第12話:走る人体模型
深夜の理科室。
学校の怪談の定番スポットだ。
ホルマリン漬けの標本が並び、独特の薬品臭が漂うその場所で、事件は起きていた。
静まり返った校舎に、不気味な足音が響く。
今回の現場は、都内の進学校だった。
偏差値70を超える名門校。校舎は新しく、理科室の設備も充実している。
それだけに、超常現象との落差が際立つ。
警備員からの通報。「人体模型が走り回っている」と。
最初は酔っぱらいの悪戯だと思われたが、監視カメラの映像を確認した警備会社がパニックに陥った。
映像には、確かに人体模型が自力で移動している姿が記録されていた。
それも、ただ走っているだけではない。何かを探すように、必死の形相で疾走しているという。
防犯カメラの映像では、模型は廊下を全力で往復し、時には階段を駆け下り、職員室のドアを叩いていた。
推定時速は15キロ。プラスチックの体としてはかなり速い。
「……また走る系ですか。最近の怪異は体力ありますね。健康ブームなんですかね」
九条が懐中電灯を照らす。光の先には、ホコリが舞っている。
深夜の学校は、生徒がいないだけでこれほど不気味に見えるものか。
窓から差し込む月明かりが、廊下に長い影を作っている。
「走るのは自由だけど、せめて靴は履きなさいよ。裸足で走るなんて衛生的にアウトよ」
裂が言う。
彼女はいつも通り、10センチのピンヒールで校舎の廊下を歩いている。
ヒールの音がリズミカルに響く。怪異にとっては、この音こそが恐怖の足音だ。
理科準備室のドアが開いていた。
そこにあるはずの人体模型の台座が、空っぽだった。
本来収まっているはずの主が不在の台座は、奇妙な空虚さを漂わせている。
台座には「人体模型(全身)・五臓六腑取り外し可能」と書かれたラベルが貼ってある。
その横には、「触るな」「持ち出し禁止」という張り紙が何枚も重ねて貼られていたが、今となっては空しいだけだ。
棚には他の教材が整然と並んでいる。
骨格模型、脳の断面模型、目の構造模型。
しかし、動いているのは人体模型だけだった。
骨格模型のほうが動きやすそうなものだが、怪異の世界にも序列があるのだろうか。
タッタッタッタッ!
廊下を走る足音が聞こえた。
プラスチックが床材と擦れる、硬く乾いた音だ。
カチャカチャと、内部のパーツがぶつかり合う音も混じる。
臓器パーツが揺れるたびに、がたがたと不協和音を奏でている。
「いた!」
九条がライトを向ける。
光の中に浮かび上がったのは、内臓まる見えの人体模型だった。
身長は約170センチ。成人男性サイズの本格的な教材用模型だ。
赤と青で血管がペイントされた筋肉の塊が、全力疾走していた。
フォームは意外と綺麗だ。腕の振りも、足の運びも、どこかの陸上部員のそれに似ている。
ただ、内臓がカチャカチャと揺れるせいで、走るたびに肝臓や腎臓がぐらぐらと揺れ、少し間抜けでもある。
『臓器……クレ……新鮮ナ臓器……』
模型が振り返った。
顔の筋肉が剥き出しになっている。眼球だけの目が、ギョロリと動いた。
口元の筋肉が引きつり、笑っているようにも見える。
瞼がないから表情が変えられないのだ。永遠の笑顔。
「キモいっすね……生理的に無理です。夢に出そうです。理科の授業がトラウマになるやつです」
九条が顔をしかめる。
ライトを向けると、模型の眼球が光を反射してギラリと光った。
プラスチックのはずなのに、妙に生々しい。
「美しくないわ」
隣で、裂がバッサリと言い捨てた。
彼女は腕を組み、品定めするように模型を見ている。
まるでボディビルの審査員のような厳しい目だ。
審査基準は「美しさ」「バランス」「プロポーション」。
裂は首を横に振った。不合格の判定だ。
