第2章:風が囁いた:大使
静寂は、まるで重さを持っているかのように濃かった。
俺は眠っていた。驚くほど深く、夢も見ない眠り。肉体的にも精神的にも限界まで消耗した末に訪れる、あの沈み込むような睡眠だ。変化し、わずかに強くなったとはいえ、この体はまだ召喚の衝撃と、昨夜の屈辱から回復しきっていなかった。
汚してしまうのではと恐れていた絹の寝台は、俺を完全に包み込み、抗えないほどの安らぎを与えていた。
俺は奇妙な夢の途中にいた。パレットリフターの上に乗り、それを移動手段にしながら、右手には剣を握っている。意味不明だ。
その時、静寂を切り裂く音がした。
コン、コン、コン。
重厚なオークの扉を叩く、柔らかいが執拗なノック。
俺は跳ね起きた。まるで仕事に行くための目覚ましが鳴ったかのような、条件反射の跳躍だった。心臓が一気に早鐘を打つ。誰だ。
俺は扉へ駆け寄った。焦りのまま、昨日と同じ服を着ていた。新しい服はまだ支給されていない。
勢いよく扉を開ける。
高い窓から差し込む朝の柔らかな光が、廊下からそのまま、目の前の人物の顔を照らした。
若い女性だった。
典型的な侍女の制服を身に着けている。長いワンピースに、汚れ一つない白いエプロン。短く切りそろえられた耳元までの髪は、濃い茶色でまっすぐ。小柄で、大人というよりは少女に近い印象だった。
俺は彼女を見つめた。
……見つめすぎた。
社会的に許される時間を、明らかに超えていた。
素朴なのに確かな美しさに衝撃を受けたのかもしれない。今まで見てきたどんなアニメの女優よりも、ずっと現実的で、ずっと近かった。あるいは、傲慢な貴族でも異世界の英雄でもない、ごく普通の顔を見たことへの安堵だったのか。それとも単純に、俺の致命的なコミュ障が原因か。
彼女は驚いて一歩後ずさった。
茶色の瞳が大きく見開かれ、彼女が抱えていた銀のトレイ――その上には、どうやら着替えが載っていた――が、かすかに震える。
その反応で、ようやく我に返る。
顔に一気に血が集まり、羞恥が平手打ちのように襲ってきた。
「ご、ごめんなさい!」
俺は慌てて一歩下がり、なぜか胸を腕で隠すという、完全に意味不明な動作をした。
「驚かせるつもりはなかったんです。本当に……おはようございます!」
彼女は深く息を吸い、侍女としての姿勢を取り戻したが、空気にはまだ警戒が残っていた。
「お、おはようございます、英雄アルヴェン様。昨夜はよくお休みになられましたか」
「昨日はいろいろありましたけど、すごくよく眠れました! 人生で一番いいベッドです、間違いなく」
俺はまた、異世界テンションに戻って言った。緊張をごまかすための癖だ。
「ところで、俺はアルヴェンです。あなたのお名前は?」
反射的に、元の世界の挨拶のつもりで手を差し出した。
彼女は差し出された俺の手を見て、それから俺の顔を見て、最後に扉の方へ視線を移した。
握手は返ってこない。
その沈黙は、耳鳴りがするほど重かった。彼女はトレイを胸に抱き寄せる。
「……テッサです」
「あ、そうなんですね。よろしく、テッサ」
返事はなかった。
ただ、少し見開いたままの目で俺を見つめている。
俺はそっと手を引っ込めた。完全に、道化だった。
「失礼いたします、英雄アルヴェン様。お部屋の整頓と、こちらの衣服をお持ちしました」
彼女はそう言って中へ入り、部屋を見回し始めた。
絨毯、寝台、部屋の隅々まで。
その様子は、どこか意外そうだった。
……一晩で部屋を破壊するとでも思われてたのか。
その考えが胸に刺さる。
一通り確認を終えると、彼女は服をベッドの上に置き、トレイを抱えたまま、しばらく俺を見つめていた。
「……特に整える必要はありませんね。とても綺麗です。失礼いたします」
彼女は踵を返した。
その瞬間、強烈な焦りが胸を突いた。ここで彼女が行ってしまったら、俺は一番聞きたいことを聞けない。
「テッサ、待って!」
