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気弱な薄幸令嬢に転生した極道の姐さん、浮気した婚約者を仁義の鉄拳で沈めてしまう〜義理と人情で領地を立て直していたら、堅物騎士団長に懐かれました〜

作者: 看板猫
掲載日:2026/10/22

シャンデリアの豪奢な光が、王立学園の大講堂に敷き詰められた深紅の絨毯を眩しく照らし出していた。


卒業舞踏会――学び舎を巣立つ貴族の子弟たちが一堂に会し、門出を祝う晴れやかな夜のはずだった。けれど、数百人の視線が集中する高壇の前に立たされている私を取り巻く空気は、まるで真冬の氷水のように冷え切っていた。


「エレオノーラ・シルフィード! 貴様の醜悪な罪状は、すべて白日の下に晒されたぞ!」


壇上から見下ろすのは、金糸の刺繍を施した豪奢な礼服を纏った第一王子、クリストファー殿下だ。彼の腕の中には、ふんわりとした金髪を揺らし、大粒の涙を瞳に浮かべた男爵令嬢、シャルロットが抱き寄せられていた。


周囲の貴族たちから、さざ波のような嘲笑と侮蔑の囁きが漏れ聞こえてくる。


「見ろよ、あの落ちこぼれ令嬢の姿を」

「侯爵家に生まれながら、属性魔法の一つも使えない『無能』だからな」

「殿下の慈悲で婚約者にしていただいていたというのに、シャルロット様に嫉妬して毒を盛るなどと……見苦しいにも程がある」


私はただ、青白い顔をして俯き、震えていた。

生まれつき属性魔法が発現せず、魔力至上主義が絶対であるこの国で、私は幼い頃から生家でも日陰者として扱われてきた。誰の庇護もなく、冷遇に耐え、ただ波風を立てぬよう息を潜めて生きてきたのだ。

それなのに、全校生徒と高位貴族たちの見守る前で、身に覚えのない毒殺未遂の汚名を着せられ、婚約破棄を突きつけられている。


「我が愛するシャルロットの紅茶に遅効性の毒を盛り、その命を奪おうとした悪逆非道! 魔力を持たぬばかりか、心まで薄汚れた貴様のような女は、王太子妃に相応しくない! よって今この場をもって婚約を破棄し、国外への永久追放を言い渡す!」


クリストファーは胸を張り、大仰な身振りで宣告を下した。

腕の中のシャルロットは、庇護を求める小動物のように殿下の胸にすがりつきながら、伏せた睫毛の隙間から私を見下ろし、嘲るような冷たい笑みを浮かべていた。


理不尽な罵倒と、衆人環視の恥辱。

頭の奥が、カチリと音を立てて冷え切っていく。

その瞬間、私の中で何かが決定的に弾け飛んだ。


――ああ?

誰に向かって、そんな舐めた口を利いてやがるんだい?


脳裏に奔流となって流れ込んできたのは、別の世界の記憶だった。

春日麗子。裏社会にその名を轟かせ、義理と人情を重んじ、傘下の組員三百人を束ね上げた極道の姐御としての前世。

抗争、シマの掟、落とし前、そして裏切り者へのケジメ――死線を幾度も潜り抜け、最後に病の床で息を引き取ったはずの記憶と魂が、この華奢で薄幸な令嬢エレオノーラの肉体に完全に合致した。


視界が一変する。

震えていた膝が、地面に根を張るようにぴたりと止まった。

胃の奥を焼いていた情けない恐怖は消え失せ、代わりにドス黒く研ぎ澄まされた胆力が、背骨を貫いて全身を巡る。


私はゆっくりと顔を上げた。

その瞳に宿る光の異変に、壇上のクリストファーが一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「な、なんだその目は……! 罪人の分際で、この私を睨みつける気か!」


喚く青瓢箪の顔を、私は冷徹に見据えた。

人前で恥をかかせて、ありもしねぇ汚名を着せて放り出す?

上等じゃないか。


「人前でアタイのメンツ潰しといて、タダで済むと思ってんのかい、このガキが」


鈴を転がすようだった令嬢の声から、ドスの利いた低音が講堂の空気を震わせた。

会場が水を打ったように静まり返る。


「な……何をふざけたことを……!?」

「黙って聞いてりゃ、図に乗ってベラベラと囀りやがって。ベネディクト!」


私が短く呼びかけると、壁際に控えていた我が家の老執事――白髪をきっちりと撫で付けたベネディクトが、無言で歩み出て一礼した。

主人の異変に驚きもせず、むしろ主人の纏う凄気に呼応するかのように、老執事は懐から一束の羊皮紙を取り出した。

前世を思い出す前から、この陰湿な愛人関係とシャルロットの不穏な動きに胸騒ぎを覚えていた私が、念のために調査を言いつけておいた記録だ。


「お嬢様、ご指示の書類でございます」

「ご苦労。……おい、シャルロット」


私は羊皮紙を無造作に引ったくると、壇上の男爵令嬢めがけて無造作に投げ捨てた。紙束はパサリと彼女の豪奢なドレスの裾に散らばる。


「ひっ……な、何ですのこれ!」

「王都裏通りの『黒猫の薬草堂』の顧客台帳の写しだよ。先月十五日、お前が偽名を使って購入した『遅効性衰弱薬』の売買記録と、お前が店主に握らせた王家の紋章入り小切手の番号が克明に記されてる。……誰が誰に毒を盛ったって?」


