第八章 囁かれた風 ―― 目覚め
俺は、見慣れたはずの道を歩いている自分を見ていた。
完全に同じというわけではない。もっときれいで、もっと静かで、真新しいアスファルトが点滅しない街灯の下で鈍く光っている、そんな別の姿だった。
空は、急ぐことのない日曜の午後にしか存在しないような、完璧な青だった。コバルトの広がりが世界を包み込むように広がっている。工場の金属音も、騒がしい交通も、焼けた油の重たい匂いもない。あるのはただ、自分の足音が地面に軽く響く音だけ。静寂の中に溶ける、孤独なリズム。
道の真ん中で立ち止まり、光にかざすように手を上げ、指をゆっくりと動かした。
手は完璧に応えた。遅れもなく、震えも一切ない。
動かない太陽の下で、俺はひとり微笑んだ。
「明晰だ」
そう思った。
「明晰夢。意識的なコントロール。いい感じだ」
その時、はっきりと理解した。
俺は夢を見ている。
俺は歩き続けた。今度は意識的に。頬に当たる涼しい空気を感じながら。
子供の頃に遊んでいた公園の前を通り過ぎる。時間に忘れられたような場所だ。
錆びついたブランコ。ひび割れたコンクリートのベンチ。まともに機能したことのない枯れた噴水。すべてそこにあった。だが、絶対的な空虚の中に沈んでいた。走り回る子供も、遠くの声も、誰ひとりいない。あるのはただ、静けさと、古い木々の間を吹き抜ける柔らかな風。葉を揺らし、懐かしさを含んだささやきを残していく。
やがて、家の前に立った。
壁の塗装は少し剥がれ、角には湿気の染みが浮かんでいる。木のドアには、取っ手の近くにあの古い引っかき傷が残っていた。決して直されなかった、家庭の傷跡。
窓から漏れる黄色い光は、いつもと同じ。少し弱くて、少し暖かい。家だけが持つ温もりを約束する光。玄関のマットは相変わらず歪んでいて、誰かが急いで通ったまま直していないみたいだった。そして段差には、あの小さなひび割れ。何度も見て覚えている場所。
ゆっくりと階段を上がる。胸の奥が締めつけられる。それは恐怖ではなく、深い懐かしさ。物理的な圧力のように痛む感情だった。
中に入る。
リビングは記憶そのままだった。古いソファ、無音のまま光を放つテレビ、コーヒーの残りが置かれたテーブル。
だが、誰もいない。
あるのは濃密な静寂だけ。
視線が自然とテレビ横の棚へ向かう。
そこにあった。あの写真。
俺と、父と、母と、弟。
みんな笑っている。海辺で抱き合いながら、やっと行けた数少ない休日の一枚。
俺は十二歳で、潮風に髪を乱され、日焼けして、横を向いて変な顔をしている。弟は父の腕の中で、大口を開けて笑っていた。
母は父に腕を回し、二人は穏やかな誇りを浮かべてカメラを見ている。その瞬間が永遠になるかのように、あの枠の中で凍りついていた。
指先でフレームに触れた。
冷たい。
ひどく冷たい。まるで時間の氷がガラスに染み込んでいるみたいだった。
瞬きをした、その一瞬。
彼らの笑顔が消えた。
目が空洞になり、こちらを見ているのに、見ていない。命の抜けた、空っぽの視線。
もう一度瞬きをする。
元に戻る。
また笑っている。
だが、指先の冷たさは消えない。無言の警告のように残っていた。
俺は勢いよく立ち上がった。
心臓が激しく打つ。
「ここから出ないと」
玄関へ向かう。冷たい床の感触を足裏に感じながら。
ドアを開けた。
だが、外に出たはずなのに――
また同じリビングにいた。
同じソファ。
同じテレビ。
同じ写真。
もう一度。
喉の奥から焦りがせり上がる。
ドアを開けて、外へ飛び出す。
そして、また同じ部屋に戻る。
何度も。
何度も。
ドアを通るたびに、世界が折れ曲がり、同じ場所へ吐き戻される。心臓が肋骨を叩く。
壁の時計を見る。
針が逆に進んでいる。
ゆっくりと、だが確実に。
カチ…カチ…カチ…
自分のものではない時間へ戻っていく。
足元の影が動いた。
勝手に。
俺は動いていないのに。
影だけが左腕を伸ばした。俺の腕はそのままなのに。
そして何事もなかったように元に戻る。現実の歪みの一瞬。
空気が重くなる。呼吸が苦しい。
家の中で風が吹き荒れ、カーテンが激しく揺れる。
普通の風じゃない。
あの時の風だ。
召喚の日に感じた、あの温かくて軽い風。サイクロンの前触れ。絶対的な闇。どこからともなく響いたささやき。
立ち上がる。
風はさらに強くなり、存在しないはずの枯れ葉が部屋中を舞う。
そして――声がした。
最初は遠く。
長い廊下に響く残響のように。
「起きろ…」
顔を巡らせる。
「起きろ…起きろ…」
今度は近い。耳元で囁かれたみたいに。
風が暴風へと変わる。カーテンが激しく打ち付けられ、壁の写真が落ち、ガラスの砕ける音が響く。
「今すぐ起きろ!」
声が爆発する。
命令のように、頬を打つように鋭く。
夢が砕け散った。
目を開ける。
胸が激しく上下している。
頭上には夜空。
木々の黒い影が星を切り裂くように広がっている。
焚き火の弱い橙色の光が周囲を照らし、眠る兵士たちの顔に揺れる影を落としていた。
小川の音が遠くで変わらず流れている。
森の葉を揺らす風の音と混ざりながら。
瞬きをする。
悪夢と現実の境界を確かめるように。
そして――見た。
ブリアナが、俺の上にいた。
俺の上にまたがり、膝で腕を地面に押さえつけている。冷たい葉と土の上に。
彼女の目は見開かれ、月明かりに照らされた顔は青白く、呼吸は荒く乱れていた。
その手には――短剣。
サー・プロヴォロンから渡された、あの短剣。
刃が不吉に光っている。
彼女はそれを両手で握りしめていた。
絶望的なほど強く。
刃先は震えている。
俺の胸のすぐ上、激しく打つ心臓の数センチ手前で。
心臓がさらに跳ね上がる。
「ブリアナ…?」
声はかすれ、夜に溶けるほど弱かった。
彼女は答えない。
ただ、俺を見下ろし、じっと見つめ続けている。
何が起きているのか理解できない。
思考が暴走する。
混乱が頭の中でぶつかり合う。
何だこれは?
なぜ?
これは現実なのか?
それとも、まだ夢の中なのか?
体が動かない。