彼女は止まらない。扉へ向かって歩き続ける。
「テッサ!」
今度は、少し声を張った。
追い詰められ、俺は一歩踏み出し、軽く彼女の肩に触れてしまった。
次の瞬間、すべてが崩壊した。
テッサは甲高い悲鳴を上げた。
壁に反響するほど鋭く、純粋な恐怖が詰まった叫び。
俺は凍りついた。
彼女は振り向き、涙で潤んだ目のまま、思い切り俺の頬を叩いた。
乾いた音が銃声のように響き、頬に痛みが炸裂する。
俺は石像みたいに固まり、宙に浮いたままの手と、思考停止した脳だけが残った。
「何をするつもりだったの!」
細く震える声で、彼女は叫んだ。
反応する暇もなかった。
扉が、轟音と共に開いた。
そこにいたのは執事リオネルだった。
常の嫌悪の表情は、今や正当な怒りへと変わっている。
その背後には、武装した二人の衛兵。磨かれた鎧、構えられた槍。
リオネルは俺を見てから、泣き崩れるテッサを見た。彼女は腕を交差させ、身を守るように震えている。
彼はすぐに彼女のもとへ駆け寄り、守るように抱き寄せた。
「何をされたのです、テッサ!」
怒りに満ちた声だったが、向けられているのは彼女だ。
そして、俺を見る。
嫌悪が、空気そのものになった。
「何をした、この野蛮人め!」
その言葉。
その断罪。
その場のすべて。
俺が思い描いていた英雄的な異世界は、即席の裁判台の上で粉々に砕け散った。
恐怖と混乱で、喉が動かない。口を開いても、言葉が出てこなかった。
「――その種族め……やはり野蛮人の集まりだ!」
リオネルが唸り声を上げた。
「衛兵、こいつを取り押さえろ!」
即座に、二人の衛兵が俺に向けて槍を構えた。鋭い金属の穂先が、やけに大きく見える。
「違う! 俺は彼女に何もしていない!」
俺は両手を上げ、必死に叫んだ。
「テッサ、彼らに説明してくれ!」
だが彼女は何も言えず、怯えきって泣くだけだった。
その時、張りつめた空気を切り裂く、落ち着いた声が響いた。
「……何をしているの?」
扉口に立っていたのはセシリアだった。武道の指導者としての威圧感が、これ以上ないほど強く表れている。
彼女は一瞬で状況を把握した。
“野蛮な英雄”、突きつけられた槍、泣き崩れる侍女、怒り狂う執事。
「この野蛮人が、使用人に乱暴しようとしたのです、セシリア様!」
リオネルは俺から目を離さず、声を荒げた。
セシリアは怯えるテッサを見た。
だが、リオネルのように感情を爆発させはしなかった。
彼女は槍も執事も無視して一歩踏み出し、テッサに近づく。
「説明して」
低く、しかし逆らえない声だった。
テッサは涙で言葉を詰まらせた。
セシリアは、彼女の無事な肩にそっと手を置く。
「呼吸して。吸って。落ち着いて、何があったのか話して」
その落ち着きと威厳は、小さな魔法のようだった。
テッサは深く息を吸い、震えを抑えながら口を開く。
「か、彼が……英雄アルヴェンが……呼んだのに、私が気づかなくて……それで、肩に触れられただけです! それだけ! 私が、びっくりしただけで……!」
全身の力が抜けた。
空気が、やっと肺に戻ってきた。
頬は痛んでいたが、それ以上に安堵が大きかった。
だが、リオネルは納得しない。
「だが触れるべきではない! あの男が野蛮な行為を企んでいたのは明白だ! 見ろ、その血筋を!」
「嘘だ!」
俺は声を荒げた。
「質問をしたかっただけだ! それだけだ!」
テッサが、今度ははっきりとした声で割って入った。
「英雄アルヴェンの言う通りです。彼は何もしていません。私が驚いただけです」
セシリアは深く息を吐いた。疲労の滲む溜息だったが、目には安堵が浮かんでいた。
「……つまり、ただの誤解ね」
彼女は衛兵たちに合図する。
「槍を下ろしなさい」
彼らは渋々従った。
セシリアは俺に向き直り、厳しい視線を向ける。
「アルヴェン。たとえ悪意がなくても、女性に触れるべきじゃない。この世界では、それは明確な距離の侵害よ。理解できる?」
