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世界の綻び

06:あと5分

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

目覚まし時計がけたたましく鳴った。

枕元の時計を見ると、針は七時を指していた。あと三十分で家を出なければならない。

分かっている。

分かっているのだが、身体が動かない。

僕は布団を頭までかぶった。

「……あと五分」

その瞬間、音が消えた。

耳元で鳴り響いていた目覚ましの音が、突然、ぷつりと途切れた。

僕は布団から顔を出した。

窓の外を、鳥が飛んでいた。

羽を広げたまま、まるで空中に貼りつけられたように止まっている。

僕はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。

向かいの家のベランダには、洗濯物を干そうとしている人の姿があった。その腕も、風に揺れるはずのシャツも、微動だにしていない。

僕は枕元の時計に目をやった。

秒針が止まっていた。

壊れたのだろうか。

そう思ってしばらく眺めていたが、秒針はぴくりとも動かない。

もう一度、窓の外を見る。

鳥は空中に浮かんだまま。向かいの家の人も、腕を伸ばした姿勢のままだった。

夢にしては、妙にはっきりしている。

僕はベッドから離れ、恐る恐る部屋の中を歩いた。自分は普通に動ける。手も、足も、いつもと変わらない。

いったい、何が起きているんだ。

しばらくして、ふと時計に目を向けた。

そのときだった。

かちり。

秒針が、一目盛り進んだ。

止まっていた鳥が羽ばたき、洗濯物が風に揺れた。窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえてきた。

僕は、枕元の時計を見つめた。

秒針は、再び動き始めていた。長針も短針も、ほとんど位置を変えていない。

そんなはずはない。

僕はベッドから起き上がり、カーテンを開け、部屋の中を歩き回った。少なくとも、数分は経っている。

そのとき、止まっていた目覚ましが、何事もなかったかのように再び鳴り始めた。

僕は慌てて目覚ましを止めた。

時計は、七時を少し過ぎたところだった。

確かに、僕は動いていた。それなのに、時間はほとんど進んでいなかった。


その朝、僕は遅刻せずに会社へ着いた。

不思議なこともあるものだと思った。寝ぼけていたのかもしれない。そう考えて、その日はそれ以上、深く考えなかった。

けれど、翌朝も同じことが起きた。

眠い目をこすりながら、僕は布団の中で呟いた。

「あと五分」

再び、世界が止まった。

そして、僕だけが動けた。

三日目も、四日目も、同じだった。

試しに、止まっている間に時計を見続けてみた。秒針は動かない。スマートフォンの表示も変わらない。それでも、自分の感覚では、きっかり五分ほど経つと世界は動き出す。

最初は怖かった。

だが、何度か繰り返すうちに、怖さよりも便利さのほうが勝るようになった。

寝坊しても、遅刻しない。

朝食を取る時間がなくても、五分あれば何とかなる。

忘れ物に気づいても、世界を止めれば取りに戻れる。

たった五分。

されど五分。

それまで何度も失敗していた朝の支度が、いつの間にか余裕を持ってできるようになった。

僕は、すっかりこの能力を気に入っていた。

なぜ、そんなことができるのか。どうして「あと五分」と呟くだけなのか。

考えてみても、答えは出なかった。

理由が分からなくても、使えるのだから問題ない。

僕はそう思っていた。

初めて、朝以外にも時間を止められると気づいたのは、会社で失敗をしたときだった。

取引先に提出する資料に、数字の誤りがあった。上司がそれに気づくまで、あと少し。

今から訂正しても、間に合わない。

どうしよう。

僕は机の下で拳を握った。

「……あと五分」

音が消えた。

向かいの席の同僚が、書類をめくる途中の姿勢で止まっていた。壁の時計も、窓の外の車も動かない。

僕は目を見開いた。

朝だけではなかったのだ。

時間は、いつでも止められる。

僕は急いで資料を訂正し、元の場所へ戻した。世界が動き出したとき、上司は何も気づかなかった。

その日の帰り道、僕は思わず笑ってしまった。

これさえあれば、もう失敗を恐れる必要はない。

そう思った。

それから僕は、仕事でも「あと五分」を使うようになった。

最初は、本当に困ったときだけだった。

締め切りに間に合わないとき。考えがまとまらないとき。上司に質問されて、答えを用意できていないとき。

止まった世界で必要なことを済ませれば、誰にも迷惑をかけずに済む。

そう考えていた。

けれど、しばらくすると、少しずつ使い方が変わってきた。

同僚が提出する資料を見て、自分より評価されそうだと思ったとき。僕は時間を止め、書類の順番を入れ替えた。大したことではないと思った。ほんの少し、自分に有利になるようにしただけだ。

