エピソード11:信頼の定義
セントラルシティに、初夏の強い日差しが降り注いでいた。
しかし、その光は、百道葵の心を照らすことはなかった。
市立病院占拠事件は無事に解決したが、彼女の脳裏には、謎の組織との「取引」と、彼らが握る自身の秘密の映像が焼き付いていた。
さらに、過去の記憶が、現在の葛藤をより深くしていた。
「クロウ、あの男の動きは?」
葵は、セキュリティールームで、先日接触してきた謎の組織の男の顔写真を睨みつけていた。
「相変わらず、水面下で蠢いている。だが、今のところ、お前に直接的な接触はない。お前からの『条件』をどう受け止めているか、探っている段階だろう」
クロウの声は冷静だが、その裏に潜む警戒は葵にも伝わってきた。
葵が突きつけた「条件」——『会う場所は、私が指定する。会談はセントラルシティ国家政府機関の建物内で行うこと』——は、彼らにとって予想外だったに違いない。
その時、クロウが小さく息を呑んだ。
「葵、緊急速報だ! 『ザ・ウォッチャー』が、アンフェイスの能力に関する公開討論会を緊急開催するようだ!」
「ザ・ウォッチャー?」
葵は眉をひそめた。
『ザ・ウォッチャー』とは、能力者の存在が公になった現代において、能力者の真偽や活動の正当性を追求する、著名な評論家集団だ。
彼らは、常に中立の立場を標榜し、その分析は鋭く、時に政府や大手メディアをも動かす影響力を持つ。
「奴らがアンフェイスに目をつけたのは、初めてのことじゃない。だが、今回はかなり踏み込んでいる。『アンフェイスは本当に能力者なのか?』という議題で、専門家を交えて徹底的に検証するらしい」
クロウの声が、緊迫感を帯びる。
「……まさか、あの組織が裏で糸を引いているのか?」
葵の脳裏に、先日接触してきた男の顔がよぎる。
彼らが、葵の秘密を世間に晒すための布石として、『ザ・ウォッチャー』を利用している可能性は十分にあった。
「その可能性は高い。もし彼らが、お前が能力者ではないという決定的な証拠を掴んでいて、それを討論会で公表すれば……」
クロウは言葉を濁したが、その後の展開は明白だった。
葵が築き上げてきたヒーローとしての信頼は、瞬く間に崩壊するだろう。
「討論会の場所と時間は?」
葵は、努めて冷静な声で尋ねた。
この状況で動揺を見せることは、彼女の「偽りのヒーロー」としての命取りになりかねない。
「今夜、セントラルシティの大ホールだ。テレビ中継も入る」
「……わかった。私が直接、そこに行く」
「馬鹿な! 正気か、葵!?」
クロウが叫んだ。
「奴らは、お前を罠にはめようとしているんだぞ! 討論会に出席すれば、四方八方から集中砲火を浴びるだろう。もし、真実が露呈するようなことになれば…」
「知ってるわ。でも、逃げるわけにはいかない」
葵は、揺るぎない瞳でモニターを見つめた。
「私は、人々に『アンフェイス』を信じてもらうために、この場に立つ」
葵は、自らの信念を試されるような状況に、敢えて身を投じることを選んだ。
彼女が培ってきた心理戦と交渉術を駆使し、そして何よりも、人々にアンフェイスへの「信頼」を勝ち取るために。
セントラルシティ大ホールは、異様な熱気に包まれていた。
壇上には、『ザ・ウォッチャー』の代表者と、様々な分野の専門家たちが並び、会場の大型スクリーンには、アンフェイスの活動記録映像が映し出されている。
観客席は満席で、テレビカメラがその様子を世界中に発信していた。
「――アンフェイスの卓越した身体能力は疑いようがありません。しかし、その能力の根源については、これまで一切明かされていません。一部では、彼女が能力者ではないという憶測も飛び交っていますが、その真偽を問うのが、本日の討論会の目的です」
司会者の言葉に、会場がざわめく。
その時、ホールの巨大な扉がゆっくりと開いた。
スポットライトが、入り口に立つ漆黒のヒーロースーツを照らす。
「アンフェイスだ!」
会場は一瞬静まり返り、すぐにどよめきと歓声が入り混じった声で溢れかえった。
葵は、ゆっくりと、そして堂々と、壇上へと歩みを進めた。