「……はい。分かりました」
俺は頭を下げた。
「ごめん、テッサ。傷つけるつもりはなかった。ただ、質問がしたかっただけなんだ」
テッサは、まだ少し震える声で答えた。
「こちらこそ……大騒ぎにしてしまって、申し訳ありません。しかも……叩いてしまって……」
「いいんだ。もう、これで終わりにしよう」
俺はリオネルを見た。
返ってきたのは、むき出しの嫌悪。
彼は俺を英雄とは見ていない。脅威として見ている。
「失礼します、英雄の皆様。テッサを外の空気に触れさせます」
そう言って、リオネルは背を向けた。
だが、セシリアが立ちはだかった。
その姿勢は、微動だにしない。
「あなたは、アルヴェンに謝罪するまで、ここを離れない」
「セシリア様、それは――」
俺が止めようとしたが、彼女は低く遮った。
「必要よ」
リオネルは、セシリア、俺、そして衛兵を見回し、権威の敗北を悟った。
機械的で形式的な声で、言葉を吐き捨てる。
「……申し訳ありません、英雄アルヴェン」
セシリアは衛兵たちを見る。
彼らも互いに顔を見合わせ、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません、英雄殿」
使用人と衛兵たちは去っていった。
部屋は、急に広く、静かになった。
俺はベッドに腰を下ろし、力が抜けたままセシリアに礼を言った。
「……本当に、ありがとう。来てくれなかったら、どうなってたか」
「気にしないで」
彼女は窓の外を見たまま答える。
「でも、どうして分かったんだ? それに、どうしてそんなに早く来られた?」
彼女は振り返り、腕を組んだ。
「“英雄”たちは、全員会議室に集められているわ。計画のためにね。欠けていたのは、あなただけ」
眉を上げる。
「……誰にも呼ばれてない」
「そうでしょうね」
彼女は続けた。
「実際、一人ずつ呼んだのはリオネルよ。昨日、あなたがどう扱われていたか、私は見てた。能力が判明した後の、あの視線。だから……嫌な予感がした」
「……レアンドロもエルフなのに、彼は違う扱いだ」
「理由を聞いたわ」
セシリアは声を落とす。
「あなたは“恐怖の森”のダークエルフ。極端に野蛮で危険だとされている種族。偏見が、根深い」
肺の空気が、また消えた。
「……最悪だな」
乾いた笑いが漏れる。
「役立たずで、しかも恐れられる野蛮人。使用人を襲う人間ランタン、ってわけか」
セシリアは俺の隣に座り、背中を二度、軽く叩いた。
意外なほど、優しい仕草だった。
「行こう。遅れてる」
会議室は、通路というより門だった。
中には、カストラン王、スルガン、レディ・ケアリー、サー・プロヴォロン、そして大賢者ルーファス。
他の召喚者たちも全員、席に着いていた。
俺たちが入った瞬間、空気が凍った。
さっきまでの笑いが消え、視線が集まる。
「ああ、アルヴェン。遅刻だな」
レアンドロが嘲る。
「……すみません」
俺はルシアンの隣の空席に座った。
翼を持つ青年は、丁寧に会釈してくれた。
俺も返す。
プロヴォロンが説明を始めた。
「ウントールの戦力は限界だ。君たちは、最後の希望になる。集中的な訓練を行う」
彼は一瞬だけ俺を見て、すぐ視線を逸らした。
会議はすぐに終わった。
訓練開始だ。
「中庭で教官と合流せよ!」
他の英雄たちは意気揚々と立ち上がる。
ルシアンは手を振り、セシリアは励ますように頷いた。
俺が出ようとした時、王が呼び止めた。
「アルヴェン。少し」
残ったのは、俺と王、そしてルーファスだけ。
カストラン王の声は変わった。
もはや上辺の礼ではない。追い詰められた統治者の重み。
「正直に言おう。君の魔法は、戦闘では役に立たない」
俺は俯いた。分かっていた。
「だが……」
王は続ける。
「もっと重要なことで、君は力になれる」
顔を上げる。
胸が高鳴る。
策士か? 後方支援か?