「先に言っておくけど、こいつは低級霊よ。理科室に残留した学生たちの『テスト前の恐怖』が凝固したもの。内申点と偏差値の怨念が詰まってるわ」
「それはそれで怖いですね……受験戦争の亡霊ですか」
「アンタね、筋肉のつき方がおかしいのよ。解剖学を舐めてるの?」
裂が模型の前に立ち塞がる。
模型は裂を見上げた。裂の方が背が高い(ヒール込みで)。
「大胸筋が薄すぎるし、腹直筋も左右非対称。広背筋に至っては手抜きもいいとこね。そんなバランスの悪い体で走れるわけないでしょ。フォームだけ綺麗でも、基礎がなってないのよ。基礎代謝悪そうね」
『ドケ……殺ス……臓器……寄越セ……』
模型が殴りかかってきた。
プラスチックの硬い拳だ。風を切る音がする。
意外と速い。常人なら避けられない速度だ。
しかし、その拳は裂の手のひらであっさりと止められた。
パシッ、と軽い音がする。
裂は微動だにしない。
模型の拳がギチギチと裂の掌に押し付けられているが、まるで壁を殴っているかのように動かない。
「力も弱いわね。握力推定……20キログラムくらい? 幼稚園児以下ね。話にならないわ」
「関節の可動域も狭いわね。肩の外旋が30度以下。これじゃラジオ体操もできないわよ。ストレッチ不足ね。いつから準備運動サボってるのよ」
バキッ!
裂が模型の腕を、本来曲がらない方向へ逆に曲げた。
肘の関節が「あり得ない角度」にねじれ、内部のワイヤーがむき出しになる。
『ギャアアア! 折レル! 折レル! 本来ノ可動域ヲ超エテル!』
模型が悲鳴を上げる。
「可動域が狭いなら、広げてあげたのよ。感謝しなさい。柔軟体操代わり」
「それに、この内臓パーツ」
裂が模型の腹部に手を突っ込んだ。
開腹手術のような手際の良さだ。
ためらいもなく、肋骨の間から指を差し込み、臓器パーツを一つずつ触診するように確認していく。
「固定が甘いのよ! 走ったら落ちるでしょ! 振動対策はどうなってるの! 教材メーカーに苦情入れたいわ!」
ガコッ!
彼女は肝臓パーツを無造作に引き抜いた。
濃い赤色のプラスチック。手のひらサイズの、しかし意外と重いパーツだ。
『アッ……私ノ肝臓……大事ナ予備ガ……酒飲みスギタ時ノ交換用ガ……』
「交換用? そんなシステム搭載してないでしょ。妄想もほどほどにしなさい」
「心臓も位置がずれてるわ。右心房と左心室の比率がおかしい。心肥大気味よ! 不整脈起こすわよ! 循環器内科に行きなさい!」
ボコッ!
心臓パーツも摘出される。
ドクンドクンと脈打っていたパーツが、裂の手の中でピタリと止まった。
彼女の握力に圧倒されたのか、それとも恐怖で心停止したのか。
「肺も! 胃も! 小腸も大腸も! 全部詰め込みすぎなのよ! 収納上手か! 断捨離しなさい!」
次々とパーツが取り外されていく。
床に転がるプラスチックの臓器たち。カランコロンと虚しい音が響く。
それは解体というより、断捨離に近かった。
肺、胃、小腸、大腸、腎臓。月明かりの中で転がる臓器パーツは、どこかシュールな光景だ。
「腎臓も位置が高いわ! 副腎が見当たらないじゃない! ホルモンバランス崩れるわよ! 更年期障害になるわよ!」
「膵臓のランゲルハンス島も省略しすぎ! これじゃインスリン出ないわよ! 糖尿病になるわよ! HbA1c測定したら数値やばいわよ!」
専門的すぎるダメ出しが続く。
彼女はかつて、美容整形の知識だけでなく、人体解剖学も独自に学んでいたのかもしれない(より効率的に恐怖を与えるために)。
口裂け女としての長い歴史の中で、人間の体について深く学んできたのだろう。
「美しさ」を追求する者は、必然的に「体の構造」を知るのだ。
「あと、この大腿骨! 骨密度低すぎ! スカスカじゃない! カルシウム摂りなさいよ! 牛乳嫌いとか言わせないわよ!」
バキンッ!
