異世界恋愛「ざまぁ」短編集 ~不遇令嬢と、彼女を見抜く最強の理解者~
追放された地脈の聖女は辺境で溺愛される ~偽聖女を迎えた王都は、浄化を失い瘴気に沈む~
王都の地下深く、その存在を知る者さえ限られる「地脈の神殿」。
冷たく湿った空気が、何百年も磨かれていない石肌を撫でていく。ここは、王宮の華やかさとは無縁の、ただ責務のためだけに存在する場所だ。 聖女フィオナは、儀式壇の中央に静かに膝をついていた。 淡い青色の儀式服は埃で汚れ、丁寧に結い上げていたはずの銀髪は、数筋が汗と共に頬に張り付いている。
三日三晩。 一睡もせず、まともな食事も摂らず、彼女はただ一人、この国の根幹を支える『聖印術』の儀式を続けていた。
王国の地下には、古代の龍脈の名残である「地脈」が網の目のように張り巡らされている。人々が大地の上で生活する限り、そこには必ず「瘴気」と呼ばれる澱みが生まれる。それを放置すれば、大地は腐り、作物は枯れ、やがては魔物を生み出す。
フィオナの務めは、その瘴気を封印し、浄化すること。 それは、王国の安寧を支える最重要機密。 しかし、その実態はあまりにも地味で、国民はもちろん、王族の大半すらその重要性を正しく理解していなかった。
「――封」
か細く、けれど凛とした声が神殿に響く。
フィオナが最後の印を結ぶと、儀式壇に描かれた巨大な術式が、一瞬だけ眩い光を放ち、そして静かに沈黙した。 途端に、全身を凄まじい疲労感が襲う。立っていることさえ億劫で、今すぐにでも床に倒れ込みたいほどの倦怠感。 だが、それと同時に、胸を満たすのは確かな安堵感だった。
(……今回も、務めは果たしました)
誰に知られずとも、誰に褒められずとも構わない。 これが聖女としての私の「責務」であり、揺るぎない「誇り」なのだから。 フィオナは、ふらつく足取りでゆっくりと立ち上がり、地上へと続く長い石段へと向かった。
◇◇◇
重い石の扉を押し開け、王宮の回廊に出ると、地下とは打って変わって、まばゆい光と喧騒がフィオナを包んだ。 儀式を終えた聖女が、婚約者である第二王子ゼノン殿下に報告へ向かう。それもまた、定められた手順の一つだった。 疲労困憊の体を引きずり、謁見の間へたどり着く。 扉が開かれると、そこに広がっていたのは、いつにも増して華やかで、浮ついた貴族たちの社交場だった。
「まあ、フィオナ様。相変わらず、薄汚れたお姿ですこと」
誰かが放った侮蔑の言葉が、耳を素通りしていく。 フィオナは、埃にまみれた儀式服のまま、広間の中央へと進み出た。 玉座の前には、婚約者である第二王子ゼノンが、勝ち誇ったような笑みを浮かべて立っていた。
「フィオナ! 貴様、また地下に三日も潜っていたのか。王子の婚約者だというのに、なんと見苦しい姿だ」
ゼノンは、見目麗しいが中身のない、傲慢な青年だ。彼は目に見える派手な功績を好み、フィオナの地味な務めを「祈るだけの穀潰し」と公言して憚らなかった。
そのゼノンの隣には、見慣れない金髪の美少女が、得意げに寄り添っている。甘い香水の匂い。柔らかなレースをふんだんに使ったドレス。
「紹介しよう。彼女こそ、新たに見出された『真の聖女』、アリスだ!」
ゼノンが高らかに宣言すると、アリスと呼ばれた少女が、愛らしく一礼した。
「皆様、はじめまして。聖女アリスと申します」
すると、近くにいた貴族の一人が「アリス様、先ほどは感謝いたします」と大げさに頭を下げた。
「どうだ、フィオナ。アリスの奇跡は素晴らしいぞ。今も、侍女が転んで擦りむいた手を、あのように美しい光で癒してくださったのだ!」
アリスは、はにかむように微笑み、その指先に小さな光を灯してみせる。
(……光? あれは……)
フィオナの目には、それが聖なる力には見えなかった。高位の神官が使う治癒魔法とは似ても似つかない。
(一時的な鎮痛効果と、幻惑魔法の合わせ技……? あんなもので『聖女』……?)