「恐怖の森だ」
嫌な予感がした。
「そこにはダークエルフが住んでいる。君と同じ種だ。宮殿での視線も理解しただろう。個人的に受け取らないでほしいが……彼らは攻撃的で、同盟を試みた者を何人も殺してきた。実利も少ない。だが我々は……助けようとしている」
俺は黙って聞いていた。
新しい“故郷”の物語は、憎悪に満ちていた。
「そして、そこで君の出番だ。君は我々の大使になる」
「大使? 俺が?」
その言葉はやけに立派で、重たかった。
「そうだ、我が英雄よ。君には、ウントール王国と恐怖の森のダークエルフの同盟を成立させる責任がある」
「でも……なんで俺なんですか。俺、外交官じゃない」
「君だけが可能だ」
王は身を乗り出し、声が重要さを帯びた低い囁きになる。
「君は彼らと同じ種族に変化した。だからこそ、我々が誰一人として成し得ないことを成し得る。これが君の、この世界での本当の役割だ。ほかの英雄たちの役割よりも、重要だ」
足元が揺れた気がした。
「……魔王を倒すことよりも?」
俺は信じられずに尋ねた。
「当然だ」
王の答えは即座で、迷いがなかった。
「君以外の英雄が全員そろっていても、彼らはダークエルフと信頼関係を結べない。力任せでは勝てないのだ。君だけだ。君だけができる」
その言葉が頭に残った。君だけ。
俺は最強じゃない。俺は唯一なんだ。
隅で黙っていた大賢者ルーファスが、一歩前に出た。
「英雄アルヴェン。どうか、この任務を受けてほしい。無理を言っているのは分かっている。だが、我々には君が必要だ」
そして次の瞬間、ルーファスは立ち上がり、信じられないことに俺の前で深く頭を下げた。額が床につきそうなほどだ。
「頼む。どうか……お願いだ」
俺は凍りついた。王ですら、ルーファスの必死さに驚いたように見えた。
「や、やめてください、ルーファス! そこまでしなくていい!」
俺は慌てて叫んだ。
「やります、やりますから! だから、どうか立ってください!」
ルーファスは立ち上がった。
俺の胸の奥で何かが変わった。
大賢者がここまでして頼む。期待に応えないわけにはいかない。俺はもう、惰性のまま生きる奴じゃない。
「よろしい、英雄アルヴェン。では明日、恐怖の森へ向かってもらう」
「え、もう? 明日? せめて少し訓練を……自衛できるくらいは……」
「必要ない」
王は奇妙な笑みを浮かべた。
「君には最精鋭の兵を同行させる。心配はいらない。ダークエルフは同族を襲わない。それが彼らの掟だ。襲うのは他種族だけだ」
「でも、それだと俺は……護衛の兵を守れません」
「必要ない、英雄よ」
王は平然と言った。
「送る兵は最精鋭だ。君が守る必要などない」
「最精鋭……? それって、王都の守りが薄くなりませんか」
「それほど重要な任務だという証明だ」
王は淡々と続けた。
「君には安心してほしい。君は、召喚された七人の中で最も重要な英雄だ」
「……一番重要?」
胸が膨らむ。何年も感じていなかった、あの誇らしさが戻ってくる。
「最も重要だ」
カストラン王は頷き、微笑んだ。
「だが、それを他の者には言うな。対立を生みたくない。秘密にしておけ」
俺は頷いた。秘密の重みと、任務の重みが肩にのしかかる。
王は責任と名誉について長々と語り、俺は本当に“主人公”になった気がした。
「下がってよい。宮殿を見学してくるがいい、英雄アルヴェン」
カストラン王は部屋の隅へ視線を向けた。そこにはリオネルが静かに立っていた。存在に気づいていなかった俺は、その無音の気配に少し驚いた。王は続ける。
「リオネル。別の使用人を付けろ。我らが英雄アルヴェンが望むものを、何でも案内させよ」
リオネルはわずかに身を震わせ、それでも頭を下げた。
「それと、陛下……宮殿の図書館を見てもいいですか?」
王は俺を見て微笑んだ。
「もちろんだ、若者よ。好きなだけ読め。私の書物は、お前の書物でもある」
嬉しさが込み上げた。図書館。魔法への鍵。
リオネルが近づき、付いて来いと無言で促した。
彼は俺を会議室からかなり離れた部屋へ連れて行き、扉を開けた。