シャルロットの顔から血の気が引いた。

大粒の涙を湛えていたはずの瞳が、恐怖で見開かれる。


「そ、それは……! ち、違います、私はそんなもの……!」

「誤魔化せると思ってんのかい。王家の小切手を発行できる人間なんざ限られてるんだよ。店主の宣誓供述書も添えてある。筆跡鑑定士の裏書き付きだ。……筋の通らねぇ自作自演でアタイをハメようたぁ、いい度胸じゃないか」


一歩、踏み出す。

私の纏う気配に圧されたのか、シャルロットは悲鳴を上げて腰を抜かし、クリストファーの手を振り払って絨毯にへたり込んだ。


「あ、謝ります! ごめんなさい! で、殿下に……クリストファー殿下に命じられたのです! 邪魔なエレオノーラを追い出して私を正妃に据えるために、毒を盛られた被害者を演じろと……! 私は言われた通りにしただけです!」

「シャ、シャルロット!? 貴様、何を口走って――!」


クリストファーが狼狽し、取り巻きの貴族たちがざわめく。

保身のためにあっさりと共犯者を売る。浅ましい外道の典型だ。


「き、貴様ら、無礼者め! 王族たる私を愚弄するか! 衛兵、出会え! この無能な女を今すぐ切り捨てろ!」


逆上したクリストファーが激昂し、己の右手に赤い魔力の炎を宿した。

貴族至上主義の驕りそのままに、無防備に間合いを詰めて火球を放とうとする。

――間合いの取り方も知らねぇ、ただのお坊ちゃんが。


「筋を通さねぇ上に、暴力で口封じかい」


私は両手でドレスの裾を掴むと、邪魔なフリルを躊躇なく引き裂いた。

バリィッ、と絹の裂ける鋭い音が響く。露出した足で床を強く蹴り、私は前傾姿勢で踏み込んだ。


私の体には属性魔法を操る器官はない。だが、前世の修羅場で培った格闘の呼吸と、体内に微弱に流れる魔力の存在は知っている。

外に放てないなら、内側で回せばいい。血液の巡りに合わせ、微弱な魔力を全身の筋肉、関節、腱へと精密に送り込み、爆発的な圧縮をかける。名付けて『肉体内魔力循環』――音を置き去りにするほどの加速が生まれた。


「なっ――」


クリストファーの火球が完成するよりも速く、私は王子の眼前へと潜り込んでいた。

腰を落とし、左足を踏み込み、右拳を腰から真っ直ぐに突き出す。

狙うは顔面の中心、急所中の急所。


「落とし前のつけ方も知らねぇガキが――すっこんでろ!」


ドゴォッ!!


鈍い破壊音が講堂に響き渡った。

私の右ストレートが、クリストファーの鼻柱に正確無比にめり込む。

鼻骨が砕ける感触が拳を通じて伝わった。第一王子の身体は木の葉のように宙を舞い、豪奢な壇上の演台を粉々に粉砕しながら、壁まで吹き飛んで激突した。


「ぐえっ……」


蛙の潰れたような呻き声を最後に、クリストファーは白目を剥いて昏倒した。

砕けた演台の破片と木屑がパラパラと王子の体の上に降り注ぐ。


講堂は、完全な静寂に包まれた。

数百人の貴族、令嬢、教員たちが、呼吸すら忘れて目を丸くしている。

誰もが『無能でおとなしい薄幸令嬢』だと思っていた少女が、王国の第一王子を素手の一撃で殴り倒したのだ。


「……そこまでだ」


静寂を破り、重厚な革靴の足音が響いた。

壇上の脇から歩み出てきたのは、白銀の甲冑を纏った長身の男――近衛騎士団長、ライハルトだ。

彫りの深い端正な顔立ちに、氷のように冷徹な青い瞳。王家への忠誠と実直さで知られ、貴族社会の腐敗を嫌悪する堅物として名高い騎士だった。


ライハルトは腰の長剣の柄に手をかけたまま、倒れた王子と、引き裂かれたドレス姿の私を交互に見据えた。


「いかに不当な言いがかりとはいえ、王族への暴力は重罪だ。……弁明はあるか、エレオノーラ嬢」


試すような視線だった。

私は拳を握り直し、ゆっくりと息を吐き出して構えを解いた。

暴力を振るっただけで終われば、ただの乱暴者、あるいは反逆者として首を刎ねられる。喧嘩の後は、きっちりと筋道を通した『手打ち』が必要なのだ。


「弁明? そんな殊勝なもんはないね」


私は胸を張り、毅然とした足取りでライハルトの正面へと歩み寄った。


「正当防衛だ。先に魔法で殺害を試みたのはクリストファー殿下であり、証拠を捏造して冤罪を被せようとしたのもそちら側。……大国グランヴェル王国の法典第七条、『身分を問わず、明確な殺意と証拠の改竄をもって他者を陥れんとした者は、その権利を一時的に凍結される』。違いますかい、騎士団長様?」