だが、ゼノンや周囲の貴族たちは、その「目に見える」派手な光に熱狂していた。
「それに引き換え貴様は!」
ゼノンの声が、不意に冷たさを帯びた。
「地下にこもり、地味な祈りを捧げるだけ。民衆の前に姿を見せることもなく、何の奇跡も起こせない。まさに『穀潰し』だ!」
「穀潰し」。
その言葉が、フィオナの胸に突き刺さった。 この三日三晩、身を削るようにして国の瘴気を封じてきたというのに。そのおかげで、彼らが今、その華やかな広間で笑っていられるというのに。
「ゼノン王子。わたくしの務めは……」
「黙れ! 言い訳は聞かぬ!」
ゼノンは、フィオナの言葉を遮った。
「もはや貴様のような地味で暗い女は不要だ。本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
広間が、期待に満ちた静けさに包まれる。
「そして、王国の聖女はアリスただ一人でよい。貴様は偽りの聖女として、今すぐ王都から追放だ!」
追放――。
フィオナの心は、驚くほど静かに冷えていくのを感じた。 悲しみも、怒りも湧いてこない。ただ、長年背負ってきた重い責務から、不意に解放されたような、奇妙な虚脱感だけがあった。
(……そう、ですか)
彼女は、ゼノンや、彼を扇動したアリス、そして嘲笑を浮かべる貴族たちを見返すこともなく、ただその場で、深く、完璧な淑女の礼をした。 背筋を伸ばし、一分の隙もない、王妃教育で叩き込まれた礼を。
「――御心のままに」
感情を殺した声でそれだけを告げると、フィオナは踵を返し、一度も振り返ることなく、謁見の間を去った。 それが、彼女に残された最後の「誇り」だった。
◇◇◇
一方、時を同じくして。 王都から遠く離れた、北の辺境。 魔物や隣国の脅威に常に晒される、アルビオン王国最大の軍事拠点。
「要塞都市」とも呼ばれるこの地を統べる辺境伯、アシュレイ・グレイヴナーは、執務室で魔力通信の報告を受けていた。
「――以上です。ゼノン王子は、フィオナ聖女を『偽聖女』として断罪。王都より追放処分と決定されました」
報告を終えた部下が、息を飲む。
アシュレイの執務室は、王宮とは対照的に、華美な装飾とは一切無縁の実戦的な場所だ。壁には広域地図と武具が掛けられ、机の上には膨大な量の軍事報告書が積まれている。
アシュレイは、爵位こそ「伯爵」だが、事実上の「国境司令官」であり、王都の儀礼的な騎士団とは比較にならない百戦錬磨の兵たちを束ねる武人だった。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。整っているが、厳格なその顔には、一切の感情が浮かんでいない。 ただ、手元に置かれた黒曜石の文鎮を握る指先が、白くなるほどに力を込めていた。
(ゼノン王子……あの派手好みで、実の伴わぬ男が、ついに取り返しのつかないことをしたか)
アシュレイは、かつて王都で近衛騎士団長を務めていた。だが、ゼノンの実態を見ない政策を諫めたがゆえに疎まれ、この北の辺境に事実上、左遷されていた。
アシュレイは、フィオナの真価を知る、数少ない一人だった。 数年前、王都の地下で、管理ミスによる小規模な瘴気の漏出事故があった。騎士団が毒気に当てられ次々と倒れる中、駆けつけたフィオナが、ただ一人、地味だが強力な『聖印術』で瞬く間に瘴気を封じ込めるのを、彼はこの目で目撃していたのだ。
あの力がなければ、王都は半壊していた。
(彼女こそが、王国の真の守護者。それを『穀潰し』だと?)