彼女の姿は、まさに人々の「希望」そのものだった。
「ようこそ、アンフェイス」司会者が、不敵な笑みを浮かべて葵を迎える。
「貴方の出席は、我々にとって、非常に光栄です。さあ、皆様、ご質問があればどうぞ」
一人の評論家が、マイクを握りしめた。
「アンフェイス。貴方の身体能力は、常軌を逸しています。しかし、我々の分析では、貴方の能力は、特定の能力者とは異なり、パターン化されています。それはまるで、徹底した訓練と、精密なガジェットによるものではないかと……」
「それは、私が日々の鍛錬を怠らないからです」
葵は、冷静に答えた。
「そして、私の装備は、最高の技術によって支えられています。それが、アンフェイスの強さの根源です」
彼女の言葉は、嘘ではない。
しかし、それは真実の全てでもない。
別の専門家が、鋭い質問を投げかける。
「貴方は、これまで、特定の状況下で、予測不能な動きを見せています。例えば、国際展示場でのテロ事件。あの時、貴方は明らかに、自らの命を顧みず、子供たちを庇う動きを見せた。能力者であれば、もっと効率的に状況を打開できたはず。それは、貴方が能力者ではないことの、決定的な証拠ではないですか?」
その言葉に、会場の空気が張り詰める。
葵の心臓が、激しく脈打つ。
まさに、彼女が最も恐れていた質問だった。
「その通りです」
葵は、ゆっくりと、しかしはっきりと答えた。
「私は、あの時、自分の命よりも、目の前の子供たちの命を優先しました。それが、ヒーローとしての私の信念です」
葵の言葉に、会場が静まり返る。
彼女は、敢えて自身の「人間らしさ」を前面に出した。
「能力の有無で、ヒーローの価値は決まりません。重要なのは、何を成したか。どれだけの命を救ったか。そして、何のために戦うかです」
葵は、人々の目を見つめ、語りかけた。
彼女の言葉は、偽りではない。
これは、彼女自身が「偽りのヒーロー」として生きる中で、心に刻んできた真実だった。
「確かに、私は完璧な存在ではありません。時には判断を誤り、時には傷つき、時には限界を感じることもあります。しかし、私は決して諦めません。この街に住む人々を守るため、そして、私を信じてくれる人々のために、私は戦い続けます」
葵の声は、会場全体に響き渡る。
その言葉には、偽りの仮面の下に隠された、百道葵の真の覚悟が宿っていた。
評論家たちは、言葉を失っていた。
彼らは、葵が能力者ではないという「証拠」を突きつけるつもりだった。
しかし、葵は、その「弱み」を逆手に取り、「人間らしさ」を武器にして、彼らの質問をねじ伏せたのだ。
「私は、皆さんが信じる『ヒーロー』として、この街を守り続けます。それだけは、決して偽りではありません」
葵の最後の言葉が、会場に深い感動を呼んだ。
一部の観客からは、すすり泣く声さえ聞こえる。
「……なるほど。これは、我々の誤算だった」
『ザ・ウォッチャー』の代表者が、呆然とした表情で呟いた。
彼らは、アンフェイスの人間的な側面が、かえって人々の心を強く惹きつけるとは予想していなかったのだ。
討論会は、アンフェイスの完全な勝利で幕を閉じた。
彼女の言葉は、テレビを通じて世界中に発信され、アンフェイスへの信頼は、以前にも増して強固なものとなった。
「葵、やったな! お前の勝ちだ!」クロウの声が、通信機から興奮気味に聞こえる。
「ええ……なんとか、ね」
葵は、ホールの裏口から、人目を避けるように出て行った。
彼女の顔には、安堵と疲労、そして、また一つ嘘を重ねたことへの複雑な感情が入り混じっていた。
夜空を見上げると、月が静かに輝いていた。
「信頼……か」
葵は、自分の手のひらを見つめた。
人々からの信頼は、彼女の心の支えだ。
しかし、その信頼は、偽りの上に築かれている。
いつか、この偽りが崩れた時、その信頼は、果たして残るのだろうか。
葵の深い青色の瞳には、真のヒーローとは何か、そして自分自身の存在意義を問い続ける、終わりのない葛藤が宿っていた。
彼女は、また一つ、偽りの糸を紡ぎ、その糸が、彼女自身をより深く縛り付けていくように感じていた。