ライハルトの眉がわずかに動いた。


「……法の条文を正確に把握しているな」

「当たり前だ。看板背負って生きてんなら、掟の穴も隅も知り尽くしておくのが仁義ってもんだろうが」


私は倒れた王子を一瞥し、懐から一枚の書状を取り出した。王家とシルフィード侯爵家の間で交わされていた、正式な婚約誓約書だ。


「浮気の上に冤罪工作、挙げ句の果てに暴力沙汰。王家の不始末でアタイのメンツは丸潰れだ。慰謝料とケジメをつけてもらわなきゃ、この誓約書を盾に貴族院と最高裁判所に正式な弾劾状を叩きつけるまでさね」

「……王家の醜聞をこれ以上広げるわけにはいかん。貴殿の要求は何か」


ライハルトの硬質な声に、私はニヤリと唇を吊り上げた。

金や宝石など求めても、王都にいれば陰湿な嫌がらせが続くだけだ。欲しいのは、誰にも指図されない自分の『シマ』――。


「北東辺境領地の統治権を王家直轄から切り離し、アタイの完全な独立領として割譲しな」


ざわ、と周囲の貴族たちから息を呑む音が漏れた。

北東辺境領地。魔力至上主義のこの国において、魔力溜まりが存在せず土地が痩せ細り、魔獣すら寄り付かないとされる『不毛のゴミ捨て場』だ。厄介払いとして貴族が押し付けられるような土地を要求した私に、周囲は正気を疑うような視線を向けている。

だが、ライハルトだけは違った。彼の青い瞳の奥に、強い知性と探るような光が宿る。


「……あの荒廃した地を望むのか。王家の直轄領ではあるが、名ばかりの重税と飢餓で放棄されかけている地だぞ」

「腐った王都で息を詰まらせてるより、広々とした荒野のほうが性に合ってるんでね。王家の不始末の落とし前としては、安いもんだろう?」


ライハルトは倒れたクリストファーを一瞥し、次いで私を真っ直ぐに見据えた。その瞳に浮かんでいた警戒が、微かな敬意へと変化していくのを私は見逃さなかった。


「承知した。近衛騎士団長ライハルトの名において、国王陛下への上申と、北東辺境領の統治権割譲の手続きを私が保証しよう」

「話が早くて助かるよ。……行くよ、ベネディクト」


私は引き裂かれたドレスを翻し、一度も振り返ることなく大講堂の扉へと歩み出した。

背後に広がる貴族たちの畏怖と動揺の視線を、心地よい夜風のように受け流しながら。こうして私の、新しいシマへの道が切り拓かれたのだった。



王都を離れ、馬車に揺られること二週間。

私と老執事ベネディクトを迎えた北東辺境領の光景は、想像を絶するほどに荒れ果てていた。


見渡す限りの赤茶けた荒野。ひび割れた大地には雑草すらまばらにしか生えず、点在する集落の家々は屋根が崩れ落ち、壁は風雨に削られて今にも倒壊しそうだ。道端に座り込む領民たちは、誰もが骨と皮ばかりに痩せ細り、泥に汚れたボロ布を纏って虚ろな目を宙に向けていた。


「……お嬢様。これは、予想以上に酷い有様ですな」


御者台から降りたベネディクトが、眉をひそめて呟いた。

馬車の周りには、遠巻きに領民たちが集まってきている。だがその視線に歓迎の色は微塵もない。飢えと絶望、そして王都からやってきた新たな領主に対する、冷え切った警戒と不信感だけが渦巻いていた。


「また王都の貴族が来やがった……」

「どうせ俺たちの最後の食い扶持まで税として巻き上げる気だ」

「魔力のない役立たずの令嬢が左遷されてきたって噂だぜ。こんな不毛の地で、何ができるってんだ」


吐き捨てられる怨嗟の声を、私は静かに聞き流した。

魔力至上主義の国だ。派手な魔法で土壌を肥やすこともできず、王家からは重税だけを課されて見捨てられてきたのだから、荒れるのも無理はない。

だが――。


「誰が役立たずだって?」


私は馬車から降り立つと、身につけていた仕立ての良い旅装の上着を脱ぎ捨て、ベネディクトに預けた。動きやすい綿のシャツの袖を力強く捲り上げる。


「お、お嬢様? 何をなさるおつもりで?」

「見てりゃ分かるさ。シマを預かった以上、家族を飢えさせるわけにはいかないんだよ」


私は道端に放置されていた、錆びついた鉄の鍬を拾い上げた。刃は欠け、柄は今にも折れそうだ。

集まった領民たちが呆気にとられる中、私はひび割れて石のように硬くなった畑の土の前へと歩み出た。


「前世でも今世でも、飯を食えねぇひもじさってのは身に沁みて知ってる。……腹が減ってちゃ、仁義もクソもありゃしねぇからな」


深く息を吸い込み、体内の微弱な魔力を巡らせる。

派手な魔法のように外へ放出するのではない。血液の流れを加速させ、筋肉の繊維一本一本に魔力を均等に浸透させ、腰から背中、そして腕へと力を一点集中させる。


フッ、と息を吐きながら、鍬を振り下ろした。


ズドォォン!!