アシュレイの瞳に、冷たい怒りの炎が宿る。
(あの愚かな王子は、国の根幹たる『至宝』を、自らドブに捨てた)
彼は立ち上がった。
「イワノフ」
「はっ」
「精鋭を五十騎、集めろ。装備は万全に。これより王都街道へ向かう」
「はっ。任務は…?」
「決まっている」
アシュレイは、壁に掛けてあった愛用の長剣を手に取った。
「王家が捨てた、我が国の『至宝』を――聖女フィオナ様を、丁重に『お迎え』する」
その「お迎え」という言葉に込められた、王家への明確な叛意と、聖女への絶対的な敬意を、副官であるイワノフは正しく理解し、静かに敬礼した。
◇◇◇
王都は、新たな「奇跡」に沸いていた。
フィオナが王宮を追放されたその日の午後、王都中央広場には人だかりができていた。その中心にいるのは、第二王子ゼノンと、彼に寄り添うように立つ新しき聖女アリスだ
。
「まあ、アリス様! 足の痛みが引きましたわ!」
「ああ、聖女様の光に触れたら、長年の肩こりが……!」
アリスが愛らしい笑みを浮かべて両手をかざすと、その掌から眩い黄金の光が放たれる。その光は、集まった民衆の体に降り注ぎ、あちこちで歓喜の声が上がった。
実際には、それは高位の治癒魔法などではなく、一時的な痛みを麻痺させる鎮痛効果と、気分を高揚させる幻惑魔法の合わせ技に過ぎない。 だが、目に見える派手な「奇跡」に、民衆は熱狂した。
「これこそが真の聖女だ!」
「我々を救ってくださる、慈悲深きアリス様!」
ゼノンは、その光景を満足げに眺めていた。
(そうだ、これでいい。聖女とは、こうでなくては)
民衆に愛され、目に見える功績を示す。それに引き換え、地下にこもりきりで愛想もなく、埃にまみれた姿でしか地上に現れないフィオナは、聖女の名にふさわしくなかったのだ。 ゼノンは、自らの決断の正しさを確信していた。
その熱狂の喧騒を遠くに聞きながら、フィオナは一人、王都の南門へと歩いていた。
三日三晩の儀式を終えたままの、淡い青色の儀式服。それは王宮を追い出される際に着替えさえ許されず、今は道行く人々の好奇と侮蔑の視線に晒されている。
彼女が正門に近づくと、その姿に気づいた人々が、距離を取りながらも卑しげな言葉を投げかけた。
「あれ見ろよ、偽聖女だ」
「王子殿下に捨てられたんだって?」
「『穀潰し』が! よくものうのうと王都の空気を吸っていられたもんだ!」
「さっさと出ていけ!」
石こそ投げられないものの、それは謁見の間で貴族たちが向けた視線よりも、遥かに直接的で、悪意に満ちた侮辱だった。 だが、フィオナは足を止めなかった。 俯くことも、睨み返すこともしない。ただ、まっすぐに前を見据え、背筋を伸ばして歩き続ける。
(……わたくしの務めは果たしました)
胸にあるのは、それだけだった。 彼らにどう思われようと、わたくしが代々受け継いできた『聖印術』の「責務」と、それを果たしてきた「誇り」は、誰にも汚すことはできない。
弁解はしなかった。 彼らが熱狂しているあのアリスの力が、瘴気を浄化する力とは似ても似つかぬものであることなど、わたくしが一番理解している。 だが、それを告げても、今の彼らに届く言葉はないだろう。
フィオナは、重い鉄の装飾が施された王都の南門を、ゆっくりとくぐり抜けた。 王都の分厚い城壁が、彼女と民衆の罵声を物理的に遮断する。
――その、瞬間だった。
王都の地下深く。 フィオナが三日三晩祈りを捧げた「地脈の神殿」。
つい半日ほど前まで、フィオナの聖力によって青白い光を放っていた儀式壇の術式が、ふっ、と最後のまたたきを終え、完全に沈黙した。 ごう、と地鳴りのような低い唸りを上げていた祭壇の奥。瘴気を吸い込み、浄化していた封印の要が、その主を失ったことを悟り、ピシリ、と乾いた音を立てた。
