エピソード6:夜の帳、真実の瞳
セントラルシティは、梅雨の気配を帯びた湿った空気に包まれていた。
通りを往く人々は傘を差し、ネオンの光が路面に反射して、ぼんやりと滲んでいた。
百道葵は、そんな雨上がりの夜の街を、静かに監視していた。
「クロウ、本日の巡回ルートに異常なし。特筆すべき事案もなし」
ビル群の屋上を縫うように移動しながら、葵は通信機に報告した。
特製のスーツは雨粒を弾き、彼女の姿は夜闇に溶け込んでいる。
「了解。ご苦労さん。だが、油断はするな。奴らは必ず、また動く」
クロウの声は、いつもと変わらぬ冷静さだった。
彼が指す「奴ら」とは、葵の秘密を執拗に狙う謎の組織のことだ。
前回の廃工場での遭遇以来、彼らの気配は途絶えているが、葵の警戒心は決して緩んでいなかった。
「分かってる。でも、こんな静かな夜に、またあいつらが来るなんて、想像できないわ」
葵は、夜空を見上げた。雨雲の切れ間から、月が朧げに顔を覗かせている。
その光は、彼女の心の奥底にある、真実と虚構の間で揺れ動く感情を、まるで映し出しているかのようだった。
その時、通信機に別の声が入った。
「アンフェイス! こちら、セントラルシティ警察、巡査部長のサトウです。応答願います!」
聞き覚えのある声に、葵はわずかに眉をひそめた。
サトウ巡査部長。
以前の事件現場で何度か顔を合わせ、アンフェイスに深い敬意を抱いている、真面目で熱血漢な男だ。
「アンフェイスだ。何かありましたか、サトウ巡査部長?」
葵は、声色を普段のヒーローとしての落ち着いたトーンに切り替える。
彼女は、決して声から感情を読み取られないよう、細心の注意を払っていた。
「実は……単独で巡回中に、逃走中の強盗犯と遭遇しまして。現在、第3倉庫街の奥へ逃げ込まれました。相手は一般人ですが、銃器を所持しています。応援を要請しましたが、到着まで時間がかかりそうで……」
サトウ巡査部長の声には、焦りが見えた。
市民を守ることを第一に考える彼の性分が、葵には痛いほど理解できた。
「分かりました。私が向かいます。正確な位置情報を」
「助かります! 流石はアンフェイス!」
サトウ巡査部長の心からの感謝の言葉が、葵の耳に響く。
それは、彼女が「偽物」であることに、一層の罪悪感と、同時に奇妙な満足感を与えるものだった。
彼らの期待に応えることが、彼女の存在意義を支えている。
第3倉庫街は、巨大なコンテナが迷路のように積み重なり、夜の闇にその姿を潜ませていた。
雨上がりの地面には水たまりができ、不気味なほど静寂が広がっている。
「クロウ、犯人の正確な位置は?」
葵は、コンテナの陰に身を潜めながら、周囲を警戒する。
「南西の区画だ。コンテナの隙間に隠れている。だが、奴はかなり焦っていて、何をしでかすか分からない。不用意な接近は避けた方がいい」
クロウの警告にもかかわらず、葵は慎重に、しかし素早く距離を詰めていく。
その時、コンテナの隙間から、サトウ巡査部長の声が聞こえてきた。
「出てこい! 観念しろ! もう逃げ場はないぞ!」
どうやら、サトウ巡査部長が単独で犯人を追いつめているらしい。
葵の脳裏に、嫌な予感がよぎった。彼は真面目すぎるがゆえに、時に無茶な行動に出ることがある。
「まずい……!」
葵は一気に加速し、サトウ巡査部長の声がする方へと向かう。
コンテナの影から飛び出した瞬間、目の前に広がっていたのは、絶体絶命の状況だった。
強盗犯が、サトウ巡査部長に銃口を突きつけ、人質にとっていたのだ。
「動くな! 動いたら、この警察官の命はないぞ!」
犯人は、震える手で銃を握りしめ、顔は恐怖と焦燥で歪んでいる。
追い詰められた人間の目は、何をしでかすか分からない危うさを孕んでいた。
「くっ……!」
葵は、咄嗟に物陰に隠れた。
正面から飛び出せば、サトウ巡査部長の命が危ない。
だが、このままでは、彼は確実に殺される。