その結果、上司は同僚の資料を見落とした。

別の日には、自分のミスを隠すために、共有フォルダに置かれた記録を変更した。誰が最初に入力したのか分からなくなり、別の社員が責任を問われた。

僕は、その人に謝らなかった。

止まった五分間のことを知っているのは、自分だけだ。

誰にも見られていない。

誰にも気づかれていない。

だから、問題ない。

いつしか、僕はそう考えるようになっていた。

時間を止めれば、何でもできる。

誰にも邪魔されずに動ける。誰にも見られずに、物事を自分の都合のいいように変えられる。

少しくらい、いいじゃないか。

僕は、そうやって自分を納得させていた。

ある日、残業を終えて会社を出たとき、急に雨が降り始めた。

傘を持っていなかった僕は、駅まで走ろうとした。

そのとき、ふと思いついた。

「あと五分」

世界が止まった。

雨粒が空中に浮かび、道路に落ちる直前の水滴まで、ひとつひとつ形を保っている。

僕は濡れずに歩き出した。

誰もいない道路を横切り、駅までの道を進んだ。

その途中、交差点の真ん中に、ひとりの女性が立っていた。

黒っぽいコートを着て、こちらを見ている。

周囲は完全に止まっているはずだった。

なのに、女性だけが動いていた。

僕は足を止めた。

「……あなたも、動けるんですか?」

女性は答えず、僕をじっと見つめた。

「何なんですか、あなた。これ、僕にしかできないと思っていたんですけど」

「そう思っていたのね」

女性は、淡々と言った。

その口調が、妙に気に障った。

「どうして時間が止まるんですか? あなたは何を知っているんですか?」

女性は、僕の質問には答えなかった。

代わりに、こう言った。

「代償があるのに」

「……は?」

「あなたは、時間を止めて何をしているの?」

「何って……たった五分ですよ。朝の支度をしたり、仕事を片づけたり。便利だから使っているだけです」

女性は、わずかに首を傾けた。

「五分の長さが問題なんじゃないのよ」

「じゃあ、何が問題だっていうんですか」

「その五分の間に、あなたが何をするのか」

僕は、思わず笑った。

「何をするかって……別に、悪いことなんてしていませんよ」

女性は何も言わなかった。

その沈黙が、かえって不愉快だった。

「そもそも、誰にも見られていないんです。誰にも迷惑なんてかけていないでしょう」

「そう」

女性は静かに言った。

「なら、気にすることはないわね」

その言葉に、僕は拍子抜けした。

もっと何か言われると思っていたのに。

「あなた、誰なんですか?」

僕が尋ねると、女性は少しだけ笑った。

「そのうち分かるわ」

そう言って、彼女は歩き出した。

僕が振り返ったときには、もう姿がなかった。

その直後、雨が地面を打つ音が戻ってきた。

僕は濡れた肩を払って、駅へ向かった。

女性の言葉は、しばらく頭に残っていた。

けれど、結局、気にしないことにした。

たかが五分だ。

その五分で何をしたところで、世界が変わるわけじゃない。

僕は、そう思っていた。

それから、僕はますます時間を止めるようになった。

仕事の失敗を隠すだけではなく、誰かの手柄を横取りすることもあった。自分が評価されるために、同僚が提出した資料を見えないところへ移し、締め切りに間に合わなかったように見せたこともある。

そのたびに、誰かが困った。

誰かが怒られた。

誰かが、僕の代わりに頭を下げた。

それでも僕は、やめなかった。

自分が何かをしたとき、他人にどんな影響が出るのか。それを考えることが、面倒になっていた。

止まった世界では、誰も僕を責めない。

だから、僕は自分のしたことを、なかったことのように扱った。

仕事では昇進した。

周囲からも、要領がよく、仕事ができる人間だと思われていた。

だが、実際には、必要な経験を積んでいなかった。

面倒な問題に直面すれば、考える前に時間を止める。失敗すれば、時間を止めて隠す。誰かに追いつかれそうになれば、時間を止めて先へ進む。

そうやって得た評価は、実力ではなかった。

だが、僕はそれを認めたくなかった。

五分あれば、何とかできる。

ずっと、そう思い続けていた。

それから何年かが過ぎた。

僕は、仕事でも私生活でも、何かあるたびに「あと五分」と呟くようになっていた。

最初は、ただ朝の寝坊を補うためだった。

それが、いつしか自分の都合を通すための道具になった。

他人の時間を奪っているという感覚はなかった。

止まった世界で、僕は少しだけ自分に有利なことをしているだけだ。

そう思っていた。

しかし、問題は少しずつ大きくなっていった。

僕が書き換えた記録のせいで、同僚が責任を問われた。僕が隠した不備のせいで、取引先との信頼関係が壊れた。僕が自分の失敗を押しつけたせいで、ひとりの社員が会社を去った。

