第10話:こっくりさんの文字盤
都内の中学校で、奇妙な事件が起きていた。
放課後、美術室で「こっくりさん」をしていた女子生徒たちの指が、10円玉から離れなくなったのだ。
通報を受けた九条と裂が現場に到着したのは、夕方の五時過ぎだった。
校門前にはパトカーが二台停まっており、制服警官がうろうろしている。
しかし、誰も校舎に入ろうとしない。「霊的案件」と判明した時点で、一般の警察官には手が出せないのだ。
代わりに、特対課への引き継ぎ連絡だけがなされていた。
「……また学校ですか。先週もスクールゾーンで暴れたばかりなのに」
九条がため息をつく。
テケテケの件で出入り禁止になりかけた記憶が蘇る。
「子供の集まるところには怪異も集まるのよ。恐怖に対する感受性が高いからね。信じる力が強い分、呼びやすいのよ。大人はもう信じないから」
裂が校舎を見上げた。
四階建ての古い鉄筋コンクリート。壁には蔦が絡まり、夕日に照らされたその姿は、どこか不気味に見える。
窓ガラスに夕陽が反射して、校舎全体が赤く染まっている。
まるで、建物そのものが血を流しているような。
校内は静まり返っていた。
部活動の生徒たちはとっくに帰宅させられている。
廊下に並ぶ靴箱は空っぽで、掃除用具入れのモップだけが壁に立てかけられていた。
蛍光灯はついているが、半分ほどが切れかけていて、チカチカと不規則に明滅している。
九条の革靴が廊下の床を鳴らすたびに、エコーが不気味に反響した。
「美術室は四階の奥です」
「エレベーターは?」
「ありません。公立中学ですから」
「……最悪ね。ヒールで四階はキツいわ。設計した奴を恨むわ」
裂が舌打ちをする。
10センチのピンヒールで階段を上る彼女のカツカツという足音が、無人の校舎にこだまする。
階段の踊り場に貼られた「廊下は走らない」のポスターを、裂は鼻で笑った。
三階を過ぎたあたりで、空気が変わった。
温度が二、三度下がった気がする。
壁の掲示物——修学旅行の寄せ書きや、給食のメニュー表——が、微かに震えている。
風もないのに。
「感じるわ。低級霊ね。でも、数が多い。一匹じゃないわ」
裂が目を細める。
「え? こっくりさんって一体だけじゃないんですか?」
「一匹呼べば芋づる式よ。寂しがり屋の霊ってのは、仲間を呼ぶの。SNSのグループ通話みたいなものね。一人が参加すると、次々と入ってくるのよ」
四階の廊下は、明らかに異様だった。
天井の蛍光灯が全て消えており、廊下の奥は闇に沈んでいる。
唯一、美術室のドアの隙間から、青白い光が漏れていた。
「……強力な接着剤か何かですか?」
九条が現場を見る。
夕方の教室は薄暗く、生徒たちのすすり泣く声だけが響いている。
美術室特有の油絵の具とテレピン油の匂いが充満していた。
壁には石膏像のデッサンが並び、その白い顔が全員こちらを見ている気がした。
窓際に立てかけられたイーゼルが、微かにカタカタと揺れている。
生徒三人が、一つの机を囲んで泣いている。
セーラー服の襟は涙で濡れ、膝は怯えで震えている。
その中央、古びた10円玉の上に三人の人差し指が重なり、まるで溶接されたかのように固着していた。
指先は赤く腫れ上がり、血管が浮き出ている。
無理に剥がそうとすれば、皮膚が剥がれてしまいそうだ。
机の上には「あ」から「ん」までの五十音が手書きされた画用紙が敷いてあり、隅に「はい」「いいえ」「鳥居」の文字が書いてある。
文字盤だ。古典的な降霊術の道具。
10円玉はその中央に鎮座しており、不自然に黒ずんでいた。
令和の硬貨のはずなのに、まるで古墳から出土した遺物のような黒さだ。
「霊的な呪縛ね。低級霊のくせに生意気だわ」
裂が腕組みをして見下ろす。
彼女の目には、10円玉に絡みつく黒い靄が見えているのだろう。
靄は三本の糸となって、それぞれの生徒の指に巻き付いている。
見えない蜘蛛の巣のように。
