エピソード13:心の監獄
セントラルシティの夏は、終わりを告げようとしていた。
秋の気配が混じり始めた風が、百道葵の髪を揺らす。
ナイトメア・シンジケートとの戦いは、彼女に精神的な勝利をもたらしたが、同時に、心の奥底に潜む「偽りのヒーロー」としての影を、より一層深く刻み込んでいた。
「葵、最近、眠れてないんじゃないか?」
クロウの声が、夜のパトロール中の葵の耳に届く。
彼女は、ビルの屋上で膝を抱え、遠くのネオン街を見つめていた。
その瞳には、深い疲労の色が浮かんでいる。
「少しね。夢見が悪くて」
葵は、曖昧に答えた。
最近、彼女の夢には、決まってあの謎の組織の男が現れる。
男は、彼女の秘密の映像をちらつかせ、嘲るように囁くのだ。
――『お前は、この先もずっと、その嘘の仮面を被り続けるのか?』
そして、その夢の終わりには、必ず、世間に真実が露呈し、人々が彼女を指差して罵る光景が広がる。
「無理はするな。お前の精神状態が、ヒーロー活動に影響を及ぼすことを、俺は一番恐れている」
クロウは、葵の心の状態を心配している。
しかし、葵は、その心配に素直に応えることができなかった。
「大丈夫よ。慣れてるから」
偽りの言葉を紡ぐたび、彼女の心には、新たな鎖がかけられていくようだった。
秘密は、彼女を「ヒーロー」として活動させるための原動力でもあったが、同時に、彼女自身をがんじがらめにする「監獄」でもあった。
学校生活でも、その兆候は現れていた。
「葵、どうしたの? 最近、元気ないよ?」
昼休み、佐々木美咲が心配そうに声をかけてくる。
葵は、ランチに手をつけず、ぼんやりと空を見上げていた。
「別に、何でもないよ。ちょっと寝不足なだけ」
葵は、笑顔を作ろうとするが、その表情はどこかぎこちない。
美咲の純粋な心配の言葉が、葵の心をさらに締め付ける。
『こんな私と、一緒にいて、美咲は楽しいのかな……』
美咲に、秘密を打ち明けることはできない。
もし、彼女がアンフェイスの真実を知ったら、どんな顔をするだろう? 軽蔑されるだろうか? それとも、裏切られたと感じるだろうか? その想像が、葵を苦しめる。
彼女は、友人との間に見えない壁を感じていた。
普通の女子高生として笑い合っても、心の奥底には常に秘密の重みがのしかかる。
それは、まるで、ガラス越しに世界を見ているような、隔絶された感覚だった。
その日の午後、セントラルシティの繁華街で、突如として電波障害が発生した。
スマートフォンや通信機器が使用不能となり、街は一時的なパニックに陥る。
「クロウ、何が起こってるの!?」
葵は、授業を抜け出し、学校の屋上から街の様子を観察していた。
繁華街のビル群から、奇妙なノイズが発せられているのが見える。
「緊急速報だ! セントラルシティ繁華街で、大規模な通信障害が発生! どうやら、能力者による犯行のようだ! 奴らは、情報統制を狙っている!」
クロウの声が、通信機から途切れ途切れに聞こえてくる。
電波障害は、葵の通信にも影響を与え始めていた。
「犯人は特定できたのか!?」
「おそらく、『ファントム・ネットワーク』だ。彼らは、情報操作と通信妨害を得意とする能力者集団だ。リーダーは『ゴースト』。奴は、電磁波を操り、あらゆる情報を操作できる」
クロウの声が途切れた。
通信が途絶したのだ。
「クロウ!? ゼータ!?」
葵は、必死に通信機に呼びかけるが、応答はない。彼女は、完全に孤立した。
『この状況で……私一人で、どうすればいいの?』
葵の心に、深い不安が広がる。
彼女は、常にクロウの情報とゼータの技術に支えられてきた。
しかし、今、その命綱が断たれたのだ。
まるで、暗闇の中に一人取り残されたような孤独感が、彼女を襲う。
それでも、葵は立ち上がった。
彼女の目には、電波障害によって混乱する人々の姿が映っている。
「私が……やらなきゃ」
葵は、特製スーツを身につけ、繁華街へと向かった。
彼女の唯一の武器は、彼女自身の肉体と、これまで培ってきた経験だけだ。
繁華街は、カオスと化していた。
人々は、情報が遮断されたことで、互いに疑心暗鬼になり、小さな口論が次々と発生する。
「ここだ!」
葵は、通信障害の中心地である、繁華街の巨大な電波塔へと向かった。
その頂上から、不気味なノイズが発せられている。
電波塔の内部は、異様な空間と化していた。
無数のケーブルが絡み合い、火花が散っている。
その中心に、フードを被った男、ファントム・ネットワークのリーダー、『ゴースト』が立っていた。
「ほう。まさか、電波障害の中を、ここまで来るとはな、アンフェイス」
ゴーストの声は、電子的に加工されており、どこか不気味だ。
彼は、葵を嘲笑うかのように見つめている。
「貴様が、この街を混乱させているのか」
「混乱? いいや。私は、真実を見せているだけだ。情報に依存し、情報に踊らされる愚かな人間たちに、その本性を教えているのだ」
ゴーストは、手を振ると、電波塔の壁に、巨大なスクリーンが映し出された。
