プロローグ1
※本章はプロローグ1の全文です。
この二十年間、
強大な王国と驚異的な種族が栄える世界最大の大陸、テラノヴァは、
闇に満ちた、殺意と捕食本能を宿す存在によって脅かされ続けていた。
それは――悪魔。
ただ破壊することのみを目的とする邪悪な存在であり、
彼らは主であり創造主でもある
魔王アスタロトの名のもとに、その支配領域を拡大し続けている。
この長き戦いの中で、人間、ドワーフ、エルフ、そして他の種族たちは、
アスタロトの軍勢に対抗するため、持てるすべての力を注いできた。
容赦なき敵を前にしながらも、
多くの者たちはなお、神々への信仰を捨てずにいた。
しかしその神々は、すでに百年以上もの間、
この世界に一切の奇跡も、祝福も、希望の兆しすら示していない。
それでも信仰を捨てきれぬ者たちがいる一方で、
厳しい現実を受け入れた者たちもまた存在していた。
――彼らは、もはや孤独なのだ。
長き時代にわたり崇めてきた神々の加護を失い、
闇に抗う術は、自らの手で掴むしかない。
それでもなお、テラノヴァ最古にして最も影響力を持つ国家、
人間の王国・ウントールは、
この戦争の最前線に立ち続けていた。
悪魔の勢力拡大を前にし、
三つの大国――
ウントールの人間、
西方山脈のドワーフ、
そしてリサロリエンのエルフは、
緊急軍事同盟を結ぶことを決断した。
それぞれが独自の主権と文化を保ちながらも、
戦略、兵力、資源を共有し、
魔王アスタロトに立ち向かうためである。
しかし、
種族間に横たわる古き対立と不信は、
そう簡単に消えるものではなかった。
今まさに彼らが囲むその卓上には、
戦争の重みだけでなく、
解決されぬ数百年分の因縁が積み重なっていた。
――そして今この瞬間、
ウントール王は同盟国の代表たちとともに、
戦略会議を行っていた。
精巧な装飾が施された重厚な木製の卓。
職人の並々ならぬこだわりが感じられるその机を囲み、
広々とした部屋の石壁には、
各国の紋章が刺繍されたタペストリーが掛けられている。
鉄製の燭台に灯る松明の光は、
室内を温かく、柔らかく照らし、
磨き上げられた木床の上には、
厚手の絨毯が敷かれていた。
過剰な豪華さはない。
しかし確かな威厳と気品が、この場を支配していた。
その場には五脚の椅子が置かれ、
五人の要人が、戦争の行方について議論を交わしている。
卓の中央、
まるで一家の主のように座しているのは、
ウントール王国国王、カストラン・ヴァロンゴ三世。
五十を超えているように見える彼は、
一目で高貴な身分と分かる装いをしていた。
赤きマント、宝石で飾られた王冠。
その姿は、富と権力を誇示することを躊躇わない。
常に厳しい表情を浮かべた顔には、
長く伸びた白交じりの髭。
淡い茶色の瞳には、揺るぎない威圧感が宿っていた。
王の左側、卓の端に座るのは、
黒く乱れた髭と口髭を持つ男。
彼は質素な革鎧を身に纏い、
胸元には金床の上に刻まれたハンマーの紋章。
それはウントール西方、
ドワーフ王国の紋章である。
身長は低く、およそ一四五センチほど。
しかしその体躯は頑健で、
野性味あふれる眼光を宿していた。
彼こそが、
西方山脈の王、スルガン。
ドワーフ族を束ねる王である。
「いや、我々はテルシフォ川の東へ、
三倍の兵を送り込み、
あの虫けらどもを力で押し潰すべきだ。
力には力で対抗すればいい」
それに対し、
スルガンの正面、反対側に座る女性は、
首を横に振って否定を示した。
細く整った顔立ち。
宝石のように輝く翠の瞳。
長く流れる金髪と、
その横から覗く尖った耳が、
彼女のエルフとしての血を物語っている。
ただの美しいエルフではない。
彼女は、
ラ・ヴォンターナ家のレディ・ケアリー。
ウントール北西に位置する
エルフ王国の女族長であった。
純白のマントは派手さこそないが、
その布地は王国にしか存在しない希少な素材で作られている。
「愚かな案ね。
低い身長と、それ以上に低い知性の持ち主から出た意見なら、
驚きもしないけれど」
スルガンは拳を握り締め、歯を軋らせた。
「この女め……。
よくも俺にそんな口を利けたものだな。
無礼の代償は死だ」
「脅すなら覚悟しなさい、ドワーフ。
死にたいのでなければ」
スルガンは卓を強く殴りつけ、