凄まじい衝撃音が荒野に轟いた。

ただの錆びた鍬が、まるで攻城槌のように大地を粉砕し、深く固まりきっていた岩盤ごと土を掘り返す。土煙が舞い上がり、周囲の空気がビリビリと震えた。


「な、なんだぁぁっ!?」

「地面が……岩ごと砕けたぞ!?」


領民たちの悲鳴のような歓声が上がる。

私は構わず、リズミカルに鍬を打ち込み続けた。ズドン、ズドン、と大砲のような打撃音が連続して響き渡り、あっという間に数十メートルにわたって硬質な大地が柔らかく耕されていく。


さらに私は、畑の端に転がっていた邪魔な巨岩の前に立った。大人が三人がかりでも動かせないような大石だ。


「どっこいしょ、と!」


両手を岩の底に潜り込ませ、肉体内魔力循環を一気に引き上げる。

メキメキと音を立てて巨岩が浮き上がり、私はそれを肩に担ぎ上げると、開墾地の外の用水路予定地へと豪快に放り投げた。ドガァンと轟音が響き、大地が揺れる。


額の汗を手の甲で拭い、私は呆然と立ち尽くす領民たちを振り返った。


「おい、突っ立って見てる暇があったら手を動かしな! ベネディクト、馬車に積んできた保存食と穀物の樽を全部開けろ!」

「はっ、かしこまりました」

「今日からこのシマの掟を変える。働いた奴にはきっちり腹一杯の飯を食わせる! 重税なんざビタ一文取らねぇ! 自分たちの食い扶持は、自分たちの手で耕して分捕るんだよ!」


啖呵を切った私に、領民たちは顔を見合わせ、やがて一人の痩せた男がおずおずと前に出た。


「ほ、本当に……俺たちに飯を食わせてくれるのか……? 貴族様の気まぐれじゃねぇのか……?」

「アタイの言葉に二言はない。筋の通らねぇ嘘をつくくらいなら、舌を噛み切って死んだほうがマシだ。ほら、食う前にまずこの土を均しな!」


私の豪快な一喝に、男の瞳に宿っていた絶望の光が消え、熱い火が灯った。

「お、おう! みんな、鍬を持て! 新しい領主様が、本気でやってくださってるぞ!」


一人、また一人と、領民たちが道具を手に走り出した。

泥に塗れ、汗を流しながら、荒野を開墾していく人間の熱気が、死に瀕していた領地を急速に蘇らせていく。



それから数日が過ぎた昼下がりのことだった。


「――驚いたな。舞踏会での暴挙が嘘ではなかったというわけか」


乾いた馬の蹄の音とともに、涼やかな声が響いた。

泥まみれのシャツ姿で水路を掘っていた私が顔を上げると、そこには白銀の甲冑に身を包み、見事な白馬に跨がった男――近衛騎士団長ライハルトの姿があった。数名の部下を従えている。


「あんたか。王都からの公式監査ってやつかい? ご苦労なこったね」


私はスコップを地面に突き刺し、汗を拭いながら歩み寄った。

彼は割譲の手続きを見届ける王家の監査役として、この地の現状を確認しに来たのだ。


ライハルトは馬から降り立つと、貴族の令嬢とは思えない私の泥まみれの姿と、生き生きと働く領民たち、そして急速に整備されつつある農地と水路を見回した。その端正な顔に、隠しようのない驚愕が浮かんでいる。


「……信じられん。わずか数日で、ここまで開墾を進めたというのか? 魔導士の部隊を動員したわけでもないのに」

「魔力なんぞ遠くに飛ばすだけの芸当しか知らねぇ連中には分からねぇのさ。体ん中を巡らせて、足腰と腕に力を込めりゃ、どんな大岩だろうがどかせるんだよ」

「肉体内での魔力循環……理論としては聞いたことがあるが、それを土木作業に惜しみなく注ぎ込む貴族など、王国の歴史上ただ一人もおらん」


ライハルトは小さく息を呑み、整った眉を寄せて私を見つめた。

その視線には、かつての警戒など微塵もなく、純粋な驚嘆と、どこか熱を帯びた敬意が宿っていた。


ちょうど昼時を告げる鐘が鳴った。

集落の中央に据えられた大鍋から、湯気とともに香ばしい匂いが立ち上る。


「おい、監査役さん。ちょうど昼飯時だ。王都の一流シェフの料理とはいかねぇが、腹が減ってちゃ正しい監査もできねぇだろ。食っていくかい?」

「……私がいただいても良いのか? 領民のための食糧ではないのか」

「遠路はるばる足を運んでくれた客人に、茶の一杯も出さねぇような無礼はしねぇよ。アタイの作った雑炊だがね」


私は木椀に、麦と干し肉、それに領地で採れた野草を煮込んだ温かいスープをたっぷりと注ぎ、ライハルトに手渡した。

ライハルトは椀を受け取ると、湯気をじっと見つめ、スプーンを取って口に運んだ。

一口、二口と咀嚼するごとに、彼の厳格な表情がふわりと綻んでいく。


「……美味いな。素朴だが、身体の芯まで染み渡るようだ」

「前世で……いや、昔から、誰にも頼れず寒さに震えてたことがあってね。温かい飯を誰かと分かち合えるってだけで、人は前を向けるもんさ。堅苦しい理屈を捏ねる前に、まず腹を満たす。それがアタイの流儀だよ」


