに座ってな」

 言われ、テーブルの前の座布団に腰を下ろす。それから姐御が洗面所の方へ姿を消したので、俺は遠慮なく部屋を見渡し始めた。

 可愛らしい調度品などはほとんどないが、女性らしさに欠ける代わりにすごく清潔にしてあるのが分かる。意外に綺麗好きのようだ。もっとこう、ビールの空き缶やら脱ぎ散らかした下着やらが散乱しているようなイメージがあったんだが。さすがに偏見が過ぎたか。

 ただし、ひとつだけやたらと目につくものがあった。

 神棚。

 どうしてだか知らないが、北側の壁――その向こう側に洗面所のあるところ――の上の方に神棚が設置されていた。

 女性の一人暮らしの部屋に神棚はさすがに違和感がある。まあ古臭いアパートなので、そういう意味では調和していると言えなくもないのだが、洋室にはちょっとどうなんだろう。

 と、そこで洗面所の扉が開く音がしたので、慌てて居住まいを正す。

 着替えるの早いな――と思って振り向くと、再び目に毒な光景が映った。

 胸元がざっくりと開いたタンクトップに、綺麗な生足を惜しげもなくさらすホットパンツ。よく似合ってるとは思うが、さっきとあまり露出度が変わらないのは気のせいだろうか。っていうか寒くないのか。そう思っていたらどこからか取り出したパーカーを羽織った。それでも胸元が露出したままだが、いいのか。いや、俺としてはいいんだけど。大歓迎だけど。

 姐さんはまずキッチンに立ってやかんを火にかけ、それから俺の対面の座布団に腰を下ろした。うーん、残念。この位置からじゃ美麗な御御足おみあしが拝めないじゃないか。仕方ないのでタンクトップを押し上げる豊満なバストだけで我慢するとしよう。

 そんな邪な考えは一切表情に出さず、俺は手始めに問い掛ける。

「それで、え……っと、ウエシタさん?」

「あ? 誰だそりゃ。あたしの名前はジョウゲだよ。上下じょうげさくら」

 さくらさん……いや、さくら姐さんか。覚えておこう。

 下の名前の方を気にする心とは裏腹に、口では苗字の方に食いついてみる。

「あれ、ジョウゲって読むんですか。変わった苗字ですね」

「まァ、よく言われるな。でも確か、中国地方のどっかにも同じ名前の地名があったはずだぜ」

 元ヤンの姐御に薀蓄を語られるの図。ちょっとシュールだ。いや、元ヤンとは誰も言ってないけど、雰囲気的に。

「んで、少年の名前は……『ズルイ』だったか?」

「『瀬古井セコイ』です。……わざと言ってんでしょ」

「はははっ、バレたか」

 さくら姐さんは快活に笑い、続けて聞いてきた。

「で、少年は大学生か?」

「苗字をネタにしといて結局『少年』呼ばわりっすか。俺は今年から大学生です」

「呼び方なんてどうでもいいだろー。大学っつうと近くのあそこか? なかなか頭良いんだな、少年は」

 彼女の言う通り、俺の合格した大学は全国的にも結構ハイレベルなところだ。そうでもなければ親が独り暮らしを許してくれなかったので頑張ったわけだが。

「まあ、頭が良いかはなんとも言えませんけどね。大学の授業は高校までの勉強とは違うっていうし」

「はん、謙虚だね。そこは自信満々に『首席で卒業してみせます』ぐらい言ったらどうだ?」

「――へえ、自信のある男性が好みなんですか」

 わざとらしくにやりと笑って言ってやると、

「残念ながらあたしに年下趣味はないよ。最低でも自分の身で稼げるようになってから出直しな。そしたら『青年』と呼び改めてやらァ」

 と、適当に手をひらひら振られながら切り捨てられた。

 言い返そうとしたところでやかんが湯気を吹き始め、さくら姐さんは席を立ってしまった。

 ……うーん、あの容姿と年齢なら当然というべきか、男のあしらいに慣れてる感じだな。手ごわそうな相手だ……って、別に俺も本気で口説くつもりはないんだが。

 キッチンに立つ姐さんの後ろ姿(主に足とかお尻とか)を凝視しつつそんなことを思う。

 少なくとも四年はこのアパートに住むことになるのだろうし、ご近所さんとの良好な関係は結んでおくに越したことはない。

 ――相手もそれを望んでいれば、の話だが。

 しばらくして姐さんがティーセットとロールケーキの乗った皿を二人分運んできた。ロールケーキといっても、もちろん丸々一本を買ってきて渡したわけではない。姐さんに渡した分は、ふた切れになったこれで全部だ。