殺意を宿した視線をエルフへと向けた。
しかしケアリーは、
恐怖も後悔も一切見せなかった。
やがてスルガンは、
自分の隣に座る若者へと視線を移す。
「プロヴォロン卿。
貴殿は王国のグランドマスターだ。
俺の案に賛成してくれるだろう。
それに、このエルフの無礼も許せぬはずだ」
彼の隣に座るのは、
ウントール王国最高位の軍人、
グランドマスター、サー・プロヴォロン・ポーストレ二世。
年齢は二十五前後と若いが、
その戦略眼は卓越していた。
指揮官の証である軍装を身に纏い、
腰には剣を携えている。
規律正しい姿勢と、
冷静にすべてを見抜く蒼い瞳が印象的だった。
「落ち着いてください。
我々は同盟者です。
そしてスルガン王、失礼ながら、
その案は現状に適していないと考えます」
スルガンは王でありながら、
プロヴォロンには深い敬意を払っていた。
かつて彼がグランドマスターに就任した際、
スルガンは強く反対した。
だが、悪魔の襲撃により失われたはずのドワーフの要塞を、
プロヴォロンの指揮で奪還したことで、
彼はその実力を認めざるを得なかった。
「まだ理解できん。
単純で、破壊的な良い案だと思うがな。
だが若きグランドマスターがそう言うなら、
理由があるのだろう。
聞かせてくれ」
「ご配慮に感謝します、スルガン王」
「名で呼べ。
王ではなくとも、
貴殿は同格だ」
「お気持ちはありがたいですが、
規律と礼節のために――」
言い終える前に、
スルガンは再び卓を叩いた。
今度は怒りではない。
獣のような笑みを浮かべていた。
「もういい。話を進めろ」
「無駄な口論はここまでにしましょう」
低く、疲れを含んだ声が割って入った。
それは、
王国顧問魔導師、エルドロス・ミラカエル。
ウントールで二番目の地位を持つ大魔導士である。
優雅な振る舞いとは裏腹に、
彼の忍耐は限界に近づいていた。
こうした会議が無意味だと感じているのは、
彼だけではなかった。
ケアリーは静かに頷き、同意を示す。
「その通りです。
会議を続けましょう」
プロヴォロンは理解していた。
大魔導師ルーファス・アルデントゥス不在の今、
エルドロスが場を引き締めようとしていることを。
「テルシフォ川東岸へ兵を三倍送ったとしても、
勝算はありません。
敵の数が圧倒的です。
均衡を保つには、最低でも五倍が必要です」
「なら送ればいい。全滅させてやる、ははは!」
「兵が足りません」
「他の地域から回せばいい。簡単だ」
「……どうしてこの男が王なのかしら」
ケアリーは両手で顔を覆い、
長いため息を吐いた。
スルガンが言い返そうとしたその瞬間、
彼女は無言でプロヴォロンを見据えた。
その視線が告げていた。
――説明しなさい。
プロヴォロンは小さく頷き、
革製の筒を手に取った。
中から取り出したのは、大きな地図。
机の中央に広げ、
四隅を金属の留め具で固定する。
地図を撫でるように整えながら、
彼は語り始めた。
「北西と中央西の防衛線は、
すでに限界に近い。
このまま圧力が続けば、
補給はあと二ヶ月が限度です」
彼は二つの要塞を指差す。
「北のハルドラス要塞では、
五つの補給隊のうち三つが迎撃されました。
南のレン駐屯地は、
必要戦力の半分以下で持ちこたえています。
加えて、脱走者や魔導士の疲弊も深刻です」
スルガンは無精髭を掻きながら、地図から目を離さなかった。
先ほどまでの荒々しさは影を潜め、声色も幾分抑えられている。
「……なるほど。
どうやら俺の、力で押し切るという案は、本当に愚かだったようだな」
重たい溜息を吐き、それでも彼は言葉を続けた。
「それでもな……後退し、待つという選択が、どうしても気に食わん。
まるで最初から敗北を受け入れているようでな」
サー・プロヴォロンは、冷静さを崩さぬまま、しかし確固たる口調で答えた。
「臆病ではありません。
それが、今取り得る唯一の理性的な選択です。
我々の務めは、あの戦線を可能な限り持ちこたえさせること。
たとえ、さらなる犠牲を伴おうとも……
少なくとも、勝利の時が訪れるまで」
その最後の言葉を聞いた瞬間、
スルガンとレディ・ケアリーは同時に顔を上げ、プロヴォロンを見た。
そして次に、カストランとエルドロスへと視線を移す。
まるで、聞き捨てならない何かを耳にしたかのように。
「勝利だと?
