水天宮
水の中にいる数多のクリオネのような似姿をした何かが、渦を巻いて集まりだした。それらは互いにぶつかりながら融合して、徐々に大きい人型のような何かになり、いつしか自我を持ち始めた。
その顔の眼が開く。その視界に霞んだ世界が広がった。
「ここは?」
狭い部屋に滲むような高い声が辺りに波紋のように広がった。その呼び声に、目の前にいた何者かが反応した。霞んだ視界が徐々にはっきりし始め、目の前の顔がはっきりと映り始める。
白と黒の髪の入り混じった灰色の髪に、深い皺の刻まれた巌のような顔をした壮年の男が、長衣を羽織って目の前に立っていた。
男が生まれたばかりの者に語りかける。
「お前は、自分が何者か分かっているか?」
その者は少し考えるような素振りを見せた後で、その問いに答える。
「私は、水の精霊。数多の水の精霊が集まり、私が生み出された。貴方が私を生み出してくれたのですね。感謝いたします」
そう言って精霊がその頭を男に垂れる。男の表情は巌のように変わらない。頭を戻した精霊に、男が表情を変えずに厳かに口を開く。
「お前に頼みがある。この地は日照りが続き、水が足りない。雨を降らせてほしい」
それを聞いた精霊の目が大きく見開いた。一瞬の間が空いた後で、その目を細めて一言だけ返す。
「嫌です」
男の表情はその答えを聞いても変わらない。こう答えるであろうことは予想していた。
精霊がその口を開く。
「天神の意に反して天候を動かせば、その怒りに触れるでしょう。私は再び数多の精霊に戻り、私が私でなくなります。貴方でしたら当然ご存じでしょうけど」
男は賢者だった。そうなるだろうと分かっている上で、精霊に頼んでいる。精霊は目を細めて賢者を睨みつける。
賢者はため息をついた。
「私に付いてこい」
そう言うと、賢者は長衣を翻して部屋の出口に向かった。精霊も地面を滑るように飛びながらその後ろについて行った。
部屋から出た先には、より大きな部屋が広がっていた。そこには多くの人が、虚ろな目で疲れたように動かず、喉が枯れないように無言で座っている。彼らはこの地の村人たちだった。
村人たちは賢者が部屋に入る姿をみて、その身を乗り出した。その後に続く精霊を見た瞬間、枯れた喉で喝采を上げた。
「やった!流石は賢者様だ」
「これで私たちは助かるんですね」
「やっと、やっと……」
賢者は表情を崩さず、村人たちを見つめる。精霊は目を見開いて、喝采を上げている村人たちを見つめている。ざわめきの残る中、精霊が口を開いた。
「酷い!酷すぎる!」
滲むような高い声が部屋に波紋のように広がり、あっけにとられた村人たちが喝采をやめて口を閉じた。精霊は隣の賢者を見上げて続ける。
「貴方はなんて酷い人なんだ!生まれてすぐに死ねなんて、残酷だ!おまけに私が断ることを見越して、こうやって村人たちを集めて情に訴える。やり口が汚い。全部、酷い!」
賢者の表情は変わらない。その顔に埋まった静かな目で、精霊を見下ろす。
何となく事情が分かってきた村人たちの表情が変わり始めた。体を丸めて絶望する者、両手を後ろについて諦めたような顔をする者。中には怒りだす者もいた。
「ふざけるな!このために俺たちは残りの水を全て差し出したんだ!だったら水を返せ!」
それを聞いた精霊が驚いたような顔をして、自分の透明な手のひらを見つめた。部屋の片隅ある水桶は、全てが空になっていた。
精霊は賢者を見上げる。賢者は静かな声で精霊に伝える。
「もう、後がない」
それを聞いた精霊が、鳴らない歯で歯ぎしりをするように顔を歪ませた。精霊が賢者を睨みつける。賢者は表情を変えずに精霊を見下ろす。
険悪な空気の中、目を覚ました赤子がひ弱な声で泣き始めた。母親が疲れたような顔をしてあやし始める。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
母親は誰に謝るでもなく、謝り続ける。
精霊が母子を見つめる。賢者はそんな精霊を見下ろす。村人たちは無力感に満ちた顔で母子を見つめる。