大腿骨パーツをへし折る。
断面はスポンジ状——確かに骨粗鬆症のようだ。教材として正しいのかもしれないが。
『……骨ハ……牛乳飲ム……毎日一リットル……約束スル……』
模型は抵抗する間もなく、ただの空っぽのプラスチックの枠組みと化していった。
中身を失い、スカスカになった模型が膝をつく。
肋骨の隙間から向こう側の景色が見える。
月明かりが模型の空洞を貫き、壁に肋骨の影を投げかけている。
スケルトン構造。フレームだけの哀愁。
「……解体ショーですね。マグロの解体より早いです。所要時間、推定45秒」
九条が感心したように呟く。
時計を見ると、裂が模型に触れてから一分も経っていなかった。
「はい、終了。風通しが良くなって涼しいでしょ? 換気は大事よ」
裂は残骸となった模型を抱え上げ、乱暴に台座に戻した。
散らばったパーツをその足元に放り投げる。
カランコロンと、臓器が金属の台座に当たって音を立てた。
「基礎から作り直してきなさい。出直してこい。まずは筋トレから始めなさい。スクワット100回、腕立て50回、プランク3分。話はそれからよ」
『……ハイ……』
模型は小さく頷き、自ら散らばったパーツを拾い集め始めた。
一つ一つ、丁寧に拾い上げている。
肝臓を拾い、心臓を拾い、胃を拾い……。
内臓を抱えてトボトボと準備室へ戻っていくその背中は、どこか哀愁が漂っていた。
背中が丸まり、肩が落ちている。叱られた子どものようだ。
彼もまた、夜の校舎で孤独に走り込みをしていただけなのかもしれない。
九条は少し可哀想になった。
「……あの、頑張ってくださいね。筋トレ」
模型が一瞬振り返り、ぎこちなくサムズアップした。
指の関節が軋む音がした。
「甘やかさないの」
裂が九条の後頭部を小突いた。
「……理科の教材としては優秀かもしれませんね。分解と組み立ての練習になります。生徒たちも喜びますよ」
九条がフォローを入れる。
「そう? 私ならもっとリアルに作れるけど。本物の筋肉繊維を使ってね。筋膜の一層一層まで再現して、ツヤも出してね。なんなら提供してあげましょうか?」
「遠慮しておきます(本物使いそうで怖いから)。それは倫理的にアウトです」
九条は心の中でそう付け加え、理科室の扉を閉めた。
薬品の臭いが、少しだけマシになった気がした。
夜の学校に、再び静寂が戻った。
帰り道、裂がぽつりと言った。
「……ねえ湊くん。あの模型、『臓器をくれ』って言ってたでしょ」
「はい。怖かったです」
「あれね、欲しかったんじゃなくて、足りなかったのよ。自分の中身が」
「……え?」
「中身がスカスカで、走っても走っても満たされない。だから誰かの臓器で埋めようとした。でもそれじゃ本当の自分にはなれないのよ。借り物の中身じゃね」
裂は夜空を見上げた。冬の星座が冷たく光っている。
「自分の中身は、自分で作るしかないの。筋トレでも、勉強でも、何でもいいけど。だから『出直してこい』って言ったのよ。壊すためじゃなくて、作り直すためにね」
九条は少し驚いた。
彼女の暴力の裏には、いつも何かしらの理屈——いや、優しさが隠れている。
翌日から理科室の人体模型が、少しだけマッチョなポーズに変わっていたという噂が流れた。
何があったかは、誰も知らない。