そこは使用人たちの食堂だった。
召使い、侍女、下働きが食事をしていて騒がしかったが、執事が入った瞬間、音がすっと消えた。
リオネルがテッサを呼ぶ。
彼女はリンゴをかじっていたが、すぐに立ち上がった。
「テッサ。お前は我らが英雄アルヴェンを王立図書館へ案内しろ。彼は好きなだけ読む許可を得ている」
彼女は頷いた。まだ目に警戒が残っている。
「……こちらへ、英雄アルヴェン様」
彼女は気持ちを切り替えるように言った。
俺も頷き、後に続いた。
俺は“松明の英雄”。野蛮とされる種族の“大使”。そして図書館への通行証も持っている。俺の異世界は、ようやく、そして妙な形で、動き始めた。
曲がりくねった宮殿の廊下をテッサの後ろで歩きながら、俺の頭は王の言葉でぐるぐる回っていた。
一番重要。
それと同時に、戦闘では一番役に立たない。
燃える剣だらけの武器庫の中で、俺は魔法のドライバーみたいなものだ。だけど、そのドアを開けられる鍵は俺しかいない。情報が必要だ。今すぐに。
テッサは、黒い木の両開き扉の前で止まった。ルーンの彫刻が施されている。
彼女は開ける前に躊躇した。場所への敬意なのだろう。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷たい石や、会議室の香の匂いじゃない。
歴史の匂いだ。古い紙、革、磨かれた木の混じった、酔いそうな匂い。
ウントール王立図書館は、圧倒的だった。巨大だ。
オークの書架が天井の闇へ吸い込まれていく。上段の本に届くには、複雑な滑車付きの梯子が必要なほど高い。
細く高いゴシック調の窓から朝の光が金色の筋となって差し込み、空中の埃が踊っている。
分厚い閲覧机には、青銅の燭台、ガチョウ羽のペン、陶器のインク壺が整然と置かれていた。
本だけじゃない。
絹の紐で束ねられた黄ばんだ巻物の山。古すぎて、触れたら崩れそうなものすらある。
俺は動けなくなった。
世界の脳みそに入り込んだみたいだった。俺の工場なんて、ここに丸ごと入ってしまう。
「……すげえ」
声が自然と囁きになる。
じっとしていられない。目が勝手に動き、棚の大きな題名を追いかける。
「王国史!」
俺は指差した。
「こっちは……魔獣図鑑! 巻物まである!」
俺は近くの机へ走り、巻物を一本手に取った。
埃と放置の匂いがして、文字は流れるような筆記体で……俺には読めない。だが、古いものの匂いが背筋を震わせた。ここは本物だ。
テッサは入口付近で立ち尽くしていた。中へ入るべきか、指示を待つべきか迷っているようだ。姿勢は硬いが、防御というより警戒。
俺は礼儀を思い出して彼女のところへ戻った。
「テッサ、案内してくれてありがとう。ここに来られたの……本当に意味がある」
できる限り丁寧に、心から言った。
彼女の表情から察するに、使用人がこんな礼を言われることは滅多にないのだろう。貴族からも、英雄からも。
「何か必要でしたら……お呼びください、英雄アルヴェン様。私は外でお待ちします」
声はさっきより柔らかかった。まだ緊張はあるが、もう“襲ってくる怪物”を見る目ではない。俺はただの、変なダークエルフで、方向感覚を失った男だ。
テッサが出て行く前に、俺は呼び止めた。
まずはここからだ。任務。俺の種族。
「テッサ……“ダークエルフ”についての本って、どこにある?」
彼女ははっきりと躊躇し、喉を鳴らして飲み込んだ。目線が、図書館の奥、薄暗く静かな通路へ移る。
「あちらの区画です、旦那様。……あまり、訪れる方のいない場所です」
彼女はそこへ案内してくれた。
棚には埃を被った傷んだ背表紙が並んでいる。
題名を見た瞬間、リオネルと王国の偏見が即座に理解できた。
最初の一冊。
「恐怖の森への侵入記録」
次。
「国境紛争年代記, 黒檀の剣のエルフ」
そして最悪だったのが、赤い文字で強調された一冊。
「影の野蛮人たち」
俺は「影の野蛮人たち」を開いた。
文化的な情報なんてほとんどない。代わりに並ぶのは残虐の記録。夜襲、隊商の待ち伏せ、人間兵の殺害。著者は「貪欲」「理性なき」「裏切りの蛇」といった形容詞を惜しまない。