精霊が母子にゆっくりと滑るように近づき、母親の近くで膝を折るようにして身をかがめると、母親の抱く赤子をじっと見つめた。精霊がその指を赤子の口に当てる。
最初は嫌がるような素振りを見せた赤子だが、そこから滲むように出るのが水だと分かると、乳に吸い付くように水を飲み始めた。精霊はそんな赤子を優しそうな目で見つめる。周りの村人たちも神聖な物を見るように、静かにその光景を見守っていた。
赤子が満足して飲み終わるのを確認すると、精霊はその赤子の額を撫でながら、母親に赤子の名前を尋ねる。母親は赤子の名を精霊に伝えた。
精霊は目を閉じて諦めたような顔をして立ち上がった。ゆっくりと滑るように賢者の前に戻ると、賢者を見上げて呟くように言う。
「分かりました。やりましょう。でも……」
そう言うと、精霊はその額を賢者の胸に当てるように頭を垂れて続ける。
「でも、その前に、せめて私に名前を下さい。この世にいたという証に。生まれて来たという、その証に」
賢者の巌のような顔がピクリとだけ動いた。賢者は暫く静かに目を閉じると、精霊に名前を告げた。それは亡くなった彼の妻の名前だった。
名前を冠した精霊の姿が再び変化していく。手足が細くなり、胸が膨らみ、頭から髪の様な造形が生まれ、その体が水の衣で覆われた。
女性のような似姿になった精霊が、賢者を見上げる。賢者は僅かに目を細めながら、その精霊を見下ろす。
精霊が振り返り、ゆっくりを滑るように外へ出る扉に向かう。賢者はその後ろ姿に、亡き妻の姿を重ねた。
賢者も、村人たちも、精霊の後に続いていく。
外へ出ると、そこには強い日差しが蝕んだ、乾燥し切った大地が広がっていた。草木は枯れ、水路は干上がって久しい。そこに生き物の影はなく、畑の乾燥した土が熱風に吹き飛ばされていた。
精霊が太陽を見上げる。村人たちが精霊を遠巻きにして見つめる。賢者が精霊を見守る。
突如として精霊の周りに巨大な水柱が逆巻いた。精霊はそれを纏うと、水柱と共に太陽に目がけて飛び立った。皆がその姿を見つめる。
曲がりくねりながら太陽に向かって飛んでいく水柱は、伝承にある龍のようにも見えた。
精霊は高く、高く飛んでいき、いつしか村人の目から見えなくなっていった。
精霊が見えなくなって暫くすると、空に雨雲が立ち始めた。雨雲は厚くなっていき、日差しを遮り、辺り一帯が薄暗くなっていく。そして……
「雨だ!雨が降って来たぞ!」
村人たちは騒ぎ始めた。手を上げて喜ぶ者、口を開けて雨を飲もうをする者、膝を付いて泣き始める者。皆が様々な形で喜びをあらわにしていた。その時だった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
つんざくような悲鳴が天から雨と共に降り注いできた。それを聞いた村人たちは喜ぶのをやめ、蒼白な顔をして天を見上げる。彼らは精霊の運命を思い出した。賢者も天を見上げながら、その目を悲しそうに閉じる。
雨が強くなり始めた。この雨の中に、ちりぢりになった精霊たちも混じっているのだろう……
雨が降り、村人たちは生活を取り戻した。村人たちが賢者への謝礼を集めて差し出そうとすると、賢者はそれを断った。
「その金で、精霊の社を建ててやってくれ……」
賢者はそう言って、再び旅へ出るために村を後にした。
村人たちはその言葉通りに、精霊の社を建てた。毎年夏になると、感謝と雨を乞う祭りを行い、皆がそれに参加して精霊の似姿とその最後を思い出した。彼らはその精霊を女神として祀った。
その社は村に溶け込み、村と共にあり続けた。時代が下り、村が町になり、町が都市になるにつれ、社も建て替えられて大きくなっていった。
逆に精霊を覚えている人たちは死んでいき、社に精霊が祀られていることを知る者も減っていった。遂には社が建てられた理由も忘れ去られた。
由来の忘れられたその社は、いつしか子供を守る安産を祈願する社として有名になっていった。
今では水天宮と呼ばれ、妊婦や妻や子の安産を願う者たちが、この社の女神に祈りを捧げている。




