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第1話:黒い紙と宝石

僕の世界は、いつだって灰色のグラデーションで塗りつぶされていた。

他の誰かにとっての高校生活というものは、色鮮やかな打ち上げ花火のようで、廊下に響く笑い声や、昇降口の靴箱に忍ばせられた甘酸っぱい手紙で満ちあふれているのかもしれない。


けれど、僕——西条アサミ(さいじょう・あさみ)にとって、学校とは単に「存在感を消す練習をする場所」に過ぎなかった。

教室のいちばん後ろの席に静かに座り、ヘッドホンから流れる音楽に身を委ねながら、ただ一日が早く過ぎ去ることだけを願う。


誰かを憎んでいるわけじゃない。ただ、僕のような人間にとって、この世界は少しばかり騒がしすぎるのだ。


そう思っていた。あの曇り空の放課後、図書室での小さなアクシデントが起きるまでは。


最上段の棚から本を取ろうとしたとき、脚立がグラりと大きく揺れた。

視界を覆う分厚い専門書。僕は床の冷たいタイルに叩きつけられる覚悟を決めて、ぎゅっと目を瞑った。

けれど、襲ってきたのは痛みではなく、誰かの体とぶつかる柔らかい衝撃だった。


「たた……大丈夫、君?」


柔らかく、どこか鈴の鳴るような声。

それに続いて、かすかな桜の香りが鼻腔をくすぐった。


恐る恐る目を開けると、そこにいたのは、僕がこれまでの人生で見たこともないほど温かい笑顔を浮かべた一人の少女だった。

窓から差し込む夕日を反射する彼女の瞳は澄み渡っていて、まるでいくらお金を積んでも手に入らない、最高級の宝石みたいに輝いている。


光ハナシ(ひかり・はなし)。

校内で知らない者はいない、一番の人気者で、太陽みたいに明るい女子生徒。

容姿端麗で成績優秀、誰かが困っていれば迷わず手を差し伸べる親切さも持ち合わせている。

暗闇に沈む僕の世界とは、正反対の真逆に位置する存在だ。


「アサミ君……だよね? やっとお話しできた!」


宝物でも見つけたかのように、彼女は満面の笑みを浮かべた。


その瞬間、悟ってしまった。

僕の平穏で静かな高校生活は、今日この手で正式に終焉を迎えたのだと。

そして、あの『宝石』に手を伸ばすための僕の旅が……いま、始まったのだと。


「え? あ、僕……?」


掠れた声を出した。閉まりきっていない窓から吹き込む放課後の風の音に、僕の声は消されそうになる。

手に握りしめた分厚い本の表紙が、指先ごと激しく震えていた。

さっきまで一定のリズムで刻まれていた心臓の鼓動が、急狂いしたように跳ね上がり、耳の奥で激しい警報を鳴らしている。


どうしてだ?

学校中の太陽で、誰もが振り返るような眩しい存在である光ハナシが、どうして僕の名前を知っている?

毎日廊下で持て囃され、机の周りには先輩からのプレゼントや手紙が絶えないはずの彼女が、目と鼻の先に立っている。

ほのかに漂う桜の香りが、僕の理性をじわじわと痺れさせていく。


ハナシは、クスリと小さく笑った。

ホコリの舞う静寂に包まれた図書室の中で、その鈴を転がすような笑い声だけが鮮やかに響く。


「うん、西条アサミ君でしょ? 一年A組で、いつも一番後ろの窓際の席に座ってる」


首をちょこんとかしげながら、彼女は僕をじっと見つめてくる。

まるで、ずっと前から解きたかった複雑なパズルを観察するかのように。


僕はぎこちなく瞬きを繰り返し、気まずい姿勢からゆっくりと立ち上がって、少しシワの寄った制服を整えた。


「僕の名前なんて……知ってるなんて思わなかった。ずっと、ただの影でいようとしてたのに」


視線の眩しさに耐えかねて、僕はうつむきながら呟いた。


「影でいようとしてたからこそ、目についてたんだよ?」


ハナシは迷いのない声で、即座に言い返した。あまりの迷いのなさに、僕は弾かれたように顔を上げた。


「……どういう、意味?」


ハナシは床に散らばった数冊の本を手際よく拾い集めると、またあの惜しみない笑顔を浮かべて僕に手渡してきた。その笑顔を見るたび、僕の胸の奥が激しく脈打つ。


「君のクラスの前を通るたび、なぜか私の視線はあの部屋の隅っこに吸い寄せられてたの。ヘッドホンを首にかけて、自分だけの世界に深く潜ってる君は、いつもすごく静かに見えた。でもね、その静けさの奥にある君の目が、たくさんの物語を隠してるみたいに見えたんだ」


ふっと声を柔らかくして、彼女は言葉を紡ぐ。


「だから……私、ただ知りたかったの。君のこと」


その言葉は、僕の胸を容赦なく打ち抜いた。

騒がしい世界から自分を守るために、誰も踏み込ませないようにと強固に築き上げてきた僕の城壁。

それが、学校で一番輝いている少女の手によって、あまりにもあっけなく打ち破られてしまったのだ。

残りの高校生活をただの観客としてやり過ごすという僕の完璧な計画は、脆くもガラガラと崩れ去った。


「でも、ハナシさん……僕たちは住む世界が違いすぎるよ。君の周りにいるのは、バスケットコートで歓声を浴びるような奴らや、放課後にカフェで楽しく集まるような人たちだ。それに比べて僕は……」


僕は唾を飲み込み、彼女のピカピカに磨かれた靴を見つめた。自分の履き古したくすんだスニーカーとは、あまりにも対照的だった。


「……人が大勢いる場所が苦手だし、気の利いたお世辞も言えない。面白そうな話題だって何ひとつ持ってないんだ」


僕の情けない独白を聞いても、ハナシの表情に呆れや嫌悪の色は浮かばなかった。

それどころか、彼女の笑みはさらに深まり、僕の左胸にこびりついた氷をゆっくりと溶かしていくような温もりを放ちはじめる。


「ふたりの世界が違わなきゃいけないなんて、誰が決めたの?」


ハナシは小さく囁くと、僕との距離をさらに一歩詰めた。

澄み切った彼女の瞳の中に、小さく動揺する僕自身の姿がはっきりと映り込んでいる。


「君が私と違うからこそ、私の世界は退屈じゃなくなったんだよ、アサミ君。ねえ、今日から……私達、友達にならない? この図書室から始まる、新しい章の第一歩としてさ」


放課後の強い風が吹き抜け、彼女のダークブラウンの髪をふわりと大きく揺らした。

積み上げられた古書の匂いと、高くそびえる木製の本棚に囲まれたこの場所で、僕の運命の歯車が静かに動き出す。


退屈で灰色だった僕の世界に、とてつもなく鮮やかな最初の『色』が落ちた瞬間だった。

知識の海の中で、僕は確信していた。今日という日を境に、僕は二度と「かつての西条アサミ」には戻れないのだと。


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