文化、習俗、言語、社会構造。そういうものはほぼゼロ。
戦史を装った、戦争プロパガンダだった。
胃が冷えた。
これだけ読んだら、俺だってダークエルフを怪物だと思う。
同胞が襲われ殺された世界から来たなら、根絶やしにすべき存在だと感じるだろう。
問題は、これはウントール王国の政治的な誇張なのか、それとも残酷な現実なのか。
カストラン王は、民が作り上げた“怪物の巣”へ、俺のエルフの血を利用して送り込もうとしているのか。
疑いが芽生えた。
そして疑いは、俺に残された唯一の武器だった。
これは外交の任務じゃない。生き残るための任務だ。
俺は息を整え、視線を魔法書の棚へ移した。
森に行くなら、ランタン以上にならないといけない。
テッサはまだ近くにいた。
「テッサ、今度は魔法の本をお願い」
「秘術の魔法書は、あちらに……」
彼女は紺と金の装丁が並ぶ、大きな半円状の書架を指差した。
「普通は魔術師しか学びませんけど」
俺はその区画へ歩いた。知識の海に目がくらむ。
「もしよろしければ、英雄アルヴェン様」
テッサが、薄い麻布の色褪せた装丁の細い本を指差した。
「それは、あらゆる魔法の種類を簡単にまとめた入門書です。まず基本を知るのにいいと思います。すごく役に立ちます」
「いいね、テッサ。読んだことあるの?」
彼女は一瞬だけ笑った。
「村にいた頃、母が似た本を持っていました。私はそれで読み方を教わったんです。でも……」
言葉が止まり、目の光が少し消える。
「失礼します。お邪魔はしません」
「邪魔じゃ……」
俺が言いかけた時、彼女はすでに少し離れていた。そして背中を向けて止まる。
「必要でしたら、図書館の外で待っています」
「分かった。ありがとう、テッサ」
俺は彼女が勧めた本を手に取った。
「秘術魔法の基礎概論」
急いで開き、光の魔法の項目を探す。
そこにあった。
俺の唯一の力が、たった一ページで説明されている。
基礎照明術(Lux Minima)
小さく安定した光, 炎を生み出し、松明の代替とする。
この適性を持つ者が最初に学ぶ集中の初歩。
見習い支援魔法に分類される。
胃を殴られた気分だった。
俺は一学期目の呪文だ。初回授業のテスト。
つまり俺は、そういう存在なんだ。
他の連中が戦闘の博士課程にいるのに、俺は“ランプを点ける”ところから始める。アルヴェン, 燭台。
だがページをめくる手が止まった。
脚注が目に入った。主文じゃなく、元素の起源についての歴史的な補足だ。
照明の元素術がいかに単純であっても、これは「白魔法」として知られる魔法系統の直接的な派生である。白魔法は天使の本質に最も近い術であり、稀少である。
白魔法。
「稀少」という言葉だけで、背筋に小さなアドレナリンが走った。
俺のランタンは、ただのランタンじゃない。見習いの呪文だが、希少な血筋がある。意味は分からない。でも初めて、心からの希望の火花が生まれた。
次に、地理と政治の資料へ移った。任務の舞台を理解しなければならない。
テラノヴァ全土の大地図を見つけた。机いっぱいに広がる巨大さ。魅入られる。
大陸は、いくつかの大国に分かれているらしい。
ウントール王国は間違いなく最大で、西部の広大な領土を支配していた。カストラン王は帝国の皇帝という扱いだ。
西の山地にはドワーフ王国。面積は小さいが、堅牢で突破不能に見える。
北西にはエルフの王国リュタロリエン。
そして南東には、地図の大きな傷のような領域。グレイヴルラ王国。かつて大陸第二の大国だったらしい。会議で聞いた言葉を思い出す。戦争初期の五年で滅びた。諸国が同盟を拒み続けた結果だ。グレイヴルラの崩壊後、残った三国, ウントール, ドワーフ, リュタロリエンがようやく生存のための同盟を結んだ。
それでも、グレイヴルラはウントールの規模には到底及ばない。カストランの国は、とにかく広い。地図をざっと見ただけでも、大陸の約35%がウントールの領土に見えた。ほかの王国とグレイヴルラを合わせても、せいぜい25%ほどを小さく分割している。
残りは?
