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王太子が私との婚約破棄を宣言し、その直後、皆と乾杯してワインを飲んだんですが、倒れて死んでしまいました。毒殺だそうです。え?私が犯人?違います。どこまで私に濡れ衣を着せれば気が済むのですか!?

作者: 大濠泉

 冬の訪れを間近に控えた肌寒い季節、ハメルン王国の貴族学園内にある舞踏会場ーー。


 五年前に学園を卒業したOB、OGの中で未婚者を集めた、晩秋の舞踏会が開かれていた。


 ペアによるダンスを終え、立食パーティー形式で、高位貴族家の令息、令嬢たちが、それぞれに飲み物を飲んだり、談笑したりしている。


 私の婚約者、デリド・ハメルン王太子は、当然のごとく、皆の歓談の中心にあった。

 生徒会の元会長でもある彼は、金髪を掻き分け、碧色の瞳を輝かせながら、皆にお酒を勧めていた。

 皆、学園を卒業して五年が経つ。

 二十三、四歳になって、大人として酒を(たしな)む年齢になっていた。


 美形のデリド王太子に勧められて、普段はお酒を飲まない貴族令嬢までもが、シャンパングラスを片手に、頰を赤く染めている。

 おかげで会場の方々で、黄色い嬌声が響き渡っていた。


 そんな女性たちの歓談をよそに、私、マルタ・ウエンディ公爵令嬢は壁際に引っ込んでいた。

 自身の銀髪をそっと撫でながら、青い瞳を閉じる。


 同期の卒業生は、男女とも、王宮や官庁に勤めたり、実家の領地経営を学んでいる。

 今時は、貴族家の令嬢であっても、花嫁修行に(いそ)しんでいる者はいない。

 私、マルタ・ウエンディだけを除いて。


 私はデリド王太子の婚約者だ。

 王太子の婚約者ということは、将来の王妃だということ。


 王妃の仕事は多く、多岐に渡る。

 内政、外交、王領の管理など、数え上げればキリがないほどだ。

 ゆえに、学園を卒業しても、連日、王宮に通い詰めて妃教育を受けている。

 加えて、ここ最近は、家の事情や街の浄化のために働いていたので、睡眠不足で疲労困憊している。

 今宵の舞踏会にも、婚約者が主催者なので、仕方なく参加しているに過ぎない。

 眠くて仕方ないのだ。

 そうでなくとも、独りで飲み食いしている方が気が休まる。

「綺麗な顔立ちながら、可愛げがない」などと、年配の男性から評されがちな私は、集団で賑わうよりは、孤独を味わう方が、よほど性に合っている。


 ところが、そう自認しているにも関わらず、真っ赤なワインを注いだグラスをしきりに勧めてくる令嬢がいた。

 何かと目立つ、真っ赤なドレスを纏う女性で、亜麻色の髪をなびかせ、褐色の瞳をクルクルと動かせている。

 彼女の名前は、メリット・ブラーフ伯爵令嬢。

 私の婚約者デリド王太子に寄り添うようにして立つことが多い、生徒会の元副会長だ。


「ご機嫌よう、マルタ・ウエンディ様。

 これ、王太子殿下からよ。

 ぜひお飲みになって。

 ボトルを見たら、殿下と共に貴女の名前が記されていたわ」


 グイッと押し付けられたので、グラスを手にする。

 私は真っ赤なワインを目にして、青い瞳に警戒の色を宿し、生唾を飲み込む。


 飲むことが礼儀なのは、わきまえている。

 でも、気が進まない。


 そんなときーー。


 突然、私の婚約者デリド・ハメルン王太子が、ステージの壇上に昇って、


「皆、注目!

 今宵は、この舞踏会の場を借りて、皆に伝えたいことがある」


 と大声をあげる。

 私も含めて、大勢の貴族令息、令嬢が、何事だろう、と壇上の金髪美青年を見上げる。

 すると、デリド王太子は、真っ直ぐ私の方を指さして、


「マルタ・ウエンディ公爵令嬢。

 君にはーーいや、君のご実家には、がっかりさせられたよ。

 次期国王として、君を将来の王妃とするわけにはいかない。

 婚約破棄だ!」


 と皆の前で、いきなり婚約破棄を宣言されてしまった。


 私、マルタは、びっくりしてワイングラスをテーブルに置き、青い瞳を見開き、壇上へと向き直った。


「なぜそんなことを、今ここで?」


 大勢の貴族の子弟が見守る中、当然ともいえる疑問を口にする。


 すると、デリド王太子は、わざわざ壇上から降りて来て、私のすぐ近くにまで歩を進めるや、大きな手でドン! と突き放す。


「な、何をなさいます!?」


 胸を両手で押さえつつ、身体をよろめかせた私が目を凝らすと、なぜか、金髪王太子デリドの碧色の瞳には涙が溜まっていた。


「殿下、私に何か落ち度でもございましたか?

 いえ、それよりも、私の代わりがいるのですか?

 私は妃教育を受けて、すでに十年以上が経過しています。

 新たなお相手に、そのような教育はーー」


 私の懸念をよそに、幼少期からの婚約者から、大声で罵られた。


「マルタ嬢。君はもう帰れ!

 ここにいたって、仕方がないんだ。

 君の顔など見たくない。

 どうしてこうなったかは、君の家に行って、父上に聞くと良い」


 そう言い捨てると、王太子殿下はクルリと背を向け、グラスを手にしながら、再び壇上へと昇って行く。

 元副会長のメリット伯爵令嬢が、か細い腕を伸ばして殿下を迎えながらも、褐色の瞳をひたすら私の顔の方に向けたまま、ほくそ笑んでいた。


「わかりました。

 殿下がそのように決断なされたのなら、私は婚約破棄を受け入れます」


 私は銀髪を震わせ、涙をこらえるのが精一杯だった。


(なによ、殿下。

 いきなり婚約破棄しちゃって。

 泣きたいのはコッチよ!)