王国の根幹を支えていた浄化機能が、完全に停止した不吉な予兆。 まだ地上には、何の変化も起きていない。 だが、大地の下では、確実に、逃げ場を失った「瘴気」が、その濃度を増し始めていた。
◇◇◇
一方、王宮の執務室。
ゼノン王子は、民衆の喝采に上機嫌なまま、一枚の羊皮紙に手紙を書きつけていた。 相手は、北の辺境伯、アシュレイ・グレイヴナー。
「……よし、こんなものか」
彼が書き終えた書状には、インクが乾くのももどかしい、彼の傲慢さが滲み出ていた。
『北の辺境伯アシュレイに命ずる。 今般、偽聖女フィオナを王都より追放した。 貴殿の領地は王都への街道上にあるが、国家への反逆者であるあの『穀潰し』を、決して領内に入れてはならぬ。 もし匿うなどの不忠を働けば、王家への反逆とみなし、厳罰に処す。 次期国王たる我が言葉、ゆめゆめ忘れるな』
「殿下、アシュレイ卿への書状、そこまで強く書かれずとも……」
側近の宰相が、恐る恐る口を挟む。 ゼノンは、不快そうに鼻を鳴らした。
「何を言うか。アシュレイなど、私の意に沿わぬことばかりを抜かし、王都から追い出された『左遷』された男ではないか」
ゼノンにとって、アシュレイは「爵位こそ伯爵だが、田舎の領地を押し付けられた、格下の武人」でしかなかった。
彼は、アシュレイが統べる辺境領が、独自の交易路を持ち、王都に匹敵するほどの経済力と、王都の騎士団など比較にならない強大な実戦部隊(軍事力)を保持しているという現実を、まったく理解していなかった。
「あの北の田舎伯爵が、王都からの補給なしに一日でも生き延びられるとでも? 私の命令に、あの男が逆らえるはずがないだろう」
ゼノンの「無知」は、フィオナの『聖印術』の重要性だけでなく、自国の軍事バランスにまで及んでいた。 自らが国の生命線と、最強の盾の両方を同時に敵に回したことにも気づかず、ゼノンは傲慢な警告書状に王家の封蝋を押し付けた。
◇◇◇
王都の南門を抜けた先は、広大な荒野だった。 北の辺境伯領へ続く唯一の街道だが、整備はろくにされておらず、人通りもまばらだ。
フィオナは、あてもなくその道を歩いていた。 三日三晩の儀式による極度の疲労と、王宮での仕打ちによる精神的な消耗が、彼女の足を鉛のように重くしていた。 儀式服はすでに埃と泥で汚れ、銀色の髪は風に吹かれて乱れている。 握りしめた手の中には、追放にあたり、侍女がこっそり持たせてくれた小さな水袋と、干し肉が数枚入った包みがあるだけ。 これが、今まで国の根幹を守り続けてきた聖女の、全財産だった。
(……わたくしは、これからどうなるのだろう)
「穀潰し」と罵られ、「偽聖女」と蔑まれた。
『聖印術』は、瘴気を封じるための力。それ以外に、アリスのように派手な奇跡を起こす術を、フィオナは持たない。 このまま荒野で行き倒れるか、あるいは運良くどこかの村にたどり着いたとしても、何の力もない女として生きていくしかない。
(それでも……)
彼女は、胸元に手を当てた。
(わたくしの「誇り」だけは、失わない)
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
地平線の彼方から、地響きが聞こえた。 砂埃が竜巻のように巻き上がり、それが一直線にこちらへ向かってくる。 馬だ。それも、相当な数の。 フィオナは反射的に身を強張らせた。野盗か、あるいは魔物か。今の自分に、抵抗する力など残っていない。
だが、近づいてくる騎馬隊が掲げていたのは、見慣れた紋章だった。 荒野の狼と、北極星。
(あれは……北の辺境伯、アシュレイ・グレイヴナー様の……!)
