第15話:合わせ鏡の悪魔
「……出ちゃったんです」
女子中学生が泣きじゃくっていた。
彼女の背後には、不自然なほど濃い影が張り付いている。
照明の下でも消えない、粘り気のある真っ黒な影だ。
少女が動いても、影だけは遅れてついてくる。
深夜0時、合わせ鏡の中で「自分の死に顔」を見ようとして、別のものを呼び出してしまったらしい。
ネットで流行っていた「死に顔占い」という降霊術だ。TikTokで「やってみた」動画がバズり、中高生の間で広まっていた。
手順は簡単だ。深夜零時に洗面台の鏡と手鏡で合わせ鏡を作り、無限に続く鏡の回廊の中を覗き込む。
13番目の鏡に映る自分の顔が「死に顔」だという。
もちろん、それは嘘だ。しかし、13番目の鏡には、たまに「別のもの」が映る。
思春期特有の、死への好奇心が招いた災厄。
「合わせ鏡か。ベタな降霊術ね。入り口を作るには手っ取り早いけど、出口を作るのを忘れてるのよ」
裂が影を見る。
影はゆらゆらと揺れ、人の形を成そうとしている。角のような突起も見えた。
実体化しつつある。
「鏡を割っても消えないんです……ずっとついてくる……耳元で囁くんです……『お前は誰だ』って……」
少女が震える。精神的に追い詰められている。
「そりゃそうよ。鏡はただの入り口。出てきた以上、実体化してるわ。もう鏡との接続は切れて、アンタ自身に憑いてるの。アンタの影になりすましてね」
裂は部屋のカーテンを閉め切った。
遮光カーテンだ。昼間の光が入らないように、隙間なく閉じる。
部屋が闇に包まれる。
そして、電気を消した。
「口元さん? 真っ暗ですよ。何も見えません。危なくないですか?」
九条が慌てる。
暗闇は怪異の領域だ。彼らのホームグラウンドで戦うのは不利ではないか。
「いいのよ。湊くん、影ってのはね、何でできるかわかる?」
裂の声が闇に響く。どこにいるのか分からない。
ただ、鋭い殺気だけが部屋に満ちている。
「え? 光が……遮られるからですよね」
「そう。光があるから影ができる。光が強ければ影も濃くなる。まばゆいスポットライトほど、濃い影を生む」
カツ、カツ、とヒールの音が近づいてくる。
闇の中を、夜目が効く彼女だけが優雅に歩いている。
「じゃあ、光が全くなければ? 完全な無光の世界では、影はどうなる?」
「……え?」
「存在できないのよ。影ですら生きられない、絶対的な闇。そこに沈めるのよ」
「影は光の従属物に過ぎない。光がなければ生まれず、光が消えれば共に消える。哀れな存在ね」
裂の冷徹な声が響く。
「でも、闇は違う。闇は単独で存在する。光がなくても闇はある。宇宙の真理よ」
「……口元さん、哲学の話ですか? 今、悪魔払い中ですよね?」
「黙ってなさい。……行くわよ」
バリーン!!
裂が、部屋にあった姿見を叩き割った。
さらに、手鏡、コンパクト、窓ガラス。光を反射するあらゆるものを破壊していく。
鏡という鏡を全て葬り去る。
完全な闇。
漆黒。
そこには、少女の影も、悪魔の影も存在できない。
九条も自分の手が見えない。完全な暗黒だ。
心臓の鼓動だけが、自分がまだ存在している証拠だった。
少女が小さな悲鳴を上げた。
しかし、裂の声がすぐに響いた。「大丈夫よ。怖いのは今だけ」
『……グオ……見エナイ……我ガ……消エル……自分ガ……ドコダ……』
影の呻き声が聞こえる。
輪郭を保てなくなっているようだ。自分がどこにいるのか分からなくなっている。
自己認識が曖昧になり、存在が拡散していく。
影は光に依存していた。光がなければ定義できない、従属的な存在だった。
「……アンタの居場所はもうないわ。私の闇の方が深い。都市伝説の闇を舐めるな」
裂がライターを取り出した。
カチッ。
小さな炎が灯る。
その儚い光は、希望ではなく絶望を照らし出した。
その極小の光が生み出したのは、裂の巨大な影だった。
壁一面に広がる、悪魔よりも恐ろしいシルエット。
巨大な鋏を持ち、口が裂けた悪魔の姿。
「影踏み遊びよ。踏みつけてやったわ」
裂の影が、悪魔の残滓を飲み込んだ。
ジュッ、と何かが焦げるような音がして、気配が消えた。
裂自身の「濃すぎる存在感」が、中途半端な悪魔の影を上書きしたのだ。
より強い怪異が、弱い怪異を喰らう。自然界の掟だ。
明かりをつけると、少女の背後の影は消えていた。
普通の薄い影に戻っている。何事もなかったかのように。
部屋の空気が軽くなった。重苦しかった霊気が嘘のように晴れている。
窓の外からは、鳥の声が聞こえてきた。世界が正常に戻ったのだ。
「……もう二度と、合わせ鏡なんてしちゃダメよ」
裂は少女の頭をポンと撫でた。
「自分を見つめすぎるとね、深淵に覗かれるのよ。鏡の中の自分は、自分じゃない別の何かかもしれないんだから。ナルシストも程々にね」
それは、かつて鏡の中で自分を見つめ続け、「私、きれい?」と問いかけ続けた彼女なりの、重みのある言葉だった。
彼女もまた、鏡に囚われた過去を持つ者だからこそ、その言葉には実感がこもっていた。
少女は「はい」と泣きながら頷いた。
床には割れた鏡の破片が散乱しており、キラキラと輝いていた。
片付けをする九条だけが溜息をついていた。
「これ、掃除大変なんですよ……」
「破片で怪我しないようにね」
裂はコートの内ポケットから自前の手鏡を取り出し、涼しい顔で前髪をチェックしていた。




