『「真実の愛のために平民になる」と仰る王太子殿下、喜んで婚約解消いたしますね。――ところで、王籍離脱の手続きはもうお済みでして?』
『「真実の愛のために平民になる」と仰る王太子殿下、喜んで婚約解消いたしますね。――ところで、王籍離脱の手続きはもうお済みでして?』
「私は真実の愛のために王太子の身分を捨てる! セリア・フォン・グランツ、お前との婚約は今この場で破棄する!」
王宮の大夜会で、第一王子エドガーは声高らかに宣言した。楽団の演奏が途切れ、数百人の貴族が集う大広間から、衣擦れの音まで消えていく。壇上では桃色のドレスを着た男爵令嬢マリアが、胸元の青い宝石を揺らしながらエドガーの腕へしがみついていた。
婚約者である公爵令嬢セリアは、食事の途中で銀のフォークを置いた。皿には香草をまぶして焼いた仔牛肉と、蜂蜜で煮た人参が残っている。三日間、王宮へ泊まり込んで隣国との通商協定を整えてきたため、今日初めて口にした温かな食事だった。
「兄上は、なぜ食事が運ばれてから騒ぎを起こすのでしょうね」
斜め向かいに座る第二王子ルーカスが、冷めていく皿を見ながらつぶやいた。彼の濃紺の上着には飾りが少なく、袖口には先ほどまで書類を読んでいた証拠である青いインクがついている。昨夜もセリアと宰相府で予算書を確認していたため、目の下には薄い隈が残っていた。
「それだけは、わたくしにも分かりませんわ」
セリアはナプキンで口元を押さえ、壇上へ向き直った。エドガーは金糸で飾られた礼装を着て、舞台俳優のように大きく胸を張っている。自分へ集まる視線を、すべて称賛だと思い込んでいる顔だった。
「婚約破棄の理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「まだ分からないのか! 私は真実の愛に目覚めたのだ。政略と帳簿の話しかできない冷酷なお前ではなく、心優しいマリアと生きていく。王位などいらない。王族の身分も捨て、一人の平民として彼女を守る!」
「エドガー様……。粗末な家でも、硬いパンしかなくても、あなたと一緒なら幸せです」
マリアが潤んだ目で見上げると、エドガーは彼女の手を握った。二人は近頃流行している恋愛小説『王冠を捨てた小鳥』を読み、自分たちを物語の主人公になぞらえているらしい。その小説の王子は大工の修業をして恋人の家を建てたが、エドガーは剣術を三日で辞め、朝は侍従に靴下を履かせてもらっていた。
「平民として生きる、というお言葉に間違いはございませんか」
「何度言わせる。王冠よりマリアを選ぶのだ!」
「そうですか」
セリアは椅子から立ち、深い青色のドレスの裾を整えた。銀糸で刺繍された麦の穂が、燭台の明かりを受けて淡く光る。彼女は十年間、未来の王太子妃として王族法、外交、財政、救貧政策を学び、エドガーが放り出した仕事まで処理してきた。
「それでは、婚約解消を喜んでお受けいたします」
「……何?」
「王族の身分を捨ててまで貫かれる真実の愛ですもの。わたくしがお邪魔しては申し訳ございませんわ」
「待て。お前は私を愛していたのではないのか」
「殿下を次代の国王としてお支えする責務は、果たしてまいりました。しかし、王太子をお辞めになるのでしたら、その責務も本日まででございます」
エドガーは何度も瞬きをし、セリアが泣いて縋らない理由を探すように口を動かした。マリアも不安になったらしく、彼の袖を小さく引いている。二人の筋書きでは、嫉妬に狂ったセリアを追放し、真実の愛を貫いた自分たちが喝采を浴びるはずだったのだろう。
「強がるな。私との婚約がなくなれば、お前は王妃になれないのだぞ」
「存じております」
「公爵家の女として、王家との縁を失って困るのはお前だ」
「我が家が王室へ貸し付けている金額と、殿下個人の債務を確認してからおっしゃってくださいませ」
会場の一角で、年配の貴族が咳払いをした。エドガーはその意味を理解せず、セリアを負け惜しみだと笑った。彼女は侍女へ合図し、革張りの書類箱を運ばせた。
中には王家の紋章が押された羊皮紙、羽ペン、インク壺、朱肉が順番どおりに収められていた。セリアは一番上の書類を取り出し、エドガーの前へ置いた。三日前、彼が仕立屋と宝石商と酒場で同じ宣言をしたとの報告を受け、王族法に従って準備していたものだった。
「こちらが王位継承権放棄申請書、次が王籍離脱届、王家所有物返還同意書、年金および貴族特権の放棄証書です。最後に平民登録簿へ署名と拇印をお願いいたします」
「ずいぶん準備がいいな。私が冗談を言った可能性は考えなかったのか」
「国政を担う王太子が、町中で三度も口にした宣言を冗談として処理するわけにはまいりません」
「愛へ書類を持ち込むなんて、意地悪ですわ」
