エピソード3:誤算の代償
セントラルシティに、春の嵐が吹き荒れていた。
ニュース速報が、けたたましい警告音と共に流れる。
「速報です。現在、セントラルシティ北地区の国際展示場で、大規模なテロ予告が発生しました。犯行声明を出しているのは、過激派能力者集団『ヴァニタス』と名乗る組織です。市民の皆様は、直ちに避難を開始してください」
百道葵は、自宅のモニターに映し出されるニュース映像を睨みつけていた。
ヴァニタス。
厄介な相手だ。
彼らは特定の思想を持たず、ただ社会の秩序を破壊することだけを目的としている。
その手口は常に予測不能で、民間人を巻き込むことを厭わない。
「クロウ、ヴァニタスの動向は?」
通信機に問いかける。
クロウの声は、いつもよりわずかに緊迫していた。
「情報通り、奴らは展示場に多数の爆弾を仕掛けている。だが、展示場は避難経路が複雑だ。まだ多くの市民が残っているはずだ」
「爆弾の解除は?」
「おそらく遠隔起爆。接近しての解除はほぼ不可能だ。だが、メインシステムへのハッキングなら……」
「私が、やるしかない」
葵は即座に決断した。
「私が奴らの注意を引きつけ、その間にシステムを無力化する」
「危険だ、葵! ヴァニタスのリーダーは、『フレア』と呼ばれる強力な炎の能力者だ。お前では真正面から打ち合うのは」
「知ってる。だから、正面からは行かない」
葵はすでに特製のヒーロースーツを身につけていた。
バイザーが起動し、彼女の青い瞳が、モニターに映る展示場の構造図を瞬時に分析する。
「それに、私には、やらなきゃいけないことがあるから」
偽りのヒーローとして。
そして、あの日の無力感を繰り返したくないという、強い執念。
それが、彼女を突き動かす原動力だった。
国際展示場は、既にパニック状態に陥っていた。
人々は出口へと殺到し、怒号と悲鳴が飛び交う。
その中央で、炎を纏った男が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
ヴァニタスのリーダー、『フレア』だ。
「さあ、踊れ! この炎の舞台で!」
フレアが両手を広げると、地面から炎の壁が噴き上がり、人々を遮断する。
「させるか!」
閃光のように、漆黒の影が舞い降りた。
アンフェイス。
市民の希望が、今、絶望の炎の中に姿を現す。
「おやおや、アンフェイス殿か。噂通りのご登場だ。だが、貴様一人で何ができる?」
フレアは嘲笑う。
葵は言葉を返さない。
彼女の視線は、既に展示場内に仕掛けられた爆弾の位置、そして人々の避難経路を把握していた。
「クロウ、目標はフレアと爆弾の無力化。市民の避難を最優先だ」
「了解! 爆弾の位置を解析中だ。だが、かなり複雑に仕掛けられてる。時間がかかるぞ」
フレアが葵に向かって炎の球を放つ。
葵は、その灼熱の攻撃を紙一重でかわしながら、展示場内を駆け抜ける。
その目的は、フレアの注意を引きつつ、爆弾解除のための時間を稼ぐこと。
「速いな! だが、炎からは逃れられんぞ!」
フレアは指先から炎の鞭を繰り出し、葵を追い詰める。
葵は、柱や展示物を足場にしながら、炎の鞭を回避する。
彼女の身体能力は、常人では考えられないほど研ぎ澄まされていた。
「これなら……」
葵は、展示されていた巨大な金属製のオブジェに飛び乗った。
オブジェは熱で赤く変色している。
フレアの炎の力が、オブジェの金属を溶かし始めていたのだ。
「フフフ、無駄だ。全て溶かしてやる!」
フレアがさらに強力な炎を放つ。
オブジェが溶解し、足場がなくなる。
しかし、葵はそれを予測していたかのように、その瞬間、オブジェの溶解によって生じた蒸気を煙幕として利用し、姿をくらませた。
「どこへ行った!?」
フレアが苛立ち、炎を無差別に放つ。
その時、クロウの声が葵の耳に届く。
「葵! 北西の区画で爆弾を発見! ……だが、そこにはまだ子供たちが!」
葵の心臓が凍り付く。
想定外の事態。
避難は完了しているはずだった。
「まずい……!」
迷いはなかった。
葵は即座に進路を変更し、子供たちがいる区画へと急行する。
フレアを牽制する計画は崩れたが、人命には代えられない。
その行動が、彼女の最大の誤算となることを、この時の葵はまだ知らなかった。
北西の区画。
小さな子供たちが、恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。
その隣には、彼らを庇うように、故障した避難誘導ロボットが横たわっている。
「大丈夫だよ……もうすぐ、助けが来るから……」
