エピソード9:沈黙の取引
セントラルシティの夜空に、巨大な三日月が浮かんでいた。
その冷たい光は、百道葵の心を映し出すかのように、どこか寂しげに見えた。
数日前、『光の使徒』サイラスの事件を解決したものの、彼の「偽善者」という言葉は、葵の胸の奥に深い棘として残り続けていた。
「クロウ、最近、例の組織の動きはどう?」
葵は、夜のパトロールを終え、地下のセキュリティールームに戻っていた。
シャワーを浴びたばかりの髪はまだ湿っており、疲労が滲む。
「静かすぎるな。それはそれで不気味だ。だが、一つだけ気になる情報がある。数日前から、彼らの活動拠点と推測される場所から、通信が活発化している。どうやら、誰かと頻繁に接触しているようだ」
クロウの声は、いつも以上に警戒を帯びていた。
葵の秘密を狙う謎の組織。
「沈黙」は、彼らが次の手を打つ準備をしている証拠だった。
その時、セキュリティールームのメインモニターに、突然、見慣れない映像が映し出された。
ノイズが走り、やがて、黒いフードを深く被った男の顔が現れる。
男の顔は影に隠され、表情は読み取れない。
「アンフェイス。貴様と話がしたい」
機械的に加工されたような、感情のない声が響く。
葵の心臓が、どきりと音を立てる。
紛れもなく、廃工場で葵の秘密を示唆した謎の組織の者だ。
「何者だ」
葵は、努めて冷静に問いかけた。
「我々は、世界の秩序を裏で操る者。そして、貴様の真実を知る者だ」
男の言葉は、葵の秘密を掴んでいるという自信に満ちていた。
モニターには、葵が普通の女子高生として学校に通う姿や、友人との会話、そしてアンフェイスとしての活動中のわずかなミスを収めた映像が次々と表示されていく。
それらは、葵の秘密を決定的に裏付けるものだった。
「これは……!」
葵の顔から血の気が引く。
これほどまでに、彼女の私生活とヒーローとしての活動が監視されていたとは。
彼女の知る限り、これほどの情報収集能力を持つ組織は存在しない。
「どうだ? 貴様のその『能力』が、いかに脆弱であるか、理解できたか?」
男は嘲笑うように言った。
「貴様は、超人的な能力など持たぬ、ただの人間だ。この映像を公開すれば、貴様が築き上げてきた『ヒーロー』の幻想は、瞬く間に崩れ去るだろうな」
「脅しですか」
葵は、震えそうになる声を無理やり抑え込んだ。
「脅しではない。取引だ」
男は、ゆっくりと口を開いた。
「我々は、貴様の秘密を決して口外しない。その代わり、我々の活動に協力してもらいたい。我々の邪魔をする能力者を排除し、我々の利益になるように、このセントラルシティの秩序を動かすのだ」
葵の脳裏に、サイラスの言葉が蘇る。
『偽善者』。
彼らは、サイラスとは比べ物にならないほど巨大な闇を抱えている。
彼らの思惑通りに動けば、セントラルシティは彼らの支配下に置かれてしまう。
それは、葵が最も恐れる未来だった。
「断れば、どうなる」
「我々は、この映像を全世界に公開する。貴様の『偽りのヒーロー』としての人生は、そこで終わりだ。そして、貴様が愛するこの街も、無秩序の混乱に陥るだろう。我々に逆らう者は、誰であろうと容赦しない」
男の言葉は、葵の心の奥底を揺さぶった。
秘密が暴露される恐怖。
そして、彼女のせいでセントラルシティが危機に陥る可能性。
それは、彼女が何よりも避けたい未来だった。
「葵、奴らの要求を呑むな! 一度引き下がれば、奴らはどこまでもつけあがるぞ!」
クロウが通信機で叫んだ。
「でも……」
葵は唇を噛みしめる。
「決めるのは貴様だ、アンフェイス。人類の希望か、それとも破滅か。考える時間は、今日の夜明けまでだ」
男はそう言い残し、映像はノイズと共に途切れた。
セキュリティールームに、重い沈黙が広がる。
葵は、椅子に座り込んだまま、モニターに映し出された自身のプライベート映像を見つめていた。
友人との何気ない会話。
テスト勉強に励む姿。
そして、ヒーローとして任務を失敗し、膝をつく瞬間。
その全てが、彼女が「ただの人間」であることを証明していた。
「どうするんだ、葵。奴らの要求を呑む気か?」
クロウが心配そうに尋ねる。
「……呑まないわけにはいかないかもしれない」
葵の声は、か細く震えていた。
「もし、私の秘密がバレたら……人々は、私をどう思うだろう? 裏切られた、と怒るだろうか? 嘲笑うだろうか?」
人々の期待を裏切ることへの恐怖。
それは、葵にとって何よりも辛いことだった。
「それに、もし街が混乱に陥ったら……それは、私が今まで守ってきたものを、すべて台無しにするということになる」
「だが、奴らの言いなりになれば、お前はただの道具だ。それでは、お前が目指す『ヒーロー』の姿とは、かけ離れてしまうぞ!」
クロウの言葉が、葵の心の葛藤をさらに深める。
正義のために戦うヒーローでありたい。
しかし、そのためには、秘密を守らなければならない。
秘密を守るためには、悪に手を貸さなければならない。
矛盾した選択肢が、彼女の前に立ちはだかっていた。
その時、ゼータから連絡が入った。
「葵、今、大丈夫か? 少し心配でさ」
ゼータの声は、いつもと変わらず明るかった。
彼が葵の秘密を知らないからこそ、葵は彼に
対して、わずかな安堵を覚える。
「大丈夫よ。ちょっと、厄介な相手に目をつけられちゃってね」
葵は、できるだけ明るい声で答えた。
「なんだそれ!? 僕の新型デバイスで、そいつらまとめてぶっ飛ばしてやろうか!?」
ゼータの無邪気な言葉に、葵は思わず笑みがこぼれた。
彼の純粋な「ヒーローを支えたい」という気持ちが、彼女の心をわずかに癒す。
「いいよ。それは、もう少し取っておくから」
葵は、通信を終え、再びモニターに映る映像を見つめた。
夜明けまで、時間は刻一刻と迫っている。
「……私は、負けない」
葵の瞳に、強い意志の光が宿った。
彼女は、モニターに表示された男の連絡先を睨みつける。
そして、ゆっくりとキーボードに手を伸ばした。
「クロウ。奴らに、メッセージを送る」
「何を送るんだ?」
「『ただし、条件がある』と」
クロウは、葵の言葉に驚きを隠せない。
奴らの要求を呑むのではなく、敢えて「条件」を突きつける。
それは、危険な賭けだった。
「正気か、葵!?」
「私は、ただ彼らの言いなりになるわけにはいかない。そして、私の秘密を盾に、誰かが傷つくのは、絶対に許さない」
葵の表情には、迷いがなかった。
彼女は、偽りの仮面の下で、真のヒーローとは何か、そして自分自身の存在意義を問い続けてきた。
そして今、彼女は、自分の信念を貫くための、苦渋の選択を迫られていた。
夜明けが近づき、空が白み始める。
葵は、深い青色の瞳で、新たな戦いの始まりを静かに見つめていた。
その戦いは、これまでで最も危険で、彼女自身の全てを問われることになるだろう。
沈黙の取引の先に、何が待ち受けているのか、誰も知る由もなかった。