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第三章 囁かれた風 ―― 異邦人

俺を包んでいた緊張の正体は、朝の冷え込みではなかった。

それは、あの発音しづらい称号――「勇者アルヴェン」という重圧だった。


俺は、新しい役割のための装いに身を包んでいた。すべてテッサが用意してくれたものだ。

濃い色のズボン、山の風にも耐えられそうな厚手のウールのチュニック、そして磨かれていない頑丈な革靴。宮殿の磨き抜かれた床よりも、よほど現実的な感触を与えてくれる装備だった。


準備室へ向かって廊下を歩く間、俺はテッサの微妙な変化に気づいた。

昨夜までの硬い形式的な態度は消え、代わりに、どこか親しみのある、ほとんど親密とも言える空気が生まれていた。


彼女はもう必要以上に距離を取らなかった。背筋を伸ばし、俺を見るその視線には、確かな認識があった。

まるで、俺が異世界から来たという話が、リオネルに貼られていた「野蛮人」というレッテルを打ち消してくれたかのようだった。


「……正直、少し緊張してます」


胸の奥のざわめきを抑えるために、俺はそう打ち明けた。


工場で働いていたただの男が、今や黒エルフの領域へ向かい、王から「最重要任務」と呼ばれる使命を背負っている。

これまでの俺の最大の不安は、ベルトコンベアの締切だった。それが今では、種族間戦争の可能性だ。


テッサは小さく、けれど心からの笑みを浮かべた。


「あなたは予言に選ばれた偉大な勇者です、アルヴェン様。きっと大丈夫です。あなたならできます」


その素朴な励ましは、どんな貴族の空虚な誓いよりも、俺の心を温めてくれた。

俺は確かに“ランタン”かもしれない。それでも、誰かがその光を見てくれている。


彼女は、宮殿の他の装飾的な扉とは違う、実用的な木製の扉の前で立ち止まった。


「こちらです。ご武運を」


そのお辞儀には、リオネルのような形式的な冷たさはなかった。心からのものだった。


「ありがとう、テッサ。本当に」


それが、城という一時的な避難所で受け取った、最後の温かい笑顔だった。



---


準備室は、小さな武器庫であり、司令室でもあった。

中央の粗い木製テーブルには地図が広げられ、赤いインクで任務の行程が書き込まれていた。


そこには二人の士官が待っていた。

いつものように石像のような姿勢のサー・プロヴォロン。そして、俺の護衛であり監視役でもある二人。


プロヴォロンは前置きを省いた。


「アルヴェン殿。こちらが、あなたの護衛であり、この任務の成否を担う者たちです」


「こちらは上級騎士、アーサー大尉」


アーサーは一歩前に出て、壁のように俺の前に立った。


「任務に同行できることを光栄に思います、勇者アルヴェン」


磨かれた鎧が朝日を反射して輝いていた。

彼の目は軍人特有の冷静さで、俺を値踏みしていた。


――彼にとって、俺は英雄ではない。ただの重荷だ。


「そしてこちらが、風魔法の天才、ブリアナ。十八歳で上級に到達しました」


ブリアナは前に出て……つまずきかけた。


「ひ、ひ、ひ、勇者アルヴェン……よ、よ、よろしく……おね、お願いします……」


顔を真っ赤にしながら、深く頭を下げる。


淡い茶色の髪、大きな瞳、震える杖。

いかにも気弱な天才だった。


「さらに、外には歩兵八名。全員、国境の歴戦兵です」