そこには、街のあちこちで、些細なことで争う人々の姿が映し出されている。
「見ろ、アンフェイス。これが貴様が守ろうとしている人間たちの姿だ。情報という鎖から解き放たれた彼らは、瞬く間に争いを始める。彼らは、真の自由など望んでいない。ただ、誰かに管理され、安心したいだけなのだ」
ゴーストの言葉が、葵の心を深く突き刺す。
彼の言葉は、まるで、葵自身の「偽りのヒーロー」としての存在を批判しているかのようだった。
人々を管理し、安心させるために、彼女もまた「偽り」を演じている。
「黙れ! あなたがやっているのは、人々を絶望させる行為だ!」
葵は、電波塔の壁を蹴り、ゴーストへと肉薄する。
しかし、ゴーストは、葵の動きを予測していたかのように、電磁波を放ち、葵のスーツの機能を麻痺させようとする。
「無駄だ、アンフェイス。貴様は、その肉体一つでは、私には勝てん。貴様の唯一の強みは、情報と技術だろう? それを奪われた貴様は、ただの凡夫に過ぎない!」
ゴーストの言葉が、葵の心を深く抉る。
クロウとの通信も途絶し、ゼータのデバイスも完全に機能しない。
彼女は、まさに「ただの人間」として、ゴーストの前に立たされている。
「くっ……!」
葵は、電磁波によって視界が歪み、体に痺れが走る。
彼女の全身に、孤独と無力感が広がっていく。
『また、あの時と同じだ……何もできない、あの時の私と同じ……』
過去の絶望的な記憶が、葵の脳裏に蘇る。
ヒーローは、現れない。
誰にも助けてもらえない。
あの時の恐怖が、葵の心を支配しようとする。
その時、葵の脳裏に、美咲の笑顔が浮かんだ。
――『私ね、アンフェイスみたいになりたいな。みんなを助けられる、かっこいいヒーローに』
そして、サトウ巡査部長の言葉。
――『アンフェイス、あなたは本当に……本物のヒーローだ!』
そして、クロウとゼータの声。
――『お前は、十分すぎるほど、人々を救ってきた。偽物でも、本物でも、その事実は変わらない』
――『うんうん! 葵、君は最高だよ! 僕のデバイスを最大限に引き出してくれた!』
彼らの言葉が、葵の心を強く揺さぶった。
彼女は、一人ではない。
彼女の偽りの仮面は、確かに彼女を孤独にした。
しかし、その仮面を通して、彼女は多くの人々と繋がり、彼らを救ってきた。
そして、彼女を信じ、支えてくれる人々がいた。
「私は……一人じゃない!」
葵は、電磁波の痛みと孤独に耐えながら、ゴーストに向かって叫んだ。
「確かに、私はただの人間だ。でも、私には、私を信じてくれる人々がいる! そして、私のために戦ってくれる仲間がいる!」
葵は、電磁波で麻痺した体を無理やり動かし、ゴーストへと向かって駆け出した。
彼女の動きは、洗練された格闘術そのものだった。
彼女は、電磁波の干渉が及ばない死角を見つけ、そこを一気に突破した。
「馬鹿な!? この状況で、なぜ動ける!?」
ゴーストが驚愕の声を上げた。
彼は、葵が精神的に完全に孤立していると読んでいたのだ。
葵は、ゴーストの懐に飛び込み、渾身の力を込めてアッパーを叩き込んだ。
「ぐあっ!」
ゴーストの顔が歪み、電磁波の発生が一時的に停止した。
その隙を逃さず、葵は電波塔のメインシステムに飛びつき、根元のケーブルを力任せに引きちぎった。
「馬鹿な! 何をする!?」
電波塔から発せられていた不快なノイズが止まり、電波障害が解除された。
街には、再び携帯電話の電波が繋がり、安堵の声が広がる。
ゴーストは、通信が回復したことに気づき、焦りの表情を浮かべた。
「くそっ……こんなところで……!」
その時、電波塔の入り口から、警官隊のサイレンが聞こえてきた。
クロウが、電波回復と同時に警察に連絡を入れたのだ。
ゴーストは、舌打ちをすると、電波塔の奥へと姿を消した。
葵は、追撃しようとしたが、全身の疲労が限界に達していた。
「……逃がしてしまった」
葵は、その場に膝をついた。
電波塔から回復した街の明かりが、彼女の顔を照らす。
「葵、無事か!?」
クロウの声が、通信機から鮮明に聞こえてきた。
「ええ……なんとか。ありがとう、クロウ、ゼータ。あなたたちがいてくれて、本当に良かった」
葵の瞳には、涙が滲んでいた。
それは、恐怖や孤独からではなく、仲間との繋がりを再確認できたことへの、安堵と感謝の涙だった。
彼女は、一人ではない。秘密は、彼女を孤独にしたかもしれない。
しかし、その秘密を通して、彼女はかけがえのない仲間と出会い、そして、人々を救うことができた。
夜の繁華街は、再び活気を取り戻し、人々の話し声が響いている。
葵は、その喧騒を背に、静かに立ち上がった。
彼女の心には、まだ葛藤と秘密の重みが残っている。
しかし、今回の戦いを通して、彼女は「心の監獄」から抜け出すための、確かな一歩を踏み出した。
「私は、偽物じゃない」
葵は、小さく呟いた。
偽りの仮面の下で、彼女は「真実」の自分を見つけ始めていた。
そして、その真実を、いつか誰かに打ち明けられる日が来ることを、彼女は静かに願っていた。