何気なく言った私の言葉に、ライハルトは食べる手を止め、深い青の瞳で私を射抜くように見つめた。


「エレオノーラ殿」

「なんだい?」

「貴女は……本当に希有な方だ。己の地位や魔力におごることなく、泥に塗れて弱者を鼓舞し、筋を通す。王都の腐敗しきった貴族たちの中に、貴女のような気骨を持った人間は一人もいなかった」


生真面目な口調のまま、ライハルトは椀を置き、一歩間合いを詰めてきた。

その瞳の奥に宿る熱っぽさに、思わずたじろぎそうになる。


「私の目は節穴ではなかった。舞踏会で貴女の拳を見た時から……いや、あの理不尽な壇上で毅然と啖呵を切った貴女の姿から、私は目を離すことができなくなっている」

「ちょ、ちょっとあんた……急に何を言い出すんだい」

「貴女のその手は、民を救い、外道を討つための手だ。……その高潔な背中を、誰にも汚させたくない。できることなら、生涯私が盾となって貴女をお守りしたいと……そう思ってしまうのだ」


堅物騎士団長が、耳の先端を微かに赤く染めながら、不器用極まりない独占欲を滲ませて私を見つめてくる。

前世で幾多の荒くれ者を束ねてきた私だが、ここまで真っ直ぐで嘘偽りのない好意を正面からぶつけられたことはない。思わず頬に熱が集まるのを感じ、私は咳払いで誤魔化した。


「へ、減らず口叩いてないで、さっさと食いな! 冷めちまうだろうが!」


背を向けて逃げるように鍋の番に戻る私を、ライハルトは愛おしそうに目を細めて見つめていた。

だが、そんな穏やかな午後の平穏の裏で、暗い悪意の影が確実にこの辺境へと忍び寄っていた。



◆ーーーー◆


同じ頃、王都の一角にある薄暗い地下牢――ではなく、謹慎処分を受けて私邸に軟禁されていたクリストファーの部屋では、狂気じみた怒号が響き渡っていた。


「おのれ……おのれエレオノーラァッ! この私に泥を塗り、顔の骨をへし折ったあの売女めがぁぁっ!」


顔中に包帯を巻き、歪んだ形に固まりつつある鼻を押さえながら、クリストファーは高級な絨毯にワイングラスを叩きつけて粉砕した。

舞踏会での醜態は瞬く間に王都中に広まり、第一王子の権威は失墜。貴族院からも厳しい追及を受け、王位継承権の剥奪すら取り沙汰されている。


「殿下、お気を静めてくださいまし……」


部屋の隅で縮こまるシャルロットを、クリストファーは狂乱の目で睨みつけた。

「黙れ、この無能が! 貴様があっさり裏切ったせいで私の立場が危うくなったのだぞ! ……ええい、こうなれば手段など選んでいられん!」


クリストファーは執務机の引き出しから、血のように赤い蝋で封印された契約書を取り出した。

扉の影から、音もなく筋骨隆々の大男が現れる。無精髭を生やし、無数の刀傷が刻まれた顔に下卑た笑みを浮かべた男――裏社会で『掃除屋』として悪名を馳せる傭兵隊長、グレゴールだ。


「お呼びですかい、殿下」

「グレゴール……手はずは整っているな? 配下の精鋭を率いて北東辺境へ向かえ。あのエレオノーラという女の首を刎ねてこい! 事故に見せかける必要などない、無残に八つ裂きにして晒し者にしてやれ!」

「へへっ、任せてくだせぇ。相手は魔力なしの小娘一人と老いぼれ執事、それに視察に出た堅物騎士団長と、その部下が数名程度だ。俺たちの魔法武装集団にかかれば、夜襲一つで皆殺しですぜ」

