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第3話:トイレの花子さんの占拠

「訴訟よ、訴訟!」


 特対課のドアを開けるなり、裂が叫んだ。

 いつも通り気だるげな朝を迎えていた九条は、飛び上がるほど驚いた。


「……はい? 誰が誰を訴えるんですか?」


 九条が目を丸くする。

 裂の手には、一通の封筒があった。官公庁御用達の、茶色い封筒ではない。弁護士事務所のロゴが入った、分厚い封筒だ。


「これ見なさいよ。内容証明郵便。朝一番で届いたのよ」


 差出人は、都内の大手不動産管理会社だった。

 内容は「所有する物件の3階女子トイレにおける不法占拠、および営業妨害について」。


「……えっと、誰が訴えられたんですか? 被告人の欄が……」


「花子よ。トイレの花子さん」


 裂が深いため息をつく。その顔には「面倒くさい」と書いてある。


「あの子、あの廃ビルに50年も住み着いてるんだけど、今度リノベーションしてシェアオフィスにするんだって。だから出て行けって言われてるのよ」


「……幽霊に立ち退き要求ですか。法的に有効なんですかそれ」


 世知辛い世の中だ。怪異も居住権を争う時代になったのか。


 しかし、花子さんは「ここは私のテリトリーだ」「ここから出たら私は私じゃなくなる」と主張して、テコでも動こうとしないらしい。

 そこで話がこじれ、工事業者が次々と怪我をする事故が発生。

 困り果てた業者が、なぜか「怪異の専門家」として裂のところに相談(という名のクレームと損害賠償請求)に来たのだという。


「……で、どうするんですか? 強制執行ですか?」


「説得に行くわよ。あの子、頑固だけど根はいい子だから。条件次第では動くはずよ」


 * * *


 現場の廃ビル。

 かつては雑居ビルだったようだが、今は窓ガラスも割れ、壁にはスプレーの落書きが散乱している。

 カビと埃の臭いが充満する階段を上がり、3階へ。


 女子トイレ。

 タイルは剥がれ、手洗い場の鏡は割れている。

 一番奥の個室のドアだけが、真新しいような朱色を保ったまま、少しだけ開いていた。


「花子、いるんでしょ? 口元よ」


 裂がコンコン、とノックする。


『……帰って』


 中から、沈んだ声がした。

 湿度を含んだ、ジメッとした声だ。


 隙間から覗くと、おかっぱ頭の少女が、和式便器の横で膝を抱えて座っていた。

 赤いスカート。白いブラウス。昭和の小学生スタイルだ。


『私はここしか知らないの。ここから出たら消えちゃう。私の存在は、このトイレとセットなの』


 地縛霊の悲しいさがだ。

 場所への執着が、彼女の存在理由そのものなのだから。


「でもね、このままじゃここも壊されるわよ。物理的に」


 裂が残酷な現実を突きつける。


「解体工事が始まれば、トイレの個室ごと瓦礫の山だわ。そうなったらアンタはどうなるの? 瓦礫の花子さんになるつもり?」


『……イヤ。絶対動かない。祟ってやる』


 花子さんが頑なになる。

 周囲の空気が重くなる。ラップ音がパチパチと鳴り響き、割れたガラス片がひとりでに震え出した。

 ポルターガイスト現象の前兆だ。


 九条が身構える。

「口元さん、まずいです。彼女、暴走しかけてます!」


「……湊くん、不動産屋のリスト持ってる? さっきハローワークで貰ったやつ」


 裂が唐突に言った。


「え? はい、ありますけど……まさか」


「ちょっと貸して」


 裂は九条からリストをひったくると、スマホで何やら検索を始めた。

 そして、画面を個室の中に突きつけた。


「あったわ。ここなんてどう?」


 画面には、新築マンションの間取り図が映し出されていた。


「築浅、駅チカ、オートロック付き。セキュリティ万全よ。変な霊能者やYouTuberも入ってこれないわ」


『……?』


「しかも見て、このトイレ。最新のタンクレス。更になんと……温水洗浄便座ウォシュレット完備よ」


『……ウォシュレット……?』


 花子さんが顔を上げた。その瞳に、初めて興味の色が浮かぶ。

 昭和の汲み取り式や、冷たいタイルの和式しか知らない彼女にとって、「温水洗浄」という響きは魔法のように聞こえたのかもしれない。


「お尻があったかいのよ。冬でも冷たくないの。それに、自動で蓋が開くわ。これなら『開けて』って言わなくても勝手に開くのよ」


『自動……あったかい……』


 花子さんの目が輝いた。

 想像しているのだろう。温かい便座に座り、快適なトイレライフ(死後)を送る自分を。


「しかもここ、近くに小学校があるわ。怪談の噂も広まりやすい好立地よ。子供たちの噂話、大好きでしょ?」


『……うん。大好き』


「引っ越し費用は特対課が出すわ(九条の給料から)。敷金礼金、仲介手数料も込み。どう、契約する?」


『……する! 私、そこに行く!』


 花子さんが即答した。

 今まで漂っていた陰鬱な空気は霧散し、パッと明るい雰囲気になる。


「よし、交渉成立。ハンコ持ってる?」


 裂がニヤリと笑った。


 数日後。


 花子さんは新しいマンションの女子トイレ(共有部分)に引っ越した。

 入居者からは「夜中にトイレの水が勝手に流れる」「誰もいないのに蓋が開く」という苦情が出ているが、それは「最新設備の誤作動」として処理されている。

 花子さんは快適な住環境にご満悦らしい。


「……結局、俺の給料から敷金礼金が引かれたんですけど。しかも家賃補助まで……」


 給与明細を見つめながら、九条が項垂れる。


「いいじゃない。地縛霊をホームレスにさせずに済んだんだから。人助けならぬ、霊助けよ」


 裂は他人事のように言って、お茶をすすった。


「それに、彼女からの礼金代わりよ。これ」


 裂が差し出したのは、新品のトイレットペーパー(ダブル)だった。

 花子さんからの、精一杯の感謝の気持ちらしい。


 怪異の世界にも、居住権の問題はあるらしい。

 九条はトイレットペーパーを抱きしめ、涙を飲んだ。

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