我々に隠している切り札でもあるのか?」
「私も同感です。
なぜ今まで、そのような切り札の存在を知らされていなかったのです?」
室内は静まり返った。
スルガンとケアリーの視線は同時に、ウントール王へと向けられる。
種族も気質も異なる二人だが、
半眼に細められた視線と荒い鼻息は、
明確な不満を示していた。
王は二人を、真っ直ぐに見据え返す。
緊張が高まる中、プロヴォロンが立ち上がった。
椅子がわずかに後ろへとずれ、
彼は深く頭を下げる。
「同盟者である皆様に、この切り札を伏せていたこと、深くお詫びします。
その理由は――」
「いや、弁解は要らん」
ドワーフ王はそう遮り、
借りを取り立てるかのように、
鋭い視線を王へ向けた。
「その“勝利”とは何だ。
答えよ、カストラン・ヴァロンゴ三世」
「陛下に向かって声を荒らげるとは、無礼だぞ」
「彼は我らの王ではない。同盟者だ」
「軍事戦略を我々に委ねることで合意したはずだ」
「戦略はな。
だが、重要事項については事前に共有し、
我々の意見も尊重すると約束したはずだ」
会議で意見が衝突することは珍しくない。
だが今回の対立は、より深いところを抉っていた。
誇りと誇りの衝突。
互いに、それを理解している。
カストランは抑えた息を吐き、静かに立ち上がった。
その落ち着きは、明らかにスルガンには欠けているものだった。
「レディ・ケアリー、エルフの女族長。
そしてスルガン・マルテル、西方山脈の王よ。
信頼が足りなかったわけではない。
ただ……この“勝利”に頼ることを、我々は望んでいなかった」
「なぜだ?
そして、その“勝利”とは何なのだ」
「皆も知っているはずだ。
二十二年前、
大魔導師ルーファスの妻、ステラ・アルデントゥスが、
千里眼の加護を授かったことを。
彼女は死の間際、最後の予言を遺した」
ケアリーは目を細める。
「……七人の英雄の予言」
「その通りだ。
この戦争の趨勢を覆し得る、唯一の希望」
スルガンは髭を掻き、疑わしげな表情を浮かべた。
「初耳だな。
なぜ俺は、その予言を知らされていない?」
「記録によれば、
あなたの王国には数ヶ月遅れで伝えられたとある。
それも、ステラ本人の要望で」
「……前王である父に伝えられたのかもしれん。
聞いていないのか?」
スルガンの表情が硬くなる。
父が自分を信用していなかったことを、
彼自身が一番よく知っていた。
だが、それを認めるつもりはなかった。
「ああ……そうだったな。
確か、異世界から七人の英雄が来る、という話だったか。
すっかり忘れていた」
ケアリーは眉を吊り上げる。
その嘘を、見抜いていた。
「随分と些細な話をお忘れになるのですね。
では、山脈の王よ。
詳細を、改めてお聞かせ願えますか?」
スルガンは低く唸るが、答えなかった。
カストランが手を上げる。
王は一瞬、目を閉じた。
遠い記憶から力を引き出すように。
その声は低く、重く、
まるで神々の残響のように、広間に響いた。
「――こう告げられた。
世界が最も深き闇に沈み、
地獄が姿を現し、すべてを喰らおうとする時、
七人の英雄が星の彼方より現れる。
彼らは互いを補い合い、
失われた希望を取り戻す光となる。
そして魔王は、彼らの手によって打ち倒される」
王は一拍置き、言葉を続けた。
「だが……
七人の中に、裏切りの心を持つ者が現れる。
その者が光から外れた時、
闇は道を得て、
火と血の河となって、この世界に溢れ出す」
言葉は、宣告のように宙を漂った。
沈黙が、息苦しいほどに場を支配する。
数秒の思索の後、
スルガンは再び口を開いた。
「……そんな英雄が実在する保証はない。
おとぎ話のような儀式に、
我々の希望を託せというのか。
断じて認めん。
戦神ヘイルに仕えるこの身が、
そんな侮辱を受け入れるものか」
「その傲慢さを捨てなさい。
神々は、何年も前から沈黙している。
これが最善なら、迷う理由はない」
「神が沈黙していようと、
異世界の力に縋る必要はない。
これは試練だ。
我々が独りで戦えるかどうかを試すための」
「またその話ですか。
気づかないのですか?