 壇上には生徒会の元会長であるデリド王太子を中心に、八名を数える生徒会元役員たちが勢揃いして、私に向けて非難がましい視線をぶつけてくる。

 会場にいる貴族家の令息、令嬢たちも、サアッと私から距離を取って、遠巻きにした。


 周囲から視線を浴びつつも、私は無視する。

 ヘタに同情されるのは真っ平だった。

 私は踵を返し、そのまま会場の出口へと向かう。


 ドアの近くまで来たとき、後ろ、会場の中心から歓声が聞こえてきた。


「お祝いしよう。乾杯だ!」


 と言って、デリド王太子がグラスを高々と掲げた。


「乾杯!」


 金髪王太子が、グイッと一気にワインを飲み干す。

 その動きに合わせて、舞踏会に集まった貴族家の面々も、シャンパングラスを傾ける。


 かくして、会場の雰囲気は、一気に明るいものとなった。


 そのまま、王太子の音頭によって半ば強制的に和やかなムードとなった状態で、しばらく歓談して酔い覚ましをした後、舞踏会はお開きになるものと思われた。


 ところが、舞踏会は終了せず、誰もが張り詰めた空気に閉じ込められることとなった。


 ワインを一気飲みした途端、王太子の手からグラスが落ち、床で砕け散る。

 そして、碧色の瞳を見開き、王太子が急に苦しみ始めたからである。

 やがて、うう、と呻き声をあげると、口から泡を吹き、デリド王太子が床に倒れ込んでしまった。


 床の上で仰向けとなった王太子は、完全に白眼を剥き、四肢を痙攣させる。

 しばらくすると、口を開けたまま、ピタッと身体の動きを止めてしまった。


 デリド王太子の様子を見ていた人々は、誰もが、内心、思った。


 まさか、死んだんじゃーー?? と。


 生徒会元役員の面々は壇上で、呆然としている。


 元副会長メリット伯爵令嬢が悲鳴をあげた。


「ど、どうしてデリド様が、そのグラスをーー!?」


 メリットは、やおら会場出口の方へ視線を向けて、指をさす。


「あの女ーーマルタ・ウエンディ公爵令嬢が犯人だわ。

 毒を入れたのよ!」


 いきなりの濡れ衣発言である。

 元副会長に釣られて、壇上の生徒会元役員たちも、敵愾心丸出しで、私を睨み付ける。


 一方で、私は目を白黒させるしかない。

 衆人環視の前で、婚約破棄をされたうえに、殺人犯扱いにされるなんて。

 まったく、冗談じゃない。


 メリット・ブラーフ伯爵令嬢が、亜麻色の髪を震わせ、金切り声をあげた。


「おかしいわ。こんなはずじゃなかった。

 死ぬのはアンタのはずだったのに!」


 あたりは騒然となった。



 やがて会場の扉が開いて、第一騎士団が集団で姿を現した。


 第一騎士団とは、貴族社会の治安を守るための騎士団である。

 高位貴族が集まる催し物の警備にあたることも任務の一つだ。

 ましてや今宵の学園舞踏会には、王太子殿下が出席なさる。

 第一騎士団が、舞踏会場の周囲を固めていて当然だった。


 だがしかし、まさか、最大の護衛対象であるデリド王太子殿下が毒殺されるとは!

 外部から侵入してくる賊に対して警戒するばかりで、完全に虚を突かれた格好だった。


 第一騎士団の先頭を切るのは、赤髪で青い瞳をした団長レムル・ダンドルフ子爵だ。

 扉の近くまで来ていた私、マルタの前で、レムル団長は片膝立ちになった。


「マルタ・ウエンディ公爵令嬢。

 どうか足を止め、現場に踏み止まっていただきたく。

 貴女の婚約者が、毒で倒れたようなのです」


 私は、ふうと吐息を漏らして扇子を広げ、口許を隠す。


「婚約者ではありません。

 ()婚約者です。

 つい先程、婚約を破棄されましたので。

 ところで、不測の事態が起こりましたが、貴方がた第一騎士団が会場に突入してくるのは、予定通り、というわけなのでしょうね?」


 レムル団長は肩をすくめるばかり。

 結局、私、マルタは、自宅に帰ること叶わず、舞踏会場の中心へと引き戻された。


 私がレムル団長によって連れ戻されている間にも、何人かの騎士が、床に横たわるデリド・ハメルン王太子の許へと駆け寄って、安否を確認していた。

 急いで金髪頭を抱え上げて腕を取り、脈をみる。

 だが、彼ら看護にあたった者たちは皆、ゆっくりと首を横に振るのみ。

 王太子の口の中から舌を引っ張り出すと、黒ずんでいた。

 典型的ともいえる、毒物に触れた症状だった。


 わあああ!


 デリド王太子の身体にしがみついて、元副会長メリット嬢が泣き叫ぶ。

 もらい泣きした、壇上の生徒会元役員の面々は、次々に言い募る。

 

「デリド様が亡くなったわ。なんてこと!」


「王太子殿下が、お亡くなりに!?」


「ほんとうか、それは!?」


 そんなタイミングで、私が騎士に捕まえられた状態で、会場に逆戻りして来た。

 これではまるで、私が殿下を殺した真犯人のようではないの!?

 会場で固唾を飲み、皆が睨み付ける中、私は青い瞳を細くし、薄ら笑いを浮かべた。


「なにが、おかしい!?」


 と壇上から、生徒会元役員が問うてくるから、私はパチンと扇子を閉じる。

 そして、今、王太子の亡骸に縋り付いて泣く、亜麻色の髪をした伯爵令嬢メリットを指し示した。


「だって、犯人は私じゃありませんから。

 捕まえる人を間違えてます。

 あの生徒会元副会長メリット・ブラーフ伯爵令嬢が犯人ですよ」


 私の断定を耳にして、メリット伯爵令嬢がヒステリックに喉を震わせた。


「私に罪をなすりつけないで!

 知ってるのよ、貴女がどんな女かっていうのを。

 マルタ公爵令嬢、貴女が殿下を毒殺したのね!?」


 私マルタ・ウエンディ公爵令嬢は長い銀髪をバサッと掻き分け、問い返す。


「デリド王太子殿下を殺して、私にどんなメリットが?

 動機は?」


 舞踏会場に居並ぶ連中が、次々と非難した。


「だって、今さっき、婚約破棄を言い渡されたのは、貴女、マルタ公爵令嬢じゃないか!」


「腹いせに、毒を盛ったんだろう!?」


 さすがに私は腹に据えかね、腰に手を当てる。


「よく考えてご覧なさい。

 婚約破棄は、今、宣言されたばかり。

 それなのに、それを動機に、私が王太子殿下に毒を盛って殺したというの?

 事実だとしたら、ほんとに用意が良すぎません?

 婚約破棄をされるよりも前から、私がいつでも殿下を殺せるよう、毒を持ち運んでいないと、今、毒殺するのは不可能だとは思いませんか?」


 私は、特に壇上でたむろする生徒会元役員たちに向けて反問する。


「それは……」


「でも、だとしたら、ほかの誰が……」


 まごつく彼らに視線を向けたまま、私は扇子をバッと開いて、口許を隠す。


「どうせ、今宵の舞踏会で、デリド王太子殿下が私に対して婚約破棄を言い渡すことを、生徒会元役員の方々は知っていたのでしょう?

 それも、婚約相手である私には秘密にして。

 それなのに、寝耳に水のはずの私が、即座に殿下を毒殺って、あり得ないでしょ?

 しかも、そのグラス、デリド王太子ご自身が手に取ってくださったわ。

 私が手に取っていたグラスだったのに……」


 私のつぶやきに、会場にいる人々が次々に同意し始めた。


「それもそうだ」


「毒をあらかじめ用意しておくなんて、不自然だ」


「少なくとも、婚約破棄されたのを理由に、毒殺したというには、展開が不自然過ぎる」


「たしかに。

 いくら、最近、巷で薬物が蔓延しているからって、毒物は簡単に手に入るわけが……」


 会場にいる貴族家の令息、令嬢たちが、個々人で喧喧諤諤の議論を始める。


 そんなとき、絹を裂くような声が会場に響き渡った。


「そんなこと、ないわ!」


 メリット伯爵令嬢が、突如として、甲高い声で叫んだのだ。

 彼女は褐色の瞳をキラキラと輝かせていた。


「騙されてはいけないわ。

 彼女、マルタ・ウエンディなら、毒物なんて、すぐに手に入るはず。

 皆様、どうしてデリド様が、彼女との婚約を破棄したかご存知?」


 生徒会元役員たちは、互いに顔を合わせる。

 そして、首をかしげた。


 じつは元役員のメンバーのほとんどが、金髪頭を垂れたデリド・ハメルン王太子の愚痴を聞かされていた。

 殿下は、マルタ公爵令嬢のことを「面白みのない女」と言っていた。


「生真面目で飽きた」


「裏で何か隠してる」


「心が通わない。

 僕が生徒会に入ってからこのかた、ずっと距離を取られていた」


 などと、デリド元会長は、不審に思っていた。

 その一方で、亜麻色の髪をした元副会長メリット伯爵令嬢と共に仕事をすることが多くなり、急接近。

 それから五年も親密な関係が続いた。

 その結果の心変わりだと、誰もが思っていた。


 そこへ元副会長が新事実を明らかにした。


「なぜマルタ公爵令嬢が殿下から婚約破棄されたかというと、ご実家のウエンディ公爵家が、麻薬密売や奴隷売買をしていたからよ!」


 メリット・ブラーフ伯爵令嬢は私を指さし、爆弾発言をした。


「知ってるのよ!

 貴女のお母様マルタ・ウエンディ公爵夫人は、麻薬中毒で亡くなったそうじゃない!?