大陸の巨大な40%を占めているのは、恐怖の森だった。
地図上では濃いエメラルドの海みたいに広がり、情報はほとんどない。
所々に不吉な注意書き。
「危険」「死の土地」「帰還なし」
任務の危険と重要性が、骨に染みた。
俺はただ森へ行くんじゃない。未踏で恐ろしい大地へ行く。面積だけならウントールに匹敵する広さで、そこが俺の“同族”の巣だ。
情報、憎悪、俺の魔法の稀少性、任務の危険。
これで、やっと最初の授業の準備が整った。
俺は本を開き、Lux Minimaに集中する。
手順。指先に魔力を集める。光を想像する。呼吸。集中。
目を閉じ、手を上げて試す。
……何も起きない。
魔力という感覚が妙だった。冷たくて熱い。皮膚の下の静電気みたい。
一回目, 失敗。魔力ってどこだ。
もう一度。深呼吸し、召喚の時に体を照らした金色を思い出す。
二回目。
白い極小の火花が一瞬だけ光り、すぐ消えた。
でも確かに、そこにあった。
俺は小さく笑った。抑えた声だが、純粋な満足。勝利の音。
「できた……できた!」
三回目は、もっと集中した。冷たい電気の感覚を指先から掌へ引き寄せ、輝きを思い描く。
掌の上に、小さな金色の光が生まれた。
弱く震え、今にも消えそうな蝋燭の炎みたいだが、確かに灯っている。
俺は自分の灯りを握っていた。
俺は無力じゃない。
その時、何時間も俺の邪魔をしなかったテッサが、用があるか確認しに戻ってきた。
彼女は中へ入り、机に座る俺の掌が淡く光っているのを見た。
「おめでとうございます、旦那様。もう少しできています」
驚きが笑顔に変わっていた。
俺は誇らしく微笑んだが、すぐに謙虚さを装う。
「いやいや、まだまだだよ。ほかの連中に比べたら、こんなのただの簡単な魔法だし」
「でも、始まりです」
街の鐘が鳴り、夜の訪れを告げた。窓の光は朝の金色から、夕焼けの濃い橙へ変わっている。俺は時間の流れに気づいていなかった。
俺はテッサに頼んだ。もう蝋燭は点けないでほしい。読書の間は俺の光で慣れたい。弱いけど十分だし、何より俺の光だから。
数時間後、テッサが戻ってきた。銀のトレイには夕食が載っている。
「英雄アルヴェン様、夕食のお時間を過ぎております。お食事をお持ちしました」
トレイの上には王の食卓みたいな料理。
焼き肉、色鮮やかな野菜、焼きたてのパン、赤ワイン。
「ほんと助かる、テッサ!」
俺は立ち上がって背を伸ばした。
「俺の世界なら、これ完全に高級料理だよ」
彼女が初めて、ほんの少し笑った。短くて音楽みたいな笑い声。それだけで俺は、少しだけ“異物”じゃなくなれた気がした。
「テッサももう食べた?」
俺は皿を差し出した。
「少し食べる?」
彼女は慌てて首を振る。
「いいえ、旦那様。私はもう……それに、このように高価なお食事をいただくことはできません。旦那様のためのものです」
俺は勧めたが、彼女はきっぱり断った。無理に境界線を越えるのは良くない。俺も学んだ。
「ねえテッサ、ひとつ聞いていい? 宮殿で働いて長いの?」
「はい、英雄アルヴェン様。とても幼い頃からです。十年ほどになります。村が魔族に襲われて……リオネル様が私をここへ連れてきてくださいました。ここにいられるのは……特別なことです」