なぜ、彼がここに? フィオナが困惑する間もなく、五十騎ほどの屈強な騎士たちを乗せた馬群は、彼女を包囲するようにして完璧な陣形で停止した。 砂埃が晴れていく中、一人の男が馬から静かに下りる。
黒銀の鎧に身を包み、腰には長剣。王都の貴族たちとは比較にならない、歴戦の武人だけが持つ威圧感。 元近衛騎士団長にして、現・国境司令官、アシュレイ・グレイヴナー。 彼は、ゼノン王子に疎まれ左遷されたと聞いていた。
アシュレイは、フィオナの数歩手前で足を止め、その琥珀色の瞳で、彼女の姿を――埃にまみれ、疲れ果てた姿を、まっすぐに見つめた。 フィオナは、侮蔑の言葉を覚悟して、きつく目を閉じた。 だが、聞こえてきたのは、予想だにしなかった音だった。
カシャリ、という鎧の擦れる音。 アシュレイが、その場に片膝をついていた。 武人としての最高位の敬意を示す、騎士の礼。
「な……」
フィオナが驚きに目を見開くと、アシュレイは、膝をついたまま、深く頭を垂れていた。
「――お迎えに上がりました、フィオナ様」
その声は、ゼノンのように甲高くもなく、民衆のように卑しくもない。低く、厳かで、絶対的な確信に満ちた声だった。
「君の務めこそが、この国を守る真の奇跡だ」
フィオナの心臓が、大きく跳ねた。 今、彼は、何と。
「王子が偽者の幻惑に騙され、王国の『至宝』を捨てるという愚行に出た。ならば、私は国家への忠誠ゆえに、その『至宝』を『保護』する」
アシュレイは顔を上げ、フィオナの瞳をまっすぐに見据えた。 その瞳には、ゼノンやアリスが向けてきたような侮蔑も、民衆が向けてきた好奇心も一切ない。 ただ、絶対的な「敬意」と、彼女の実力を正しく理解している者だけが持つ、揺るぎない「確信」があった。
「アシュレイ、様……しかし、わたくしは王子殿下より、追放を……」
「それはゼノン『個人』の愚かな判断だ」
アシュレイは、フィオナの言葉を遮るように、静かに立ち上がった。
「私は、アルビオン王国に忠誠を誓っている。そして、王国の根幹とは、王都の地下に眠る『地脈』の安定に他ならない」
彼は、フィオナの務めの本質を、完璧に理解していた。
「国家の根幹である『聖印術』の唯一の継承者を守ること。そして、瘴気から王国(とりわけ最前線である我が領地)を守ること。これこそが、国境司令官たる私の、最優先の『責務』である」
アシュレイは、ゼノンの命令を「王子への反逆」ではなく、「国家への忠誠」という、より上位の大義名分で完璧に覆してみせた。
フィオナは、言葉を失った。 自らの地道な務めを、責務を、誇りを、ここまで正しく理解し、評価してくれた人に、彼女は生まれて初めて出会った。
その時、後方から一騎の伝令が駆けつけ、アシュレイに王家の封蝋が押された書状を差し出した。
「申し上げます! 王都より、ゼノン王子殿下からの緊急書状です!」
アシュレイは、無表情でそれを受け取ると、その場で封蝋を割り、羊皮紙を広げた。 『穀潰し』『領内に入れるな』『反逆とみなし厳罰に処す』―― ゼノンの傲慢な言葉が並んだ書状を、アシュレイは最後まで読むと、ふ、と嘲るように息を吐いた。
そして、次の瞬間。
ビリ、ビリビリ。 彼は、王子の書状を、フィオナの目の前で、ゆっくりと、しかし確実に、四つに引き裂いた。
「なっ……!」
伝令が息を飲む。 アシュレイは、破り捨てた羊皮紙を砂埃の中に投げ捨てた。
「王子殿下の警告書状は、残念ながら道中で『紛失』したようだ。そうだな?」
「は、はっ!」
伝令は、アシュレイの真意を悟り、即座に敬礼した。
アシュレイは、自らが羽織っていた、狼の紋章入りの分厚いマントを外し、それを優しくフィオナの肩にかけた。 三日三晩の儀式で冷え切っていた体に、確かな温もりが広がる。
「フィオナ様。王都は、君の価値を理解できぬ愚者の集まりだった」 彼は、フィオナの前に軍馬を差し向け、手を差し伸べた。
「我が領地、北の要塞都市へお越しいただきたい。ゼノンのような愚かな干渉は、我が軍事力と経済力で一切退ける。君の『本物の実力』を、我が領地と民のために振るってほしい」
それは、ゼノンの「追放」とは真逆の、「懇願」だった。 「穀潰し」と蔑まれた聖女が、今、王国最強の武人に「どうか力を貸してほしい」と、丁重に請われている。