プロヴォロンは淡々と説明を続けた。


「旅程は四日。任務の秘匿と安全が最優先です」


彼は黒いマントを差し出した。


「村を通る際は必ず着用。馬車のカーテンは閉じたまま。必要時のみ外出を許可します」


二台の馬車、護衛配置、休憩地点――すべてが計算され尽くしていた。


俺はマントを羽織った。


「武器は……?」


「不要です。あなたは外交担当です」


そう即答された。


結局、小さな短剣だけを渡された。

“最後の手段”として。



---


やがて中庭へ向かう。


そこで待っていたのは、リオネルだった。


「良い旅を。……そして、長い長い帰路を」


皮肉だと分かっていたが、無視した。


他の勇者たちはすでに出発していた。


「特別訓練です」


プロヴォロンは淡々と言った。


――俺だけが、別の道へ進む。


ブリアナと共に馬車へ乗り込む。


アーサーの号令が響く。


「――出発!」


馬車は、ゆっくりと動き出した。


馬車の車輪が磨かれた石畳の上で軋んだ。

エンジンの音の代わりに、馬の規則正しい蹄の音と、衛兵たちの鎧がぶつかるカチャカチャという音が響く。

俺たちは内門を抜け、やがて活気に満ちた王都の通りへと入っていった。


馬車の中の空気は重くなっていく。

ブリアナの不安と、俺自身の抑えきれない好奇心が混ざり合っていた。


俺はサー・プロヴォロンから渡された短剣を手に取った。

それは冷たく小さく、フードの下で柄は滑らかだった。

くるくると回しながら重さと鋭さを確かめ、一瞬だけ、少し安心した気分になる。


顔を上げると、ブリアナの表情はこわばっていた。

顔色は青白く、唇は固く結ばれ、俺の手の短剣をじっと見つめている。

彼女の緊張は、静かで深い恐怖へと変わっていた。


俺は慌てて短剣を下ろし、マントの下で顔が熱くなるのを感じた。

しまった。外交官を目指す者が武器を振り回すなんて最悪だ。

俺は再び短剣をマントの中へしまった。


「ご、ごめん……!」


恥ずかしさで頬が焼けるようだった。


ブリアナは首を横に振っただけだったが、明らかに安心していた。


閉じ込められたような感覚に襲われたが、好奇心が勝った。

見なければならなかった。

俺は、何のために戦うのかを知る必要があった。


カーテンに小さな隙間を開けた。


王都が、一気に視界に広がる。

白い石灰岩の建物、黒いスレート屋根、細く装飾された窓、色とりどりの店の天幕。


騒音は凄まじかった。

商人の叫び声、馬の蹄、鍛冶の金属音。


人々は馬車を見ようと立ち止まり、壁際に押し付けられていた。

子供たちは箱や壁に登り、目を輝かせてこちらを見ている。


「だ、だめ!」

ブリアナが慌てて閉めようとする。


「ちょっとだけ……」

俺は囁いた。


やがて城門を抜け、王都は灰色の塊へと変わっていった。


草原と畑が広がる。


「商隊接近!」


ブリアナが跳ねた。


「カーテン閉めてください!」


だが、俺はまた少し開けてしまう。


色鮮やかな商隊。

牛に引かれた重い荷車。

鈴の音が静かに響く。


――商人になれば、稼げるかもな。


そんな考えがよぎる。


蒸気機関、風車……

発明家として生きる道。


最後の荷車が通る。


「冷たい飲み物はいかが!」


拒否される。


その瞬間、商人と目が合った。


俺は慌てて閉めた。


ドン! ドン!