一人の少女が、掠れた声で呟く。
その時、爆弾のカウントダウンを示す赤いデジタル表示が、子供たちの目の前で点滅しているのが見えた。
残り、30秒。
「間に合ってくれ……!」
葵は歯を食いしばり、必死に走る。
左腕に装備されたワイヤーガンを構え、壁に打ち込む。
ワイヤーを伝って一気に加速し、子供たちのいる場所へと飛び込んだ。
「みんな、伏せて!」
葵は子供たちを抱きかかえるようにして、身を低くする。
爆弾のカウントダウンが、無情にも「10」を示す。
「……っ!」
爆弾解除には、あと数秒かかる。
その一瞬の判断ミスが、子供たちを危険に晒す状況に陥らせた。
「私が……私が、もっと早く行っていれば……!」
自らの非能力者であることを痛感する。
超能力があれば、一瞬で爆弾を解除し、子供たちを安全な場所へ連れ出すことができたかもしれない。
「5、4、3――」
絶望的な状況。
しかし、葵の瞳は、まだ諦めていなかった。
彼女の危機察知能力が、爆弾の構造、そして周囲の環境を瞬時に分析する。
「……これだ!」
葵は、抱きかかえた子供たちから体を離すと、自らのスーツの胸部に埋め込まれた小型の遮蔽装置を起動させた。
それは、爆風を一時的に吸収・拡散する、緊急用の特殊シールドだ。
しかし、この装置は本来、彼女自身を守るためのものであり、広範囲の爆風を防ぐようには設計されていなかった。
「どうか、耐えて……!」
「――2、1、0!」
爆発。
轟音と衝撃波が展示場全体を揺るがす。
爆風が、葵と子供たちを襲う。
葵は子供たちを庇うようにしてシールドを展開し、自らの体で爆風の直撃から守った。
「ぐっ……!」
葵の体は、爆風の衝撃を直接受け止め、大きく吹き飛ばされた。
壁に叩きつけられ、意識が遠のく。
「葵!! 無事か!?」
クロウの叫び声が聞こえる。
薄れゆく意識の中で、葵はゆっくりと目を開ける。
煙が晴れると、子供たちが無事であるのが見えた。
小さな体に傷一つなく、ただ呆然と立ち尽くしている。
「よかった……」
安堵の息が漏れる。
だが、その代償は大きかった。
葵のスーツは所々が焦げ付き、左腕は激しい痛みに襲われている。
そして、何よりも、彼女の心に深い傷が刻まれた。
「まさか……この私が、こんな初歩的なミスを……」
完璧な計画を立て、常にリスクを最小限に抑えようと努めてきた。
しかし、今回ばかりは、人命優先の判断が、彼女自身の身を危険に晒し、完璧なヒーローとしての仮面にヒビを入れた。
その時、炎を纏ったフレアが、ゆっくりと葵に近づいてくるのが見えた。
「ほう? 大した胆力だ。自らの身を犠牲にして、子供を庇うか。だが、それが貴様の限界だ、アンフェイス」
フレアは葵の傷ついた左腕を嘲笑うように見つめた。
「所詮、能力者には勝てない凡夫よ。そろそろ、そのメッキも剥がれる頃だろうな?」
葵は、痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、敗北感と屈辱、そして、何よりも強い意志が宿っていた。
「私の……メッキが剥がれたら、どうだというんだ……!」
葵はフラつく足で、フレアに向かって一歩踏み出した。
「私は、ただの人だ。だが、それでも……私は、あんたを止める!」
その言葉には、偽りのヒーローとしての弱さも、能力者ではないことへの葛藤も、すべてを乗り越えようとする、百道葵自身の「真の強さ」が宿っていた。
フレアは、その言葉にわずかに目を細めた。
そして、葵の背後から、警察の増援のサイレンが聞こえ始めた。
「ちっ……今日はここまでだ。だが、貴様が偽物であるという事実は、いつか必ず暴かれる。その時、貴様は一体、何を守れる?」
フレアはそう言い残し、炎と共に闇の中へと姿を消した。
葵は、その場に一人立ち尽くした。
心臓が激しく脈打つ。
今回の件で、彼女の誤算が、多くのリスクを生んだことを痛感した。
それでも、子供たちを救えたという事実が、彼女の心にわずかな光を灯す。
「いつか、真実が暴かれる日が来るとしても……私は、ただの人として、できることをするだけだ」
傷ついた体で、葵は市民の歓声の中、静かに姿を消した。
しかし、彼女の心の中では、偽りの仮面の下に隠された「百道葵」としての存在意義を、改めて問い直す日々が始まっていた。
そして、あの謎の組織の言葉が、脳裏を離れなかった。
「いずれ、真実を晒す時が来るだろう」
今回の誤算は、彼女にとって大きな教訓となった。
そして、真実が露呈するかもしれないという不安が、より一層、彼女の心を蝕んでいくことになるだろう。