フィオナは、差し出されたアシュレイの、分厚く、節くれだった武人の手を見つめた。 ずっと感情を殺してきた。 侮辱にも、追放にも、涙一つ見せなかった。 だが、今。 初めて自分を正当に評価し、守ると言ってくれる人が現れた。その事実が、凍りついていた彼女の心を、ゆっくりと溶かしていく。
フィオナの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。 それは、悲しみや悔しさの涙ではない。 生まれて初めて知る、安堵と、救済の涙だった。
「……はい」
フィオナは、頷いた。 そして、その温かい手を、震える手で、強く握り返した。 アシュレイは、フィオナの体を軽々と抱え上げると、自らの馬の鞍の前に優しく乗せた。
「全軍、反転! 我らが『真の聖女』をお連れし、領地へ帰還する!」
アシュレイの号令一下、五十騎の精鋭たちは、一糸乱れぬ動きで北へと向き直る。 ゼノンの傲慢な警告書状は、すでに荒野の砂に埋もれ、誰の目にも留まらなくなっていた。
◇◇◇
フィオナが王都を去ってから、わずか一月。 アルビオン王国の心臓部である王都は、静かな死に瀕していた。
兆候は、まず水から現れた。 王宮の噴水や、市民が利用する井戸水が、わずかに濁り始めたのだ。やがてそれは、嗅ぎ慣れない腐臭を放ち始めた。 次に、大地が応えた。 王都近郊の広大な穀倉地帯で、青々と育っていたはずの小麦が、まるで成長を止めたかのように色あせ、次々と枯れていった。 そして、極めつけは「瘴気」そのものの具現化だった。
「ひぃぃ! ま、魔物が! 王都の西門にオークが!」
「馬鹿を言え、王都のこんな近くに魔物など……ぎゃああ!」
浄化されず、大地に満ちた瘴気は、ついに魔物を呼び寄せ、生み出し始めた。 王都は、フィオナという目に見えない「本物の実力」によって守られていた薄氷の平和が、いかに脆いものであったかを、破滅的な形で思い知らされることとなった。
「どうなっている! アリス! 早く何とかしろ!」
玉座の間で、第二王子ゼノンが金切り声を上げていた。 その顔は、かつての傲慢な自信など微塵もなく、恐怖と焦燥で歪んでいる。
「お前の『奇跡』で、あの瘴気を、魔物を、今すぐ浄化してみせろ!」
「は、はい、はいぃぃ!」
玉座の前に引きずり出されたアリスは、顔面蒼白だった。 彼女は民衆の前でやったように、必死で両手をかざし、黄金の光を放とうとする。
「ひかり、ひかりよ! い、痛いの痛いの、消えなさい!」
だが、彼女の力は、しょせん「鎮痛」と「幻惑」の合わせ技。 大地から染み出す根源的な汚染や、実体を持つ魔物に対して、何の効力も発揮するはずがなかった。 アリスの手から放たれる光は、瘴気の淀みの中ですぐにかき消され、何の奇跡も起こらない。
「な、なぜだ! なぜ効かん!」
「ひっ……! む、無理です、殿下! わたくしの力は、こういうものには……!」
「ふざけるな! お前が真の聖女なのだろうが!」
ゼノンがアリスの胸ぐらを掴んだその時、宰相が血相を変えて駆け込んできた。
「で、殿下! 地下神殿が……! 封印が破れ、瘴気が、瘴気が地下から溢れ出しております!」
「地下神殿……? まさか……」
ゼノンは、ようやく思い至った。 あの、フィオナがいつもこもっていた、地味で、薄暗い、あの場所。 あの「穀潰し」の祈りこそが、この王都を守る唯一無二の防波堤だったのだと。
「……あいつだ。フィオナだ! あいつがいないからだ!」
自らの「愚かな選択」が招いた結果を、ゼノンはようやく、破滅の瀬戸際で理解した。
「おい! 誰か! 追放したフィオナの行方を今すぐ調べろ! どこへ行った!」
ゼノンが恐慌状態で叫ぶと、宰相が絶望的な面持ちで進み出た。
「それが、殿下……お耳に入れねばならぬ報告が」
「何だ! 早く言え!」
「はっ。フィオナ様を追放した後、王都の密偵に後を追わせておりましたが……王都南門を出て北へ向かう街道の途中で、その消息が完全に途絶えております」
「途絶えただと? 荒野で行き倒れたか!」
「いえ……ほぼ同時刻、その街道筋にて、不審な部隊の目撃情報が」
宰相は、震える声で続けた。
「――北の辺境伯、アシュレイ様の私兵と思われる、精鋭五十騎が確認されました。王都近郊まで南下した後、すぐに北の領地へと反転・帰還した、と……」