 いかがわしい貧民街で薬をばら撒いて。

 民を指導する立場にある貴族家として、恥を知りなさい!」


 母の名前を出されてカチンときて、私は眼を鋭くして言い返す。


「あら、おかしい言い分だわね。

 どうして、私の母マリアが、薬をばら撒いた、と決めつけるのです?

 貴女のお話では、むしろ麻薬の犠牲者ですのに」


「ふふふ。

 証人がいるのよ。

 貧民街で活動していた医師のね。

 騎士団の方、証人を出してちょうだい!」


 メリット嬢からの要請に応えるかのごとく、赤髪の騎士レムル・ダンドルフ子爵が、一人の男を会場の中央へと突き出した。


 ボサボサの黒髪に、貧しい服装をした、落ち窪んだ目をした中年医師アンブルだ。


 メリット伯爵令嬢は、褐色の瞳を丸くして、ちょっと驚く。


「あら。この人、もう少し恰幅が良かったんですけど、今は随分、憔悴してるわね。

 それくらい、反省したってことかしら。

 ーーとにかく、この男を騎士団に突き出してくださった人物こそ、デリド王太子殿下だったのよ。

 殿下は自分の婚約相手マルタの実家ウエンディ公爵家が、麻薬密売の元締めだと知って、婚約破棄を決断なさったの。

 そうして身綺麗にした後、麻薬密売、奴隷売買を行う組織のメンバーを摘発する予定だったのよ!」


 衝撃の告発だった。

 王太子の婚約者だった令嬢の実家、名だたる名門公爵家が、麻薬や奴隷の売買に手を染めているだなんて!

 壇上の生徒会元役員のみならず、舞踏会場にいる貴族家の面々は、次々に発言した。


「なんてことだ!

 それじゃあ、婚約破棄されて当然だ」


「でも、実家が悪行をなしていたとはいえ、マルタ嬢は知っていたのか?」


「知らないはずがなかろう。

 たとえ親に秘密にされていても、薄々は勘付いていたはずだ」


「マルタ嬢が殿下の推薦を受けながら、生徒会入りを断ったのは、そういう理由だったのか!」


「名門公爵家とは思えぬ不祥事だ」


「これは王家への謀叛にも等しい」


「まさか、事が露見するのを恐れて、王太子殿下を毒殺したのか!?」


 人々が互いに議論しあって、喧騒が止まるところを知らない。

 

 ところが、周囲から、厳しい視線を一身に浴びながらも、マルタ・ウエンディ公爵令嬢は毅然と胸を張っていた。

 彼女は扇子を広げ、青い瞳で皆を睨み付ける。


「名誉ある公爵家に向かって、そこまで言うのなら、証拠を示しなさい!

 憶測で煽動されるのは、王国貴族らしい振る舞いとは言えませんよ」


 マルタ公爵令嬢の毅然とした態度に気圧(けお)されて、多くの貴族令息、令嬢は口を(つぐ)む。

 だが、メリット伯爵令嬢だけは、前のめりになって、生唾を飛ばす。


「ハッ! マルタ嬢も往生際の悪いこと。

 証拠なんて、この黒髪の医師の自白で十分でしょう。

 彼は騎士団で白状したのよ。

 ある貴族家から命令を受けて、薬をばら撒いたって。

 彼はその家の令嬢まで、良く見知っていると言うわ。

 さあ、指をさして示しなさい。

 誰が薬物をばら撒いて、幼い子供たちを(さら)っては売り(さば)いていたのか、その一族の娘を!」


 黒髪の中年医師は、黒い瞳でジッと私、マルタの方を見る。

 それから、ゆっくりと手を挙げて、指をさした。


 その瞬間、それまでの騒々しさが嘘のように消え去った。

 沈黙が場を支配する。


 皆の想像に反して、中年医師の指は、銀髪のマルタ・ウエンディ公爵令嬢ではなく、亜麻色の髪をしたメリット・ブラーフ伯爵令嬢を、真っ直ぐにさし示していたのだ。


 メリット伯爵令嬢は褐色の瞳を見開いて、喉を震わせる。


「な、なんなのよ。

 どうしたっていうの!?

 指を向ける相手は、マルタ公爵令嬢でしょう!?

 これだから、平民はアテにならないッ!」


 ざわざわ。


 再びざわめく会場にあって、観衆はそれぞれに顔を見合わせて語り合う。


「いったいぜんたい、どういうことだ?」


「あの中年男、メリット伯爵令嬢を指し示したぞ?」


「ということは、麻薬密売や奴隷売買の犯人一族は、ウエンディ公爵家ではなく、メリット嬢の実家ブラーフ伯爵家だと?」


「なんなんだよ、ほんと?

 こんなことで、デリド王太子殿下を殺した犯人を捕まえられるのか?」


 喧騒が渦巻く中、マルタ・ウエンディ公爵令嬢は、扇子をパチンと閉じると、黒髪の中年医師に向かって指し示し、凛とした声を張り上げた。


「そこの貴方!

 指で示すだけでは足りないわ。

 キチンと正直に白状なさい!」


 黒髪の中年医師アンブルは、黒い瞳を何度も(またた)かせながら、アタフタする。


「も、申し訳ございません。

 正直に申し上げれば、メリット・ブラーフ伯爵令嬢から、マルタ・ウエンディ公爵令嬢に濡れ衣を着せるよう、命じられたのです。

 これがその証拠の書類です」


 中年医師がオズオズと鞄から取り出した書類の束を、赤髪に騎士レムルが奪い取る。

 そしてそのまま、ツカツカと靴音を立てて進み、マルタ公爵令嬢に差し出した。


 その様子を目の当たりにして、皆が唖然とした。

 それまで、マルタ嬢を拘束したと思っていた騎士団長が、じつは彼女と通じていたことが明らかになったからだ。

 事実、マルタ公爵令嬢は、さも当たり前のように書類を繰りながら明言する。


「サインされた名前は、メリット嬢のお父様、オクト・ブラーフ伯爵の名前ね。

 それにご丁寧に、ご実家ブラーフ伯爵家の紋章印が押されてありますわ」


 ざわざわと、会場全体がざわめいていく。


 メリット・ブラーフ伯爵令嬢は亜麻色の髪を振り乱して、金切り声をあげた。


「あ、貴方、アンブル!

 どうして、裏切ったの!?

 今まで、我がブラーフ伯爵家が、どれほど貴方に便宜をはかってきたと……」


 黒髪の医師は、申し訳なさそうに項垂れる。

 その傍らで、赤髪の騎士レムル・ダンドルフ子爵は、青い瞳を見開いて、胸を張る。


「諦めなさい、メリット・ブラーフ伯爵令嬢。

 貴女が仕掛けてくることを、こちらのマルタ嬢が、すっかり読み切っておられたのだ。

 でも、まさかデリド王太子殿下を(そそのか)して婚約破棄をせしめ、なおかつ毒殺するとは。

 国王陛下がいかに思われるか……」


 メリット・ブラーフ伯爵令嬢は、亜麻色の髪を掻きむしる。


「し、知らない!

 私、ほんとうに知らないのよ。

 毒だなんて。

 デリド様を殺すなんてーー」


「黙りなさい!」


 マルタ・ウエンディ公爵令嬢は扇子を振り向け、凛とした声を張り上げる。


「メリット・ブラーフ伯爵令嬢!

 貴女のお父上こそ、麻薬をばら撒いた犯人でしょうに!

 我がウエンディ公爵家に罪をなすりつけようとしたって、そうはさせない。

 お母様の、そして婚約者デリド殿下の仇です。

 覚悟なさい!」


 バタン! と音がして、外から大勢の騎士が雪崩れ込んできた。


 白髪のラーフラ・ドーミス伯爵が率いる、近衛騎士団の面々だった。


 近衛騎士は王家に仕える騎士である。

 彼らが突入してきたということは、王家管轄の事件として、今回の事件が取り扱われることを意味する。

 王太子が毒殺されたのだから、当然の措置だといえる。


 だが、展開が早すぎる。


(ちくしょう! マルタに嵌められた!)