神々は我々を見捨てた。
それでも縋る者は、ただの愚か者です」
「何を言う!
人間こそ、最も敬虔な種族だったはずだ。
試されているだけで、背を向けるとは……」
「馬鹿げている。
なぜそんなにも盲目なのか。
私はエルフの代表として、この計画を受け入れる」
「当然だろう。
森に隠れ、救い主を待つのが得意だからな。
哀れな連中だ。
我らドワーフは伝説に逃げぬ。
最後まで戦い、
戦場で死ぬなら、それこそが誇りだ」
その言葉に、
張り詰めた空気はさらに凍りついた。
「誇り、ですか?
あなたの二人の息子が戦場で命を落とした時、
そこに誇りなど、ありましたか」
次の瞬間、
スルガンの目が赤く染まった。
怒りのまま、
彼はケアリーに飛びかかろうとした。
その首を掴もうと――
だが影が動いた。
プロヴォロンが肩を掴み、
素早く床へと叩き伏せる。
体重と腕のてこを使い、
必死に押さえ込む。
「落ち着け、スルガン!!」
ドワーフは激しくもがいた。
本来、人間よりも力で勝るはずの存在。
それでも、プロヴォロンは耐え続ける。
「汚らわしいエルフめ……
どうして……」
赤い瞳は、
怒りだけでなく、深い悲しみを宿していた。
癒えることのない喪失の痛みが、そこにあった。
プロヴォロンは、
スルガンが静まったのを確認し、手を離す。
短気な彼の奥に、
繊細な心があることを知っていたからだ。
「レディ・ケアリー。
これ以上、事態を悪化させないでください」
彼女は肩をすくめた。
叱られた子供のように。
自分が行き過ぎたことを、内心では理解していた。
重苦しい沈黙を破ったのは、
カストランの声だった。
「もういい。
理解しているのか?
我々はすでに敗北している。
死ぬか、奴隷になるかの違いでしかない」
彼はスルガンを見据える。
ドワーフ王は席に戻り、
目にはまだ涙が滲んでいた。
「神々でさえ、我々に背を向けた。
スルガン……お前なら分かるはずだ。
何かを失う痛みを。
これ以上、繰り返させてはならない」
沈黙。
誰も言葉を発しなかった。
やがてカストランが口を開く。
「儀式は、どのように行う?」
「準備はすでに整っています。
道具も、場所も」
「いつだ」
「二日後だ。
ルーファス・アルデントゥスが戻り次第、
彼が儀式を指揮する。
私と、王国最高峰の魔導士八名が参加する」
ケアリーは王から目を離さなかった。
「……予言の最後。
裏切り者については?」
再び沈黙が落ちる。
松明の炎さえ、揺らいだように見えた。
王は数秒考え、答える。
「それは儀式の後に。
まずは、英雄たちを迎えねばならない」
スルガンは黙って拳を握り締めた。
エルドロスは視線を逸らし、
プロヴォロンでさえ、
不安を隠しきれなかった。
誰も、これ以上言葉を重ねなかった。
その場に残ったのは、
戦争の重みだけではない。
――迫り来る未来への、恐怖だった。
※本章は物語の舞台となるファンタジー世界の背景を描くプロローグです。
次章「プロローグ2」からは、主人公視点で物語が進行します。