「契約金は望むだけくれてやる! 急げ! あの女の絶望に歪んだ顔を見なければ、私の気は済まんのだ!」


グレゴールは懐に契約書を押し込むと、獰猛な肉食獣のような笑みを残して闇の中へと消えていった。



◆ーーーー◆


深夜。月が雲に隠れ、北東辺境の荒野は深い闇に包まれていた。

昼間の開墾作業を終え、集落の領民たちが寝静まった頃、領主館――かつて代官が使っていた古い石造りの屋敷を、数十の黒い影が音もなく包囲していた。


カツン、と中庭の石畳に小石の転がる微かな音が響く。


屋敷の二階、私の私室の扉が静かに開いた。甲冑を身に纏い、抜き身の長剣を手にしたライハルトが滑り込んでくる。


「エレオノーラ殿、起きておられるか! 敵襲だ。裏社会の武装集団と思われる部隊が、屋敷を完全に取り囲んでいる」

「ああ、知ってるよ。殺気ダダ漏れで、とっくに目が覚めちまったさ」


私は寝巻きの上に、前世を彷彿とさせる漆黒の羽織を引っ掛け、帯をきつく締め直した。


「王都からの監査である私を狙ったとも考えられる。私が前に出て時間を稼ぐ。貴女はベネディクトと共に裏の手薄な脱出口から――」

「何言ってんだい、堅物」


私はライハルトの肩をポンと叩き、その言葉を遮った。

「ここはアタイのシマだ。シマの主がケツをまくって逃げ出して、客人に盾になれなんて言えるわけないだろうが。仁義が廃るよ」

「しかし相手は暗殺を生業とする手練れだ! いくら貴女が格闘に長けているとはいえ、無防備な素手で立ち向かうなど無茶だ!」

「無茶かどうかは、あいつらの顔面に聞いてみな」


私はニヤリと不敵に笑うと、止めるライハルトを背に、堂々と中庭へと続く大広間の扉を蹴り開けた。


中庭には、漆黒の革鎧に身を包んだ三十人ほどの武装兵がひしめいていた。彼らの手には、青白く輝く魔法付与の短剣やクロスボウが握られている。その中心に立つ巨漢――大剣を肩に担いだグレゴールが、私を見て下品な笑い声を上げた。


「ヒャハッ! 逃げ隠れもせず、寝巻き姿でお出迎えとは殊勝なこったなぁ、エレオノーラのお嬢ちゃん!」

「夜分遅くに他人の家に土足で上がり込んでくるとは、随分とお行儀の悪い客だねぇ。……どこの組の差し金だい?」

「組ぃ? 妙な隠語を使う小娘だ。俺たちは金で動くプロでね。依頼人の名は明かせねぇが……てめぇの命が今夜ここで終わるってことだけは教えてやるよ! 者ども、やっちまいな!」


グレゴールの号令とともに、前衛の五人が一斉に飛び出してきた。

手にした短剣から風の刃が放たれ、後方からは炎の矢が夜空を切り裂いて私へと殺到する。


「エレオノーラ殿!」

背後からライハルトが剣を構えて飛び出そうとするが、それよりも私の体が動く方が速かった。


「チンケな花火飛ばしてんじゃねぇよ!」


私は地面を強く踏み抜き、肉体内魔力循環を一気に全開にした。

放たれた風の刃の軌道を紙一重で見切り、身を低く沈めて回避する。前世の修羅場で幾度となく銃弾と白刃を潜り抜けてきた私の動体視力と間合いの勘は、派手さに頼った直線的な魔法攻撃など止まって見えるに等しい。


炎の矢が背後の石柱を爆砕する中、私は最短距離で先頭の男の懐へと滑り込んだ。

男が驚愕に見開いた目の前で、私の掌底が顎を真下から突き上げる。


ガツゥン!!


「がふっ!?」

脳を揺らされた男が白目を剥いて吹き飛び、後続の仲間に激突した。

私は足を止めない。流れるような体さばきで二人の間に割り込み、左のローキックで膝関節を外側からへし折り、崩れ落ちたもう一人の鳩尾に容赦のない右フックを叩き込む。


ドスッ、という鈍い衝撃音とともに、分厚い革鎧ごと男の肺の空気が絞り出され、二本の巨体が泥の上に沈んだ。


「ひ、怯むな! 囲んで魔法を撃ち込め!」

残りの部下たちが慌てて距離を取ろうとするが、間合いの主導権を握った私から逃れられるはずもない。


「遅ぇんだよ!」


私は石畳を蹴って跳躍し、詠唱を唱えようとしていた魔導士の顔面に跳び膝蹴りを叩き込んだ。鼻血を吹き出して倒れる男の肩を踏み台にし、後方のクロスボウ部隊のど真ん中へ着地。腕を交差させて放った裏拳と回し蹴りが、夜の静寂を切り裂くように炸裂する。


バキッ! ボゴォッ!


骨の砕ける音と悲鳴が中庭に木霊した。ほんの数十秒の間に、十数人の精鋭が血反吐を吐いて転がっている。

血飛沫一つ浴びず、漆黒の羽織を夜風になびかせて立つ私の姿に、後方に控えていたライハルトは剣を構えたまま完全に言葉を失っていた。


「……信じられん。魔法防御を施した武装兵を、素手で……これほどの実戦武術、騎士団にも存在しないぞ……」


呆然と呟くライハルトをよそに、私は残った暗殺者たちを睨みつけた。

「さあ、次はどいつだ? アタイのシマを荒らした落とし前、きっちり骨の髄まで払ってもらうよ」


私のドスの利いた啖呵と、血に飢えた夜叉のような威圧感に、残った傭兵たちが悲鳴を上げて後退りする。武器を握る手がカタカタと震えていた。


「ば、化け物め……! どきやがれ、俺が直々に叩き斬ってやる!」


苛立ちを露わにしたグレゴールが、巨大な両刃の大剣を構えて突進してきた。

刀身から夜気を焦がす紅蓮の炎が吹き上がる。


「死ねやぁぁぁっ! 『爆炎破断斬』!!」


頭上から振り下ろされる炎の大剣。回避不可能な範囲を焼き尽くす一撃に対し、私は逃げるどころか、あろうことか一歩前へと踏み込んだ。


「エレオノーラ殿、避けろ!」

ライハルトの絶叫が響く。

だが、私は炎の刃が脳天に届く寸前、両手の平に極限まで魔力を凝縮させ、大剣の『腹』を左右から挟み込むように打ち合わせた。


真剣白刃取り――だが、ただ受け止めるのではない。打ち込む瞬間に体内の魔力を逆位相で爆縮させ、大剣に宿る炎の魔力循環そのものを粉砕する。


バチィィィンッッ!!