 嫌な予感に、メリット伯爵令嬢は、すっかり青褪め、唇を咬んだ。


◇◇◇


 マルタの父ヨーゼフ・ウエンディ公爵は、ハメルン王家から、密かに麻薬業者の摘発を任されていた。


 それには理由があった。

 妻のマリア・ウエンディ公爵夫人が、麻薬中毒で亡くなっていたからだ。

 彼女、マリア公爵夫人は、マルタ公爵令嬢にとっての実母である。



 私、マルタは、母のマリア公爵夫人が壮健だった頃を思い出して、そっと涙を流す。


 お母様、マリア・ウエンディ公爵夫人は、王都の貧しい民のため、慈善事業に精を出していた。

 いろいろな会の会長になって、貧しい人の病院ーー施療院などに、貴族の婦人でありながら、積極的にお手伝いに行っていた。

 だから、一ヵ月のスケジュールは、ほぼ、慈善事業関係のことで埋まっていた。

 おかげで体力の消耗が激しかった。

 毎日忙しいお母様は、時折、帰ってくるなり、熱を出したり、翌日までぐったりしていた。

 そんなある日、ボランティア先の貧民街で、助けてくれた人が感謝の意を込めて、


「お疲れでしょう。これをどうぞ」


 と、お母様に一袋の粉薬を手渡した。


「これは……?」


 とお母様が問うと、施しを受けた貧しい女性が笑顔で答えた。


「元気になるお薬ですよ。

 あそこのお医者さんが、無料で配ってくださるのです」


 その「お医者さん」が、黒髪に黒い瞳の中年医師アンブルだった。


 マリアは長い銀色の髪をなびかせて、アンブルに挨拶に出向いた。

 そのとき、施療院で、首や足に鉄輪を嵌め、鎖に繋がれた男女に、初めて遭遇した。

 奴隷が地下に押し込められていたのだ。

 マリアは驚いた。

 奴隷制は、百年以上前に、王国法で禁止されているはず。

 それでも、他国では奴隷が認められているところもあるので、いつまで経っても人身売買をする業者が現れることは、知識としては知っていた。

 だが、まさかハメルン王国のお膝元である王都で、奴隷売買が行われているだなんて!


(解放してあげなきゃ!)


 お母様、マリア公爵夫人は、青い瞳を鋭くして決意した。


 そんなお母様が麻薬中毒になったのは、麻薬をそれと知らずに服用させられ続けた結果だった。


「ちょっと、今だるいわ」


 とお母様が言うと、黒髪の医師アンブルが、


「この薬をどうぞ」


 と、あるときは錠剤で、あるときは粉薬で、様々に形を変えて、お母様に手渡した。

 たしかにその薬を飲むと、たちまち気分が良くなり、気持ちもシャキッとして行動できるので、お母様はその薬に依存してしまった。

 後で分かったことだけれども、それこそが危険な麻薬だったのだ。


 お母様が薬物中毒に陥ったのでは、と我がウエンディ公爵家のお抱え医師が気づいて、お父様に訴えた。

 その結果、お父様、ヨーゼフ・ウエンディ公爵は、母に出歩くのを禁じた。

 だが、そのときにはすでに遅かった。

 母のマリア公爵夫人は、麻薬中毒の末期症状に襲われていたのだ。


 怒ったヨーゼフ・ウエンディ公爵は手駒の騎士団を派遣して、例の施療院に突撃した。

 だが、すでにもぬけの殻だった。

 医師アンブルもいないし、麻薬も一切、見つからなかった。

 ただ、地下牢に大勢の子供、そして妙齢の女性が首輪をつけられて(うごめ)いていた。

 この施療院が、奴隷売買の中継基地になっていたようだ。

 首輪を付けられた女性が証言した。

 マリア・ウエンディ公爵夫人が、自分たちが閉じ込められているのに気づいて、何度かパンや蜂蜜などの施しをしてくれた、と。


「必ず助けてあげるから」


 とマリア公爵夫人は言っていた、と。


「お医者のアンブルさんも誰かに命じられて、仕方なくやっているの」と。


 たいして証拠を挙げられなかったが、明らかに事件の背景に、貴族が関与している。

 そうでなければ、こうも堂々と脱法行為を行えるはずがない。


 ヨーゼフ公爵は歯噛みするしかなかった。

 黒幕が貴族家だとすると、大勢の貴族を仲間につける工作が必要だし、特に犯行現場が王都であるから、捜査するにも王家の許可が必要となり、これ以上、探索することは難しかった。


 事実、麻薬の密売、奴隷の売買を行っていた元締めは貴族家だった。

 メリット嬢の実家、ブラーフ伯爵家である。


 アンブル医師が、ブラーフ伯爵家の当主オクトに命じられ、嫌々、薬をばら撒いた。

 そして同時に、事実を知りつつあったマリア公爵夫人を「麻薬漬けにして、廃人にしてしまえ」というオクト・ブラーフ伯爵の命令を実行していた。


 この頃から、ブラーフ伯爵家は、ウエンディ公爵家に罪をなすりつけようとしていたのだ。


 お父様ヨーゼフによって外出が禁止されて以来、お母様のマリア公爵夫人は病床で苦しみ始め、日によっては、半狂乱となっていた。


 私、マルタが看病に行くと、


「薬を持ってきてちょうだい。

 早く! 苦しいの、苦しいの」


 と言って、銀髪を震わせ、鬼の形相で私をにらみつける。

 お母様の、澄んだ青い色の瞳が、このときには黒味がかって暗い色になっていた。


「お母様しっかりして。

 あれは薬じゃないの。

 麻薬だったの。

 お母様は飲んではいけないものを飲まされたの。

 苦しいけど我慢して。

 身体に毒なのよ」


 と説得したが無駄だった。

 お母様は私の手を払いのけ、どこにそんな力があるのかと思うくらいの力で、私を壁にまで突き飛ばした。


「なんて意地悪な子なの!

 私がこんなに苦しんでいるのに、どうしてお母様の言うことを聞いてくれないの!