マリアが頬を膨らませ、青い宝石の首飾りへ手を添えた。セリアは彼女を睨まず、離脱届の内容を読み上げた。王籍を離れれば、王族として与えられた離宮、使用人、馬車、護衛、年金、爵位、免税特権をすべて失い、一般国民として人頭税と住民税を納めなければならない。
「説明は以上です。なお、署名後も国王陛下が裁可なさるまでは撤回できます。ただし、裁可後の取り消しは認められません」
セリアは、エドガーが自分で選べるよう羽ペンを横へ置いた。ここで署名しなければ、真実の愛という宣言が大げさな芝居だったと認めることになる。各国の使節や有力貴族が見守るなか、エドガーのこめかみに汗が浮いた。
「離宮を返せと言うが、私は国王の息子だ。父上が私を路上へ放り出すはずがない」
「王籍を離れた成人男性へ、国民の税金で離宮を与える法的根拠はございません」
「私には個人資産がある」
「殿下の個人名義の預金は、現在のところ金貨二百三十七枚です。借入金を差し引けば、残るのは金貨十一枚ほどでしょう」
「そんなはずはない!」
エドガーは金貨の数え方さえ知らない者を見るようにセリアを睨んだ。しかし、会場の隅にいる財務官が黙ってうなずくと、口元が引きつった。マリアは彼の腕から手を離さず、愛があればお金など必要ないと囁いた。
「そうだ。私は地位や財産に縛られるお前とは違う。署名してやる!」
エドガーは王位継承権放棄申請書へ自分の名を書いた。羽根の先からインクが飛び、金糸の袖へ黒い染みがついたが、拭こうともしない。続いて王籍離脱届、年金放棄証書、平民登録簿へ次々と署名し、最後に赤い朱肉へ親指を押しつけた。
「これで満足か!」
「まだ王家所有物返還同意書が残っております」
「細かい女だ」
エドガーは内容を読まず、最後の一枚にも署名した。セリアはすべての書類を確認し、立会人である宰相と外国使節二名から署名を受けた。これで、酔っていた、脅されていた、説明を受けていなかったという言い訳はできない。
「お手続きは終了いたしました。あとは国王陛下のご裁可を待つだけです」
「それより、私とマリアの婚約を発表しろ。明日から離宮を新居として使う」
「その離宮は、先ほど返還へ同意なさいました」
「裁可されるまでは私の物だろう」
「もともと殿下の所有物ではなく、王家から貸与されていたものです。今夜まではお使いになれますが、明朝九時までに退去してくださいませ」
エドガーの手から羽ペンが落ちた。床へ黒い線が引かれ、給仕が慌てて布を持ってくる。マリアは冗談でしょうと笑ったが、セリアは王家所有物の目録を開いた。
「マリア様がお召しの首飾りと耳飾りも、王家の宝物です。ドレスと馬車は王太子妃候補の公務費として国庫へ請求されています。殿下が王位を放棄なさった以上、返還していただきます」
「これはエドガー様から贈られたものです!」
「殿下には、王家の宝物を個人的に譲渡する権限がございません」
「エドガー様、何とか言ってください」
「セリア、宝石くらい見逃せ。お前にはいくらでも買えるだろう」
「わたくしの財産で、殿下の横領を補填する理由はございません」
セリアが答えると、マリアは首飾りを両手で覆った。エドガーは彼女を守ると言った直後にもかかわらず、その宝石を売れば当面の生活費になると耳打ちした。売却できないから返還を求めているのだが、二人とも理解していないらしい。
「では、平民になったあとも、父上から毎月お金をいただけばよい。親が息子を助けるのは当然だ」
「その金が国王陛下の私有財産から支払われるのであれば、わたくしが口を出すことではございません。ただし、国庫からの支出は認められません」
「父上は私を見捨てない!」
「そう願われるのでしたら、裁可を待ちましょう」
セリアは書類を宰相へ渡し、自分の席へ戻った。仔牛肉はすっかり冷え、表面の脂が白く固まっている。ルーカスは給仕を呼び、温かな料理へ取り替えるよう頼んでいた。
「兄上が騒いでいる間に、また夕食が冷めましたね」
「今日は食べられない日なのかもしれませんわ」
「そんな決まりは王族法にもありません。次の皿が来るまでは、せめてスープをどうぞ」
ルーカスは自分の前にあった蓋つきの器を差し出した。鶏肉と根菜のスープから湯気が立ち、月桂樹の匂いがセリアの鼻へ届いた。彼女が礼を言って匙を取ったところで、上座から国王が立ち上がった。
国王は最初から王妃とともに大夜会へ出席していた。壇上の騒ぎを止めなかったのは、エドガーが自分の言葉へどこまで責任を持つのか見極めるためだった。宰相から書類を受け取ると、国王は一枚ずつ目を通し、息子の署名と立会人の名を確認した。
「エドガー。セリア嬢から説明を受けたうえで、自分の意思によって署名したのだな」
エドガーの唇が震えた。今なら撤回できるとセリアは説明している。ここで頭を下げれば王籍には残れるが、大勢の前で真実の愛が芝居だったと認めなければならない。
「もちろんです。私は王冠より愛を選びました!」
