[1]いわくつき?
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世の中には『いわくつき物件』というものがある。
幽霊が出るとか、昔そこで殺人事件が起こったとか、入居者がなぜか次々と自殺していくとか、まあそういう悪い噂のある物件のことだ。
当然、そういうところは総じて物件価値が下がり、とんでもない格安で売られていたり貸し出されていたりする。
俺が借りたアパートの一室も、まさにその類だった。
その家賃、なんと五千円。もちろん月々で、だ。
どんな片田舎でもありえないような金額に、俺は一も二もなく飛び付いた。同じアパートの同じ間取りの部屋が月五万円だったことを考えると、どれほど破格だったのか分かるだろう。
――第一志望の大学に合格したは良いが、実家からはかなり遠いために一人暮らし。親から「学費しか面倒みてやんね」と言い切られた俺は、生活費を自らのバイトの稼ぎから出すこととなった。となると必然、待っているのは節制生活。その支出の中で最たるものは、家賃だ。ここを最小限に抑えられれば、というか抑えなければまともに大学生活を送ることすら厳しいだろう。
そんな中で格安物件を見つけられたのは、僥倖だったというより、ひとえに不動産屋をハシゴして回った俺自身の執念によるものだろう。
苦労して見つけたんだから、『いわく』なんて些事だ、些事。
そうそう、俺の借りたアパートの『いわく』だが、まあなんともありがちなもので。
出る、らしい。
オバケが。
…………くっだらねえ。
別に心霊現象に対して、科学的根拠で理論武装して徹底否定するような嫌味なことはしない。が、特に信じているわけでもない。今まで心霊現象らしきものに出会ったことがないというのがその理由だ。わかりやすい判断基準だろ?
まあ、あまりにもヤバそうなものだったらさすがにやめておこうとも思ったが、念のため不動産屋さんから詳しい話を聞くと、
「部屋に一人きりのはずなのに人の気配がする」とか
「変な音や声が聞こえる」とか
「寝ていたら寒気がして飛び起きた」とか
「ヒトダマみたいなのが天井付近に浮いていた」とか。
なんだか害の薄そうな……言ってしまえば、ショボイものばかりだ。
――――というわけで。
「ここが今日から俺の第二の家になるのか……」
引っ越してきました、いわくつき物件へ。
軽く築三十年は経っているであろうモルタル塗りの古臭いアパート。いかにもお化けとかが棲みついていそう……というほど寂れている様子はなく、意外にも丁寧に手入れされているようだ。
外壁や廊下、階段などを見る限りでは汚れている部分はあっても特に痛んでいる部分はない。しっかりと重厚に、『昔ながら』という言葉がぴったりくるような、古き良き昭和な雰囲気を醸し出している。まあ、なかなかいいじゃないか。割と好きだ、こういうのは。……もっとも、周りに乱立する新築マンションも同時に視界に入れてしまうとすごく浮いて見えるのは難点だけども。
各階に四部屋ずつの二階建てで、まあアパートとしては小ぢんまりとしているが、これでも最寄駅まで徒歩一分。大学まで徒歩四分。近くになんでも売ってる総合スーパーあり。結構な都会であるこの地域に建つアパートとしては立地条件が非常にいい。いくら建物が古くとも、正規の家賃五万ですらも充分に破格じゃないだろうか。
そのさらに十分の一の家賃である俺の部屋はというと、一階の角部屋、一〇四号室だ。
俺は今、その扉の前に立って鍵を差し込んでいる。
ちなみに扉の前までは大家さんが案内してくれたが、その後は鍵だけ俺に渡してそそくさと立ち去って行った。結構人当たりの良さそうなおばちゃんだったんだが……あれか。触らぬ神にたたりなし、幽霊になんて関わりたくないということか。……なんだか彼女の態度を見てちょっと不安になってきたが、まあ気にしても始まらない。
今日から夢の一人暮らしが始まるんだ。
気合い入れて、さあ、その第一歩を踏み出すぞ!