「クロウ! どうする!?」
「相手は精神的に不安定だ。説得は不可能に近い。何とかして、銃を奪うしかないが……」
葵の心臓が激しく脈打つ。
頭の中では、あらゆる可能性がシミュレーションされていく。
しかし、どれもがリスクを伴うものだった。彼女には超能力はない。
頼れるのは、鍛え抜かれた身体能力と、この極限状況での判断力だけだ。
「おい、そこのヒーロー! お前も出てこい! さもなければ、この男を撃ち殺すぞ!」
犯人が葵の存在に気づいたのか、怒鳴りつける。
サトウ巡査部長の顔に、絶望の色が浮かんだ。
「アンフェイス……来るな! 私のことはいい!」
彼の言葉に、葵の心は痛みを感じた。
自分のせいで、彼が死ぬかもしれない。
その責任感が、葵の心を強く揺さぶる。
「……っ!」
葵は、覚悟を決めた。
たとえリスクがあっても、彼を救う。
彼女は、コンテナの隙間から、瞬時に姿を現した。
その動きは、あまりにも速く、犯人の目には残像のようにしか見えなかった。
「なっ!?」
犯人が驚き、銃口がわずかに逸れる。
その一瞬の隙を、葵は見逃さなかった。
彼女は、事前に用意していた小型のワイヤーガンを構え、銃を持つ犯人の手首めがけてワイヤーを放った。
ワイヤーは正確に手首に巻きつき、葵はそのままワイヤーを強く引き絞る。
「ぐあっ!」
犯人の手から銃が離れ、地面に落ちる。
葵は間髪入れずに、高速で接近し、犯人の体を地面に押し倒した。
「観念しろ!」
犯人が抵抗しようとするが、葵の訓練された動きは、それを許さない。
関節を極め、完璧に動きを封じた。
「……確保」
葵は息を整えながら、サトウ巡査部長に目を向けた。
彼は呆然とした表情で、葵を見つめている。
「アンフェイス……ご無事でしたか!」
サトウ巡査部長は、安堵の表情で葵に駆け寄ってきた。
「ありがとうございます! あなたがいなければ、私は……」
サトウ巡査部長は、深々と頭を下げた。
その言葉が、葵の胸に突き刺さる。
彼に向けられる純粋な感謝は、葵の心の拠り所であると同時に、偽りの仮面を被っていることへの罪悪感を一層増幅させる。
「大丈夫ですか?」
葵は、努めて冷静な声で尋ねた。
「はい! おかげさまで! アンフェイス、あなたは本当に……本物のヒーローだ!」
サトウ巡査部長は、力強い眼差しで葵を見つめる。
彼の瞳は、暗闇の中でも、真実を映し出すかのように輝いていた。
葵の深い青色の瞳は、夜の帳の中で、真実と虚構の間で揺れ動く心の奥底を映し出す。
本物のヒーロー。
その言葉が、葵の心を複雑な感情で満たした。
その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。応援の警官隊が到着する。
「では、私はこれで」
葵は、サトウ巡査部長に小さく会釈すると、夜闇へと消えていった。
彼女の姿は、まるで幻のように、雨上がりの夜空に溶け込んでいく。
サトウ巡査部長は、暗闇の消えた方向を、いつまでも見つめていた。
彼の心の中には、アンフェイスへの揺るぎない信頼と、感謝の念が深く刻まれた。
一人、ビルの屋上に辿り着いた葵は、スーツのバイザーをオフにする。
雨上がりの冷たい風が、彼女の頬を撫でる。
「本物のヒーロー、か……」
自嘲気味な笑みが、葵の唇に浮かんだ。
サトウ巡査部長の言葉は、彼女にとって最高の賛辞であり、同時に最も鋭い刃でもあった。
人々が自分に抱く「完璧なヒーロー」という幻想を維持するために、どれだけの嘘を重ねてきたことだろう。
「この先、私が偽物だと知られても……それでも、彼らは私を『ヒーロー』と呼んでくれるのだろうか」
葵は、孤独に夜空を見上げた。
深い青色の瞳の奥には、真実を求める切実な問いと、それでも偽りの仮面を剥がすことができない、深い葛藤が秘められていた。
夜の帳は、彼女の秘密と孤独を、静かに包み込んでいた。