裂は生徒たちの顔を一人ずつ覗き込んだ。
マスク越しでも、その鋭い視線が突き刺さる。
生徒たちがさらに怯える。口裂け女に見つめられるのだから、霊障以前に心臓に悪い。
「……で。何を聞いたの? こっくりさんに」
「あ、あの……好きな人の名前を……」
一人がか細い声で答える。
「それから……テストの答えも……」
二人目が付け加える。
「あと……クラスで一番可愛いのは誰かって……」
三人目が俯いた。
裂の眉がピクリと動いた。
「……ふうん。一番可愛いのは誰って? で、何て答えが出たの?」
「あの、その……こっくりさんが動き出して……」
「答えは?」
「あっ……わ、わからないうちに指が離れなくなって……」
「つまり、判定が出る前にフリーズしたのね。バグったわけ。そりゃそうよ、こっくりさんごときに美醜を判断する審美眼があるわけないもの」
裂は腕を組み、遠い目をした。
何か個人的な感想がありそうだったが、九条はあえて触れないことにした。
『……帰ラセナイ……帰ラセナイ……』
どこからか、低い声が聞こえる。
美術室の石膏像——ミロのヴィーナスの視線が、ゆっくりとこちらを向いた気がした。
壁に貼られた生徒たちのデッサン画の顔が、一斉に歪む。
描かれた目が、こちらを覗き込んでいる。
こっくりさんの霊だ。寂しがり屋の狐の霊が、子供たちを道連れにしようとしている。
室温がさらに下がる。
窓ガラスに水滴がつき始めた。
九条の吐く息が白い。
「どうします口元さん? お祓いとか……神主呼びますか?」
「そんな面倒なことしないわよ。神主呼んでる間に日が暮れるわ。それに」
裂はポケットから手鏡を取り出し、前髪をさっと整えた。
「ここ、暖房効いてないのよ。寒いのよ。早く帰りたいの。冷えると肌が乾燥するでしょ」
彼女は手鏡をしまうと、生徒たちの横に立った。
コートの裾が生徒の椅子に触れる。
その瞬間、生徒たちの体が微かに温かくなったような気がした。
裂の妖気が、低級霊を威嚇している。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢なさい。指の一本や二本、命よりマシでしょ」
「ひっ……!」
生徒たちが怯える。
九条が慌てて口を挟む。
「口元さん、中学生相手ですから、もう少しマイルドに……」
「マイルドにやっても結果は同じよ。痛いか、もっと痛いかの違いだけ。どっちがいい?」
「どっちも嫌です……」
生徒の一人が泣きながら言う。
「じゃあ我慢しなさい。一瞬で終わるから。歯医者よりマシよ。たぶん」
彼女は、生徒たちの指の上から、自分の指を重ねた。
白く、細く、しかし鋼のように硬い指だ。マニキュアは深紅。爪は完璧に手入れされている。
その指先には万力を超える力が込められている。
アクセサリーのような見た目の指が、産業用プレス機と同等の圧力を発揮する矛盾。
そして、10円玉を強く押し込んだ。
「帰らせないなら、帰る手段をなくせばいいのよ」
ギチギチギチ……。
嫌な音がした。
金属が悲鳴を上げている音だ。
教室の机がビリビリと振動する。
石膏デッサンが壁から一枚、二枚と落ちていく。
10円玉が、裂の指の力だけでひしゃげていく。
生徒たちの指の下で、硬貨がV字に折り曲げられ、さらにねじ切られていく。
「平等院鳳凰堂」の浮き彫りが歪み、鳳凰が悲鳴を上げているように見えた。
『……イ、イタ……イタイ……!』
霊の悲鳴が聞こえた。
依り代である硬貨そのものが破壊されているのだ。
10円玉に宿っていた霊体ごと、きしませている。
黒い靄が指の隙間から煙のように噴き出している。
狐の形をした影が、のたうち回っている。
「痛い? 痛いわよね。私だって手芸が好きなの。指先の力加減は得意よ。刺繍よりは簡単ね」
「ほら、さっさと離れなさい! さもないと硬貨ごと指を粉砕するわよ!」
バキンッ!!
