第7話:赤マント・青マントの論理
駅の公衆トイレ。
終電が終わった後の、静寂に包まれた男子トイレは、独特の不気味さがある。
水滴が落ちる音だけが、コンクリートの壁に反響している。
蛍光灯は点滅を繰り返し、白い光と闇が交互に訪れる。
壁のタイルは黄ばみ、目地の隙間に黒カビが浮いている。
芳香剤の甘い匂いと、消しきれない尿臭が入り混じった、公衆トイレ特有の空気。
深夜、ここに入ると声がするという。
駅員の間では「終電後の音声」として知られていた。
耳をつまんでも聞こえる、低い男の声が。
『赤い紙が欲しいか……青い紙が欲しいか……』
古典的都市伝説「赤マント」。
昭和の時代から語り継がれる恐怖の怪人だ。
その発祥は1930年代の大阪とも東京とも言われ、戦前から語り継がれる日本最古級の都市伝説の一つ。
赤い紙と答えれば、血まみれにされ殺される。
青い紙と答えれば、血を抜かれて真っ青になって死ぬ。
他の色を答えれば、異界へ引きずり込まれる。
逃げ場のない、死の二択。
古来より、人間は「選択肢を与えられた」と思った瞬間に、逃走本能が鈍るという。
自分で選んだと思わせることが、最も巧妙な罠だ。
被害が出始めたのは先週からだった。
終電後にこのトイレを利用した男性客が、次々と意識を失った状態で発見されている。
いずれも体温が著しく低下し、全身の血色が異常に悪化していた。
病院に搬送されたが、原因は不明。
MRIにもCTにも異常は見つからなかった。
ただ、全員が同じことを呟いていた。
「紙の色を……聞かれた……」と。
「……で、なんで俺がまた囮なんですか。口元さんじゃダメなんですか」
九条は一番奥の個室トイレの中で震えていた。
便座の蓋を閉めて座り、太ももの上で手を握りしめ、冷や汗を拭う。
個室の壁は薄く、隣の個室との間に爪でひっかいたような痕が並んでいる。
落書きの中に「助けて」という文字を見つけてしまい、心臓が跳ねた。
前回(花子さん騒動)のトラウマが蘇る。あの時も、ひどい目に遭った。
トイレに関する事件にはもうこりごりだ。
「男しか狙わないからよ。男湯に変質者が出たら、女刑事じゃ捜査できないでしょ? ジェンダーの問題よ。諦めなさい」
外から裂の小声が聞こえる。
彼女は洗面所の陰に隠れているらしい。
九条には聞こえないが、裂は手鏡で前髪のセットを確認しながら待機していた。
「それに、アンタが怯えてたほうが釣れるのよ。恐怖のフェロモンが出るから。怪異はビビりの匂いには敏感なの」
「人をエサにしないでください……」
「エサじゃなくて囮よ。刑事の基本でしょ。漁師だって、生き餌のほうがよく釣れるものよ」
「余計タチが悪いです」
九条は個室の鍵をもう一度確認した。
錠前はガタガタに緩んでおり、強く押せば開きそうだ。
セキュリティもへったくれもない。
その直後、空気が変わった。
急激に気温が下がり、息が白くなる。
鼻をつくような腐臭——古い血と鉄の錆びた臭いが漂ってきた。
蛍光灯の光が一際強く明滅し、そして消えた。
完全な暗闇。
水滴の音が止まった。
世界から音が消えたような、完全な沈黙。
『……赤い紙が欲しいか……』
低い、男の声。
地獄の底から響くような、怨念の篭った声だ。
コンクリートの壁そのものが振動しているかのように、声は四方八方から聞こえる。
方向が特定できない。
来た。
『……青い紙が欲しいか……』
個室の外に、気配が張り付いている。
ドアの隙間から、赤いマントの裾が見えた気がした。
裾はゆらゆらと揺れており、血に浸したかのように重く濡れている。
床には何かが滴り落ちる音がする。ピチャン、ピチャンと。
九条は深呼吸した。震える声を抑え込む。
手のひらは汗でぬるぬるだ。携帯を落としそうになる。
今回の作戦には、秘策がある。
裂が考案した、現代ならではの撃退法だ。
「死の二択を無効化する」——その方法は、あまりにも馬鹿馬鹿しく、しかし理論的には筋が通っていた。
「……キャッシュレス決済でお願いします」
『……は?』
怪人の声が裏返った。
その声にはノイズが混じり、まるでシステムエラーを起こしたかのようだった。
予想外の回答に、思考が追いついていないようだ。
「紙はいりません。今の時代、紙なんて邪魔なだけです。電子マネーかQRコード決済でお願いします。PayPay使えますか?」
『……いや、赤か青か……選択しろ……』
「ですから、ペーパーレスの時代ですよ? 資源の無駄遣いです。SDGsとか知らないんですか? 目標12番、『つくる責任、つかう責任』。紙の消費量を減らすのは地球規模の課題です。あなたがトイレで紙を配り続けている間にも、アマゾンの森林は燃えています」
『……ア、アマゾン……? 通販サイトカ……?』
「熱帯雨林のほうですよ。とにかく、紙を使う企業は時代遅れだって、投資家からも見放されますよ。ESG投資って知ってますか? 環境に配慮しない事業体は融資を受けられない時代なんです」
『……ト、トウシカ……? ユウシ……?』