「…………なんだと?」
ゼノンの思考が、一瞬停止した。 フィオナの失踪。北へ向かう街道。アシュレイの精鋭部隊。
あの時、アシュレイに送った警告書状(『穀潰しを領内に入れるな』)が脳裏をよぎる。
「アシュレイ……!!」
ゼノンの顔が、恐怖から怒りへと一変した。
「あの左遷された田舎伯爵が……! 私の警告を無視し、あろうことかフィオナを『奪った』のか!」
全てが繋がった。 フィオナの不在も、アシュレイの不可解な軍事行動も、全ては仕組まれていたのだと(ゼノンは勝手に思い込んだ)。
彼は、執務室に転がり込むと、魔力通信機に掴みかかった。相手は、もちろん一人しかいない。北の辺境伯、アシュレイだ。
『――こちらアシュレイ。要件を』
通信機から響く、落ち着き払った声が、ゼノンの神経を逆撫でした。
「アシュレイ! 貴様、よくも……! やはりフィオナを匿っていたな! 反逆者め!」
ゼノンは、まず怒鳴りつけた。だが、その声は恐怖で上ずっている。
『……それが要件か?』
「ちがう! い、今すぐ! 今すぐフィオナを王都に返せ! これは命令だ! 王国の危機なのだぞ!」
怒鳴りながらも、その言葉はもはや「懇願」に近かった。 だが、通信機の向こうから返ってきたのは、絶対零度の声だった。
『お断りする』
「なっ……!」
『フィオナ殿は「穀潰し」ではなかったか? 王都に不要な「偽聖女」を、なぜ今さら返せと?』
アシュレイの口調は、淡々としていた。 だが、その言葉には、ゼノンがかつてフィオナに投げつけた侮辱が、そのまま突き刺さっていた。
「き、貴様ぁ……!」
『おかげさまで、我が辺境領は、その「穀潰し」の力で、今や大陸で最も豊かな土地となりつつある』
アシュレイの言葉に、一切の嘘はなかった。
◇◇◇
王都が瘴気に沈みゆく一方、北の辺境伯領は、未曾有の繁栄を迎えていた。
フィオナが、アシュレイの領地である要塞都市に迎え入れられて、一月。 彼女は、アシュレイが用意した新たな神殿で、自らの『聖印術』を存分に発揮していた。
「フィオナ様! すごい、すごいですよ! あんなに痩せていた土地から、もう芽が!」
領民たちが、歓声を上げている。 フィオナの『聖印術』は、瘴気を封じるだけのものではなかった。 応用次第で、大地に満ちる地脈の力を活性化させ、不毛の地すらも豊かに変える「本物の奇跡」だったのだ。 王都では、ただ「封印」することだけを求められていた彼女の力は、北の大地で初めて、創造の力として花開いた。
「ありがとうございます、聖女様!」
「貴女様こそ、我らが女神だ!」
民衆から投げかけられるのは、侮蔑の言葉ではない。 心からの「感謝」と「尊敬」だった。 フィオナは、儀式服ではない、アシュレイから贈られた温かな毛皮のついたドレスをまとい、はにかむように微笑み返していた。
その夜。 神殿のバルコニーで、北の夜空を見上げるフィオナの肩に、アシュレイがそっと上着をかけた。
「王都は、もう持たんだろう。自らの愚かさの代償を、国ごと支払うことになる」
アシュレイが、通信機を切ったゼノンの末路を冷ややかに告げる。 アリスは、奇跡を起こせないと知れるや否や、怒り狂った民衆によって捕らえられたと聞く。ゼノンも、瘴気に満ちた王都で、国王や他の貴族たちと共に、絶望の中にいるだろう。
「……」
フィオナは、何も答えなかった。 「本物の実力」を踏みにじり、「愚かな選択」をした者の代償。 彼らがどうなろうと、それはもう、フィオナの知るところではなかった。
「フィオナ」 アシュレイが、彼女の肩を優しく抱いた。 「王都は君を『穀潰し』と呼んだ。だが、君こそが、私の……そして、この領地の『至宝』だ」
その言葉は、どんな宝石よりも、どんな地位よりも、フィオナの心を温かく満たした。 彼女は、アシュレイの胸にそっと顔をうずめた。
「ありがとうございます、アシュレイ様」
見上げたフィオナの顔には、もう感情を殺した聖女の仮面はなかった。
長年の責務から解放され、自らの「誇り」と「実力」を正当に評価され、守り抜いてくれた唯一無二の男性の腕の中で、彼女は、生まれて初めて心からの穏やかな笑みを浮かべていた。
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