「ほらよ。“おたせ”で悪いけど、まあ味わって食え」

「はい。いただきます」

 俺が持ってきた手土産を出すのに、乱暴な口調ながらもわざわざ断りを入れるあたり、ガサツそうな見た目とは裏腹に律儀で常識のある人なのかもしれない。

 それに飲み物も至極まっとうな、暖かい紅茶が差し出された。湯気とともにいい香りが部屋に漂い始める。俺は銘柄を当てられるほどには詳しくないのだが、これはなかなかいい茶葉を使っていると思えた。間違ってもインスタントのティーパックなどには出せない、深みのある香りだ。

 水道水か、もしくは素で缶ビールでも出されるかと思った、なんて口に出すとさすがに怒られるだろうか?

 まずはロールケーキを一口。ふんわりと柔らかく、それでいてフォークを刺しても崩れないような微妙な匙加減で巻かれたスポンジ。その合間にたっぷりと塗られた生クリームは口がとろけるほどに甘いが、喉に落ちた後は不思議と後を引かず、続けていくらでも食べられる。甘いものが苦手な人というのは口の中にきつい甘さが残るのが特に嫌だというが、これならば問題なく頂けるはずだ。

 フルーツもなにも入っていないシンプルなロールケーキだが、だからこそスポンジとクリームというたったの二種の素材が最高の状態で口の中で混ざり合うことができるのかもしれない。

 俺としては昔から食べ慣れてる味なんだが、うん、相変わらずうまい。やっぱり今朝一番に買ってきた甲斐があったな。

 それから紅茶に口をつける。

 おっ、悪くない。ロールケーキの甘さとうまいこと調和して、口の中が濁らない。それでいて喉に渋みも全く残らない絶妙な濃さだ。

 以前俺がバイトしていた喫茶店のオーナーにはどこか一歩及ばない気もするが、素人として指摘できることはなにもない、決して一朝一夕でできる味ではないだろうと思わせた。

 彼女、この外見で――といったら失礼に過ぎるが――よく紅茶を嗜んでいるのだろうか。

 さくら姐さんは、やっぱり律儀におれが先に食べ始めるのを見届けてから自分も口に運んだ。そういう礼節を弁えてる人にはかなり好感を覚える。さっきから第一印象とのギャップが凄いけど、まあそういうのも悪くない。

「……おぉっ? うまいな、このロールケーキ!」

 彼女は飲み下した途端にそう感想を漏らし、目を輝かせた姐さんは休むことなくフォークを往復運動させ、あっという間に完食してしまった。

 空っぽになった自分の皿を名残惜しそうな表情で見つめる姐さん。近寄りがたいキツめの美女という印象が払拭され、今にも目が潤みそうな、捨てられた子犬みたいな雰囲気が醸し出されている。なんか可愛いなおい。

 次いで半分ぐらい残っている俺の皿を物欲しそうな目で見つめる姐さん。今にも飛びかかって来そうな、腹を空かせた野良猫っぽい雰囲気が醸し出されている。いくら可愛くてもこれはあげない。

 俺が無視して食べ進めるのを見て強奪は諦めたか、さくら姐さんはこんな質問をしてきた。

「それ、どこで買ったんだ?」

「実家の近所にあるお店です。俺は子どもの頃からよく食べてました。でも残念ながらすごく遠いですよ。ついでに言うと昼前にはまず間違いなく売り切れるんで、ここから日帰りで買ってくるのは難しいかと」

「そうか……」

 本当に残念そうにうなだれるので、少々罪悪感が湧いてきた。とはいえ、どうすることもできない。いっそ親に頼んで送ってもらおうか? でもそこまでするのもなあ……。

 いや、実はもう一つ、自分用に買ってきたロールケーキがまだ俺の部屋の冷蔵庫に残っていたりするわけだが……うーん、ここは好感度アップのためにあげるべきか? でもこのロールケーキは俺の大好物でもある。そう易々と差し出すわけには……!