どれも、僕が直接手を下したわけではない。

ただ、僕が止まった五分の間に、ほんの少し手を加えただけだ。

それでも、その結果は確かに現実に残った。

僕は何も感じなくなっていた。

いや、何も感じないようにしていたのかもしれない。

あの女性の言葉を思い出すことも、いつの間にかなくなっていた。

「代償があるのに」

あのとき、彼女はそう言った。

僕は、何も聞かなかった。

聞く必要などないと思っていた。


その日は、大きな取引先との会議があった。

僕が担当した案件に、重大な不備が見つかったのだ。

原因は、僕が過去に書き換えた記録にあった。

数字を変えたこと自体は、小さなことだと思っていた。しかし、その数字をもとに別の社員が判断し、その結果、取引先に大きな損失が出ていた。

会議室には、上司と取引先の担当者、そして、かつて僕のせいで責任を問われた同僚もいた。

「この記録を変更したのは、誰ですか」

取引先の担当者が、静かに尋ねた。

僕は答えられなかった。

自分だと言えば、すべてが終わる。

昇進も、評価も、築いてきた立場も。

何とかしなければ。

何とかして、この場を切り抜けなければ。

あと五分あれば、何かできる。

僕は唇を動かした。

「……あと五分」

世界が止まった。

会議室の空気が固まった。上司の口元も、書類をめくろうとしていた同僚の指も、窓の外を走る車も、すべてが静止していた。

いつもの五分。

いつものように、自分だけが動けるはずだった。

だが、次の瞬間、胸に鋭い痛みが走った。

息ができない。

心臓を、見えない手で握りつぶされるようだった。

僕は机に手をついた。

「何だ……これ……」

膝が崩れ、床に倒れ込む。

痛みは、さらに強くなった。

そのとき、会議室の扉のそばに、ひとりの女性が立っているのが見えた。

黒っぽいコート。

見覚えのある顔。

あの女性だった。

「……助けてくれ」

僕は、かすれた声で言った。

「何か、おかしいんだ。いつもは、こんなこと……」

女性は近づいてきた。

「あなた、何度も使ったでしょう」

「五分だ……たった五分だろ……!」

「そうね。止まるのは、いつも五分だった」

女性は、僕を見下ろした。

「でも、あなたが支払った時間は、五分ではなかったのよ」

僕は、何を言われているのか分からなかった。

女性は続けた。

「時間を止めた回数でも、止まっていた時間の長さでもない。そのあいだに、あなたが何をしたのか。それが、あなたの代償になる」

僕は首を振った。

「そんな……僕は、誰も……」

「あなたが隠した失敗のせいで、誰かが責任を負った。あなたが奪った手柄のせいで、誰かの努力が踏みにじられた。あなたが押しつけた仕事のせいで、誰かの生活が変わった」

女性の声は、少しも変わらなかった。

「あなたは、誰かの時間を奪ってきたの」

僕は、何かを言おうとした。

言い訳をしたかった。

自分だけが悪いわけじゃない。仕事では誰だって失敗する。誰だって、自分を守りたいと思う。

けれど、言葉は出てこなかった。

「誰かを傷つければ、その重さに応じて、あなたの寿命から時間が引かれる。小さなことでも、積み重なれば大きくなる」

女性は、静かに告げた。

「あなたは、もう使い切ったのよ」

胸の痛みが、また強くなった。

「……俺は、死ぬのか」

女性は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。

僕は、初めて怖くなった。

あれほど気軽に口にしてきた言葉。

あと五分。

ほんの少し、都合よく時間を使うだけのつもりだった。

それなのに、いつの間にか、自分の人生の時間まで使い切っていた。

「……どうすればいいんだ」

女性は、少しだけ首を傾けた。

「選べるわ」

「何を……?」

「このまま寿命を終えるか。それとも、この世界に残るか」

僕は女性を見つめた。

「残るって、どういう意味だよ」

「時間は、もう動かない。あなた以外の誰も、ここでは動けない。それでも、あなたはここでなら生きていける」

女性は淡々と告げた。

僕は周囲を見回した。

止まった時計。動かない車。窓の向こうに見える、いつもと変わらない街。

会議室には、僕の知っている人たちがいる。

けれど、誰も僕に答えてはくれない。

僕が何を言っても、何をしても、もう誰も動かない。

それは、僕がずっと欲しがっていた世界だった。

誰にも邪魔されず、自分の都合で時間を使える世界。

誰にも見られず、誰にも責められず、好きなように動ける世界。

けれど、そこには、誰もいない。

誰かと話すことも、誰かに謝ることも、誰かに許してもらうこともできない。

「あなたが望むなら、ここに残ってもいい」

女性は言った。

「ここには、もう誰かの時間を奪う相手はいないわ」

僕は、彼女の顔を見た。

「……あなたは、誰なんだ」

女性は、ほんの少しだけ笑った。

「人の時間が尽きたときに、迎えに来るものよ」

僕は、ようやく理解した。

彼女は、ずっと僕を見ていたのだ。

最初に時間が止まった朝から。

僕が五分を使い、誰かの時間を奪い、何もなかったように日常へ戻るたびに。

僕は何も答えられなかった。

女性は、ゆっくりと手を差し出した。

「さあ」

彼女は微笑んだ。

「あなたは、どちらを選ぶの?」

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