10円玉が真っ二つに割れた。
乾いた金属音が教室に響き渡る。
同時に、割れた破片が弾丸のように飛び散り、天井に突き刺さった。
銅の破片が蛍光灯を直撃し、パリンとカバーが割れる。
その瞬間、生徒たちの指が弾かれたように離れた。
呪縛が解けたのだ。
三人の指先には赤い痕が残っているが、怪我はない。
「うわあああん!」
「こわいぃぃぃ!」
「もう二度としない! ゼッタイしない!」
生徒たちが泣き叫んで教室から逃げ出す。
ドアに殺到し、一人が足をもつれさせて転びそうになるのを、九条が素早く支えた。
「大丈夫か? ゆっくりでいいから」
九条が廊下まで送り出す。
階段を駆け下りていく足音が遠ざかっていく。
霊の恐怖よりも、裂の暴力的な解決法への恐怖が勝ったようだ。
トラウマが上書きされたとも言える。ある意味、荒療治だ。
美術室の空気が、少しずつ正常に戻っていく。
室温が上がり、窓の結露が消えていく。
石膏像の視線も、元の虚空に戻った。
机の上には、無残に引きちぎられた10円玉の残骸だけが残っていた。
ギザギザの断面が、その破壊力の凄まじさを物語っている。
銅の断面には、焼けたような変色が見られた。
摩擦熱で硬貨が一部溶解したのだ。指先だけで。
九条は残骸をビニール袋に回収しながら言った。
「……硬貨変造は罪になりますよ。貨幣損傷等取締法違反です」
「だから何? 10円でしょ。私のネイル代の方が高いわよ」
裂は自分の指先を見た。
深紅のマニキュアに微かなヒビが入っている。
「あーあ。割れちゃった。こっちの方がよっぽど損害よ。このジェルネイル、一回一万円するのよ」
「それは……経費で落ちませんね」
「経費で落ちないなら、こっくりさんの賽銭から引いてもらうわ」
九条が苦笑いして突っ込む。
今日もツッコミが追いつかない。
「緊急避難よ。それに、今の見たでしょ?」
裂は指をポキポキと鳴らした。
一本鳴らすごとに、関節が小気味いい音を立てる。
その音が、まるで威嚇のように美術室に響いた。
壁に残っていた最後の霊気が、怯えたように四散する。
「霊ってのはね、依り代が壊れると現世にいられないの。物理的な足場を失えば、ただの空気よ。どんなに強力な呪いも、媒介する物質がなければ成立しない」
「要するに、壊せば勝ちってことですか」
「そういうことよ。シンプルでしょ? お祓いだ、祝詞だ、清めの塩だって、回りくどいのよ。壊れれば終わり。物理こそ最強の除霊法よ」
「……勉強になります(物理の授業として)」
力こそパワー。彼女の除霊理論は、常に暴力的で、しかし合理的だ。
どこかの宗教家が聞いたら卒倒するだろうが、結果は出ている。
帰り際、裂は美術室のドアの前で足を止めた。
廊下の掲示板に貼られた、「放課後の教室使用ルール」という古びたプリントを見つめている。
「……ねえ湊くん。こっくりさんって、つまり寂しい霊が子供と遊びたいだけなのよ」
「え?」
「帰ラセナイって言うでしょ。あれ、怖がらせたいんじゃなくて、帰って欲しくないのよ。一人が嫌で、寂しくて、ずっと誰かにいて欲しくて……でも、方法を知らないからああなる」
裂は壁に寄りかかった。
夕日が廊下の窓から斜めに差し込み、彼女の長い影を廊下に落としている。
「不器用な愛情表現の成れの果てだわ。こっくりさんが怖い怪異なんじゃない。『一人でいること』が一番怖いのよ。人間も、霊も」
九条は一瞬、言葉を失った。
口裂け女にもそういう時期があったのだろうか。
「私、きれい?」と問い続けた彼女もまた、誰かに見て欲しかっただけなのかもしれない。
そんなことを思ったが、口には出さなかった。
言えば鋏で口を裂かれそうだ。
「……帰りましょう。寒くなってきました。カツ丼奢りますよ」
「学校の近くにいい店あるの?」
「コンビニですけど」
「却下。特盛にしなさい。店で食べるわよ。冷えた体にはアツアツのカツ丼って相場が決まってるのよ」
二人は夕暮れの校舎を後にした。
廊下の蛍光灯が一本ずつ消えていく。自動消灯だ。
最後に残った一本が明滅し、ふっと消えた。
こうして、こっくりさん騒動は幕を閉じた。
後日、この学校では「10円玉を素手で引きちぎる女の霊が出る」という新たな怪談が生まれたという。
生徒たちの間で「口裂け女が来る学校」として有名になり、不良生徒の非行率が激減したとか。
恐怖は形を変えて、また語り継がれていくのだ。
都市伝説の最大の皮肉は、退治した側がまた新たな伝説になることである。




