エピソード8:偽善者のジレンマ
セントラルシティの夏は、うだるような暑さに包まれていた。
日中の熱気がアスファルトから立ち上り、夜になっても蒸し暑さは変わらない。
百道葵は、そんな夜の街を、重い足取りでパトロールしていた。
「クロウ、今日の市民からの通報、何か気になるものあった?」
ビルの屋上から、ネオンの海を見下ろしながら、葵は通信機に問いかけた。
「ああ、一つ気になる情報がある。最近、市内で不審なボランティア団体が活動を始めたらしい。『光の使徒』と名乗っている。彼らは困窮した人々を無償で助けているようだが、活動が異常に大規模で、その資金源が不透明だ」
クロウの声には、いつになく警戒の色が濃かった。
葵も眉をひそめる。
『光の使徒』。
その名前には、どこか胡散臭さを感じた。
「無償のボランティア?」
「そうだ。だが、彼らが提供する食料や物資には、微量の精神安定剤が混入している可能性がある。中毒性のあるものだ」
葵の心臓が、どきりと音を立てる。
善意を装って、人々を依存させる。
それは、悪質な洗脳にも等しい行為だ。
「ゼータ、その精神安定剤の解析は?」
「うん、葵。これ、かなり巧妙に作られてる。少量ずつ摂取させると、無気力になって、彼らの指示に逆らえなくなるような作用があるみたいだ。しかも、摂取をやめると禁断症状が出る。完全に依存させて、彼らの支配下に置こうとしてるな」
ゼータの声にも、怒りが混じっていた。
「許せない……! 人々の善意と弱みにつけ込むなんて」
葵の脳裏に、偽りのヒーローとして人々を欺いている自分自身の姿がよぎった。
彼女自身もまた、人々の期待と感謝を心の拠り所としている。
この『光の使徒』のやり口は、葵自身の「偽りの存在」というジレンマを、鋭く突きつけるものだった。
「奴らのアジトは特定できたのか?」
「ああ。セントラルシティ郊外の、廃止された教会だ。だが、内部には信者と称する人間が大勢いる。不用意に踏み込めば、大混乱になるぞ」
クロウが警告する。
「分かってる。私が潜入する」
「正気か? 奴らは危険だぞ」
「だから、私が行くんだ。私の『能力』なら、混乱を最小限に抑えて、奴らの悪事を暴けるかもしれない」
葵の「能力」とは、人の心理を読み解き、巧みに誘導する心理戦だ。
彼女は、自らの罪悪感を胸に抱きながらも、
人々の善意を悪用する『光の使徒』を止める決意を固めた。
廃教会の内部は、薄暗い光に包まれていた。
数十人の人々が、白衣を纏った『光の使徒』のリーダー、『サイラス』の説法に耳を傾けている。彼らの瞳は虚ろで、まるで何かに取り憑かれたかのように、サイラスの言葉に頷いていた。
「……我々は、この腐敗した世界を救うために選ばれし者。苦しみから解放されし者たちよ、我々の光を信じよ!」
サイラスは、扇動的な言葉で信者たちを煽る。
葵は、その光景を隠れて観察していた。
サイラスの言葉は、まるで麻薬のように、信者たちの心を支配している。
「クロウ、ゼータ、奴の能力は?」
葵は通信機に囁いた。
「能力者じゃない。だが、彼は卓越したカリスマ性と、心理操作の才能を持っている。お前と同じで、言葉で人を操るタイプだ」
クロウの言葉に、葵は胸に鉛を入れられたような感覚を覚えた。
サイラスは、まさに葵自身の鏡像だった。
超能力を持たず、言葉と策略で人々を動かす。ただ、その目的が、葵とは正反対だ。
「ゼータ、精神安定剤の解毒剤は?」
「まだ開発中だ。だが、奴の演説を止めて、摂取を中断させれば、依存状態は徐々に改善するはずだ」
葵は、意を決して影から姿を現した。
特製のスーツは、薄暗い教会の光の中でも、その存在感を放つ。
「何者だ!」
信者の一人が、葵の存在に気づき叫んだ。
教会内部に、ざわめきが広がる。
「貴様は……アンフェイス!?」
サイラスの目が、葵を捉えた。
彼の顔に、嘲りの笑みが浮かぶ。
「やはり来たか。しかし、ここは聖なる地。貴様のような偽物のヒーローが、踏み入れて良い場所ではない」
「偽物……?」
葵は、その言葉に内心で動揺した。
サイラスは、葵の秘密に気づいているのか?
