1-5 均衡が破られる瞬間
学食での夕食の後、寮部屋に戻り、夜食を先に用意しておき、一服として流行りの漫画を熟読する。静かな夜に緑茶を片手に読書を嗜むのも悪くない。
アナログ時計の短針は10に近付きつつある。漫画の先の展開が少し気になるところだが、翌朝までお預け。
もはや毎晩足を運んでいるトレーニングジム。行くたびに銀髪の少女が規格外のトレーニングを文字通り涼しい顔でこなしている。
特に話しかける理由もないので気にしていなかったが、よくよく思い返すと「やばくね?」という語彙力皆無の感想が頭に浮かぶ。
いつも通り和真はジムに入り、今日は脚力を鍛えるためにフリースペースでスクワットから始める。
同じ空間にいつもの銀髪少女がいた。黒の長袖のインナーにズボンジャージ。その少女は右腕だけで腕立て伏せをしていた。しかもスリムな腰部に重そうな鉄球を乗せてさらに負荷を掛けている。……腕が折れそう。
和真はいつも通り知らんぷりを決め込む。
するとジムの入り口からから小さな影が現れた。
━━猫
キジトラの成猫だ。木製のドアが軽いためか、純粋に身体で押して入って来たのだろう。
猫は腕立て伏せをしているユリィに向かっていき、ユリィの顔の前で、前足を身体の前に揃え臀部をマット床につけて座った。「エジプト座り」と言うらしい。
流石のユリィもトレーニングを中断せざるを得なかった。
ユリィは首輪に首輪に視線を落とした。ネームプレートには
小野小町35世
と、マーカーで手書きで記載されていた。
……これはこの猫の名前なのか━━和真にはそうとしか思えなかった。名前だとしたら実に珍妙で、突飛で、滑稽だ。名付け親の顔が見てみたい。
猫の名前にしては余りにも逸脱が過ぎる文字列に違和感を抱いたのか、ユリィはつい首を傾げた。
「35世」
名前のインパクトの大きさに、つい口から溢れてしまった。
和真は一連の流れをただ眺めていた。ユリィの溢した言葉を回収した。
「35世…なんだ…」
失笑。
「……知らない。首輪にそう書いてあった…」
ユリィはありのままの情報を淡々と、手短に伝え、猫の頭を優しく撫でた。彼女の表情は少しだけ柔らかくなったような気がした。
これが、和真とユリィの初めての会話だった。