凄まじい衝撃波が巻き起こり、紅蓮の炎が霧散した。

グレゴール渾身の大剣の刃先は、私の眉間わずか数ミリのところで完全に制止していた。


「な……っ!? 馬鹿な、俺の全力の魔法剣を……素手で受け止めた、だと……!?」

「大振りなんだよ、三下。隙だらけの剣なんざ、アタイの前じゃただの鉄屑だ」


私は冷笑を浮かべると、白刃取りした両手にさらに力を込め、大剣を横方向へとへし折るように捻り上げた。

キンッ、という甲高い金属疲労の音とともに、分厚い刀身が真っ二つにへし折れる。


「ヒィッ!?」

「足元がお留守だよ!」


武器を失い硬直したグレゴールの脛へ、容赦のない前蹴りを叩き込む。

巨漢の体がくの字に折れ曲がり、ドスンと膝をついた。その無防備になった顔面の前に、私は拳をピタリと突きつけた。

拳から放たれる凄まじい魔力の風圧が、グレゴールの頬を切り裂く。


「ひ、ひぃぃ……! た、助けてくれ……!」


大男はガタガタと歯の根を鳴らして石畳に額を擦り付け、周囲の部下たちも次々と武器を投げ捨てて平伏した。


「ふん、他人の命を奪いに来た奴が、いざとなりゃ命乞いかい。情けねぇね」


私は冷たく吐き捨てると、グレゴールの懐に手を突っ込み、先ほど見えた羊皮紙の束――クリストファーとの契約書を乱暴に引き抜いた。


「……へぇ、やっぱりあの青瓢箪の差し金かい。どこまでも腐ったガキだね」


契約書の文面を流し読みしていた私の目が、ある一節でピクリと止まった。

そこには、一見すると傭兵への報酬支払いを保証する文言に見せかけて、古代魔導言語による微細な誓約魔法の術式が組み込まれていたのだ。


私は目を細め、足元のグレゴールを見下ろした。


「おい、グレゴール」

「は、はいぃっ!」

「お前、この契約書にサインする時、血の判を押したかい?」

「へ、へえ……殿下が、契約の絶対性を保証するために血判が必要だって言ったんで、指を切って押しましたぜ……」

「……つくづく救いようのねぇ馬鹿野郎だね」


私は呆れたように溜息をつき、契約書の端をグレゴールの目の前に突きつけた。


「この契約書の裏に仕組まれてる魔術式を読めないのかい? 『任務完了の報告時、術者の魔力と共鳴して心臓を破裂させる』――遅効性の毒殺魔法だよ」

「な……っ!?」

グレゴールの顔が、今度こそ死人のように青ざめた。


「そんな……報酬は金貨五百枚だって……!」

「王族が、暗殺部隊なんていう特大の汚点を生かして帰すわけないだろうが。任務が成功しようが失敗しようが、お前らは王都に戻った瞬間に口封じで皆殺しにされる手筈だったのさ。使い捨てのトカゲの尻尾だよ」


グレゴールはその場に崩れ落ち、頭を抱えて震え出した。

金のために命を張り、悪逆の限りを尽くしてきた果てが、雇い主からの無慈悲な裏切りと処刑。

任侠の道において、もっとも唾棄すべき『スジの通らない裏切り』だ。


私は契約書を丸めてグレゴールの頭の上にポンと置いた。


「どうだい。筋の通らねぇ外道に命を捧げて犬死にするか、それともアタイに本当の落とし前をつける手伝いをするか。……選ばせてやるよ」


グレゴールは血走った目で私を見上げ、それから貪るように地面に額を擦り付けた。


「姐御……! いや、エレオノーラ様! 俺が悪かった! 俺たちの命を助けてくだせぇ! 何でもします! あのクソ王子を地獄に叩き落とすためなら、何だって喋ります!」


グレゴールは懐の奥底から、もう一通の厳重に封印された書状を取り出し、震える両手で私へと差し出した。


「こ、これは王子の直筆の密書です! 俺たちに貴女の暗殺を命じた、動かぬ証拠です! これを持って王都へ乗り込んでくだせぇ!」

「……よし、受け取ったよ」


私は密書を受け取り、背後で成り行きを見守っていたライハルトを振り返った。

「どうだい、近衛騎士団長様。王族の暗殺教唆の現場を押さえた上に、動かぬ物証まで手に入った。……これでもまだ、王都の法とやらはあの青瓢箪を庇うかい?」


ライハルトは剣を鞘に納めると、深い憤りと、迷いのない決意を瞳に宿して歩み寄ってきた。


「……いいや、断じて庇わん。王族の矜持を捨て、私怨で暗殺者を放ち、その暗殺者すら罠にかけて切り捨てようとするなど、言語道断の背信行為だ。私の監査報告書と、この密書があれば……国王陛下ももはや庇い立てはできん」


