06:あと5分
目覚まし時計がけたたましく鳴った。
枕元の時計を見ると、針は七時を指していた。あと三十分で家を出なければならない。
分かっている。
分かっているのだが、身体が動かない。
僕は布団を頭までかぶった。
「……あと五分」
その瞬間、音が消えた。
耳元で鳴り響いていた目覚ましの音が、突然、ぷつりと途切れた。
僕は布団から顔を出した。
窓の外を、鳥が飛んでいた。
羽を広げたまま、まるで空中に貼りつけられたように止まっている。
僕はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
向かいの家のベランダには、洗濯物を干そうとしている人の姿があった。その腕も、風に揺れるはずのシャツも、微動だにしていない。
僕は枕元の時計に目をやった。
秒針が止まっていた。
壊れたのだろうか。
そう思ってしばらく眺めていたが、秒針はぴくりとも動かない。
もう一度、窓の外を見る。
鳥は空中に浮かんだまま。向かいの家の人も、腕を伸ばした姿勢のままだった。
夢にしては、妙にはっきりしている。
僕はベッドから離れ、恐る恐る部屋の中を歩いた。自分は普通に動ける。手も、足も、いつもと変わらない。
いったい、何が起きているんだ。
しばらくして、ふと時計に目を向けた。
そのときだった。
かちり。
秒針が、一目盛り進んだ。
止まっていた鳥が羽ばたき、洗濯物が風に揺れた。窓の外から、遠くを走る車の音が聞こえてきた。
僕は、枕元の時計を見つめた。
秒針は、再び動き始めていた。長針も短針も、ほとんど位置を変えていない。
そんなはずはない。
僕はベッドから起き上がり、カーテンを開け、部屋の中を歩き回った。少なくとも、数分は経っている。
そのとき、止まっていた目覚ましが、何事もなかったかのように再び鳴り始めた。
僕は慌てて目覚ましを止めた。
時計は、七時を少し過ぎたところだった。
確かに、僕は動いていた。それなのに、時間はほとんど進んでいなかった。
その朝、僕は遅刻せずに会社へ着いた。
不思議なこともあるものだと思った。寝ぼけていたのかもしれない。そう考えて、その日はそれ以上、深く考えなかった。
けれど、翌朝も同じことが起きた。
眠い目をこすりながら、僕は布団の中で呟いた。
「あと五分」
再び、世界が止まった。
そして、僕だけが動けた。
三日目も、四日目も、同じだった。
試しに、止まっている間に時計を見続けてみた。秒針は動かない。スマートフォンの表示も変わらない。それでも、自分の感覚では、きっかり五分ほど経つと世界は動き出す。
最初は怖かった。
だが、何度か繰り返すうちに、怖さよりも便利さのほうが勝るようになった。
寝坊しても、遅刻しない。
朝食を取る時間がなくても、五分あれば何とかなる。
忘れ物に気づいても、世界を止めれば取りに戻れる。
たった五分。
されど五分。
それまで何度も失敗していた朝の支度が、いつの間にか余裕を持ってできるようになった。
僕は、すっかりこの能力を気に入っていた。
なぜ、そんなことができるのか。どうして「あと五分」と呟くだけなのか。
考えてみても、答えは出なかった。
理由が分からなくても、使えるのだから問題ない。
僕はそう思っていた。
初めて、朝以外にも時間を止められると気づいたのは、会社で失敗をしたときだった。
取引先に提出する資料に、数字の誤りがあった。上司がそれに気づくまで、あと少し。
今から訂正しても、間に合わない。
どうしよう。
僕は机の下で拳を握った。
「……あと五分」
音が消えた。
向かいの席の同僚が、書類をめくる途中の姿勢で止まっていた。壁の時計も、窓の外の車も動かない。
僕は目を見開いた。
朝だけではなかったのだ。
時間は、いつでも止められる。
僕は急いで資料を訂正し、元の場所へ戻した。世界が動き出したとき、上司は何も気づかなかった。
その日の帰り道、僕は思わず笑ってしまった。
これさえあれば、もう失敗を恐れる必要はない。
そう思った。
それから僕は、仕事でも「あと五分」を使うようになった。
最初は、本当に困ったときだけだった。
締め切りに間に合わないとき。考えがまとまらないとき。上司に質問されて、答えを用意できていないとき。
止まった世界で必要なことを済ませれば、誰にも迷惑をかけずに済む。
そう考えていた。
けれど、しばらくすると、少しずつ使い方が変わってきた。
同僚が提出する資料を見て、自分より評価されそうだと思ったとき。僕は時間を止め、書類の順番を入れ替えた。大したことではないと思った。ほんの少し、自分に有利になるようにしただけだ。
その結果、上司は同僚の資料を見落とした。
別の日には、自分のミスを隠すために、共有フォルダに置かれた記録を変更した。誰が最初に入力したのか分からなくなり、別の社員が責任を問われた。
僕は、その人に謝らなかった。