窓が叩かれる。


「やあ、商品を――」


次の瞬間、吹き飛ばされた。


アーサーだった。


「近づくな」


低く危険な声。


商人は逃げ去る。


アーサーの視線が、隙間を貫いた。


何も言わない。


だが、十分だった。


俺はすぐにカーテンを閉めた。


旅の時間は静かに流れていき、俺とブリアナは黙ったままだった。

ある瞬間、彼女の膝の上にあった杖が滑り落ちた。


俺は反射的に拾おうとして手を伸ばした。

だが、彼女も同時に手を伸ばしていた。


――触れた。


俺の手と、彼女の手が重なった。


すぐに手を引き、同時に謝った。


「ご、ごめん!」


二人とも顔が熱くなり、小さな空間の中で黙り込んだ。

気まずさが、はっきりと伝わってくる。


このままじゃまずい。

旅は長いし、沈黙は重すぎる。


「……気まずくさせてごめん」


そう言うと、ブリアナは慌てて両手を振った。


「ち、違います!アルヴェン様が悪いわけじゃなくて!ただ……緊張してて……初めての任務なんです!それに、サー・プロヴォロンが機密についてすごく厳しくて……」


俺は思わず笑った。

自然な笑いだった。


「俺も初めてだよ、ブリアナ。それに、俺の魔法は一番役に立たない。たぶん、俺が一番緊張してる」


その正直な言葉に、彼女も少し緩んだ。


「そんなことないです!光の魔法は“白魔法”に属する、すごく珍しい種類なんです!たとえ簡単でも……松明みたいな光しか出せなくても……」


「世界一レアな松明魔法だな」


俺が笑って言うと、


「で、でも……種類が大事なんです!」

彼女は杖で軽く地面を叩いた。

「弱くても、珍しいんです!」


「正直で助かるよ」


「い、意地悪なつもりじゃ……すみません」


「大丈夫。冗談だよ」


「……よかった」


頬を赤らめながら、彼女はそう言った。


会話は自然に流れ、退屈は消えていった。

夕陽が丘の向こうへ沈み始める。


ここに来て初めて、時間が“人間の速さ”で流れていると感じた。


だが――


「野営だ!即座に準備!」


アーサー隊長の冷たい号令が響いた。


馬車は丘の裏へ移動し、自然の遮蔽物に身を隠す。


数分で、すべてが整った。


張られた天幕。

繋がれた馬。

完璧な焚き火。

整列した装備。


完璧だった。


俺だけが、錆びた歯車だった。


俺はフードを深くかぶり、手伝おうとした。


「な、何か運ぶの、手伝えますか……?」


視線が集まる。


警戒。

無視。

嫌悪。


「……必要なら、馬車の近くにいます」


後ずさる俺の耳に、囁きが届いた。


「エルフの黒族に何ができるってんだ」


胸が沈んだ。


だが――


「英雄に失礼です!」


ブリアナの声だった。


予想外の強さだった。


場は静まり返った。


アーサーは何も言わなかった。

だが、聞いていた。


俺の馬車は輪の少し外に置かれた。

孤立ではない。

歓迎でもない。


夜風に乗って、声が届く。


「七英雄の一人だってさ」


「でも黒エルフだぞ」


「危険には見えないけどな」


「油断するな」


俺は焚き火を見つめていた。


そこへ、ブリアナが来た。


パンと椀を持って。


「……一人で食べるべきじゃありません」


小さな、温かい笑顔。


俺は心から笑った。


この世界で、初めての味方だった。


焚き火が次第に熾火へと変わり、兵士たちが休息に入る頃、俺は彼らの軍事的な動きを観察していた。


半数が横になって眠り、残りの半数が丘の周囲を巡回し始める。

夜明けまで交代で警戒を続け、機密と安全を守る体制だった。


俺は、もう一度役に立とうと決めた。


「アーサー隊長、俺も巡回に参加できます」


慎重に近づきながら声をかけた。


「眠らずにいられます」


アーサーは顔の半分だけこちらへ向けた。

薄暗い中でも、その視線は冷たく、揺るがなかった。


「却下だ、英雄アルヴェン。

お前の安全が最優先だ。馬車にいろ」


「でも、俺は――」


「命令だ」


彼は短く答え、振り向きもしなかった。


「お前の役目は警備じゃない。

生きて“恐怖の森”へ辿り着くことだ」


そう言い残し、彼は持ち場へ戻った。


瀕死の焚き火の光を淡く反射させながら、馬の近くで静かに立ち続ける。

まるで動かぬ番人のようだった。


皆が忙しくしているのを見て、俺は馬車の周囲を少し歩くことにした。

気分転換のための、ほんの数歩だ。


そのとき――


空を見上げて、世界が止まった。


息を呑んだ。


この世界の夜空は……ただただ、圧倒的だった。


光害は一切ない。

深い漆黒の天幕に、近く、大きく、鮮明な星々。


銀色の塵が川のように流れている。


俺はしばらく、言葉を失って見つめていた。


やがて、隣に誰かがいることに気づいた。


ブリアナだった。


同じように空を見上げている。


「あそこ……」


彼女は杖で弧を描く光の帯を指した。


「あれは“エローラの矢”って呼ばれてます。

私、一番好きな星座なんです」


俺は微笑みながら頷いた。


「俺の世界にもあったよ。

オリオンとか、ペガサスとか……

でも、ここほど綺麗じゃなかったな」


彼女は恥ずかしそうに笑った。


「この星座は、旅人を守るって言われてるんです」


「……俺たち、旅の途中だな」


胸が少し軽くなるのを感じながら言った。


「守ってもらわないとな」


彼女は少し赤くなり、軽く頷いて焚き火の方へ戻っていった。


俺はもうしばらく、星空の下で考えていた。


別の世界。

別の人生。

別のチャンス。


この世界での俺の居場所は、まだ分からない。


馬車に戻り、横になる。


俺が灯した金色の光が、

暗い帆布の縫い目を淡く照らす。


弱いけれど、安定した光。


その光を掌に乗せたまま、俺は眠りについた。


“恐怖の森”への旅は、まだ始まったばかりだ。


どうか――

この小さな光が、

闇を越えて俺たちを導いてくれますように。

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