「そう、偽物だ。貴様は能力を持たぬ凡夫。にもかかわらず、人々を欺き、ヒーローを演じている。だが、我々は違う。我々は、真の光を人々に与えているのだ」
サイラスは、信者たちに目を向けた。
彼らは、サイラスの言葉に頷き、葵を敵視するような視線を向けてくる。
「貴様が与えているのは、光ではない。毒だ!」
葵は、真っ直ぐにサイラスを見据えた。
彼の言葉は、葵自身の弱みを突いている。
しかし、だからこそ、彼女はここで引くわけにはいかない。
「毒だと? 我々は、苦しむ人々に安らぎと幸福を与えているのだ。貴様のような偽善者には、理解できまい」
サイラスは、葵に向かってゆっくりと歩み寄った。
彼の言葉には、妙な説得力がある。
まるで、彼自身が、自分の行いを「善」だと信じているかのようだ。
「あなたたちは、人々の善意を利用し、自由を奪っている。それは、最も卑劣な行為だ!」
葵は、強い口調で反論した。
しかし、信者たちの虚ろな瞳は、葵の言葉を受け入れようとしない。
彼らは、既にサイラスの支配下に置かれているのだ。
「クロウ、ゼータ! 精神安定剤を無力化できる方法は!?」
「待て、葵! 奴の周辺に、特殊な装置がある! あれが、信者たちの精神状態を操作している可能性がある!」
クロウが叫んだ。
教会の中央に、複雑な模様が刻まれた黒いオブジェが置かれているのが見えた。
そこから、微弱な波動が発せられている。
「あれを破壊すれば……!」
葵は、一気に加速し、オブジェへと向かった。
しかし、信者たちが、まるで壁のように立ちはだかる。
彼らは、サイラスを守るために、無意識のうちに葵の行く手を阻もうとする。
「邪魔だ!」
葵は、信者たちを傷つけないよう、最小限の力で彼らをかわしていく。
彼女の身体能力は、訓練された兵士をはるかに凌駕する。
信者たちは、葵の動きに翻弄され、次々と倒れていくが、誰一人として傷つく者はいなかった。
「さすがだな、アンフェイス。だが、無駄だ!」
サイラスは、懐から小型の装置を取り出した。
それは、教会全体の照明を操作するコントローラーだった。
「闇の中で、貴様の無力さを思い知れ!」
サイラスがボタンを押すと、教会の照明がすべて消え、漆黒の闇が広がる。
同時に、スピーカーから、不快な高周波音が響き渡り、信者たちの混乱を増幅させる。
「くっ!」
葵は、視界を奪われ、聴覚も麻痺させられる。
彼女の五感は研ぎ澄まされているが、完全な闇と高周波音の前では、その能力も大きく制限される。
「ゼータ! 照明と音響システムを何とかして!」
「待て、葵! 奴の装置は、教会のメインシステムと直結してる。下手に触ると、教会の構造そのものが崩壊するかもしれない!」
ゼータの焦った声が聞こえる。
教会は、歴史的建造物であり、多くの市民に愛されている場所だった。
下手に破壊すれば、取り返しのつかないことになる。
『どうする……?』
葵は、闇の中で、サイラスの気配を探る。
彼は、この状況を利用して、どこかへ逃走しようとしているはずだ。
「クロウ、サイラスの正確な位置を!」
「……葵、奴は教会の奥にある隠し通路へ向かっている! 逃がすな!」
葵は、残された僅かな光の情報を頼りに、音を立てずに移動する。
彼女は、自らの聴覚を極限まで研ぎ澄まし、サイラスの足音、呼吸音、そしてわずかな衣擦れの音さえも聞き逃さないように集中する。
「そこだ!」
闇の中、葵はサイラスの気配を捉え、電磁ショックデバイスを起動させたグローブを振り抜いた。
しかし、サイラスは、それを予測していたかのように、間一髪で体をかわした。
「甘いな、アンフェイス! 闇の中では、貴様のその『能力』も半減する!」
サイラスの声は、闇の中で嘲るように響く。
彼は、葵の動きや戦術を、事前に分析していたかのように見えた。
まるで、彼女の「偽りのヒーロー」としての動きを、知り尽くしているかのように。
「くそっ……!」
葵は、焦燥に駆られる。
このままでは、サイラスを逃がしてしまう。
そして、彼に依存させられた信者たちを救うこともできない。