 そんな子に育てた覚えはないのに」


 と言って、カサカサに乾いた唇を大きく開いて泣き叫び、


「苦しい。苦しい」


 と胸をかきむしっていた。


 私は突き飛ばされて、頭を打ったり、つねられたりして、生傷が絶えなくなった。

 それでも、元気な頃の、優しいお母様のことを思うと、見舞いに行かずにはいられなくて、毎日お母様の病床を尋ねた。


 病で骨と皮のようになりながらも、餓鬼のように薬だけを求めていたお母様が、最期の最後で、ほんの数秒、顔に穏やかな表情を浮かべた。

 その黒ずんだ青い瞳からは、涙がこぼれていた。


「ああ、マルタ、ごめんなさい。

 私もうすぐ死ぬかもしれない。

 ーーいいえ死ぬの、きっと死ぬんだわ。

 ごめんなさい。

 あなたにひどいことを言ったり、したりしたわね。

 お母様を許して」


 と言って、涙をこぼした。


「貴方は自由に生きて。

 それが私の願いよ」


 そう言って、静かに瞳は閉じられた。

 白銀に輝いた髪も、このときには単なる(くす)んだ灰色の髪に成り果てていた。


「お母様!」


 私はお母様にすがりついた。

 お母様、マリア・ウエンディ公爵夫人は、最期まで貴族の貴婦人だったのだ。

 あんなに麻薬の依存症になりながらも、最期の最後は正常に戻ったのだ。

 ほんの数秒だけれどもーー。



 マリア公爵夫人が死去した直後ーー。


 ウエンディ公爵家の父と娘が証拠の麻薬を持って王宮へと出向き、直接、ボイド・ハメルン国王陛下に直訴した。

 妻を、母を殺した者をーー麻薬をばら撒いている元締めを、必ず捕まえてやる、その際には、ぜひ復讐の機会を与えて欲しい、と。


 白い王冠をかぶるボイド王は、碧色の瞳に力を込めて、了承した。



 ウエンディ公爵家が動き出した頃には、王都の治安を預かる騎士団も動き始めていた。


 最近、奴隷売買や麻薬密売が、王都の裏街で流行っている。

 こんな大掛かりなことになっているのは貴族家が噛んでいるからじゃないか、と騎士団も当たりをつけていた。

 しかも薬が蔓延し始めた場所の中心地にある施療院が、ブラーフ伯爵家の出資によって運営されていたから、すでにブラーフ伯爵家にも監視を付けていた。

 それでも、その尻尾がなかなか掴めない。


 麻薬密売や奴隷売買の実行犯である医師アンブルが、なかなか慎重だったからだ。


 彼は、ウエンディ公爵家や騎士団に探りを入れられていることを察知していた。


 アンブルは主人であるオクト・ブラーフ伯爵に忠告した。


「マリア・ウエンディ公爵夫人が頻繁に施療院に訪れており、どうやら地下牢の奴隷とも接触したらしい」と。


 オクト・ブラーフ伯爵も、麻薬の蔓延が王宮の議題に昇り始めたことに、ちょうど焦りを感じ始めていた頃だった。

 突き出た腹をさすりながら、口をへの字に曲げる。


「ヘタに探りを入れられては、まずい。

 我がブラーフ伯爵家にとって、ウエンディ公爵家は天敵のようなものだからな……」


 ブラーフ伯爵家は代々、貴族家を取り締まる第一騎士団の団長や副団長となっていた。

 親類縁者も多く所属しており、今でも第一騎士団には顔が利く。

 なので、今まで、ブラーフ伯爵家が行った悪事は、目こぼしされていた。

 だが、麻薬の蔓延は王都中で噂されるようになっており、第一騎士団が捜査に当たらない口実を設けるにも、そろそろ限界に達していた。


 そして、ウエンディ公爵家は代々、近衛騎士団を率いる家系だ。

 近衛騎士団は王家の方々を護衛するだけでなく、第三まである騎士団すべてを監視する役割を担っていた。

 ブラーフ伯爵家が幅を利かす第一騎士団を唯一、譴責できる組織が近衛騎士団であり、その頂点に君臨する存在がウエンディ公爵家の面々なのだ。


 これ以上、ウエンディ公爵家の者に探りを入れられたら困ると思った、オクト・ブラーフ伯爵は、アンブル医師に命じた。


「マリア・ウエンディ公爵夫人を薬物中毒にせよ」と。


 ブラーフ伯爵家は、強気の手に出た。

 捜査の主体となるウエンディ公爵家に対して、逆に攻撃する作戦を採ったのだ。


 麻薬密売も奴隷売買も、そういった犯罪を行ってきたのは、じつはウエンディ公爵家であった、と罪を擦り付けることにしたのだ。


 ブラーフ伯爵家こそが麻薬をばら撒き、女子供を誘拐しては売り(さば)いてきたのだが、その事実を、いまだ王家にも第一騎士団にも悟られてはいない。

 だからこそ、いまのうちに虚偽の証拠固めをしておいて、こちら側から、逆にウエンディ公爵家に対して、麻薬密売、奴隷売買の罪を鳴らして告発しよう、と決したのだ。


 その結果、大貴族家同士の対立の最先端に、医師アンブルが立たされることになってしまった。

 黒髪をクシャクシャに掻きむしりながら、彼は悩んだ。


 もうこれ以上、犯罪を犯したくないから、「マリア・ウエンディ公爵夫人に探りを入れられている」と忠告したのに、主人のオクト・ブラーフ伯爵から、「さらに罪を重ねろ」と命令されたも同然だった。


 アンブルは四十代ながら、息子が優秀だったので、すぐにブラーフ伯爵家のお抱え医師の立場を譲った。

 アンブルはテミスト男爵家の三男で、妻は平民だったから爵位を持つことができなかった。

 それでも、なんとか「ブラーフ伯爵家のお抱え医師」というポストを息子に継がせたかったのだ。

 結果、早期リタイアのつもりで施療院の院長になったのだが、息子を若くしてお抱え医師にしてもらった恩もあって、アンブルはますますブラーフ伯爵家の当主と、その娘に頭が上がらなくなっていた。


 事実、同じ派閥の上役として、実家が祖父の代から家族丸ごとブラーフ伯爵家の世話になっているので、アンブルとしては、オクトやメリットの意向に逆らえなかった。


 悶々としながらも、アンブルはマリア・ウエンディ公爵夫人に麻薬を投与し続けた。

 マリア公爵夫人は、医師アンブルのことを被害者と見ており、救済すべき対象と捉えていてくれていたので、易々と薬を与え続けることができた。


 ところが、ブラーフ伯爵家からの要望は、際限なく続いた。

 ただでさえ罪悪感があったところに、今度は、ブラーフ伯爵家の娘メリット嬢が、


「貴方、『ウエンディ公爵家が、麻薬をばら撒いた』という証人になってね」


 と、自室に招いたアンブルに対し、平然と命じた。


 メリット・ブラーフ伯爵令嬢自身が、デリド王太子との婚約を勝ち取って、将来は王妃になるという、野心を持っていたのだ。

 そのために、マリア公爵夫人を麻薬漬けにし、その一族ウエンディ公爵家全体を丸ごと濡れ衣を着せて罪に陥れ、デリド王太子にマルタ・ウエンディ公爵令嬢との婚約を破棄させようというのだ。


 さらに、メリット伯爵令嬢は、自身の髪を撫で付けながら、恐ろしいことを口にした。


「あの娘ーーマルタ・ウエンディ公爵令嬢がいる限り、私は安心できないわ。

 だから、毒をちょうだい。

 貴方、麻薬を扱っているぐらいだもの、毒物の調達なんて、簡単よね?」


 アンブルは黒い瞳を丸くして、


「毒はマズイですよ。

 いきなり公爵令嬢がお亡くなりになったら、不審に思われて、第一騎士団あたりに調べられて、すぐにも毒によって死んだ、と明らかにされてしまいますよ。

 そうなれば、毒の入手経路から、ブラーフ伯爵家の関与が疑われるようになります」


 と訴えたが、彼女は亜麻色の髪をバサッと打ち払って、「構わないわ」と言う。


「マルタ・ウエンディ公爵令嬢が、デリド王太子から婚約を破棄されたショックで、服毒自殺した」と思わせれば、それで良い。

 そもそも貴族家の殺人事件を捜査する権限があるのは第一騎士団であり、その組織の頂点に君臨するのがブラーフ伯爵家なのだから、なんとでも誤魔化せるはず、とうそぶいた。


「今度の舞踏会で、デリド王太子に婚約破棄を宣言してもらう手筈が整っているわ。

 そのときにマルタ公爵令嬢が飲むワインに毒を仕込むの」



 メリット伯爵令嬢は、デリド王太子とマルタ公爵令嬢の名前が刻まれた、記念のワインボトルの存在を知っていた。


 ある日、王宮の中庭で会ってくれたとき、デリド王太子は一本のワインボトルを片手にやって来て、ベンチでメリットの隣に座った。

 酔った様子もなかったので、どうして酒瓶を? と思ってワインボトルを見詰めていると、王太子が、遠くを見るように目を細めて説明してくれた。


「コイツは、五歳のときだったかな、マルタとの婚約を記念して、その年に採れた最上の葡萄で作ったワインなんだ。

 将来、挙げる予定の結婚式の際、披露宴で乾杯し、マルタと二人で飲む約束だった。

 長らく婚約者だった彼女ーーマルタと、最後にこのワインを口にしたかった。

 そうだな。

 今度の舞踏会に、そのボトルを持って来て、マルタが飲んでくれなくとも、僕が彼女の分も飲み干してやろう。

 二人の楽しかった思い出に乾杯、ということで」


 そう言って、二人が婚約した年と二人の名前『デリド&マルタ』が刻まれているワインボトルを、王太子はメリットに見せてくれた。



 往時を想い起こして、メリット嬢は頬を膨らます。

 このときには、マルタ公爵令嬢との婚約を破棄するとの約束を、デリド王太子から取り付けていた。

 それなのに、王太子がいつまでも未練がましい。


(今のカノジョに、元カノとの想い出話をするだなんて、どういう神経してるのよ)