ライハルトは私から密書を預かり、恭しく胸に手を当てた。

「エレオノーラ殿。この件、私に預けていただきたい。必ずや、貴女の尊厳と安全を脅かした外道どもに、法と正義の裁きを下してみせる」

「頼んだよ、堅物さん。きっちりと王子の首……いや、ケジメを取ってきな」


こうして、夜襲の危機は完全に去り、反撃の狼煙が王都へと向けて上げられたのだった。



◆ーーーー◆


数日後、王都から早馬が北東辺境領へと駆け込んできた。

もたらされた報せは、領民たちを狂喜乱舞させるに十分なものだった。


ライハルトの電撃的な告発と、グレゴールが差し出した直筆の密書、さらには暗殺部隊の生き残りたちの生々しい証言により、国王主催の臨時最高法廷が開かれたのだ。

クリストファー王子はすべての罪状を突きつけられて完全に失脚。王位継承権の永久剥奪および、王都を遠く離れた修道院への終身幽閉という、王族としてこれ以上ない厳罰が下された。

愛人のシャルロットも爵位を剥奪され、国外追放の刑に処されたという。


そして何より――。

国王陛下からの親書により、北東辺境領地は王家の直轄を完全に離れ、『エレオノーラ・シルフィードを領主とする永久不可侵の独立自治領』として正式に承認されたのだ。税の免除、独自の法と防衛権の承認――これ以上ない完全な勝利だった。


「やったぞぉぉっ! 領主様万歳!」

「俺たちの土地が、本当に俺たちのものになったんだ!」


集落の広場では、領民たちが麦酒の樽を開け、涙を流しながら抱き合って喜んでいた。ベネディクトも目を細め、誇らしげに領民たちに料理を振る舞っている。かつて荒れ果てていたゴミ捨て場は、希望と活気に満ちた新しい国へと生まれ変わろうとしていた。



翌朝。

東の地平線から朝焼けの光が差し込み、見渡す限りの広大な大地を黄金色に染め上げていた。


私は領地を一望できる高台の丘の上に立ち、心地よい朝風に吹かれながら、どこまでも続く自分のシマを眺めていた。泥に塗れて開墾した畑には、緑の芽が力強く息吹き始めている。


「いい景色だねぇ」


私が呟いたその時、背後から静かな足音が近づいてきた。

振り返ると、そこには旅装を整えたライハルトが立っていた。監査の任務を終え、王都へ戻るはずの彼だ。


「……もう王都へ帰る時間かい、ライハルト」

「いいや」


ライハルトは静かに首を振った。

その腰には、近衛騎士団長の証である白銀の徽章も、王家から下賜された宝剣もなかった。ただの実直な騎士としての、飾りのない剣だけが佩かれている。


「辞表を提出してきた。受理されたよ」

「……はぁ? あんた、近衛騎士団長を辞めたのかい!? 騎士の頂点だろうが!」


私が思わず目を見張ると、ライハルトは穏やかに、だが狂おしいほどの情熱を秘めた瞳で私を見つめ返した。


「腐敗した王宮に仕えるよりも、もっと守るべき尊いものを見つけてしまったのだ。……王都で裁判を終えた時、私の心には貴女のことしかなかった」


ライハルトは迷いのない足取りで私の正面へと進み出ると――朝焼けの光の中で、バサリとマントを翻し、私の前に片膝をついて跪いた。


「ちょ、ちょっと、何やってんだい……!」


狼狽える私を真っ直ぐに見上げ、ライハルトは自らの胸に右手を当てた。その端正な顔は、かつての氷のような冷徹さなど微塵もなく、熱烈な忠誠と、隠しようのない独占欲と愛慕に満ちていた。


「生涯、貴女の筋道をお守りする盾になりたい」


朗々とした美声が、丘の上に響き渡る。

「貴女が切り拓く荒野を、貴女の進む道を、誰にも邪魔させはしない。近衛騎士団長の地位など、貴女の隣に立つ権利に比べれば塵芥に等しい。……一生貴女の舎弟……いや、夫として傍にいさせてほしい」


「しゃ、舎弟ってあんた……!」


思わずツッコミを入れそうになったが、彼の瞳の真剣さに言葉が喉で止まった。

地位も名誉も捨て、全てを投げ打って私一人のために膝を屈している男の覚悟が、魂を揺さぶるように伝わってくる。

前世でも、今世でも、これほど真っ直ぐに私の背中を預けられる男に出会ったことはなかった。


腹の底から、熱いものが込み上げてくる。

私は一度大きく天を仰ぎ、朝焼けの眩しさに目を細めてから、フッと不敵な笑みを浮かべた。


「地位も名誉も捨ててアタイの下につくたぁ、酔狂な男だね。……後悔しても、もう逃がしてやらないよ?」

「望むところだ。生涯、貴女の鎖に繋がれよう」


迷いのない返答に、私は思わず豪快に吹き出した。

これほど頑固で、実直で、愛おしい男を、断れるはずがない。


私は跪くライハルトの大きな手を取り、力強く握り返した。


「いい覚悟だ。生涯の盃、交わしてやるよ」


朝焼けの眩い光が、固く結ばれた私たちの手を包み込む。

理不尽を鉄拳で粉砕し、筋道を通して手に入れた新しいシマと、最高の伴侶。

極道の姐御として覚醒した私の、痛快で誇り高き第二の人生は、まだ始まったばかりだ。


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