腕に過剰なほど力を込め、鍵をガチャリと回す。
そして徐に扉を開け放つと、
「――冷たっ!? ってか寒い!?」
なぜだか部屋の中から冷気が吹きすさんできた。思わず上着の襟もとを引き寄せる。
「なんだ一体……」
半ば呆然としながらも玄関に足を踏み入れる。ぎぎぎ、と錆びついた不快な音を立てて扉がひとりでに閉まった。後で蝶番に油でも差しておこう。
そんなことより、なんだこの冷蔵庫の中にいるような室温は。
軽く部屋を見て回ったが、どうも部屋中が何らかの事情で冷やされているらしい。
大家さんが気を効かせてエアコンのスイッチを入れておいてくれた……ってのは考えにくいだろう。暦の上では春とはいえ、まだ三月の末、どちらかといえば暖房の方がありがたいような気候だ。どっちにしろこんな低温にされても困るし。
「んー……?」
よくわからないがなにか手違いでもあったのだろうか。
まあいいか。とにかく部屋の探索がてら窓を開けて冷気を逃がそう。
部屋の間取りは十畳が一間に、キッチン、風呂、トイレ付き。ちょっと心配だったのだが、トイレは幸いにも水洗式だ。一度リフォームでもしたんだろうか、何気にウォシュレット機能とかもついていた。使わないけど。
周囲が高層マンションに囲まれていて薄暗い雰囲気があるアパートだが、日照権の獲得には成功したようで、正午現在、南側のベランダには燦々と日が差し込んできている。これなら少なくとも午前中は大丈夫そうだ。ベランダはそこそこ広く、洗濯機を置くスペースもちゃんとある。
ただ、このベランダ、見通しのかなり悪そうな狭い路地に面しているのが気にかかるが……塀を高くすれば洗濯物に日が当たらなくなるし、防犯は自分自身で気に掛けるしかないか。
あと部屋の設備と言えば、エアコンが付いているのが素敵すぎる。しかも割と新しい型だ。実家にあったエアコンは古くて、半ば騒音発生装置になってたからなあ。これで快適に安眠できるってもんだ。
あれ? でもエアコンが備え付けだなんて大家さんからも不動産屋さんからも聞いてないような……。前の住人が置いて行ったのをそのまま大家さんが密かに残したんだろうか。
まあ、いいか。あって困るものじゃないし、余裕があれば夏にでも買おうと思ってたからな。なんだか得した気分だ。
ざっと見た感じ、全体的に生活環境は申し分なし。
なぜ入居当日にあれこれ確認しているかというと、実は下見には来ていないからだ。なんせ、実家からここまで電車を乗り継いで四時間もかかるのだ。正直めんどくさかったし、家賃五千円なんて他にないから多少の不便があってもいいや、とか思っていた。実際には不便もなにもなくて重畳重畳。
「さて、と」
換気も終えたし、あとは荷物が送られてくる前に昼飯でも食いに行くか。
戸締りは忘れず、俺は駅の近くで見たファミレスへと足を運ぶのだった。
――異変らしきものは帰ってきてから再度起こった。
「…………寒い」
玄関口に立ちつくしたまま、呟く。
俺の部屋の中は再び冷蔵庫と化していた。
腹も満たされ、可愛いウェイトレスと話ができて、機嫌良く帰ってきたらこの有様だ。
霜が降りるほどではないが、曇り空の外よりもだいぶ寒い。
エアコンのスイッチは……切れている。というかさっきは気が付かなかったが、よく見たらプラグが抜かれている。これでは付けようがない。
エアコン以外に冷えるようなものは何もない。冷蔵庫はこれから運ばれてくる予定だ。
「じゃあ……なんでだよ?」
唐突に頭をよぎる言葉があった。この部屋を紹介してくれた地元の不動産屋さんの言葉だ。
『あー……この物件はねえ。所謂、「いわくつき」なんだよ。その、出るらしくてね――――
お化けが
「……っ」
ぞわりと首筋の産毛が逆立ち、思わず首を竦めてしまう。
いや、単に寒いだけだ。
幽霊とかないない。
きっと地理的な問題だ。突然部屋の中が寒くなるなんて、この辺りの地域ではきっとよくあることに違いない。
あるいは古いアパートだから、なんかそういう……ほら、アレがあるかもしれないな、うん。自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたが、そういう結論にしておこう。
そう、全ては古いアパートだから………………だから、出る?
「いやいやいや……」
なに考えてんだ、俺は。
新天地にきてちょっと不安になっているのかもしれないな。初日からこれじゃあ思いやられる。
ここは深呼吸だ。
すってー……
はいてー……
すってー……
はいて――――コンコンッ
「――――っ!?」
急に背後から物音がして吐きかけた息を呑む俺。恐る恐る振り返ると――
「すみませーん、桜井運輸のものですが。瀬古井青磁さん? いませんかー?」
玄関扉の向こうから若い男の声。……引っ越し業者だ。
「あー、はいはい。今開けます」
答えつつ、異様に冷たいノブに手をかける。
開ける直前、なんとなく部屋の中を振り返ってみた。
…………別に何も無い。白いエアコン以外なにも置いてない殺風景な部屋だ。今から荷物を運ぶのだから当たり前だが。
ふん、と鼻を鳴らし、勢いよく扉を開ける。
外にいたのはしっかりと二本足で立つ、至って普通のあんちゃんだ。清潔ながらもくたびれたツナギがよく似合っている。
挨拶もそこそこにトラックから大きな荷物を運び出してもらう。荷物が少ないからか、はたまた小さな運輸会社で人手が足りないからか、どうやら二人だけしかいないらしい。
彼らが慎重に冷蔵庫を運び入れるのを眺めていると、ふと部屋の中が冷え切ったままだということに気が付いた。
「あ、すみません。寒いですよね。ちょっとエアコンの調子が悪かったらしくて……いま窓開けます」
「え? あ、はあ……?」
なんで冷房なんて入れてたんだ、とでも思ったか、引っ越し屋のあんちゃんも生返事だ。言ってる俺だって意味分かんねえよ。エアコンなんて触ってもないのに。
――その後は特に何事もなく、無事に俺の引っ越しは完了した。
ただし。
去り際に引っ越し屋のあんちゃんがこんなことを言ったのだけが気になった。
「それでは自分たちはこれで。うちはエアコンの取り付けなども請け負っておりますので、その際はぜひお声をおかけください」
今度は俺が生返事を返す番だった。
うちには既に、どうやっても目につくところにエアコンが取り付けられている。