 と、メリットは少し腹が立った。


 が、即座に、亜麻色の髪を掻き上げ、思い直した。

 いかにも感傷に浸るのが好きなデリド殿下らしい、と思ったと同時に、「これだ!」と思い付いたという。



 メリットはアンブルの手を握り、褐色の瞳をキラキラさせて、正面から見据えた。


「そのとき、私、思い付いたの。

 デリド王太子殿下の想い出を満たし、かつ私の邪魔者を完全に消す、一石二鳥の策を。

 殿下に婚約破棄をしてもらう、その前後に、新たな婚約者となる私、メリットが、彼女、マルタに、そのボトルから毒を仕込んだワインを注いであげるの。

 もちろん、デリド王太子に注ぐワインには毒がなく、マルタ公爵令嬢のにだけ毒が入っているーーつまり、マルタに渡すグラスに毒を塗れば良いってわけ。

 それを飲んでもらうのよ。

 さすがに、皆で乾杯したら、飲まざるを得ないでしょ?

 そうね、毒の種類は、アルコールに溶けやすいものが良いわね。

 ワインの香りが変にならない程度に、香りや味に特徴がない、出来れば無味無臭の毒が」


 そう言ってメリット嬢は満面に笑みを湛えて、アンブルの黒い瞳を覗き込んでいた。


 自分がオトコを奪うために、婚約者の女性に濡れ衣を着せて破談に追い込み、あまつさえ、毒殺してしまおうと、笑顔で持ちかけてきたのだ。


 虫も殺さぬような可愛らしい外見をしながら、謀殺計画を立てては楽しんでいるーー。


 この頃には、アンブルは、マリア・ウエンディ公爵夫人が亡くなったことも知っている。

 中年医師アンブルは、自分の手を握る、目の前のうら若き伯爵令嬢に、怖気を奮った。



 もう限界だった。

 これ以上、ブラーフ伯爵家の犯罪に加担したくない。

 そう思って、三日後、メリット嬢に毒を手渡したのち、ブラーフ伯爵邸から逃亡した。


 アンブルは、これ以上、罪を重ねることに耐えられなかったのである。


 麻薬を広めたり、奴隷売買に加担しておきながら、今まではさして心を痛めなかった。

 それぐらい、スラム街の連中は廃人のような者が多く、誘拐されてくる子供も、たいがい衣服がボロくなっていて、親から邪険に扱われていることが察せられる有様だった。

 なので、麻薬に逃避するのも、毒親から離れて奴隷にされるのも、さして境遇の変化を感じなかった。


 でも、今度は違う。

 結婚して、もうじき王太子妃となって、将来は王妃様にもなろうという貴族家のご令嬢が、冤罪で貶められ、さらに毒で殺されようとしているのだ。


 アンブルは、逃げ出しつつも、心中にモヤモヤを抱えていた。

 そのせいもあったのだろう。

 彼はすぐさま第一騎士団に目をつけられ、捕縛されたのだった。



 騎士団駐屯所には、赤髪の団長のほか、本来は王家の方々を護衛する近衛騎士団の面々、そして、ブラーフ伯爵家が敵視するウエンディ公爵家の父娘が顔を揃えていた。


 赤髪団長レムルによれば、彼らはいずれもウエンディ公爵家から依頼を受けて動き、かなり前からブラーフ伯爵家を監視し、今、こうしてアンブルを捕らえたという。


 メリット嬢に殺されそうになっているはずのマルタ嬢は、始終、毅然とした態度で、アンブルの前で仁王立ちする。


「アンブルーー貴方が、私のお母様に直接麻薬を手渡して、中毒に陥れた男なのね。

 正直、八つ裂きにしても飽き足らないほど、私は貴方を恨んでいます。

 でも、貴方に怒りをぶつけては、裏で糸を操る黒幕を取り逃してしまいます。

 ですから、今は、貴方のその罪は問いません。

 お願いです。

 今一度、ブラーフ伯爵邸に戻って、書類を掻き集めて欲しいんです。

 貴方なら知ってるでしょ?

 麻薬や奴隷を取り引きした際の記録が何処にあるのか。

 ブラーフ伯爵家が犯罪を行っていたという決定的証拠が欲しいのよ。

 今なら、オクト・ブラーフ伯爵は王宮に出向いていて不在、メリット嬢も生徒会の集まりで外出しています」


 アンブルはコクコクと、小刻みに何度もうなずいた。

 たとえ自分が罪を得ることになっても、息子や家族に累を及ぼさないことを条件に、アンブルは鍵職人を同行し、何食わぬ顔をしてブラーフ伯爵邸に舞い戻って、机や金庫の鍵をこじ開けて、契約書類を持ち出すことに成功した。


 騎士団駐屯所に戻ったところで、赤髪の団長から、顔を寄せられ、


「残念ながら、我が第一騎士団にはブラーフ伯爵の手の者が多くてな。

 おまえにブラーフ伯爵邸から書類を盗ませたとは、バレたくないんだ。

 しばらくは、ブラーフ伯爵家の意向に従って、俺と行動を共にしている、というフリをしてくれ。

 俺もブラーフ伯爵の命令で動いているように見せるから」


 と、ささやかれた。

 たしかに騎士団駐屯所には、アンブルも見知った顔が幾人もいた。

 喉をゴクリと鳴らして、アンブルはうなずくしかなかった。


 ほんとうなら、このとき、自分がメリット伯爵令嬢に毒物を調達した、と告白すべきだったろう。

 だが、ほんとうに毒物が使われるのかどうかも定かではないうえに、自分の罪がこれ以上、重くなりたくないので、黙っていた。

 心密かに、メリット嬢に狙われているマルタ・ウエンディ公爵令嬢の無事を祈りながら。

 