止まった五分間のことを知っているのは、自分だけだ。
誰にも見られていない。
誰にも気づかれていない。
だから、問題ない。
いつしか、僕はそう考えるようになっていた。
時間を止めれば、何でもできる。
誰にも邪魔されずに動ける。誰にも見られずに、物事を自分の都合のいいように変えられる。
少しくらい、いいじゃないか。
僕は、そうやって自分を納得させていた。
ある日、残業を終えて会社を出たとき、急に雨が降り始めた。
傘を持っていなかった僕は、駅まで走ろうとした。
そのとき、ふと思いついた。
「あと五分」
世界が止まった。
雨粒が空中に浮かび、道路に落ちる直前の水滴まで、ひとつひとつ形を保っている。
僕は濡れずに歩き出した。
誰もいない道路を横切り、駅までの道を進んだ。
その途中、交差点の真ん中に、ひとりの女性が立っていた。
黒っぽいコートを着て、こちらを見ている。
周囲は完全に止まっているはずだった。
なのに、女性だけが動いていた。
僕は足を止めた。
「……あなたも、動けるんですか?」
女性は答えず、僕をじっと見つめた。
「何なんですか、あなた。これ、僕にしかできないと思っていたんですけど」
「そう思っていたのね」
女性は、淡々と言った。
その口調が、妙に気に障った。
「どうして時間が止まるんですか? あなたは何を知っているんですか?」
女性は、僕の質問には答えなかった。
代わりに、こう言った。
「代償があるのに」
「……は?」
「あなたは、時間を止めて何をしているの?」
「何って……たった五分ですよ。朝の支度をしたり、仕事を片づけたり。便利だから使っているだけです」
女性は、わずかに首を傾けた。
「五分の長さが問題なんじゃないのよ」
「じゃあ、何が問題だっていうんですか」
「その五分の間に、あなたが何をするのか」
僕は、思わず笑った。
「何をするかって……別に、悪いことなんてしていませんよ」
女性は何も言わなかった。
その沈黙が、かえって不愉快だった。
「そもそも、誰にも見られていないんです。誰にも迷惑なんてかけていないでしょう」
「そう」
女性は静かに言った。
「なら、気にすることはないわね」
その言葉に、僕は拍子抜けした。
もっと何か言われると思っていたのに。
「あなた、誰なんですか?」
僕が尋ねると、女性は少しだけ笑った。
「そのうち分かるわ」
そう言って、彼女は歩き出した。
僕が振り返ったときには、もう姿がなかった。
その直後、雨が地面を打つ音が戻ってきた。
僕は濡れた肩を払って、駅へ向かった。
女性の言葉は、しばらく頭に残っていた。
けれど、結局、気にしないことにした。
たかが五分だ。
その五分で何をしたところで、世界が変わるわけじゃない。
僕は、そう思っていた。
それから、僕はますます時間を止めるようになった。
仕事の失敗を隠すだけではなく、誰かの手柄を横取りすることもあった。自分が評価されるために、同僚が提出した資料を見えないところへ移し、締め切りに間に合わなかったように見せたこともある。
そのたびに、誰かが困った。
誰かが怒られた。
誰かが、僕の代わりに頭を下げた。
それでも僕は、やめなかった。
自分が何かをしたとき、他人にどんな影響が出るのか。それを考えることが、面倒になっていた。
止まった世界では、誰も僕を責めない。
だから、僕は自分のしたことを、なかったことのように扱った。
仕事では昇進した。
周囲からも、要領がよく、仕事ができる人間だと思われていた。
だが、実際には、必要な経験を積んでいなかった。
面倒な問題に直面すれば、考える前に時間を止める。失敗すれば、時間を止めて隠す。誰かに追いつかれそうになれば、時間を止めて先へ進む。
そうやって得た評価は、実力ではなかった。
だが、僕はそれを認めたくなかった。
五分あれば、何とかできる。
ずっと、そう思い続けていた。
それから何年かが過ぎた。
僕は、仕事でも私生活でも、何かあるたびに「あと五分」と呟くようになっていた。
最初は、ただ朝の寝坊を補うためだった。
それが、いつしか自分の都合を通すための道具になった。
他人の時間を奪っているという感覚はなかった。
止まった世界で、僕は少しだけ自分に有利なことをしているだけだ。
そう思っていた。
しかし、問題は少しずつ大きくなっていった。
僕が書き換えた記録のせいで、同僚が責任を問われた。僕が隠した不備のせいで、取引先との信頼関係が壊れた。僕が自分の失敗を押しつけたせいで、ひとりの社員が会社を去った。
どれも、僕が直接手を下したわけではない。
ただ、僕が止まった五分の間に、ほんの少し手を加えただけだ。
それでも、その結果は確かに現実に残った。
僕は何も感じなくなっていた。
いや、何も感じないようにしていたのかもしれない。
あの女性の言葉を思い出すことも、いつの間にかなくなっていた。
「代償があるのに」
あのとき、彼女はそう言った。
僕は、何も聞かなかった。