「……魔族に。村が……」
胸が締め付けられた。
「そんな……ひどい。ごめん。本当に、つらかっただろ」
テッサは俺の言葉に小さく頷き、ほんの少しだけ、救われたような顔をした。
それから彼女は俺を見た。
その視線に、俺はなぜか気まずくなり、話題を変える。
「……リオネル。あいつ、俺のこと嫌いだよな」
テッサは皿に目を落とし、少し迷ってから言った。
「嫌い……とは言いません。リオネル様は、本当は良い方です。でも……」
「でも、俺が恐怖の森のダークエルフだから。脅威に見えるんだろ?」
苦いというより、疲れて言った。
「でもさ、俺は異世界から来たんだ。元の世界ではダークエルフじゃない。そもそもエルフなんて存在しない」
テッサは、階級を忘れたみたいに純粋な好奇心で俺を見た。
「英雄アルヴェン様の世界は……どんな世界なのですか?」
その質問に驚いた。
誰も聞いてこなかった。誰も気にしていなかった。
「……違う世界だよ。魔法はない。魔族も、ドラゴンも、エルフもいない。
コンクリートと金属の街があって、空を飛ぶ機械があって、一人で千人分の仕事をする機械がある。
俺は工場で働いてた。うるさくて、暑くて……部品を作る場所。
俺の魔法は、ネジを締めて箱を積むことだった。誰も俺を英雄とも野蛮人とも呼ばない。俺はただ……アルヴェンだった」
俺は短くまとめて話した。インターネット、車、退屈な日々。
話せば話すほど、テッサの肩から力が抜けていくのが分かった。
俺たちは笑った。
「空飛ぶ機械」という発想と、「ネジ締めの魔法」が可笑しくて。
テッサは棚の上の日時計を見て、目を丸くした。
「えっ……こんな時間! 神々よ、どうして気づかなかったんでしょう!」
「楽しいと時間って早いよな、テッサ」
彼女は綺麗に笑った。
彼女は、俺は休んだほうがいいと言い、本や巻物で散らかった机を片付けると言った。
でも俺は断った。
「いや。散らかしたの俺だし。手伝う」
それで俺は、次の一時間、テッサと一緒に巻物を集め、本を積み上げた。
工場の在庫整理みたいに。
違うのは、俺が疲れて無力さを感じる代わりに、気分が良かったことだ。
たっぷり読んで、散らかしたものを片付けて、俺は自室へ戻った。
疲れ果てて目は痛い。弱い光の下で読み続けたせいだ。
でも頭は冴えていた。情報と戦略と、目的でいっぱいだった。
部屋の扉を閉め、掌にLux Minimaを灯す。
金色の光はもう安定していて、机を照らすには十分だった。俺は確実に上達している。
絹の寝台に横たわる。
でも快適さは俺を落ち着かせない。焦りが眠気を追い払う。
王の言葉が浮かぶ。
「君が最も重要だ。他に言うな」
ルーファスの言葉も。
「お願いだ」
本の題名も。
「影の野蛮人たち」
テッサの顔も。
最初は怯えていた侍女が、俺の話で笑って、今はただの男として見てくれる。
俺は、ようやく必要とされた。力任せじゃなく、意味のある任務を得た。
俺は松明。光。
その光は、双方にとっての松明にならなければならない。
俺は大使だ。
俺は目を閉じた。
小さな金色の光を掌に灯したまま、眠りに落ちた。