 けれども、なんの手違いか、デリド・ハメルン王太子殿下が毒入りワインを飲んでしまったらしい。

 第一騎士団の連中に、アンブルが舞踏会場へと引っ張り出されたときには、周りのみならず、メリット伯爵令嬢までもが、デリド王太子が急に倒れたから、びっくりしていた。

 だが、毒の効果は覿面だったようで、デリド王太子は亡くなってしまったーー。



◇◇◇


 そして、今、学園内の舞踏会場ーー。


 中年医師アンブルは、マルタ嬢に対し、深々と黒い頭を下げていた。


「申し訳ございません。

 マルタ・ウエンディ公爵令嬢に濡れ衣を着せるよう、メリット伯爵令嬢から命じられたのです。

 これがその証拠の書類です」


 赤髪の騎士団長レムル・ダンドルフ子爵は、アンブルから書類をひったくるようにして奪うと、青い瞳を細める。

 それから、そのままツカツカと靴音を立てて進み、マルタ・ウエンディに差し出す。

 今度は、マルタ公爵令嬢が書類に目を通した。


「サインされた名前は、貴女のお父様、オクト・ブラーフ伯爵のお名前ね。

 それにご丁寧に、ご実家ブラーフ伯爵家の紋章印が押されてありますわ」


 メリットの父のサインと、実家ブラーフ伯爵家の紋章印が押された書類には、しっかりと金銭の授受が明記されていた。

 かなりの金額だった。

 麻薬商人や奴隷商人が使う王国内での販売ルートも詳細に記されており、これで王国内で不法に麻薬や奴隷を購入した貴族家も芋蔓的に摘発できることだろう。


 マルタ公爵令嬢は青い瞳で睨み付け、メリット伯爵令嬢に向かって言った。


「メリット・ブラーフ伯爵令嬢、貴女、とんでもないことをしでかしたわね。

 罪の発覚を恐れて、毒殺することによって、私の口封じをしようと思ったのでしょう。

 でも、残念でしたわね。

 私マルタは、ワインはおろか、アルコール自体が飲めませんの。

 アルコールを口にすると、頭痛や吐き気がして、全身に湿疹ができる、アルコール不耐症なんです。

 それが発覚したのは、十五歳の成人式を終え、初めて飲酒をした直後でした。

 その結果、王太子との婚礼の際、約束だったワインを口にできないと知って、私が嘆き悲しんでいたら、殿下は慰めてくださった。

『これからお酒を飲む機会が増えるだろうけど、僕がフォローするよ。

 君はグラスに口を付けるだけで、お酒は残すと良い。

 なぁに、君がお酒を飲まなかったと誰かに知れたところで、問題ないさ。

 味が気に入らなかったのだろうと思われるだけだ。

 女性は男性ほどお酒を飲まなければならない事態は少ないだろうから、心配いらないよ』と。

 現に、今宵も、殿下は約束を守ってくださった。

 デリド・ハメルン王太子は、アルコールが飲めない私を気遣って、私が飲みそうなところを、急ぎ婚約破棄を宣言し、断罪を始めて、飲まなくても済むようにしてくださった。

 デリド殿下なりの、元婚約者である私に対する気遣いだったのでしょう。

 そして、私の代わりにワインを飲んでくれた。

 それで死んでしまったのよ」


 私の婚礼の時に空けることになっていた記念ワインーー。

 その記念の大切なワインを、デリド王太子は私の代わりに飲んでくださった。

 その結果、私、マルタ・ウエンディ公爵令嬢は生命を救われたーー。


 長い銀髪をたくし上げ、閉じた扇子を差し向ける。


「貴女、メリット・ブラーフ伯爵令嬢は殺人犯です。

 私の母マリアだけでなく、デリド王太子まで。

 その罪は重い!」


 亜麻色の髪を震わせ、メリットは首を横に振った。


「いや! お父様オクト・ブラーフ伯爵を呼んで!」


 第一騎士団の団長、赤髪のレムル・ダンドルフ子爵が、メリットの細い肩をガシッと掴む。

 そして、厳つい四角顔で大口を開け、白い歯を見せた。


「心配しなくとも、獄中で面会できますよ。

 今頃は近衛騎士団がブラーフ伯爵邸を取り囲んで、オクト・ブラーフ卿に投降を呼びかけているはずですから」


 レムル団長は、近衛騎士団のラーフラ・ドーミス団長に目配せをする。

 ラーフラ近衛騎士団長は灰色の瞳を閉じ、黙ってうなずいた。

 すると、三人の近衛騎士がメリット伯爵令嬢を取り囲み、そのまま舞踏会場の外へと連れ出されて行った。

 容疑者メリット・ブラーフは、出口で待機している馬車に押し込まれ、騎士団駐屯所へと連行され、詳しい取り調べを受ける手筈になっていた。


 赤髪の騎士レムルと、白髪の騎士ラーフラが、改めてマルタに頭を下げてから、部下の騎士団員を引き連れて舞踏会場から辞去する。


 デリド・ハメルン王太子の亡骸は、白い布で覆われて、王宮へと運び出されて行った。

 碧色の瞳が閉じられた顔には白い布がかけられ、その布から、金髪がはみ出ていたが、生前のように輝いてはいなかった。

 魂が抜けて、生気が失われ、ほんとうに抜け殻のようだった。


 私、マルタは瞑目し、深い溜息をついた。


(デリド殿下ーー貴方はメリットの嘘を信じ、王家の名誉のため、私との婚約を破棄した。

 でも、悪い女に騙されたとはいえ、貴方は最期まで紳士でしたわ。

 私のことも気遣ってくれた。

 きっと、生きていたら、ブラーフ伯爵家の連中が、我がウエンディ公爵家に罪をなすりつけようとしても、内々に処理して、私の名誉を守ろうとしていたことでしょう。

『彼女は何も知らなかったはず』とか言って。

 そういう優しいところが、おありだった。

 だから、ほんとうに残念でならない。

 我がウエンディ公爵家が麻薬密売や奴隷売買を行っていたなどと誤解したままで亡くなったのはーー)


 互いに親睦を深め合った、幼い頃からの想い出に浸りながらも、マルタは空しい気持ちでいっぱいだった。


◇◇◇


 将来の国王と目されていたデリド・ハメルン王太子が、舞踏会において、毒殺されたという事件は、翌朝になると、王国中に伝えられた。


 国王夫妻の深い哀しみを思い、王国民は毒殺犯であるメリット伯爵令嬢に激しい怒りを向けた。

 さらにはその父親オクト・ブラーフ伯爵が、禁止されていた麻薬を密売し、挙句、女子供を誘拐しては他国に売り(さば)く奴隷売買を行っていたと知って、驚き呆れるとともに、ブラーフ伯爵家の系統そのものに憎悪を抱いた。

 特に、貴族を監視する第一騎士団に多くの権益を持つと知って、王国民の強い世論もあって、ブラーフ派閥はすべての騎士団から一掃され、当然のごとくブラーフ伯爵家はお取り潰しとなった。



 そして、王太子の死から、わずか一ヶ月後ーー。


 オクト伯爵と娘のメリット伯爵令嬢は、市中引き回しのうえ、仲良く並んで首を刎ねられた。

 護送馬車の上で、縛り付けられた二人は、王都の民が投げつける石礫(いしつぶて)を避けることができずに、ボコボコにされた。

 父親のオクトは茫然自失状態で、一言も言葉を発しなかったが、娘のメリットは、全身が血塗れとなりつつも、甲高い声を張り上げ続けた。


「悔しい!