その時、葵の脳裏に、一つのアイデアが閃いた。
「ゼータ、私のスーツの全方位カメラを起動させて! そして、その映像を私自身のバイザーにリアルタイムでフィードバックさせてくれ!」
「なっ!? そんなことをすれば、膨大な情報量がお前の脳に直接送り込まれるぞ! 処理しきれずに、意識を失う可能性がある!」
ゼータが驚愕の声を上げた。
「それでも構わない! やって!」
葵は、自らの限界を超えた賭けに出た。
ゼータは躊躇したが、葵の強い意志に押され、システムを起動させた。
「ぐっ……!」
バイザーに、周囲の状況が立体的な情報として、嵐のように流れ込んでくる。
葵の脳は、その膨大な情報量を処理しようと、悲鳴を上げる。
まるで、意識が引き裂かれるかのような激痛が走った。
しかし、その痛みの中で、葵の瞳は、闇の中に隠されたすべての情報——信者たちの位置、教会の構造、そしてサイラスの動き——を捉えていた。
それは、まるで未来を予知しているかのような、超人的な視覚だった。
「見えた……!」
葵は、サイラスが隠し通路の入り口に手をかけた瞬間を捉えた。
彼女は、残された僅かな力を振り絞り、新型ブーストデバイスを起動させる。
「逃がさない!」
葵は、光速とも言える速さでサイラスに肉薄し、彼の腕を掴んだ。
「貴様、まさか……!」
サイラスは驚愕に顔を歪める。
彼は、まさか葵が、あの状況で、自身の限界を超えてまで情報を処理し、正確に動きを捉えるとは想像していなかったのだ。
「お前が与えているのは、絶望だ!」
葵は、サイラスの腕をねじ上げ、その手から精神安定剤の散布装置を奪い取った。
そして、装置を地面に叩きつけて破壊した。
「な、なんだと!?」
サイラスが呆然とする中、クロウの声が通信機に響いた。
「葵、よくやった! 奴の装置は破壊された! 教会のメインシステムも安全だ!」
同時に、教会の照明がゆっくりと点灯し始める。
信者たちは、徐々に意識を取り戻し、虚ろだった瞳に困惑の色が浮かび始めた。
「私は……何を……」
「ここは……一体……」
信者たちの声が、教会に響く。
彼らは、自分が何をしているのか理解できないという表情で、周囲を見回していた。
サイラスは、自身の計画が崩れ去ったことに気づき、顔を歪めた。
「くそっ……アンフェイスめ……! だが、これで終わりではない! 貴様のような偽善者では、真の闇は祓えない!」
サイラスは、そう言い残し、自らが破壊した入り口から闇の中へと逃走した。
葵は、追撃しようとしたが、疲労困憊の体では、それ以上動くことはできなかった。
「逃がしてしまった……」
葵は、その場に膝をついた。
全身を襲う疲労と、脳に焼き付くような痛みが、彼女を襲う。
しかし、彼女の瞳は、信者たちの様子を見つめていた。
彼らは、まだ完全に回復はしていないものの、その瞳には、以前のような虚ろな色はなく、次第に生気が戻っていくのが見えた。
「クロウ、ゼータ……」
「よくやった、葵。お前は、人々の善意を悪用する『偽善者』を止めたんだ。お前は……本物のヒーローだ」
クロウの声には、今までになく感情がこもっていた。
ゼータも、興奮した声で葵を称賛する。
「うんうん! 葵、君は最高だよ! 僕のデバイスを最大限に引き出してくれた!」
彼らの言葉が、葵の心に温かく響く。
サイラスの言葉が、葵自身の「偽りのヒーロー」としてのジレンマを突きつけた。
しかし、同時に、彼女は自身の「偽りのヒーロー」としての強さを、改めて認識したのだ。
能力がなくとも、彼女は人々を救うことができる。
その事実が、彼女の罪悪感をわずかに和らげた。
教会には、警察や救急隊のサイレンが近づく音が聞こえていた。
葵は、静かにその場を後にする。
「偽善者……か。そうかもしれない」
夜の闇の中、葵は独りごちる。
「でも、私が救った命は、決して嘘じゃない。そのために、この嘘を続けるのなら……」
葵の瞳には、サイラスの言葉によって突きつけられたジレンマと、それでも真の正義を追求しようとする、強い意志が宿っていた。
彼女の偽りの仮面は、より複雑な意味を帯び始めていた。