「分かった。その選択を認めよう」
国王は王籍離脱届へ裁可の署名を入れ、王家の印章を押した。赤い蝋へ獅子の紋章が刻まれた瞬間、エドガーは第一王子ではなくなった。王位継承権も年金も特権も、本人が望んだとおり失われた。
「なお、王太子の地位は本日より空位とし、後任は王族会議と枢密院の審議によって決定する。今夜、この場で新たな王太子を選ぶことはしない」
国王の言葉に、貴族たちは姿勢を正した。家族の騒動に乗じて後継者まで軽々しく決めれば、王位そのものへの信頼が揺らぐ。第二王子だからという理由だけでルーカスを指名せず、働きと資質を審査するとした国王の判断へ、宰相も深くうなずいた。
「待ってください、父上。本当に離宮から出ろとおっしゃるのですか」
「お前自身が返還へ同意した」
「私は王家のために生きてきました!」
「王族法を学ばず、政務を婚約者へ押しつけ、国庫の財産を愛人へ与えることを、王家のために生きたとは言わぬ」
「では、せめて仕事を与えてください」
「平民として職業紹介所へ行け。お前が望んだ生き方だ」
エドガーは助けを求めるようにマリアを見た。ところが彼女は首飾りを外すよう近衛騎士から求められ、エドガーの腕を振り払っている。青い宝石がなくなれば、今夜着てきた自分の服まで失うと訴えた。
「マリア、私たちは硬いパンを分け合うと誓っただろう」
「たとえ話だと思っていました! 本当に平民になるなんて、どうして先に相談してくださらなかったの?」
「お前が身分を捨ててくれる私が好きだと言ったのだ!」
「王子様だから好きだったのよ。平民になる王子様と、最初から平民の男は違うわ!」
「身分で私を選んだのか!」
二人は大広間の中央で言い争いを始めた。セリアはその姿を眺めながら、ルーカスから受け取ったスープを飲んだ。鶏肉は柔らかく、冷えた腹へ温かな汁が落ちていく。
「ようやく食べられましたね」
「ええ。今夜一番うれしい出来事ですわ」
ルーカスは笑ったが、すぐに卓上の革鞄から一冊の帳簿を取り出した。表紙の角は擦れ、何度も開いた跡がある。中には、セリアが三年前に提出した孤児院の給食費増額案、農村の井戸整備、兵士の遺族年金、女性官吏の登用案が、財源の計算とともに書き写されていた。
「なぜ、これをお持ちなのですか」
「兄上が破り捨てたあと、拾って保管していました。あなたの提案は、王太子の婚約者だから価値があったのではありません。国に必要なものだから残したのです」
「それなら、ご自分の案として提出することもできたでしょう」
「あなたの名前を消したら、兄上と同じになります」
セリアは帳簿の端を指でなぞった。何度提出しても読まれなかった言葉が、見慣れた筆跡とは違う文字で丁寧に残されている。ルーカスは華やかな愛の言葉も、今すぐ結婚してほしいという約束も口にしなかった。
「王太子が誰になるとしても、この政策を議会へ出したい。明日から一緒に見直していただけますか」
「明日からですの?」
「……明後日にしましょう。今夜は三日分眠ってください」
「それなら、お引き受けいたします」
半年後、ルーカスは王族会議と枢密院の審査を経て、正式な王太子となった。セリアは彼の婚約者ではなく、王室政策顧問として孤児院の給食制度と農村の井戸整備を進めた。二人は意見がぶつかれば帳簿を開いて話し合い、どちらかの食事が冷めそうになると、もう一方が書類を閉じた。
エドガーは王都の職業紹介所で、倉庫の荷運びを紹介された。初日は靴擦れを理由に休み、三日目には上司へ自分が元王子だと名乗って特別扱いを求め、七日目に解雇されたという。マリアは宝石も別邸も返還したあと実家へ戻り、エドガーとの婚約を正式に断った。
ある冬の夜、セリアは政務室で孤児院の予算書を閉じた。窓には細かな雪が当たり、暖炉の前には洗った手袋が二組干されている。ルーカスは厨房から鶏肉のスープと柔らかな白パンを運び、机の上へ並べた。
「今日は、冷める前に食べられそうですわね」
「そのために会議を十五分早く終わらせました」
「王太子が、そのような理由で会議を終えてよろしいのですか」
「空腹の政策顧問は、予算書の数字を一桁間違えますから」
セリアは笑い、温かなパンを二つに割った。ルーカスは大きいほうを取らず、どちらがよいかと彼女へ尋ねた。大げさな誓いも、王冠を捨てるという宣言もなかったが、セリアには、その小さな問いのほうが信じられた。
「ルーカス殿下。来年も、その次の年も、こうして一緒に食事をしてくださいますか」
「それは、求婚と受け取っても?」
「王族法に従って、必要な書類を準備してからお返事くださいませ」
「明日の朝までにそろえます」
「今夜は仕事をしない約束です」
ルーカスは書類棚へ向かいかけた足を止め、素直に椅子へ戻った。セリアは湯気の立つスープを口へ運び、今度こそ誰にも邪魔されず、温かな夕食を最後まで味わった。