 俺がケチくさい葛藤している横で、姐さんは俺の隣に置いてある紙袋を見つめていた。

「……なあ。もう一つあるように見えるけど、そっちは? それもロールケーキか?」

「え、ああ、はい。これは上の階の人に持っていこうと」

「んじゃ、あたしにくれ」

「はっ? いや、だから……」

「上の人にって、二〇四号室だろ? そこには今は誰も住んでない。空き部屋だ」

「はあ……そうなんですか」

「そうだ。だからあたしに寄越せ」

「……まあ、いいっすけど」

 厚かましいお願いに押されるようにしてロールケーキの入った紙袋を渡すと、さくら姐さんはそれをいそいそと冷蔵庫にしまい込んだ。

 礼儀を知ってるのか知らないのか。はたまた礼儀を知っていて尚、食欲に抗えなかったのか……。なんだかよくわからない人だ。

 まあ、純粋に嬉しそうな姿が見れたということで今の振舞いは目を瞑っておこう。

 ロールケーキの虜になった先達者として、アドバイスは欠かさないでおく。

「できれば今日中、少なくとも明日には食べてくださいね。食べるときは少しだけ常温に戻した方が、スポンジがしっとりしておいしいですよ」

「へえ、そうなのか」

「あー、でも、冷やしたのは冷やしたのでなかなかイケますけどね」

「それは悩むな」

「まあ、うまいものはうまいので後でじっくりと味わってくださいよ。……ああ、帰省したときでよければまた買ってきましょうか? といっても夏休みまでは無理ですが」

「は? ああ、いや、それは…………まあ、そうだな」

 思いつきで提案してみたのだが、さくら姐さんは急に歯切れが悪くなってしまう。

 こんなところで遠慮するような人だろうか……?

「別に、この程度なら遠慮しなくてもいいですよ。どうせ親にも絶対に一度帰って来いと言われてるし。そのついでっす」

「……ん、まあ、機会があれば頼む、っつうことで」

「はあ、はい。頼まれました」

 やっぱりどこか反応のおかしな姐さんに首を傾げつつも頷き、そこで話が一旦打ち切られる。

「…………」

「…………」

 しばらくの間、どことなく居心地の悪いような、なんだか不自然な間が生まれた。ここまで淀みなく言葉の応酬を繰り返していただけに、この間隙はなにか重要な意味を持っているような気がしてならなかった。

 さくら姐さんはポットから二杯目の紅茶を注ぎ、唇を湿らせている。カップを持つ仕草が上品だと俺は思った。

 ――さて、なんか姐さんは話しづらそうだし、こっちから水を向けてあげようか。

 徐にティーカップを置き、俺は口を開いた。

「ところでさくら姐さん」

「……ねえさん?」

 ああ、しまった。つい心の中での呼び名がそのまま口に出てしまった。

 目を丸くして驚く姐さんに、どうしたものかと考え、適当な言い訳を試みる。

「いや、ほら、『好きに呼んでいい』って言ってたじゃないですか」

「『呼び方なんてどうでもいい』ってお前に対して言ったんだ」

「似たようなもんじゃないスか。姐さんって呼び方、そんなに嫌ですか?」

「う、……いや、別に、なあ……。んー、姉さん……姉さんか。………………。ま、まあ、好きにしたらいいんじゃないか。まあ、あたしも弟が欲しいって子どもの頃言ってたし……ってなに言わせんだよ!」

 なにやらしばしの葛藤の末に姐さんは早口にそう言って、冷めかけた紅茶を一気に飲み干した。少し頬が赤いけど、照れているのだろうか? はは、意外に感情豊かでなかなか面白い人だな。

 ……ところで、彼女が思ってる『ねえさん』の意味が俺のと若干違う気がするけど、わざわざ指摘する必要もないのでそのままにしておこう。

「で、さくら姐さん」

 気を取り直し、再度問う。

 できるだけ真剣な表情を作って。

「――そろそろ本題に入ってくれませんか?」

 場面ごとに一話とするつもりだったのですが、予想外に長くなったので二分割。これからも一万字以内には収まるようにします。


 後半はしばしお待ちを。



 ところで、今回の序盤に出た『木鳴り』についてですが。

 建築から一定年数(木造住宅でも5年ぐらい?)以上経過すると、木材の含水量が安定し、木鳴りはほとんどしなくなるそうです。

 ……ちなみに主人公が引っ越してきたアパートは築30年以上です。

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