第5話:マスクの下のランチタイム
警視庁の地下食堂。
そこは、安くて量が多いことで知られる、貧乏刑事たちのオアシスである。
昼時ともなれば、カツカレーやラーメンの匂いが混ざり合い、男たちの熱気と共に充満する。
「……カツ丼大盛り、お待ち」
無愛想な店員が、ドンと音を立てて丼を置く。
「あいよ」
裂はトレンチコートを脱ぎ、ワイシャツ姿でトレイを受け取った。
彼女がオフィスカジュアルなシャツを着ているのは珍しいが、その顔にはいつもの大きなマスクがあるため、違和感は拭えない。
「……口元さん、ここで食べるんですか? 取調室で食べるとか……」
九条が小声で尋ねる。
周囲の視線が痛い。
男だらけの食堂に、スタイルの良い美女(マスク付き)が現れたのだ。注目されないわけがない。
「あのマスクの女、誰だ?」「すげぇ美人じゃね?」「特対課の新入りか?」
そんなひそひそ話が聞こえてくる。
「何よ。腹ごしらえも仕事のうちよ。ここのカツ丼、意外とおいしいのよ」
裂は空いている席にドカッと座った。
足を組み、堂々とした態度だ。
向かいに九条が座る。
「でも、その……マスク、どうするんです?」
食べるにはマスクを外さなければならない。
しかし、彼女がマスクを外せば、そこにあるのは――耳まで裂けた口だ。
ここで正体がバレれば、パニック必至である。「口裂け女が出た!」と大騒ぎになり、特殊部隊が出動する騒ぎになるだろう。
「心配しすぎよ。プロを侮らないで」
裂は割り箸をパチンと割った。
そして、カツ丼に手を合わせる。
「いただきます」
次の瞬間。
彼女の動きが加速した。
残像が見えるほどの速度だ。
シュッ!
マスクが少しだけ浮いたかと思うと、カツ丼の一部が消滅していた。
咀嚼音すら聞こえない。
「……え?」
九条は目を疑った。
今、何が起きた?
シュシュッ!
再び風切り音。
またカツ丼が減っている。いつの間にか味噌汁も減っている。
マスクはついている。外した様子はない。
しかし、確実に食事はお腹の中に移動している。
「……早食い? いや、瞬間移動?」
「神速よ」
裂はモグモグと口を動かしながら言った(マスク越しに)。
どうやって食べたのかまるで分からないが、口の中にはカツが入っているらしい。
「マスクを外して口に運ぶまでの時間を0.1秒以内に収めれば、人間の動体視力では捉えられないわ。網膜に残像が残る前にマスクを戻すの」
「無駄なハイスペック!」
九条が思わず突っ込む。
そんな能力をランチタイムに使うな。
しかし、周囲の同僚たちは気づいていない。
「あいつ、いつの間にか食ってるぞ?」「マスクしたままか?」「魔法か?」
ざわめきが広がるが、恐怖というよりは困惑だ。
「おい、君」
その時、一人の若い刑事が声をかけてきた。
チャラついた雰囲気の、捜査一課の新人だろうか。興味本位のナンパだ。
「ここ、相席いいかな? 君、どこの課? そのマスク、風邪? だったら移さないでよー」
男が裂の隣に座ろうとする。
馴れ馴れしく肩に手を回そうとした。
まずい。近くで見られたら、マスクの隙間から裂けた口が見えてしまうかもしれない。
「あ、あの! 彼女は!」
九条がガタッと立ち上がる。
「彼女は……その、極度の潔癖症で!」
「はぁ? 潔癖症?」
「そうです! 他人の視線アレルギーなんです! 見られると蕁麻疹が出るんです! 空気感染するんです!」
「なんだそれ。意味わかんねぇよ」
男が怪訝な顔をする。
しかし、裂は我関せずでカツ丼を食べ続けている(神速で)。もう漬物しか残っていない。
「ねえ、無視しないでよー。俺、捜査一課のエース候補なんだけどなー。特対課なんて日陰の部署より、俺らと合コンしない?」
男が裂の肩に触れようとする。
裂の手がピクリと止まった。割り箸がミシミシと音を立てて悲鳴を上げる。
(……まずい、口元さんがキレる!)
九条は瞬時に悟った。
彼女にとって、食事の邪魔と、馴れ馴れしい男は「排除対象」だ。
このままでは、捜査一課のエース候補(自称)が、物理的に細切れにされてしまう。
カツ丼の刑だ。
「へえ、君、変わってるね。ちょっと顔見せてよ。ガード固い子ほど燃えるんだよね」
男が手を伸ばした。
マスクの紐に指がかかろうとした瞬間。
ガシッ!
九条が男の手首を掴んだ。骨が軋むほど強く。
「触らないでください」
九条の声が、少し低くなった。自分でも驚くほどのドスの利いた声が出た。
「彼女は俺の相棒です。許可なく触れることは、公務執行妨害と見なしますよ。それとも、セクハラで監察に報告しますか?」
「な、なんだよお前……」
男は九条の剣幕に気圧され、すごすごと引き下がった。
捨て台詞を吐いて逃げていく。
「……ふぅ」
九条が息をつく。
冷や汗びっしょりだ。心臓がバクバクしている。
「やるじゃない、新入り」
いつの間にか、裂のカツ丼は空になっていた。
空っぽの丼を置き、満足そうにお茶を飲んでいる。
「ごちそうさま。……今の、ちょっとカッコよかったわよ」
「勘弁してくださいよ……心臓に悪いです。寿命が縮みました」
「ふふっ。私を守ってくれたお礼に、食後のコーヒーを買いに行く権利をあげるわ」
「……え? 権利?」
「スタバがいい。新作のフラペチーノ。ベンティサイズで」
「高い! しかもここから遠い!」
地下食堂に、二人の笑い声(と九条の悲鳴)が響いた。
マスクの下の素顔を守るのも、相棒の務めらしい。
九条は財布の中身を確認し、小さなため息をついた。