「ええ。それに紙幣にはウイルスが付着している可能性もあります。非接触決済がこれからの常識です。あなたのその紙、抗菌加工されてますか? アルコール消毒は? 製造ロットは?」
『……コ、コウキン……? ロ、ロット……?』
「衛生観念が低い怪異は嫌われますよ。潔癖症の現代人には通用しません。ちなみに、公衆トイレでの飛沫感染リスクについてはWHOのガイドラインがありまして——」
九条は畳み掛ける。恐怖を理屈で塗りつぶすように。
相手が言葉を失っている今がチャンスだ。
台本は裂が書いたものだが、九条自身も次第にノッてきていた。
怖さを紛らわすために饒舌になる性質が、ここで功を奏している。
「スマホ一つで全て完結するんです。財布すら持ち歩かないミニマリストがトレンドなんですよ。断捨離っていうんです。マントの中に大量の紙を隠し持ってるなんて、時代錯誤もいいところです。マントだってサステナブルな素材ですか? フェアトレードですか?」
『……ぬぐぐ……サス……テナブル……?』
怪人が混乱している。
気配が揺らいでいるのが分かる。
ドアの隙間から見える赤いマントの裾が、火が消えるように薄くなっていく。
存在の輪郭がぼやけ始めている。
昭和の妖怪に、令和の価値観(デジタル化・環境問題)によるロジカルハラスメント攻撃。
「想定外の回答」により、怪異の行動ルーチンに致命的なエラーが発生したのだ。
二択を前提とした存在に、第三の選択肢を叩きつける。
それは怪異の存在原理そのものへの攻撃だった。
『……エ、エラー……回答ガ確認デキマセン……想定外ノ入力……バッファオーバーフロー……』
ブツブツとノイズ混じりの声が漏れる。
怪人の気配が崩壊していく。
コンクリートの壁が結露し、水滴が流れ始めた。
「今よ!」
裂が個室のドアを外から蹴破った。
バン!!
蝶番が飛び、ドア板が弾け飛ぶ。
九条の背中を掠めて壁に激突し、タイルが砕ける。
九条の目の前で、赤いマントを羽織り、白い仮面をつけた男が立ち尽くしていた。
仮面の下から覗く目は虚ろで、その体は半透明に揺らいでいる。
マントの下には何もない。空虚な存在。
赤と青の紙が、足元にばらばらと散らばっている。
「アンタね、いつまで現金《紙》主義やってんのよ!」
裂の跳び蹴りが炸裂する。
ヒールの鋭い踵が、怪人の仮面に突き刺さる。
白い仮面に亀裂が走り、破片が飛び散った。
「時代遅れもいいとこね! 今はポイント還元の時代よ! ポイ活しなさいよ! 楽天ポイントかdポイントか、せめて選ばせなさいよ!」
ドガァッ!!
赤マントの男が吹き飛ぶ。
壁に激突し、タイルが放射状に砕ける。
マントがボロボロに崩れ落ちる。
赤い布が灰のように崩壊し、空中に散った。
怪人はずるずると壁を滑り落ちた。
仮面の半分が割れ、その下には何もない——ただ暗い穴が広がっているだけだ。
彼は最後まで「PayPay……? Suica……? ポイント……還元……?」と呟きながら、光の粒子となって消えていった。
デジタル化の波に飲み込まれ、概念ごと消滅したのだ。
足元に残った赤と青の紙も、文字が消えて白紙に戻っていく。
呪いの概念が消滅し、ただの紙切れに還元されたのだ。
「……ふん。システムアップデートもできない怪異は淘汰される運命ね。進化できないものは滅びるの。ダーウィンがそう言ってたわ」
裂が髪を払い、勝ち誇ったように言った。
蛍光灯が復活し、トイレに白い光が戻る。
水滴の音も戻ってきた。日常の音だ。
九条は便座に座り込んだまま、安堵のため息をついた。
足腰が立たない。
膝がカクカクと震えている。情けないが、致し方ない。
「……あの、ドアの修理費も始末書に書くんですよね」
「ドアが壊れたんじゃなくて、ドアが開いたのよ。勢いよく。それだけの話」
「いや、蝶番が——」
「蝶番が自主退職しただけよ。パワハラじゃないわ」
無茶苦茶だ。
「……でも口元さん、あなたも現金派ですよね? この前、自販機で新500円玉が使えないって怒ってたじゃないですか」
「私はいいのよ。レジェンドだから。古典は尊重されるべきなの。それに、私は『美しさ』が通貨みたいなものだから。どこでも使えるし、有効期限もないわ」
「通貨として認められてないですけどね」
「失礼ね。日銀より信用度高いわよ、私の美貌は」
理不尽だ。
自分は棚に上げ、相手には最新の理屈を押し付ける。
しかし、この理不尽さこそが、彼女が最強の怪異たる所以なのかもしれない。
ルールを適用する側が、自らはルールを超越する。
それが「伝説」の定義なのだろう。
九条はスマホを取り出し、経費精算アプリを開いた。
ドアの修理費、タイルの補修費、蝶番の交換費用。
この精神的苦痛も、ポイント還元してほしいものだ。
しかし、画面には「圏外」の文字が表示されていた。
怪異が消えても、電波は戻らないらしい。
キャッシュレスを推した人間が、圏外で立ち往生する。
これもまた、都市伝説の一種かもしれない。