 どうしてマルタばっかり。

 王太子殿下のお心は、完全に私のものだったのに。

 ーーでも、良かった。

 あの女が王妃になるのだけは阻止できた。

 殿下がお亡くなりになったんだからね。

 ざまぁみろ! あははは!」


 土壇場で首が落とされる寸前まで、メリットは、マルタ公爵令嬢に対する呪詛と、耳障りな笑い声を絶やすことはなかった。

 斬り落とされた生首も、亜麻色の髪からはすっかり艶は失われてボサボサにちぢれていたが、褐色の瞳だけは爛々と光り輝いていたという。



 ちなみに、主犯のブラーフ伯爵家の父娘が首を刎ねられた頃には、従犯であった医師アンブルも死亡していた。


 マリア・ウエンディ公爵夫人に麻薬を与え続けて殺した罪が重く、極刑は免れないところだったが、監獄の中で自分自身だけで決着を付けた。

 自殺したのである。


 アンブルは獄中で、絶望的な気分になっていた。

 デリド王太子を毒殺した毒の出所の捜索が始まれば、自分が拷問を受けて口を割ってしまうかもしれない。

 だとしたら、息子や家族ばかりか、一族郎党、皆殺しにされかねなかった。

 実際は、毒を盛ったメリット伯爵令嬢の罪は喧伝されたが、毒の入手経路にアンブルが関わっていることを、誰も強く問題にしていなかった。

 だが、ただでさえ神経が細いアンブルは、居た堪れなくなってしまって、息子や家族を守るためにも、さっさと首を吊って、引責自殺を遂げたのだった。



 事件の余波は、当事者だけがかぶるものではない。

 その肉親にも、深いダメージを与えた。


 ハメルン王国の国王夫妻、国王ボイドと王妃シリルは、すっかり気落ちしていた。


 事件から一週間ほどしてから、被害者であったマルタ・ウエンディ公爵令嬢を王宮に招いて慰労したが、ホスト役の国王夫妻の方がよほど意気消沈していた。


 すでに白髪となっていた国王は特にうなだれ、深い吐息を漏らした。


「息子のデリドに、あらかじめ真実を伝えておけば良かった。

『麻薬の捜査をウエンディ公爵家に任せている、そしてブラーフ伯爵家に幾つもの容疑がかかっている』と。

 そうすれば、メリットなる女に騙されることもなかったかもしれん……」


 マルタ・ウエンディ公爵令嬢は、陛下をお慰めする意味もあって、即座に否定した。


「いえ。

 あのときの殿下にそのように伝えたところで、ますます躍起になってメリット嬢を庇おうとなさるだけに違いありません。

 それほど、殿下と彼女は仲睦まじかったのです。

 もし捜査中と知れたら、ブラーフ伯爵家は慎重になって、一切、尻尾を出さなかったでしょう」


 マルタはティーカップを皿に置いて、青い瞳を閉じる。


「そもそも、デリド王太子殿下を惹きつける魅力に、私、マルタ・ウエンディが欠けていたのがいけなかったんです」


 国王夫妻の手前、一応、しおらしくする。

 だが、本音を言えば、微塵も自分に責任があるとは思っていない。

 デリド王太子には、人を見る目がなさ過ぎた。

 これでは王位を継いだとしても、いつ国政を何者かに壟断されるか、わかったものではない。

 ハメルン王国としては、将来の国難を未然に防げて、かえって良かったと考えるべきかも知れない。


 だけど、当然、そのような不穏当な見解は口にしない。

 どのような息子であっても、殺人事件で失ったら、嘆かないようでは肉親とはいえない。


 だが、さすがは一国の統治者だ。

 国王夫妻は涙ながらに、マルタの発言を否定する。


「マルタ公爵令嬢、貴女に罪はない。

 息子のデリドが愚かだったのだ」


「そうよ。自分を責めないでね、マルタ嬢。

 そうそう。

 今後、新たに王太子になるのは弟のジェイドなんですけど、どうかしら、マルタ嬢、今度はジェイドと婚約しては?

 貴女は、ほかの誰よりも妃教育を受けてきたんですから」


 突然、シリル王妃殿下から縁談を持ちかけられ、マルタは目を丸くした。


「と、とんでもございません。

 ジェイド王子には、すでに婚約相手がございましょうに」


 それでも、王妃はテーブルに身を乗り出す。


「ええ。でも、ジェイドの密かな想い人は、ずっと貴女だったのですよ。

 あの子も、兄を失って悲しんではいるでしょうが、同時に、貴女と一緒になれる機会が訪れたと内心、喜んでいるかもしれません」


「そんなーー王妃様の思い過ごしですよ。

 私にとって、ジェイド王子は弟のようなもので……」


 三歳年下のジェイド第二王子とは、もちろん、幼少の頃からの顔馴染みだ。

 一緒に遊んであげたこともあるが、それは小さな子供の頃の話。

 今のジェイド王子とは、兄の王太子の婚約者として、距離を取って接していた。


(まさか、ね。

 母親から見た子供は、いつまで経っても、幼い頃のままだと言うし。

 息子が幼い頃に抱いた想いを今でも持っていると、王妃様が誤解なさっているだけだわ、きっと……)


 国王陛下にとっては初耳だったようで、王妃様に向かって「それは真実(まこと)か?」と驚いていたが、王妃様と私、マルタは互いに、おほほほと軽やかに笑い合いながら、しばらくしてお茶の席を終えた。


 でも、やがて、王妃様の見立てが正しかったことが明らかとなった。


 国王夫妻の前から辞去して、控えの間で休んでいると、王宮付きの侍女が来訪者を告げた。


 兄と同じ金髪に碧色の瞳をしたジェイド・ハメルン第二王子が来室してきたのだ。


 マルタは立ち上がり、銀色の頭を下げて、礼をする。


「立太子の件、陛下より承りました。

 おめでとうございます」


 ジェイド王子は対面の席に腰を下ろすと、白い歯を見せた。


「皮肉はやめてください。

 とりあえずお茶をどうぞ。

 僕の両親との席を辞した直後で、申し訳ありませんが」


 王宮付きの侍女が、手回し良くもう一つのカップと、ティーポットを持ってくる。


「いえいえ。

 私、紅茶は大好きですので、何杯でもいただきますよ。

 特に王宮で出されるお茶は美味しいですから」


 私は紅茶の香りを楽しみながら、湯気の向こうに座る偉丈夫を見詰めた。

 兄よりも高長身で、筋骨が逞しく、堂々として、顔も引き締まっている。

 三歳年下で二十歳そこそこなのに、亡兄のデリドや私よりもよほど大人びて見えた。


 今まで弟としか見てなかったけど、ジェイド・ハメルン第二王子はご立派になられた。

 たしか八歳の頃より騎士団に配属され、訓練に明け暮れているとか。

 どのような立派な王太子となるのか、楽しみだ。


 そんなことを思いながら紅茶をいただいていると、いきなり単刀直入に切り出された。


「僕は長年に渡って、貴女をお慕い申し上げておりました。

 それでも、兄の婚約者ということで、今まで想いを告げられず、忸怩たる思いを抱いておりました。

 この度、思いもかけない不幸な出来事で兄を失いましたが、不謹慎ながら、その結果、こうして貴女に、直接、告白できるようになって嬉しいです。

 さっそくですが、今後、兄に代わって、僕が貴女の婚約者になれるよう、父王陛下と王妃殿下(お母様)、そしてヨーゼフ・ウエンディ公爵閣下に強く働きかけるつもりです」


 じつに男らしい、堂々とした告白だ。

 私の心臓がバクバク鳴り始める。

 こんなことは初めてだ。


 とはいえ、私も三歳上のお姉さんだ。

 少々面喰らったが、心の動揺をおくびにも出さず、澄まし顔で答えた。


「どうか、早まることなきよう、お願いします。

 これ以上、妃教育を受けるのは真っ平ですし、お兄様とこんなことがあったばかりです。

 私、しばらく権力から距離を取りたいの。

 じっくりとこれから時間をかけて、人を見る目を養いたい。

 それが将来、生きて行くのに必要な能力だと思い知りましたから」


「それはごもっとも。

 マルタ嬢らしい、素晴らしいご見識です。

 でも、それはそれとして、僕は僕で動きますから。

 貴女の満足のいく成長と、僕に目を向けてくださる日とを、楽しみに待っています」


「待ちぼうけを喰らうだけですから、お勧め致しませんよ」


「構いません。これでも気長な性格ですから。

 それこそ、今まで、どれだけ長い間、待っていたと思っているんです?

 正直、待つことは苦にならない性分ですので。

 帝王学でも学んで、ゆっくりと貴女をお迎えする準備に勤しもうと思っています。

 ーーあ、見てください。雪が……」


 窓の外を見ると、粉雪が舞い落ちていた。


「綺麗……」


「ほんとうですね」


 いずれ雪景色となるだろう。

 白い雪がすべてを覆い尽くす。

 そんなふうに、世の中のすべての穢れが覆い尽くされれば良いのに。


 私の目頭が熱くなり、視界が涙でボヤける。


 なぜだか、ふと、お母様と王太子の面影を脳裡に思い浮かべて、もう二度と会うことはないんだと思うと、切なくなってしまったのだ。


 そんな私を見て、ジェイド王子はそっとハンカチを差し出す。

 私はそのハンカチで涙を拭った。


 今度はクッキリとした視界で、目の前の金髪男性の相貌を見詰める。

 彼は優しそうに碧色の瞳を細めていた。


 これから彼と、どのような関係になるのかは、わからない。

 それでもとりあえず、このハンカチを洗って返す頃には、気軽に笑い合えるようになっていれば良いな、と思うのだった。


(了)

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