聞く必要などないと思っていた。
その日は、大きな取引先との会議があった。
僕が担当した案件に、重大な不備が見つかったのだ。
原因は、僕が過去に書き換えた記録にあった。
数字を変えたこと自体は、小さなことだと思っていた。しかし、その数字をもとに別の社員が判断し、その結果、取引先に大きな損失が出ていた。
会議室には、上司と取引先の担当者、そして、かつて僕のせいで責任を問われた同僚もいた。
「この記録を変更したのは、誰ですか」
取引先の担当者が、静かに尋ねた。
僕は答えられなかった。
自分だと言えば、すべてが終わる。
昇進も、評価も、築いてきた立場も。
何とかしなければ。
何とかして、この場を切り抜けなければ。
あと五分あれば、何かできる。
僕は唇を動かした。
「……あと五分」
世界が止まった。
会議室の空気が固まった。上司の口元も、書類をめくろうとしていた同僚の指も、窓の外を走る車も、すべてが静止していた。
いつもの五分。
いつものように、自分だけが動けるはずだった。
だが、次の瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
息ができない。
心臓を、見えない手で握りつぶされるようだった。
僕は机に手をついた。
「何だ……これ……」
膝が崩れ、床に倒れ込む。
痛みは、さらに強くなった。
そのとき、会議室の扉のそばに、ひとりの女性が立っているのが見えた。
黒っぽいコート。
見覚えのある顔。
あの女性だった。
「……助けてくれ」
僕は、かすれた声で言った。
「何か、おかしいんだ。いつもは、こんなこと……」
女性は近づいてきた。
「あなた、何度も使ったでしょう」
「五分だ……たった五分だろ……!」
「そうね。止まるのは、いつも五分だった」
女性は、僕を見下ろした。
「でも、あなたが支払った時間は、五分ではなかったのよ」
僕は、何を言われているのか分からなかった。
女性は続けた。
「時間を止めた回数でも、止まっていた時間の長さでもない。そのあいだに、あなたが何をしたのか。それが、あなたの代償になる」
僕は首を振った。
「そんな……僕は、誰も……」
「あなたが隠した失敗のせいで、誰かが責任を負った。あなたが奪った手柄のせいで、誰かの努力が踏みにじられた。あなたが押しつけた仕事のせいで、誰かの生活が変わった」
女性の声は、少しも変わらなかった。
「あなたは、誰かの時間を奪ってきたの」
僕は、何かを言おうとした。
言い訳をしたかった。
自分だけが悪いわけじゃない。仕事では誰だって失敗する。誰だって、自分を守りたいと思う。
けれど、言葉は出てこなかった。
「誰かを傷つければ、その重さに応じて、あなたの寿命から時間が引かれる。小さなことでも、積み重なれば大きくなる」
女性は、静かに告げた。
「あなたは、もう使い切ったのよ」
胸の痛みが、また強くなった。
「……俺は、死ぬのか」
女性は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
僕は、初めて怖くなった。
あれほど気軽に口にしてきた言葉。
あと五分。
ほんの少し、都合よく時間を使うだけのつもりだった。
それなのに、いつの間にか、自分の人生の時間まで使い切っていた。
「……どうすればいいんだ」
女性は、少しだけ首を傾けた。
「選べるわ」
「何を……?」
「このまま寿命を終えるか。それとも、この世界に残るか」
僕は女性を見つめた。
「残るって、どういう意味だよ」
「時間は、もう動かない。あなた以外の誰も、ここでは動けない。それでも、あなたはここでなら生きていける」
女性は淡々と告げた。
僕は周囲を見回した。
止まった時計。動かない車。窓の向こうに見える、いつもと変わらない街。
会議室には、僕の知っている人たちがいる。
けれど、誰も僕に答えてはくれない。
僕が何を言っても、何をしても、もう誰も動かない。
それは、僕がずっと欲しがっていた世界だった。
誰にも邪魔されず、自分の都合で時間を使える世界。
誰にも見られず、誰にも責められず、好きなように動ける世界。
けれど、そこには、誰もいない。
誰かと話すことも、誰かに謝ることも、誰かに許してもらうこともできない。
「あなたが望むなら、ここに残ってもいい」
女性は言った。
「ここには、もう誰かの時間を奪う相手はいないわ」
僕は、彼女の顔を見た。
「……あなたは、誰なんだ」
女性は、ほんの少しだけ笑った。
「人の時間が尽きたときに、迎えに来るものよ」
僕は、ようやく理解した。
彼女は、ずっと僕を見ていたのだ。
最初に時間が止まった朝から。
僕が五分を使い、誰かの時間を奪い、何もなかったように日常へ戻るたびに。
僕は何も答えられなかった。
女性は、ゆっくりと手を差し出した。
「さあ」
彼女は微笑んだ。
「あなたは、どちらを選ぶの?」




